第三章 車輪――神の熟慮と御旨

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:エゼキエル一章

聖所と至聖所の間にかかっていた幕屋の幕には、ケルビムの姿が刺繍されていました。ご存じのように、この幕は受肉、肉身を取られたキリストの型です。使徒はヘブル人への手紙で大いに明確にはっきりとそう述べており、この幕は彼の肉体であると述べています。彼が地上におられた間――つまり、十字架で裂かれるまで――神に通じる道はなく、神から排斥されていました。十字架でその肉体の幕が裂かれた時、神はその事実を天から主権的行為によって証明されました。彼がご自身の霊を渡された時、宮の幕が上から下まで裂かれたのです。その時、彼の血を通して、また彼の裂かれた体を通して、神の臨在の中に入る道が明らかにされました。ですから、この幕は受肉を表しています。しかしまた、すでに見たように、それは神との交わりと神への奉仕の問題でもあります。

祭司たちはこの幕の一方の側で奉仕しました。この幕を通らないかぎり、彼らの奉仕は不十分でした。もし彼らが、神からの命令や許しなく、その幕を通ろうとするなら、打たれて死にました。死が彼らを迎えました。ケルビムは言わば、神の命の守護者でした。きわめて特別な根拠によらないかぎり、だれもこの神の命を手に入れて、生活・奉仕することはできませんでした。その根拠とは、主イエスの贖いの御業の型である幕屋の場合、流されて振り注がれた彼の十字架の血でした。

一年に一度、大祭司は血を取って中に入り、(もはや雄牛や山羊の血という形の型ではなく)神ご自身の御子の血のいさおしによって、神の臨在の中に入る道が開かれる日が来ることを宣言しました。この幕の周りで行われていることは、言わば、神との一つ、協力、神の働きにおける神との交わりを表しています。

さて、この真理が大いに発展したエゼキエルの事例に移ることにします。私たちの目の前にあるのは、神との交わりであり、神への奉仕であることがわかります。エゼキエルの預言書の第一章には、預言者の務めの基礎・土台となったものがあります。それは、言わば、彼を預言の務めに入らせるきっかけになったものです。エゼキエルは、あるビジョンによって、彼の預言の務めに導かれました。このビジョンにはいくつかの要素・特徴がありました。

エゼキエルの描写にならって、地的水準から上に向かうことにすると、ケルビムから始めることになります。しかし、私はその順序を逆にしたいと思います。その理由は、エゼキエルはもっぱらイスラエルと関係していたからです。彼の預言と奉仕はイスラエルと関係しており、それゆえ、もっぱら、地上の人々と、そして、地上の歴史に関わる神のなにかと関係していました。それで、彼は地上から上に向かったのです。

同じ原理が私たちの場合にも当てはまりますが、その順序は逆です。これらの要素は新約聖書の中にもすべて見られますが、エゼキエルが終えたところから始まっています。つまり、私たちが関わっているのは、たんに地上の人々や地上の歴史ではなく、それを超えるもの、またそれを含むものなので、上から始めるのです。エゼキエルのビジョンは御座で終わりました。そこから新約聖書は始まります。使徒行伝では、教会のすべてが御座から始まります。おそらく、それすらも超えています。なぜなら、エゼキエルは実際には御座で終えたのではなく、御座の上の人なる方、御座の上におられるエホバの栄光を持つ人なる方の描写で終えたからです。そこから新約聖書が始まります。すなわち、神の栄光を持つ、御座の上におられる、人なる方からです。その点から、私たちはエゼキエルのビジョンを逆に辿ることにします。

そこには大空があり、大空の上には王座と人なる方がおられました。人なる方と御座の下に、大空、天、天の領域がありました。これが私たちの場合に何を表しているのかは、エペソ人への手紙をざっと読み通すだけでわかります。この手紙では、「天上で」という言葉が常に繰り返されていることを、私たちはどれほどよく知っていることでしょう!私たちはキリストにあって天上のあらゆる霊の祝福をもって祝福されています。私たちはキリストと共に天上に座すようにされています。そして、この手紙の最後には、私たちの格闘は天上においてであることが記されています。天の領域は御座の下にあり、御座には主の栄光を持つ人なる方がおられます。そして、彼のからだである教会は、もっぱらこの大空と、この天の領域と、そこで起きていることと密接に関係しているのです。

