第二章 城壁の状態

T. オースチン-スパークス

ネヘミヤの行動

さて、ネヘミヤの関心事から彼の行動に移ることにします――というのは、これまで述べてきたように、ネヘミヤは状況を冷静かつ否定的に批判するだけの人ではなかったからです。彼は、神の栄光のためになすべきことを知らずに、またそれについてなにかを行うことなく、間違いをすべて指摘するだけの人ではありませんでした。それで、彼は行動を起こしました。聖書の中で、あるいは少なくとも旧約聖書の中で、他の書物よりも行動によって特徴づけられている書物があるとすれば、私はこの書がそうだと思います。

ネヘミヤが行動を起こした時、彼はまず状況を十分かつ正確に把握しました。こう記されています。「私の兄弟の一人のハナニが、数人の者と共にユダから来た。私は、捕囚を免れて残っているユダヤ人について、またエルサレムについて、彼らに尋ねた」(ネヘミヤ一・二)。

そしてその後エルサレムに来た時、彼が行動するのを私たちは目にします。こう描写されています。「私は夜中に起き、数人の者が私と共にいた。私の神が、エルサレムのために行うよう私の心に置かれたことを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った動物のほかに、動物はいなかった。私は夜中に出て行き(中略)エルサレムの城壁を調べると、それは崩され、その城門は火で焼き尽くされていた」(ネヘミヤ二・十二、十三)。

このようにネヘミヤは状況を正確に把握するために苦心しました。確かに、彼は情報を持っていました。報告が彼のもとに届きましたし、その状況について直接知っている人々から知識を得ようと努めていました。しかし、現場で知識を得られるようになるやいなや、彼は報告を確認し、状況がどうなっているのかを正確に自分の目で確かめました。私は指摘したいのですが、それと同じように、主がご自分の証しの回復――この問題に私たちは直面しています――について告げられる時、彼と協力しようとする人々は正確な十分な情報を得なければなりません。彼らの情報は間接的に得られたものかもしれませんが、たとえ最善であったとしても間接的な報告で満足してはなりません。状況がどうなっているのかを直接正確に把握しなければなりません。物事の霊的状況がどうなっているのか、そして、何をなすべきかを正確に把握しないかぎり、あなたも私も主のためにあまり役に立たないでしょう。それについて私たちに告げる多くの人々からそれを得るだけでなく、実際に自分自身で見て把握しなければならないのです。

事実、今日、世界のどこに行っても、主の民の間の霊的状況を嘆いている人々が常に見つかります。彼らの感覚はおおむね正しいです――しかし、前に述べたように、彼らの多くは不満・不平・ぐち・苦情・批判を述べるだけで、解決策や改善案をなにも提示しません。それにもかかわらず、教会の霊的状況について抱いている彼らの印象はおおむね真実です。今日、次のことは大いに真実です。すなわち、教会に関してすべてが正しいわけではありませんし、状況は主が望んでおられるとおりのものではないのです。しかし、状況は正しくないという一般的感覚――たとえそれがとても一般的なものだとしても――にとどまることはできません。これが私たち自身の存在中に入り込まなければなりません。私たちは自らそれを知らなければなりません。私が述べているのは、「私たちは行って、間違いをすべて見つけ出し、今日の大きな欠点や嘆かわしい点をすべて列挙した長大な一覧を作成するべきである」ということではありません。そうではなく、私が述べているのはこういうことです――もし状況を神が望んでおられるとおりのものにするために神と協力しようとするなら、その問題を私たちは自分の心にじかに感じるようにならなければならないのです。私たちは自らそれを知らなければなりません。不平家であってはなりません。心の中で真に苦悩している者でなければなりません。自ら正しいとわかっているもの、自分が見ているもの、自分の目に明らかなもの、自分自身の心を悩ましているもののゆえに、心の中で真に苦悩している者でなければなりません。

