第四章 教会と生き物

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:黙示録四、五章。

今、ケルビムに関する真理の究極的完成である最後の描写に移ることにします。この黙示録でケルビムは、「生き物」という名の下で、二十四人の長老と関連して登場します。彼らは大いに密接に関係しているため、共に動きます。その活動は一つであり、その発言は一つであり、その立場は一つです。これを念頭に置いて、ひとまず置いておくことにします。

偉大な叫び、偉大な宣言が、長老たちと生き物に関して発せられます。それは、御座の中央におられる屠られたような小羊の偉大な贖いの御業を通して、彼らは神のために王国・祭司とされた、ということです。彼らは一つになってこの偉大な宣言、発言を行います。自分たちが何者なのかを告げます。彼らはあらゆる国民の中から神のために贖われ、王国・祭司とされたのです。

さて、旧約聖書に戻って、歴代誌の二冊の書(一歴二三、二四章、二歴五章)を読むと、この型について記されています。そこには、ダビデとソロモンの下で、祭司であるアロンの子らが二十四の組に分けられたことが記されています。彼らはくじで分けられました。これは、好みやえこひいきで選ばれたわけではないことを意味します。他の人々よりも立場上有利な点があったので選ばれたわけではありません。くじで選ばれたのです。彼ら全員に、この地位に就く同じ機会がありました。彼らの上に、二十四人の長老が立てられました。祭司たちからなる二十四の組が設けられ、二十四人の長老が彼らの上に立てられました。一つの組に一人の長老が立てられたのです。次に、レビ人も二十四の組に分けられました。これらの祭司は白い衣を身にまといました。

これを予型と絵図に関するごく簡単な旧約聖書の背景として受け入れるなら、彼らは神の家の二十四人の支配者を表していることがわかります。彼らは二十四人の祭司的支配者、長老であり、白い衣を身にまとっています。彼らは祭司であり、長老・支配者です。この型から、黙示録に記されている、天におけるその本体の意味を見るのは、とても簡単です。彼らは天で統治する地位にあり、その権威と王権の印として、頭に金の冠をかぶっています。

御座

歴代誌に戻ると、この祭司たちは契約の箱を神託所・至聖所に運び込んで、それをケルビムの下の神の臨在の中に置きました。そこはまさに天上を表していました。というのは、至聖所は天上の型だからです。ご存じのように、その幕(それはキリストの肉体でした)が裂かれたことで、神の臨在の中に入る道が開かれ、天的合一と神との交わりの中に入る道が開かれました。ケルビムは、証しの箱を運び込む祭司たちのこの動きと関係しています。ケルビムがいるのは御座です。それは、尊い血とその保護の下にある主の民に対しては、恵みの御座です。この血の保護下にない人々に対しては、それは恐るべき裁きの御座です。それは御座です!神がそこで支配しておられます!そして、祭司たちはその御座の前に進み出るのです!

黙示録とその本体を見ると、そこには、二十四人の長老たち、祭司たち、王たちがいますが、彼らと一体であるものとして生き物・ケルビムがいます。これはいったい何を意味するのでしょう?それは実に象徴的です。それは何を表しているのでしょう?私が思うに、御言葉から見るかぎり、それは次のことを意味します。すなわち、生き物は教会全般を表しており、冠をかぶった長老たちは天で統治の地位についている教会を表しているのです。また、教会に対する御計画である神の御旨、すなわち、御座の地位・統治の地位を表しているのです。

視線を創世記三章の冒頭に直ちに戻してください。ヘブル二章には、「あなたは彼(人)に栄光と誉れの冠を与え(中略)万物を彼の足の下に服従させられました」とあります。しかし、人は失敗し、挫折し、主権を失いました。罪を通して、不信仰を通して、不従順を通して、人は神との交わりの中で統治する偉大な地位を失いました。この人は自分に対する神の御旨に決して達しませんでした。彼は死にました。死者になりました。アダムにある人はみな死にます。霊的に死んでいます。キリストの外にある人はみな、違反と罪の中で死んでいます。命に関する神の御思いからすると、キリストの外では生きている者はだれもおらず、アダムにある人はみな死んでいます。あの神聖な、永遠の、不朽の、不滅の命から、罪深い人は締め出されています。屠られた小羊の御業に基づかないかぎり、罪深い人はそれを知ることはできません。

