「そこで、私は使者たちを彼らに遣わして言った、『私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません。私がそれをそのままにして、あなたたちの所へ下って行き、働きを止めてよいでしょうか?』」(ネヘミヤ六・三)。
「私は夜中に起き、数人の者が私と共にいた。私の神が、エルサレムのために行うよう私の心に置かれたことを、私はだれにも告げなかった」(ネヘミヤ二・十二)。
この二つの節――「私は大きな働きをしている」と「私の神が行うよう私の心に置かれたこと」――は、ネヘミヤ記が歴史的に示している大きな問題への入口です。
豊かなクリスチャン生活に必要な三つのもの
豊かなクリスチャン生活へと至る、神と共なる適切な生活に必要な三つのものがあります。
第一に、神はご自身にふさわしい何かを成し遂げることに関心を寄せておられるという認識です。神はご自身にふさわしい何かを成し遂げることに実際に関心を寄せておられることに気づいて、それに捕らえられないかぎり、私たちは豊かなクリスチャン生活すなわち神と共なる生活に向けてたいして進めないでしょう。
第二の点は、神の御心の中にあるこの偉大なものが何か、神がこれほどまでに関心を寄せておられるものが何かを、人々が認識するようになって、それについて神と協力するようになることです。神と共なる豊かな生活には、次のことが不可欠です。すなわち、彼の民である私たちが、彼が真に目指しておられるものが何か、真に彼にふさわしいものは何かを、理解するようになること、そしてそれ以上に、この問題について深い感銘を覚えて、それについて彼と協力するようになることです。
そして、第三に、私たちは認識しなければなりません。神が御心に留めておられるこの御旨には、そして、彼の民による彼との協力には、かなり現実的な戦いと代価が伴うのであり、彼の民はそれに直面して、それを受け入れる覚悟をしなければならないのです。
この三つの点が、神と共なる豊かな生活を構成します。その中の一つも欠けてはなりません。この戦いと代価はまさに、神の民がその中に導かれたもの、そして、神の御心が大いに愛しているものの価値の証拠です。戦いも代価も必要ない所では、結果に価値はないと感じるのも当然かもしれません。私が思うに、少なくとも使徒たちの見解は、戦いはとても偉大でとても崇高な召命につきものであるというものでした。
ですから、このネヘミヤ記では、この三つがかなり充実したかなり力強い形で私たちの前に示されています。それは、大きな代価、大きな働き、大きな戦いです。
ご存じのように、ネヘミヤ記は、またネヘミヤ自身も、遥かに大きな霊的現実の一大歴史絵図です。この地上の文字どおりの歴史は、この経綸に霊の領域で起きていることの反響にすぎません。そして、この経綸に起きていることは、この地上の過去の時代に起きた何ものよりも、遥かに大きいのです。
さて、ここにこの三つの特徴があります。それは、城壁またはその再建です――これが目的であり、目標であり、目当てです。次に、再建する働きと働き人たちです。次に、この御旨と働きに密接に関係するものとして、戦いがあります。城壁、働き、戦いです。あるいは、言い換えると、召命、行動、戦いです。これらは、今日の現在の言葉で言うと、いわゆる、主の証しの回復・完成と称しうるものを構成しています。というのは、それこそが今、私たちが実際に直面しているものだからです。ですから、この問題全体の上に、「大きな働き」というこのささやかな句を掲げることができます。――「私は大きな働きをしています」。主が導かれるなら、私たちはこの大きな働きに専念することにします。
霊的衰退の時代における神の反応
ネヘミヤは旧約聖書最後の偉大な人物であり、彼の書は旧約聖書最後の歴史書です。旧約聖書の書物の年代配置を学んでいない人は、これらの事実を全く知らないかもしれません。ネヘミヤ記は、私たちの聖書では、旧約聖書の終わりのかなり前にあるので、年代的にかなり前の時代と関係していると多くの人が考えています。しかし実際には、それはマラキの預言と並行しています。ネヘミヤは預言者マラキと同時代の人なのです。