そこで、ネヘミヤはまず、自分で直接状況を把握しました。そして、それはだれもが落胆するような状況でした。それは本当に気が滅入るような状況であり、ネヘミヤがこれ以上進む気をなくして、バビロンに戻り、「私たちは悪い仕事でも最大限活用しなければなりません。状況はあるべき姿にはなく、全く絶望的です。それについてどうにかしようとしても無駄です」と言ったとしても無理はありませんでした。しかし彼は、悪い状況だったにもかかわらず、それを絶望的なものとして諦めませんでした。もし、あなたがあの夜、ネヘミヤと一緒に見て回った人々の一人だったなら、きっと、「これはとても私たちの手に負えません。これはどうしようもありません。これは絶望的です」と言っていてもおかしくなかったでしょう。ネヘミヤはそうではありませんでした。ネヘミヤは旧約聖書の中で最も勇敢な人々の一人――真の英雄――だと思います。恐ろしい状況に直面しましたが、神に信頼しつつその状況に直面したのです。なぜなら彼は知っていたからです、これは悪い状況であるだけでなく、神はその状況を正すために、それを変えるために動いておられることを。状況を変えることが神のみこころでした。そして、神があることを意図されるとき、たとえそれが私たちには不可能に思われたとしても、私たちには確信を持つ根拠があるのです。だから、彼は諦めずに、状況に向き合いました――正面から向き合ったのです。

私の心の中には、このメッセージでは言い表せない多くの思いがあります。しかし、私はこのことに関して、聖書全体を考慮に入れています。そして、先に進むにつれてわかるようになると思いますが、私は特に新約聖書に向かおうとしています。私は現経綸の偉大なネヘミヤである使徒パウロに思いを馳せています。クリスチャンの間で彼はなんという状況に直面しなければならなかったことでしょう!なんという状況に彼は遭遇し、対処しなければならなかったことでしょう!彼のコリント人への第一の手紙を読むと、自分たちなら諦めてしまって、「これは絶望的な混乱状態です――いったいこれはキリスト教なのでしょうか?」と言っていただろうと感じてしまいます。しかし、パウロが勇猛果敢にその状況に立ち向かった様子を見てください。彼は諦めなかったのです。

今日、私たちは大いに落胆しているかもしれません。神に栄光を帰す完全で明確な証しを持つのは不可能である、と容易に感じてしまうかもしれません。というのは、どれほど教会が損なわれているのか、どれほど「壁が崩されている」のか、どれほど「門が火で焼かれている」のかを見ているからです――つまり、どれほど証しがまったく裂かれ、破られ、廃墟の中にあるのかを見ているからである、と言ってもいいでしょう。確かに、この状況は憂慮すべきものであり、私たちは以下の問いに直面しなければなりません。神はそれとは別の状況を望んでおられるのでしょうか?状況が変わることが神の御旨なのでしょうか?状況が変わることが神のみこころなのでしょうか?神は状況を諦めてしまわれたのでしょうか?神は別の状況を望み、意図しておられるのでしょうか――いや、さらに言うと、神は別の状況を生じさせるために動いておられるのでしょうか?神がこの問題に積極的に関心を寄せておられる証拠がなにかあるかぎり、私たちはこの問題を放棄できません。しかし、現在の状況に向き合うには、大きな勇気が必要です。神が与えてくださるありったけの勇気が必要です。これを知っている人なら、私が誇張していないことがわかるでしょう。

ネヘミヤのビジョンとインスピレーション

そして、さらに、ネヘミヤはその行動によって、他の人々を自分のビジョンと関心事の中に引き込みました。まず第一に、それは彼自身の心の中にあり、彼の心の中に隠されていました。神が自分の心に置かれたことを彼はだれにも言いませんでした。そもそも、それは彼自身と主との間のことであり、彼がある地位に達して、自分の調査の結果としてある決定を下すまでは、彼は他の人に心を開きませんでした。これは素晴らしいことであり、注目すべきことだと思います。着想を得て、自分の考えを広め、他の人々に伝えることは、とても容易なことです。自分と神との間で、状況を把握してその偉大さに全く圧倒され、そして、「これをしなければならない」と決意して自分のビジョンとインスピレーションの中に他の人々を引き込むことは、それとは全く別のことなのです。

ネヘミヤは途方もないインスピレーションを与える者とされたことがわかります。この書を読み通すと、この人の魅力的な人格、インスピレーションとでも言うべきものがわかります。この人のインスピレーションとビジョンの下で、人々は無理難題に飛びつきました。人々が落胆してとても落ち込む時もありましたが、彼は彼らをどん底から引きずり出しました。彼には、真の指導者として、自分のビジョンの中に他の人々を引き込む力があったのです!これこそ今日真に必要とされていることだと、あなたは感じないでしょうか――ビジョンを持ち、すべてを吟味し、問題全体に向き合う人々が必要なのです。彼らは神への信頼を持ち、「神はなにか別のことを望んでおり、意図しておられる」「自分たちは他の人々に積極的な影響を与えるためにやって来たのであり、それは他の人々が同調するようになるためである」と確信しています。これこそ真に大いに必要とされているものです。運ばれるだけのお荷物になるのは、世界で最も容易なことです。ああ、ただ生き続けているだけの、他人にたかる、寄生者になるのはとても容易です。しかし、インスピレーションを与える者となること、他の人々を真に助けて神が追い求めておられるものの中にもたらす人となること、彼らにインスピレーションを与えて、来て主の働きを助けるようにさせる者となることは、それとは全く別のことです。ネヘミヤはそのような人でした。私はあなたたちに言いたのですが、もし「状況は神の御心に適っていない」「神は状況を変えることを願っておられる」と感じているなら、私たちはこの問題について積極的な人々になるべきですし、それについて他の人々にインスピレーションを与える者となるべきです。