車輪の意義

エゼキエルのビジョンを逆に辿って行くと、車輪に出くわします。これらの車輪は何を表しているのでしょう?車輪は統治の型であることに、疑いの余地はほとんどないと思います。代々の時代にわたる神のみこころによる統治における、神の御旨です。これらの車輪は進行中であり、地の四方すべてに向けられています。普遍性がその大きな特徴です。どの方向にも進めますが、常に前進し続けます。

再びエペソ人への手紙が、車輪について私たちに解き明かしてくれるかもしれません。それは次のなじみ深い御言葉によってです、「みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行う方」。この御言葉の中に車輪が見え隠れしています。動きを見ることができます――断固たる、まっすぐな、あらがえない動きです。「みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行う方」。これらの車輪は神の御旨であり、永遠の過去から代々の時代にわたって、天との関係において、また御座の上の人なる方との関係において、実現されつつあります。エペソ書はこの章の解説です。御座、栄光の御座にある方がおられます。そこには天があって、この御座とつながっており、天の下にあるすべてのものとつながっています。また、そこには永遠からの神の御旨があります。それは抗しがたい力のようであり、代々の時代にわたって動き続ける車輪のようです。それは、栄光の中におられるあの人なる方と、あの御座と、あの天とつながっており、この世界とも関係しています。

車輪には二つの特徴があります。まず、目がいっぱいあることです。その縁は目でいっぱいです。いたるところに目があります。第二に、車輪の中に御霊がおられます。この二つの点は、またしても象徴的です。目は完全な知識を表しています。全宇宙の万物を彼は理解しておられます。彼はどの領域で起きていることもすべて認識しておられます。御霊は神の命、実行力のある神のエネルギーを表しています。これらの車輪は、永遠からの神の御旨・みこころであり、神の霊によってエネルギーを受けています。神の霊に抵抗することはできません。

火の意義

次に第三の点は、逆に辿っていくと、火です。エゼキエルの務めの場合――彼の務めはここでこのビジョンによって構成されました――もちろん、火は不忠実な民に下される神の裁きの火でした。エルサレムは滅ぼされ、その土地は荒れ果て、人々は捕囚になり、神の栄光はエルサレムから去りました。神の裁きが不忠実な民に下されつつありました。火はここでは神の取り扱いを物語っています。神は、みこころに関するご自身の永遠の御旨の観点から、すべてを取り扱われます。御旨を妨害することはできません。神の永遠の御旨を邪魔するものはなんでも、この火に、神の裁きに遭って、焼き尽くされます。なんであろうと、神に逆らうものは、神の火を通らなければなりませんが、通ることも生き残ることもできません。歴史はそのような事例でいっぱいです。

カルデアとバビロンがその例です。それらは、神の地上の民に関する神の御旨に逆らいました。バビロンに何が起きたでしょう?カルデアに何が起きたでしょう?それらは歴史に名前を残しただけで、その栄光は過ぎ去り、神の裁きによって手足を引き裂かれてしまいました。多くの帝国が神の御旨の道に立ちふさがりましたが、同じことが起きました。その中でも最も強大だったローマは、力を尽くし、あらゆる手段を用いて、イエスの証しを消し去るために、その証し人たちをライオンに投げ与え、大虐殺を行いました。しかし、ローマに何が起きたでしょう?ローマ帝国は廃墟と化しました。過ぎ去って、語り草になりました。しかし、神の御旨は進み続けます。神の教会は残ります。帝国であろうと、世界であろうと、個人であろうと、神の車輪の道に割り込むものがあれば、そこには火が働きます。神の側にあることは素晴らしいことです。生ける神の御手の中に陥るのは恐ろしいことです。彼の御旨に反対し、彼の御旨の道に割り込むとき、私たちはそうなってしまいます。

ケルビム

次にケルビムに移ることにします。ケルビムは、それらすべてに関する団体的・複合的な手段です。すでにケルビムについては説明したので、繰り返すことはしません。ケルビムには四つの面があります。獅子、雄牛、鷹、人です。各々、主権、奉仕と犠牲、天的奥義、神の表現を表しています。これは受肉したキリストです。しかし、これは教会、彼のからだでもあります。教会は彼との交わりの中にもたらされて、彼の贖いの益に浴するようにされ、主権へと連れ戻されました。「私たちを王国としてくださいました……」。これは彼の奉仕と犠牲の面で彼と交わることによります。「それは私が彼を知り(中略)彼の苦難の交わりを知るためです」。これは天的奥義であるそのからだとの交わりによります。世は、神の真の子供の神秘を理解しません。世は、キリストの真の教会の神秘を理解できません。キリストのからだは、確かにこの世にとって謎であり、天の謎です。