ハガイとゼカリヤは預言して去って行きました。総督のゼルバベルと大祭司のヨシュアは、彼らの務めを果たしました。エズラは、前述した預言者たちが宮の再建を完成するよう人々を鼓舞したとき、その働きで自分の役割を果たしました。その後、霊的衰退の過程が始まりました。偉大な事が、ハガイ、ゼルバベル、ヨシュア、ゼカリヤの下で起きましたが、その栄光は消えていきました。その約束は短命で終わったように思われます。そしてマラキに至ります――マラキの預言はご存じでしょう。確かに、「輝かしい朝は過ぎ去り」ました。確かに、状況は曇ってしまいました。霊的衰退の深い影がエルサレムの空を満たしました。そして、マラキが述べたこれらの悲しい、そうです、恐るべき事柄がみな、結局のところ、神の民の間に見られます。ですから、捕囚から帰還したレムナントの一部だけが、いわゆるレムナントの中のレムナントであり、「主を畏れる者たち」(マラキ三・十六)だったのです。そして、この状態の中に、このような状況のただ中に、ネヘミヤは自分の務めを果たすためにやって来たのです。
この人がエルサレムに来て、彼の名を冠した書の冒頭に示されている事業、すなわち城壁の再建に着手しました。これには素晴らしい、そうです、励ましに満ちた意義があると思います。すなわち、マラキが預言して主からの恐るべき言葉を述べたような時代でも、主は見捨てず、再び行動されるのです。そして、この城壁の再建は霊的衰退の時代における神の行動なのです。それは私たちにこう叫ばんばかりです。すなわち、神は、結局のところ、最悪の時でも、依然としてご自身の証しの回復と完成に専念しておられるのである、と。きわめて印象的なことに、ネヘミヤ記――旧約聖書最後の歴史書であり、ネヘミヤは旧約聖書の最後の偉大な人物です――は、恐るべき霊的衰退の時代に、神はご自身の証しに関して再び行動される、というしるしを帯びています。時として私たちは、時は過ぎ、状態はあまりにも悪く、状況を見ると何も期待できない、と感じるよう誘惑されます。しかし、この書とこの人物は、そのようなあらゆる悲観主義に向かって、とても健全な叱責を与えます。
祈りにおける苦悩
さて、城壁・働き・戦いという三つの主要な特徴に取りかかる前に、ネヘミヤ自身が体現しているある本質的要素から始めなければなりません。私たちは少し遡らなければなりません。なぜなら、これが始まったのは何年も前のことであり、七十年以上前のことだからです。それは預言者エレミヤの心の中で始まりました。エレミヤは砕けた心と、悲しみに満ちた霊の持ち主でした――その心は砕かれており、その霊は主の民の間の状態のゆえに悲しみに満ちていました。そして、エレミヤはあの苦悩の中で自分の務めを果たして、ある宣言、ある預言を述べました。すなわち、この民は七十年間捕囚になると宣言・預言したのです。ご存じのように、これは成就しました。その後、この七十年が終わりかけていた時、バビロンの状況の中心にいた別の人がエレミヤの苦悩を担いました。エレミヤは苦悩の務めを果たし、ダニエルは祈りの中でこの苦悩を担いました。ダニエルが告げるところによると(九章)、彼は、捕囚は七十年であることを「書物によって」知りました。そして今、その七十年が終わろうとしているのを見て、大いに祈りに専念します。エレミヤによる苦悩の務め、ダニエルによる啓発的なとりなしの苦悩に注目してください――彼は自分が生きている時代を悟りました。彼は、時が満ちたことを書物によって悟りました。それで、ダニエル書の九章にあるこの途方もない苦悩する祈りに取り組んだのです。
神の主権的反応
さて、次の動きがあります。時が来て、神はご自分の証しを回復するために再び動き出されました。そこで、神は主権をもってクロスの霊を奮い立たせられました。クロスは布告を発して、レムナントがエルサレムに戻りました。歴代誌第二の最後の二つの節は、ご存じのように、この事実を述べていますが、続くエズラ記の最初の節はこの言葉を正確に繰り返しています。「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられた」。そして、エズラは神のこの主権的動きの成果の一つでした。エズラがその務めの自分の分を果たした後、ネヘミヤに至りましたが、ここでもまた、あの本質的要素――それは神との協力という結果になりました――をネヘミヤは担いました。