そこでネヘミヤは、それを十分に把握し、秤にかけ、手がけている働きの偉大さを肝に銘じつつ、絶望せずに、その働きに取り組み、彼が心を開いた他の人々を鼓舞したので、彼らは「立ち上がって建造しよう」と言いました。ああ、このような人々が必要です!状況を見ていて、それについて熟知している今日の人々なら、「それについてどうにかしましょう――立ち上がって建造しよう」と言うでしょう。

これが彼の活動の始まりです。これが確かに活動であることにあなたは同意するでしょう。もちろん、私たちはこれを人の問題として見ているわけではありません。神の霊によって力づけられないかぎり、長い間このようであり続けることは、私たちのだれにもできないからです。使徒パウロのことをもう一度考えてみてください。彼はその状況、その状態について熟知していました。神の民がその状況についてどれほど落胆して落ち込むおそれがあるのかを知っていました。彼はこう祈りました、「どうか父が、彼の栄光の豊富にしたがい(中略)彼の霊を通して、あなたたちの内なる人を強めてくださいますように」(エペソ三・十六)。「どうかあなたたちが(中略)神の栄光の大能にしたがい、あらゆる力をもって力づけられ、喜びを伴うあらゆる忍耐と寛容に至りますように」(コロサイ一・九、十一)。内なる神の霊の強力なエネルギーこそ、私たちが進み続けられる唯一のエネルギーです。ネヘミヤの生涯に働いた神の内なる御業のために、私たちは大きな余地を設けなければなりません。なぜなら、そうしないかぎりこの状況についてなにも行えないことを、私たちは十分よく知っているからです。

その目的――城壁

さて、この書の問題の主な特徴に進むことにしましょう。最初の学びで述べたように、それは三つあります。すなわち、城壁、働き、戦いです。もしくは、御旨、行動、戦いです。御旨すなわち城壁から始めることにします。ネヘミヤが修理しようとしていたこの城壁が何を表しているのかについて――この城壁が何を象徴しているのかについて――私たちはよくよくはっきりしていなければなりません。この城壁について、この城壁が過去と現在において実際のところ何だったのかについて、前置き的なことを三つ述べさせてください。

まず第一に、城壁は境界線でした。つまり、城壁は境界を定めたのです。境界線とは、つまり、霊的解釈を施すことです――神の御思いにしたがって現代における解釈を施すことです――何がキリストで何がキリストではないかを明確に定義づけることです。エルサレムの城壁は、ある地域、ある領域を定義していました。当初、そこに立って、こう宣言しました、「さて、この城壁、この境界線の中にあるものは、ある秩序、ある性格に属するものです。この中では、物事はこれこれでなければなりません」。もちろん、それは、言わばまさに中心にある宮によって特徴づけられていましたが、城壁が境界を定めるものだったのです。それについて詳しく述べる必要はありません。主の証しの回復と完成のためには、何がキリストに属しており、何がそうではないのかを、明確に定義する必要がある、とだけ言えば十分でしょう。事態はひどく混乱しています。この地上で、城壁は壊されており、多くの瓦礫があります。さしあたってこの瓦礫について取り扱うことにしますが、事実として――城壁があった場所に多くの瓦礫があったのです。今日、多くの人々は、何がキリストで、何がたんなる「キリスト教」なのかについて、明確な判断力・認識・理解を持っていません。福音的キリスト教では、状況はひどく混乱しています。明らかに、次のことが必要です。すなわち、キリストとは何かを明確かつ厳密に定義づけるものを再構成することです。そして、キリストがはっきりと理解・認知されるようになって、混乱・厄介な問題・混同を招くものがすべて排除されることです。