時代を下って黙示録に、究極的結末に目を向けると、何があるでしょう?御座の中央におられる屠られた小羊と、教会全体を代表する生き物です。次に、神の御思い・御旨が長老たちにおいて表わされています(主権、王権、王国と祭司たち)。アダムが失ったものが、ついに教会、生き物において実現されます。教会・生き物は、まさに神の命によって、神の賜物である永遠の命によって生きています。しかし、この命の究極的な表れ、効果、結果は何でしょう?それは御座です。主権です。長老たちと生き物は、それは流された血のおかげである、と共に宣言します。「なぜなら、あなたは屠られて、あなたの血により、すべての国民の中から買い取られたからです……」。この血、小羊の血のおかげで、彼らは神の永遠の御旨に到達したのです。これが救いです。これは、たんに地獄から逃れることや罪から救われることよりも優っています。神のみこころは、人がご自身との交わりの中でこのように満ち足りて、ご自身と共に永遠に支配することなのです。

死は廃棄された

この黙示録は預言的な書です。四章がどう始まっているのかに注目してください。「ここに上って来なさい。これらの事の後に必ず起こる事を、あなたに見せよう」。それは結末を、究極的完成を仰ぎ見ています。時ではない時――もはや時はないからです――を視野に入れています。そのとき、死はすべて廃棄されます。これは、たんに肉体が死んでこの世から去ることではありません。死は最後の敵であり、人に対する神の永遠の御旨の敵であり、その死の中にキリストの外にいる人はみなとどまっています。ですが、彼らの多くは、死が廃棄されたことを知りませんし、気づいてもいません。もはや死や呪いはありません。あるのは生き物の宇宙です。しかし、それ以上です。生き物のための御座があるのです。印象的なことに、第三章は「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの座に着かせよう」で終わり、第四章では御座と生き物と二十四人の長老が登場し、第十二章の「そして、彼らは小羊の血のゆえに彼に打ち勝った」に至ります。神の全き御心が、御座に進み出て統治する勝利者において表わされます。そのために、神はすべてに打ち勝つ命の力を用意しておられます。死に打つ勝つ命、地獄に打ち勝つ命、龍に打ち勝つ命、まさに御座に上る命を用意しておられます。

これは全く作り話ではありません。その多くは象徴や予型と関係していますが、その中には数々の偉大な天的・霊的原則があります。これらの法則、これらの象徴・予型の原則を取り除くと、神の創造と贖いに関する偉大な中心的現実に行き着きます。すなわち、人は無限の命の力によって生きるべきであり、その命とその命の力によって、最終的に神の被造物を支配する地位に至るべきである、という現実です。神はそのように意図して、御子にあって、小羊の血により、この不朽の命の力を備えてくださいました。この事実にもかかわらず、いまだに死んでいる多くの人々、その命の力の中で生きていない多くの人々がいます。また、主の民であっても、この命を持っているのに、その命の効力によって立ち上がって勝利していない多くの人々がいます。

この偉大な結末は私たちの心に訴えかけます。神が意図されたのはこれであり、それより劣るものではないのです。そして、だれもが同じ機会を持っており、その道の中にあるのです。そこにはなんのえこひいきもありません。なぜなら、これに適した性質は私たちの中になにもないからです。他の人々よりも有利な点はなにもありません。みなが召されており、みなが御座を目指して走っており、みながキリストの尊い血と復活の命という同じ立場に立っています。神のみこころは、私たちがただ地獄から逃れることや、永遠の命の所有者になることではありません。神のみこころは、来たるべき神の王国、御子の王国における主権です。私たちへの使徒の呼びかけが聞こえます、「励んで、あなたたちの召しと選びを確かなものとしなさい」(二ペテロ一・十)。