ネヘミヤ記の第一章から第二章にかけて、ネヘミヤはこの苦悩に、深く、とても深く、心を捕らえられています――この苦悩はエレミヤと共に始まったものであり、遠く離れたバビロンでダニエルの心の中に生じたものでした。ここでは、それ――ご自分の民に関する神の御心の反響である苦悩――はネヘミヤの中にあります。私たちは、この状況に多くの預言の言葉を当てはめなければなりません。これらの預言者たち、彼ら全員の叫びを聞かなければなりません。なぜなら、彼らは、ご自分の民の状況に関する神の御旨、神の御心を表明しているからです。今、神の御心の中にあるこの叫び――このすすり泣き、と言ってもいいでしょう――が、この人の中に生じます。旧約聖書に関するかぎり、それはネヘミヤの心の中で最高潮に達します。
先に進む前に、この二つの要素、この二つの主要な面に注目してください。第一に、主権的に行動しておられる神です。そこからこの動きが始まります。神はクロスの霊を奮い立たせられました。この素晴らしい主権的動きはすべて、エズラ記に記されています。この書をご存じの方は、神が宮の再建のためにこのペルシャの支配者を通して与えられた素晴らしい便宜の数々を直ちに思い出すでしょう。すべての備えがなされました。それがなされるようすべて取り計らわれました。神は主権をもって働かれました。これが一つの面です。
神との交わりの中で苦しむ人
しかし、このネヘミヤ記にはもう一つの面があります――それは神との苦難の交わりの中にある人です。エズラ記には、神の主権が記されています。ネヘミヤ記には、人による神との交わりが記されています。エズラ記では、神は直接、単独で行動しておられます。ネヘミヤ記では、人が神と共に行動しています。あるいは、神が人を通して行動しておられます。この二つは常に同行します――これを覚えておいてください。「神は主権者であり、その御旨は堅く定まっている。また、神は何でもみこころどおりに行うことができ、単独で行動することができ、自足しておられる。それゆえ、神は実際にそのように行動される」と決して考えてはいけません。彼がそうなさったことは決してありません。創造以来、主権的御旨のために、彼は常に人をご自身との交わりの中に導いてこられました――深い交わりと苦難の交わりの中に導いてこられました。ですから、その必要性、その要求、その悲劇がいかに大きくても――それによって、神はまず最初に主権的に行動する必要に迫られるわけですが――手段となる人が見つからないかぎり、彼はそれをしようとはされません。その人は、御心の感覚にあずかり、御心の負担を担い、彼と心から協力する人でなければなりません。
ネヘミヤはそのような人でした。実際面に関するかぎり、あの経綸における神のこの最後の動きにおいては、すべてがネヘミヤの心の中で始まりました。この人の心が、この書の一番最初の章に示されています。それゆえ、今日の目的のために、それが大いに必要です――というのは、私は今、私たちの時代とネヘミヤの時代の類似性を示すだけでやめるつもりはないからです。その類似性を、霊的知覚を持っているすべての人に明確にするだけでやめるつもりはないからです――ですが、神が、ご自身の証しの回復と完成に関して(それには回復が必要であり、完成が必要です)、今日、何かをしようとしておられるとするなら、彼はネヘミヤに相当する人を持つ必要があるのです――大きな関心事、まさに神ご自身の関心事をその心に抱いている器を持つ必要があるのです。
そこで、二、三分の間、ネヘミヤの関心事について見ることにしましょう。
ネヘミヤの関心事
この人は、物事のあるべき状態と実際の状態の両方を真に認識していました。私たちは僕として、この二つを心の中で明確に理解しないかぎり、神の御旨に貢献することはできません。すなわち、物事の実際の状態とあるべき状態についてです。もし物事が神の御旨・御心どおりのものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?もし物事が神の御旨を反映・表現するものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?あなたも私も、神との関係に関して少しは前進するもしれませんが、大いに前進するには、神の御心に照らして物事の真の状態を見る必要があります――神は何を望んでおられるのか、神が真に心にかけておられるのは何なのか、物事が彼のみこころに適ったものであるとき、状況は一体どうなるのかを、私たちは実際に見ていなければなりません。