城壁は境界を定めるものでした。つまり霊的には、城壁はキリストの真の御性格を表すものなのです。数ページ前で述べましたが、私が述べていることの背後には、今は言い表せない多くの思いがあります。しかし、私は城壁について考えてきました――聖書全体にわたって城壁全般について見て、歴史上の城壁をすべて通り過ぎ、黙示録の最後にある偉大な包括的な城壁、新エルサレムの城壁に至りました。特に気づいたのは、城壁は内側にあるものの性格・性質を定義づけるものであるということでした。聖書の最後に出て来る新エルサレムの大きな城壁もそうではないでしょうか?その主な特徴――その栄光、美しさ、純粋さ――がその性格であると言えます。キリストの御性格こそが彼の証しの第一のものです。それが確立されて、とても明確に定義されなければなりません。

そして次に――これは違いのない区別であるとあなたは思うかもしれませんが、違いがあるのです――城壁は境界つまり区別を表していました。ここでは物事は全く混ざり合っていません。この城壁は次の事実を宣言し、確立するものです。すなわち、この証しは独特な証しであるという事実です。それは一般的なものではありません。それはあらゆる種類の異なるものに帰着するものではありません。それは明確であり、独特です。それは一つのことを告げます。その一つのこととは、「キリストに属するものだけが、これを通過でき、この中にとどまれる」ということです。

さて、これはとても、とても心を探ることであり、とても興味深いことです。先に進むにつれてわかるようになりますが、このネヘミヤの兄弟であるハナニは最終的に警官になりました。そして、彼は警官として、侵入者や商人に対処するために門を警護しました――多くの商人がイエスの証しの中に入ってきます。彼らは自分の利益を追求し、自分自身の仕事をし、神やキリストの領域の中にあらゆる種類の商品を持ち込みます。この城壁は、「だめです!」と告げました。この書を最後まで読むと、ネヘミヤと彼の警官が商人たちにどう対処したのかがわかります!彼らはそんなことを一切許しませんでした――彼らを追い払い、商人たちに対して強硬手段を用いました。しかし、彼らが行ったことは、主イエスが当時の商人たちに編み紐で行われたことにほかなりませんでした。簡単な言葉で述べると、城壁は尊いものと卑しいものとの間の区別を物語るものだったのです。これは広大な領域を網羅するものであり、神の霊に属するものと他の霊に属するものとを大いに区別するものです。

そして第三に、この城壁は防御するものでした。それは言わば、責任ある立場に置かれたものでした。それには、主の権益と主の民を、侵入しようとするもの、攻撃しようとするもの、堕落させようとするもの、その性格を変えようとするものから守る責任がありました。主は証しを必要としておられます。その証しは、すべてに対して課題を突き付けるものであり、主に全く属しているわけではないものを一切通さないものです。ここで教会、神の民は、主の権益に関して道を誤ったのです。主に属していない多くのものが忍び込んで、場所を得ることを許されてきました。それに対処するための、主に属するものに対する十分強力な証しがなかったのです。

また、新約聖書を見ると、最初に霊の城壁が築かれた時、それは聖霊の力によってとても強力かつ明確なものだったので、当初、あえて加わろうとしない多くの人がいたことがわかります――彼らはあえて加わろうとはしませんでした。恐れていたのです。神との関係がうまくいっていない心の中に、恐れが生じるような状況だったのです。他方、加わった人々は顔を伏せて、「神があなたたちのただ中におられます」と言いました。主はそのような証しを必要としておられるのではないでしょうか?――あまりに明確で、あまりに強力なため、主に対して真剣でない人々は恐れをなして、通常の表現で言うと「立ち去る」ほどのものを、主は必要としておられるのではないでしょうか?「彼らは出て行きました(中略)それは、彼らが私たちのものでないことが、明らかになるためです」(一ヨハネ二・十九)。これはとても健全な兆候です。これが起きる時、状況は良い状態にあります。ああ、確かに、しかし状況が悪い状態の時、あなたはだれかを失うことを恐れます――だれであれしがみついてしまいます。主は言われました、「だめです。だれかにしがみつこうとしてはなりません。だれかれかまわず引き込もうとしてはなりません」。この証し、この城壁は、よろずの人や物から守り、保護するものなのです。ネヘミヤの時代のエルサレムにとって、それがどれほど必要だったことでしょう!この書全体がそれを示しています。この別の人々を見て、この城壁がトビヤやその群れの残りの者たちにとってどんな意味を持っていたのかを見てください。彼らはこの城壁が意味するところを知っていました。自分はその中に入れないことを知っていたのです。