福音の偉大さ

もう言うことはありません。御旨は私たちの前に示されています。神の霊は、神の偉大な御思いに沿って行動しなければなりません。しかし、確かにこれは途方もなく心に訴えかけます。まず第一に、これは、主イエスの御業、その十字架が意味するところ、その血が流された意味を強調します。神の御旨に地獄はこぞって立ち向かいます。神の御旨は、災難や失敗に巻き込まれているように思われますし、罪深い時代全体にわたって実現するのが全く不可能に見える状態にあるように思われます。しかし神の御旨は、地と地獄がなにをしようと、小羊の血の中で実現されました。それは主イエスの御業を強調し、確かに救いの偉大さを私たちに示します。ああ、私たちの福音は些細なものではありません。私たちの救いは些細なものではありません。それは素晴らしいものです。それはこの宇宙の御座で終わります。この御座を生き物が占めるのです!これは救いの本来のすがたを示しています。救いは偉大なものなのです。「こんなにも偉大な救い」と使徒は述べています。

これは確かに課題であり、訴えかけです。まず、救われていない人々、再生されておらず、確かに生者ではない人々に対する課題です。確かに、このこんなにも偉大な救い、救いと贖いにおける神のこの比類ない御旨は、私たちを些事や気ままさといった水準から引き上げてくれるはずです。そして、ああ、それは私たちがこの救いを制御できないこと、それを支配できないことを意味するにちがいありません。「まあ、私は待つことにします!自分は決して救われない、とは言いませんが、まだ準備ができていません!私は待つことにします!おそらく、いつの日か救われるでしょう!」とはだれも言えません。このようなものを制御することはできません。自分がいつ救われるかを決める権限を、神は私たちに与えておられません。「今は受け入れられる時です」(二コリント六・二)と神は述べておられます。自分は明日救われます、来週救われます、と言うことはできません。神は今です!と仰せられます。今です!今しかないかもしれないのです!しかし、なんという損失でしょう!御子の犠牲によって神が意図し、差し出してくださったものをすべて逃してしまうのは、なんという損失でしょう!それはとても重大なものなので、それを弄ぶことはできません。「それを得るのはいつである、得ないのはいつである」と言って、それを自分の掌握下や支配下に置くことはできません。もし私たちが救われていないのなら、そのような水準から引き上げてもらわなければなりません。これは自分で保持し、扱い、操作できるほど小さなものではないことを、示してもらわなければなりません。

それは、安っぽいものではありませんし、その気になれば得られるが、その気にならなければ得られないというものでもありません。その偉大さ、壮大さ、荘厳さ、高価さ、神が支払われた代価、御子が支払われた代価、それらすべての結末、この途方もない救いを見て、「私はといえば、もし私がこれに従わないなら、神が私をあわれんでくださいますように!」と言おうではありませんか。彼らがなぜ歌っているのか、なぜ御座に着いておられる方の御前にひれ伏して、自分の冠を投げ出しているのか、あなたはおわかりでしょう。なぜでしょう?

これは次のことを意味します。ああ!この宇宙における驚異中の驚異です!この救いにあずかる特権が私たちに与えられているとは!これは、「自分は救われるかもしれないし、救われないかもしれない」という態度とは異なります。キリストにあって神の救いにあずかることを許されたのは、驚くべきことです。キリストと贖いを真に知っている人々は、絶えず神の恵みに驚嘆します。この上なく価値あるものを見いだしたことを彼らは自覚しているのです。