次に、当然のことながら、相違点、相反する要素、神の御心どおりではない状況の本質を見なければなりません。ネヘミヤはそのような人でした。彼は見て、データに基づいて判断を下しました。一方において、彼は神が望んでおられるものを見ました。他方において、神が望んでおられるものから状況がいかにかけ離れているのかを見ました。もちろん、キリスト教に対してとても批判的な人、教会に対してとても批判的な人は大勢います。彼らは頭で状況を大いに評価・判断します。とても傲慢な方法で、クリスチャンの間や教会の中に存在している悪い状態をこき下ろします。物事の状態を嘆くことに安易に身を委ねることができます。
ネヘミヤはそのような人ではありませんでした。ネヘミヤはたんに否定的なだけではなく、積極的であり、建設的でした。彼は、「さあ、この状況を見てください――神が意図されたもの、神が望まれたものといかにかけ離れているのかを見てください――これを見てください、あれを見てください、他のものを見てください」と言える人だっただけではありません。彼はそう言えただけでなく、積極的な救済策を示せました。どうすれば状況が変わって、回復の道が拓かれるのかを示せました。彼は積極的なビジョンを持つ人でした。消極的な道を取る人々がとてもたくさんいます。「どうすればいいのでしょう」「それについてなすべきことは何でしょう」と彼らに尋ねても、彼らは何も示せません。全く消極的です――しかも、とても消極的なのです!――提示・提供できるものを何も持っていません。ネヘミヤはそのような人ではありませんでした。彼は状況を熟知していました。状況がいかに悲惨か熟知していました。彼は何度もそれについて述べていますが、彼には解決策があったのです。彼は積極的な人であり、行動する人でしたが、それは彼がビジョンを持つ人だったからです。彼は消極的な意味での「夢想家」ではなく、自分が見たものに関して行動する人だったのです。
そしてこれは、親愛なる友よ、私たちに課題を突き付けます。疑いなく、私たちのほとんどは、神の民、神の教会の中にある、神の御心にかなっていないものを指摘できるでしょう。物事があるべき姿からどれほどかけ離れているのか、このことがいかに悪く、あのことがいかに悪いのかを、指摘できるでしょう。ああ、それはとても容易であり、とても安易です――批判すること、批判に耳を傾けること、それに同意すること、それを受け入れること、不満を抱くこと、それらを保つことは、とても容易なことであり、とても安易なことです。しかし、次のような姿勢はこれとは大違いです。すなわち、前に進み出て、「これを見てください、これはよくありません、これは主が望んでおられることではありません、これが私たちのなすべきことです。これが、この状況を変えるために、主ならなさったであろうことであり、私たちが取り組むべきことです」と言う姿勢です。あえて言うと、解決法を持っていないなら、自分が目にしているものの代わりとなる積極的なものを持っていないなら、批判したり、裁いたり、罪に定めたりする権利は私たちにはありません。ですから、何か優ったものを与えることができないのなら、静かにしていようではありませんか。しかし、消極的であるがゆえに静かであることから、主よ、私たちを救ってください。そして私たちを、ビジョンを持つがゆえに活発に行動できるようにしてください。
私はあなたに問います。あなたの場合、これはどれくらいあてはまるでしょうか?あなたにはどんなビジョンがあるでしょう?あなたは主の御旨・意図を見ているでしょうか?――主が真に御心に留めておられるものは何か、主は何を望んでおられるのか、主は物事をいったいどのように進められるのか、あなたはわかっているでしょうか?もし主がご自身の道を進んで御旨に到達されたなら、状況は一体どうなるのか、あなたはわかっているでしょうか?わかっているでしょうか?状況が主が望んでおられるものからどれほどかけ離れているのか、あなたはわかっているでしょうか?そして、この人々やこの人のように、自分の心を大いに奮い立たせて、「それについて何かがなされなければなりません。私たちは仕事に取りかからなければなりません。神の助けにより、私たちはこの状況を変えなければなりません」と言っているでしょうか――そうなることが神のみこころだと信じているでしょうか?あなたはそのような人でしょうか?これをこの書は訴えているのです。