そしてまた、神を代表する人、神の代弁者たる人です……エゼキエル書では、聖書の他のどの箇所にもまして、「人の子」という言葉が目につきます。この称号には二つの顕著なつながりがあります。エゼキエルの預言と、主イエスご自身の場合です。主イエスの場合、この称号は、彼を神の僕、神の代表人として示します。ここにいて、「私を見た者は父を見たのです」と言える方として示します。ケルビムが表しているのはキリストと教会です。

エゼキエル一章の要点はこうです。すなわち、人の子であるエゼキエルの生活と務めは、ビジョンによって構成されたのです。それが彼を神の僕にしました。それが彼の務めを規定するものです。だれであれ、生活のための、奉仕のための、なんという背景でしょう!神との関係における、私たちの生活と奉仕のための、なんという背景でしょう!私たちはみな、この務めに召されています。私たちはキリストにあって召されているでしょうか?私たちはみな、「はい!」と答えるだろうと思います。まあ、それに疑いの余地はありません。私たちはキリストにあって召されています。これはみなキリストの中に集約されており、彼にあって実現されています。もし私たちがキリストにあって召されているなら、神の永遠の御旨に関してキリストが代表しておられるすべてのものに召されているのです。「御旨にしたがって召されました」。この関係とこの召命、この務めの背景は何でしょう?まさにすでに述べたことです。まず第一の背景は、御座におられる、主の栄光を持つ人なる方です。これは常に私たちをイエス・キリストの僕、神の僕に構成するものです。そこから教会の歴史が始まりました。御座におられる栄光を受けた人なる方から始まったのです。ステパノは彼を見ました。「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」!パウロは彼を見ました。主の栄光を持つ、天上の「ナザレのイエス」を見ました。そして、パウロはこの啓示の前にひれ伏しました。それが彼の生涯の働きの基礎でした。教会は聖霊によって、御座におられる、主の栄光を持つ人なる方のビジョンをとらえました。それによって教会は世界に遣わされて、行動し、苦しみ、死に、証ししたのです。こういうことだったのです。

天的使命

次に、天的使命に進むことにします。そこには大空、天の領域があります。そこでキリストとその民は使命を果たしつつあります。「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに……」とパウロは述べています。私たちの務めは、まったくこの地上のことだけに縛られているわけではありません。霊的な試練や苦しみの時に、これは私たちの心に慰めや慰安を少しも与えないかもしれませんが、それにもかかわらず、次の事実は残ります。すなわち、霊的な忠実さの結果として、あらゆる困難に立ち向かって信仰に堅く立った結果として、たとえこの地上で人々の間になんの成果も見られなかったとしても、そのように立ったことにより、天ではなにかがなされつつあるのです。霊の領域では神によってなにかがなされつつあるのです。しかし、人はそれを見ることはできません。あなたの忠実さは、あなたがその成果をこの地上で見ているかどうかにかかわらず、価値があるのです。神の僕の多くにとって、生きてきたことを正当化してくれるものは、まさにこの事実しかありません。神は彼らをある場所に置かれました。彼らは、その場所から離れることは自分に対する神のみこころから外れることだと知っていましたが、それでもなにも成果を見ることはできませんでした。彼らが知っていたのは、次の事実だけでした。すなわち、自分たちを動揺させて追い出そうとする悪の全勢力に立ち向かい、持ちこたえ、抵抗することは、ものすごい葛藤だった、という事実です。神が置かれた場所にとどまるには、彼らは暗闇の勢力に抵抗しなければなりませんでした。しかし、人の目にはなにも見えませんでした。それでも、人の基準にしたがって物事が判断されることのない別の領域では、なにか素晴らしいことが起きていたのです。

天上で私たちは地上よりも使命を果たしつつあるのです。私は信じていますが、この経綸の終わりには――この終わりは確かに今、私たちの上に大いに臨んできます――真の霊的教会、神の真の霊的民は、自分たちの存在をあまり世に示せなくなるでしょう。まるで、その活動の外面的な部分はすべて崩れ去り、粉々になっていくように見えるでしょう。もはや成功も、大勝利も、魂の大収穫も得られないでしょう。ただ立っていることだけを求められるようになるでしょう。しかし、最後に立っていられることには、とても大きな意味があります。これは、教会の働きが終わりを迎えたこと、その務めが終了したこと、主の民はもはやなにもしなくなることを意味するのでしょうか?教会の務めが終わる時、彼はそれを連れ去られます。その働きが済む時、彼はそれを放置するのではなく、連れ去ってご自身に迎えられます。このように立つこと、抵抗すること、持ちこたえ続けることは、それ自体が強力な証しであり、悪の勢力に対する主の勝利を示すものです。人々の間では、それはあまりパッとしないかもしれません。それを出版したり、宣伝したりして、「これが私たちの働きの成果です!」と言うことはできないでしょう。それは、人には判断できない別の領域で、物を言います。「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに……」。もっぱらそこに、私たちの証しがあり、私たちの使命があります。この地上で成果があるかもしれませんが、地上の成果がすべてではありません。その成果は御座に着いている人なる方と、支配している天と共にあります。天が支配しているのです!