冠と報い

キリストにある人の心に、まさにこの書が示す「あなたの冠をだれにも取られてはなりません」という御言葉は訴えかけます。それは、全き御旨に至るまで進み続けよ、という訴えかけです。神と共に治めることが神の御思いですが、それには常に前提があります。「もし苦しむなら、彼と共に統治するようになります」。「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの王座に座らせよう」。もしだれもが自動的に勝利者になるのなら、このような言葉は語られなかったでしょう。それは、神の全き御旨に至るまで進み続けて、それに達しないことがあってはならない、という訴えかけです。これは苦難の中にあるときの励ましであり、逆境の中にあるときの励ましです。救いは報いではありません。救いは、なんの功績もなく、なんの価値もない者への、神の恵みの賜物です。王座は報いです。何に対する報いでしょう?苦難、忍耐、あらゆる困難にもかかわらず進み続けたことに対する報いです。それは、主のためにすべてを手放した結果であり、私たちを力づけて王座に導くあの命の結果です。

ここで、「あなたは生きているのか?」という問いが生じます。これが私たちの出発点です。あなたは、イエス・キリストにある永遠の命を持つところから始めたでしょうか?そもそも、あなたは生きているでしょうか?この問いの次に生じるのが、「どれくらいあなたは生きているのか?」という問いです。創世記から黙示録に至るまで、問題は全く命にあります。命は基礎であり、命は神の全き御旨に至るエネルギーです。ですから、使徒は「私たちの命であるキリストが現れる時、私たちは彼と共に栄光のうちに現わされます」(コロサイ三・四)と述べています。キリストが私たちの命である結果、私たちは彼と共に栄光のうちに現れることになります。私たちは「彼の永遠の栄光へと」(一ペテロ五・十)召されています。この栄光は、彼の命が豊かに輝き出ることです。

私たちはこの課題と訴えかけに応えなければなりません。私たちは生きているでしょうか?この命の中で進んでいるでしょうか?この命は私たちの中で自由で完全な道を得ているでしょうか?私たちはそれを妨げ、阻み、邪魔しているのでしょうか?それとも、この命にその完全で自由な道を得させて、その法則に従っているでしょうか?もしそうなら、それは私たちを王座に導きます。そして、この約束は私たちに実現され、私たちは二十四人の長老となります。つまり、御座で統治する教会となります。この命の豊かさが長老たちにおいて現わされます。そしてこれはみな、屠られた小羊の血のおかげなのです。

もしこれが全く理解できないなら、もしこれがあなたを困惑させるなら、この象徴のことを忘れてください。正直に言うと、ケルビムは私には理解できないほど多くのことを表しています。私ははっきりしていることだけをあなたに伝えています。私たちの理解を越えているものが、まだたくさんあります。しかし、それから象徴、型、絵図をすべて剥ぎ取って、その明確な諸原則を見るなら、それは次のことを示しているにすぎません。すなわち、神の意図は永遠の昔から、人が主権の地位に就くことだった、ということです。彼は人をそのために創造されたのです。アダムはあの力を失いました。その力によって、もし罪を犯していなければ、彼は強められてその地位に至っていたでしょうし、そのエネルギーの結果としてその地位に達していたでしょう。もう一人のアダムが来て、ご自身の血によって回復されました。私たちは彼と十字架による彼の贖いの御業とを信じる信仰を通して、神の御子の交わりの中に召されました。そして、永遠の命を与えられ、その命を持つことによって、王座への大路の上にあります。来るべき神の御子の王国で統治するのは、ただこの命によってのみ可能であり、この命を私たちは信仰を通して持ちます。私たちはこの命の命ずるままに生きなければなりません。神の命に基づいて生きなければなりません。その法則に従い、内側を力づけてくれるその力づけに全く忠実でなければなりません。内側に永遠の命があることは、素晴らしいことです。この絶え間ないエネルギーは、最終的に私たちを完全な勝利に導いて、私たちは彼と共に永遠に支配するようになります。

主は、ご自身のメッセージを私たちの心に伝え、私たちを主とその御旨に対するさらなる明け渡しへと導いてくださいます。