ネヘミヤの苦悩の特徴
少しの間、ネヘミヤのこの苦悩について、さらに詳しく見ることにしましょう。彼の苦悩にはどんな特徴があったのでしょう?私は彼を理解し、洞察し、その心に入り込もうとしました。彼の叫びの原因、悲しみ、重い苦悩の原因を知ろうとしました。そうしているうちに、彼のこの苦悩の背後にはこういったものがあるように思えてきました。
ネヘミヤは、物事のあるべき姿と実際の姿を見ました。次に、自分自身の地位を見ました。彼は遠く離れたシュシャンの宮殿で、王の献酌官をしていました。彼は流浪者であり、事実上、奴隷であり、宮殿で召使いとして扱われていました。その宮殿やバビロンの観点からすると、それは名誉ある地位だったかもしれませんが、彼自身の観点からすると、彼はこの世の奴隷のようでした。彼はこの世で、この世の仕事に時間を費やしており、彼の魂全体がうめいていました。「ここで私はこの世の仕事の中にあり、毎朝仕事に行き、夜遅くまで仕事をしなければなりません。これが毎日、毎週、毎月、毎年繰り返されます。私の魂は、神の御旨と主の民の状況に関する何かをすることを叫び求めています」。自分自身の地位に反発するこの叫びが、彼の苦悩の特徴でした。
神はその中でも主権者です。おそらく、この行を読んでいるあなたも、これに共感しているかもしれません。あなたは毎朝仕事に行き、毎晩家に帰ってきますが、あなたの時間と力の大半は、この世に仕えることで占められています。あなたはこの世の奴隷のように感じて、「ああ、神のために何かを行う自由があれば!」と言っています。私の親愛なる友よ、そのような苦悩には価値があります。バビロンにいた多くの人は、定住して状況を受け入れていました。仕事をして賃金を稼ぎ、それを今や自分の生業としていました。それ以上のものや、それ以外のものを、何も見ていませんでした。しかし、ネヘミヤはそうではありませんでした。彼の魂はこの世での自分の地位に反発しました。「ああ、自由になって、神のために何かをしたい!」。この苦悩は神にとって意味がありました。この苦悩は、神のために何かを生み出すための産みの苦しみだったのです。
家庭生活の雑用、いわゆる「つまらない仕事、一般的な仕事」をこなし、朝出勤して夕方帰宅する生活を送るとき、それと同時にあなたの魂の中に神の権益のための叫びが何もないなら、そのような経験を少しもしていないなら、あなたは実に悲劇です。しかし、もしかしたら、その中にあるとき、またその中を通っているとき、あなたは主のためにもっと多くのことを行えるようになることを願っているかもしれません。私に言わせれば、それこそが実りある苦悩です。それは何らかの形で実を結びます。それは開花します――何らかの形で開花します。何かがそれから生じます。いつの日か、あなたはこの世の職業から解放されて、いわゆる「全時間奉仕」のために自由にされる、と述べるつもりは私にはありません。神への奉仕についてそのように述べることはとても大きな間違いだと思います。なぜなら、あなたは自分自身の苦悩の中で、潜在的な形で、自分のいる所で、神に仕えているかもしれないからです。あなたが日々の仕事に出かけるときでも、この世のことよりも主の権益を常に気遣っているなら、あなたの心中のこの苦悩には途方もない可能性があるかもしれないのです。
ネヘミヤもそうだったにちがいないと思います。「ここで私は王の献酌官をしています!」。彼の心中の反発が聞こえてきそうです。それを彼はどれほど軽んじていたことでしょう――というのは、主の権益の方が彼にとって遥かに重大なものになっていたからです!この人、この支配者、この王は、偉大な人であり、当時の世界で最も偉大な人でした。その献酌官であることは、決して小さなことではありませんでした。エステルとモルデカイがいたのと同じ場所であるシュシャンの宮殿にいることは、決して小さなことではありませんでした。それについてはエステル記から、それに記されていることからすべてご存じでしょう。しかし、「なぜあなたは悲しげな表情をしてるのか?」という王の問いにネヘミヤが答える時が来た時、主への彼の祈りは王に対する大きな尊敬と敬意の言葉によって言い表されたわけではありませんでした。「私はあなたに祈ります。どうかこの日、あなたの僕を栄えさせて、この人の目の前であわれみを得させてください」(ネヘミヤ一・十一)。偉大な王のことを「この人」と述べたのです!