私たちは、「ご自身のみこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行う方の熟慮にしたがって」、私たちの務め、私たちの霊的使命に構成されます。私たちは、「御旨にしたがって召されて」います。私たちは、この世界が存在する前に神が決定し、この宇宙に投影された事柄に関して、神との交わりの中に導き入れられました。神の御旨は、アダムがこの交わりの中に入って、ご自身の同労者となることでした。アダムは失敗しましたが、神は御旨を放棄されませんでした。彼は他の人々を選び、キリストにあって私たちを選ばれました。神を愛し、彼の御旨にしたがって召された私たちは、車輪の道に入ります。私たちは、これらの車輪が意味するところによって、新たに力づけてもらう必要があります。私たちの心は、往々にして、これらの車輪の意味に関して、力づけてもらう必要があります。なぜなら、私たちは自分の感覚に支配されていて、具体的なかたちで見たり経験したりしたいと願ってばかりいるせいで、「御旨は挫折してしまった、なにも起きていない、なにも進んでいない。神はこの世界から身を引いて、物事を成り行きに任せておられ、明確にわかる一連の行動や動きはない」と感じるよう誘惑されることがよくあるからです。私たちは時として、明確な目的・使命はなくなったと感じます。それは私たちの感覚であって、神ではありません。事実、神の車輪は進み続けています。私は、ここで強調されている、「彼らは進む時、向きを変えなかった」という言葉が好きです。これは、彼らは回転しなかったという意味ではありません。彼らは逸れなかったこと、まっすぐ進んだこと、御霊が行くところはどこでも彼らも行ったこと、進むとき向きを変えなかったことを意味します。神の永遠の御旨に回り道はありません。神は代々の時代にわたって畝をまっすぐに耕しておられます。御旨は今日も、これまでと同様に確実で、明確で、積極的で、まっすぐで、力強いものなのです。神は永遠の神であり、計画したことを実行されます。車輪はまっすぐに進み続けます。

主は私たちの内に、「自分はあるものの中にある」という積極的な目的意識を新たに与えてくださいます。そのあるものとは、あらゆる抵抗をくぐり抜けて道を切り開き、邪魔するなら帝国さえも打ち倒すものです。彼を妨げようとするものはみな火に包まれます。彼は前進し続けておられます。神の御旨が挫折することはありえません。決定したことを、彼は実行されます。車輪は進み続けます、まっすぐに進み続けます。御霊が車輪の中にあり、すべてを知っており、すべてを認識しておられます。「目でいっぱい」です。これがみな、キリスト・イエスによって教会の中にあります。「今、私たちの中で活動するその力にしたがって、私たちが求め、また思うすべてを、遥かに超えて豊かに行うことのできる方に、教会の中で、キリスト・イエスによって、栄光がすべての時代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二〇)。これはそれをみな含んでいます。神の御旨は教会にあります。神の御霊は教会の中におられます。神はご自身の教会に関して進み続けておられます。神が御旨に達する時、神が計画されたことに全く欠け目はないでしょう。彼は、私たちの中に働くあの力にしたがって、私たちが求め、また思うすべてを、遥かに超えて豊かに行うことができます。御霊が車輪の中に、みこころの中に、御旨の中に、そして教会の中におられます。これが神との交わりを構成し、務めを構成します。ああ、神のすべての僕がこれを理解していたら!それはなんという力でしょう!エゼキエルが希望の預言者と呼ばれるのも不思議ではありません。あなたの務めがこのような基礎に基づいて構成されるとき、そこには希望があります。この人なる方は主の栄光を持っており、御座にいて、天上におり、代々の時代にわたって神の御旨と関わっておられます。これが背景です!主は私たちを霊の中で、それに関する生き生きとした理解の中に導いてくださいます。