ああ、これは主とその権益に比べたら、つまらないことです!彼はこれを受け入れられず、苦悩していました。この世が与えうる最大の栄誉も、この地上で私たちが占めうる最高の地位も、主が求めておられるものを見た男女にとってはまさに無に等しいのです。どんな名誉、どんな学位、どんな地位も、あなたが一度これを見たなら、無に等しくなります。「私はそれらをちりあくたと見なします」(ピリピ三・八)。「この世の名誉や栄光にかかわるこれらのものを、ちりあくたと見なします」。彼は主と天の召しを見ました。ネヘミヤの地位は彼の苦悩の一つの大きな要因だったと、私は確信しています。
それから、長い遅延がありました。「ああ、時間がかかりすぎます!ああ、何かできれば!」。主はそのような忍耐を要求しておられます。私たちは主の遅延に抵抗します。機会の遅れによって深刻な試みを受けます。何も始まらず、道はありません。しかし重要なのは――私たちはこのことで本当に苦悩しているのか?ということです。きっと主は、私たちの真の関心事に関して私たちを試すために、遅延や延期を用いておられるのです。ある人々は、あまり待たされなくても、すっかり諦めてしまいます。ある人々は、少し落胆しただけで、少し忍耐が試されただけで、「これには価値がない」と言って辞めてしまいます。ここに一人の人がいます。彼は、この年月の間ずっと、忍耐を試す深刻な試みの中を進み続けました。また、何かを行う機会がなかなか訪れないことで試されました。しかし、彼は最後まで踏みとどまりました。事実、彼は結局のところ、主の権益のためにきわめて精力的だったのです。
この長い遅延、なかなか訪れない機会によって、あなたはどんな影響を受けているでしょうか?神のこの御旨があなたの心の奥底に存在しているおかげで、希望がなかなかかなえられなくても、期待が失望に終わっても、びくともしていないでしょうか?この人の魂は飢えていました――彼の魂は飢えていました。つまり、彼は何かを行うことを常に切望・熱望していたのです。何かを行うことに、彼は真の満足感や充足感や喜びを覚えたでしょう。彼の魂は出て行って自由にことを行いたいと望んでいました。しかし、彼の魂は飢えており、ますます次のような境地に導かれていきました。すなわち、そもそも何かがなされなければならないとしたら、それをなすのは神でなければならない――「自分には決してそれを行えない」――という境地です。このような境地に至るのは素晴らしいことです。「神がこの扉を開けてくださらなければなりません。神がこの機会を与えてくださらなければなりません。このことがなされるように、神が取り計らってくださらなければなりません。私には何もできません。私は無力です!」。しかし、この魂の飢え渇きは、どれほどの代価を私たちに要求することでしょう!もし何かを行えさえすれば、なんと楽だったことでしょう。もしもっと多くのことができていれば、なんと多くの満足感が得られたでしょう!しかし、それは私たちを整える働きの一部なのです。実に、その中から真の霊的価値が生じるのです。
ネヘミヤは、戻って来た兄弟たちから、エルサレムの状況について報告を受けていました。城壁は破壊され、門は火で焼かれ、人々は悲惨な状態にありました。彼はその報告を受け、必要について熟知していましたが、全くどうすることもできませんでした。神だけがそれを行うことができました。どうか信じてください、親愛なる友よ、このような立場によって偉大な約束が与えられます。このような立場に対して神は働かれます。主に最も用いられ、主との交わりの中で最も実を結ぶ者たちは、この地点に達することになります。一度や二度ではなく、何度も何度もです。そこで彼らは、自分には何もできないこと、ただ主だけがそれを行えることを知ります。しかし、彼らの魂はそのことで苦悩します。これは降参して手を上げ、身を引いて、「自分には何もできません。ですから、気にしないことにします」と言うことではありません。ネヘミヤは全くそうではありませんでした。彼は苦悩を祈りに変えました。ご存じのように、苦悩が祈りになり、祈りが苦悩になる時、事は大いに真実味を帯びて、大いに純粋なものになります――なぜなら、そのような祈りは自己の要素をすっかり対処するからです。
何かを行うことを私たちが欲するとき、働きに入ることにこだわるとき、舞台に上がることにこだわるとき、何かをして満足を得ることにこだわるとき、何らかの地位に就くことにこだわるとき、そこには野心の要素があることがなんと多いことでしょう。主がこのような私たちを対処してくださって、その苦悩がすべて祈りに変わる時、その祈りの中で、これらの自己の要素は徹底的に対処されて消え去ります。苦しむ祈り以外何もできないという事実こそが、その中に自己がないことを証明するものなのです。私たちの祈りは苦悩することです。自分のために何かを求めることではありません――神に属するもののために苦しむことなのです。
まもなく、ネヘミヤは個人的利益を狙っていると非難されることになります。彼の敵は、「彼は王になることを欲しており、自分のことを宣べ伝える預言者たちを任命している」と言うでしょう。この人を訴えて破滅させようとするとは、なんと巧妙な悪魔の攻撃でしょう!もしそれが真実だったなら、悪魔のこの攻撃によって、彼はどれほど打ちのめされていたことでしょう!もし悪魔に、「結局のところ、これをすべて支配しているのはナンバーワン願望なのです。あなた自身の野心であり、あなた自身なのです」と述べる正当な根拠があるなら――こう述べる根拠があるなら、私たちは打ち倒されて滅ぼされても仕方ありません。しかし、ネヘミヤの場合、そのような訴えには何の根拠もありませんでした。彼は、「あなたがそれを自分自身の心の中で捏造したのです」(ネヘミヤ六・八)と言うことができました。「それは真実ではありません。神は私を深く取り扱ってくださいました。私の魂をふるいにかけて、自分の利益を求めるそのような思いをすべて取り除いてくださいました」。この根拠を敵から断ち切らなければなりません。それは、働くための個人的根拠を敵に何も得させないためです。
さて、王の前にいた時、ネヘミヤは悲しそうな表情をしていました。王はそれに気づきました。しかし、彼の表情は自己憐憫や個人的な不満を物語るものではなく、霊的状態に関する悲しみを物語るものでした。
主は現在の状況を知っておられます。主は、状況が御旨とはいかに異なっているのかを見ておられます。彼はこれについてすべてご存じです。彼は、何人かの人々を連れて来て、ご自身が見るように見させ、ご自身が感じるように感じさせなければなりません。そして、ご自身が彼らに示すものに彼らを専念させなければなりません。どんな代価を払ってもです。この序論の言葉は課題を突き付けるものです。私たちが働きや戦いに出かけられるようになるには、まず私たちはこのようにならなければなりません。真にこのようにならなければなりません――ネヘミヤのような人々にならなければなりません。主よ、私たちをそのようにしてください。