さて、これが城壁が第一に意味することです。しかし、この問題についてもう少し進むことにしましょう。この城壁はキリストの二つの面を表しています。一方において、それはこの世の人々や諸国民に対して外面的に示されるキリストを表しています。他方において、それはキリストが主ご自身の民にとってどのような方なのかを表しています。一言で言うと、この城壁は神の御子に対する全き証しです。神の御子がこの世界で世人と神の民にとって何を意味しておられるのかについての全き証しなのです。

城壁を修理する必要性

ここで、意味を誤解されないように、一言述べる必要があります。ネヘミヤは城壁全体を基礎から造り直したわけではありません。よく見ると、行われていたのは城壁の修理だったことがわかります。壊されたものを修理して完全なものにしていたのです。なぜ私はこれを述べているのでしょう?この城壁を基礎から築くことを、私たちは命じられていませんし、そうするよう召されてもいないからです。神に感謝します、その基礎は据えられています。神に感謝します、城壁は最初に築かれました。使徒行伝は、この城壁、この証しを示しています。それは完全・完璧であり、栄光と力と壮大さの中にあります。強力な防御であり、諸国民にキリストを力強く啓示するものであり、彼ご自身の民にキリストの意味を力強く示すものです。これが最初にありました。ネヘミヤがやって来たのは、これを始めるためではありません。かつては完全で、明確で、完璧だったものが破壊され、廃墟と化している現場に、ネヘミヤはやって来ました。彼の任務はそれを修理して再び完全なものにすることでした。これが私たちの任務です。もし私たちがなにかに召されているとするなら、これに召されているのです。私たちは、使徒たちがしたことをするよう召されているわけではありません。彼らは自分の働きをなし、その働きは残っています。しかし、彼らの時代以降、ネヘミヤの時代の状況を物語るものがたくさんありました――崩壊、破壊、瓦解、荒廃の状況が多くありました。かつて存在していたものを回復するよう主は求めておられます。これこそが、確かに、私たちが召されている働きです。

ですから、私たちはまず、壊れた城壁に目を向けます。こう記されています、「私は彼らに言った、『あなたたちは、私たちがいる悪い状態を見ている。エルサレムは荒廃し、その城門は火で焼かれている。来て、エルサレムの城壁を建て上げ、これ以上私たちがそしりを受けないようにしよう』」(ネヘミヤ二・十七)。この最後の言葉は本質を突いているのではないでしょうか?神・キリスト・私たちの主の証しの大敵が、主の御名をそしることを絶えず唯一の目的としているのを見てください――なんとかして、あらゆる手段を尽くして、直接的攻撃によって、あるいは狡猾な隠れた働きによって、なんとかして主の御名と証しをそしりの中に陥らせようとしているのです。「これ以上私たちがそしりを受けないようにしよう」。神の民を支配するなんという動機でしょう。主とその民をこの崩壊状態によるそしりから救うのです!

偶像崇拝がこの崩壊状態の原因である

回復に移る前に、この状況を招いた根本的・究極的理由を検証・追跡しなければなりません。この書とそれに至る他の諸書に出て来る絵図から、手がかりが得られます。この問題全体の根幹を突く一つの言葉があります。それは偶像崇拝です。廃墟と瓦礫の中にあるこの城壁を見るなら、黙想・熟考して、「なぜでしょう?これはなぜでしょう?こんなことになるとはどういうことでしょう?この状況の理由は何でしょう?」と問うなら――それに対する包括的・根本的答えは――偶像崇拝です。

イスラエルの偶像崇拝のゆえに、その国民は偶像崇拝の中心地に送られてそれから癒されたことは、実に印象的ではないでしょうか?バビロンは偶像崇拝の世界的中心地でした――大きな像が設置されたことからあなたはこれをご存じでしょう。さて、イスラエルは自分の内に偶像崇拝を許していましたが、主はイスラエルを偶像崇拝の世界的中心地に送って、偶像崇拝を癒されました。確かに、これは印象的です。これはまさに次のことを意味します。すなわち、時として、主の治療法は、私たちがもてあそんでいるものを過度に与えることなのです。彼らは渇望して、もてあそびました。預言者たちは叫び、嘆願し、泣き、訴え、苦悩しました。人々がこのようなものと手を切って、周囲の異教の国々の神々をもてあそぶことをやめるよう、嘆願しました。しかし、彼らはやめようとせず、偶像に傾倒しました。「よろしい」と主は言われました。「あなたたちが求めているものを得なさい――ふんだんに得なさい」。そして、確かに彼らはそれをふんだんに得ました。すると、それによってイスラエルは、その後ずっと、そういった形の偶像崇拝から癒されたのです。それによって彼らは偶像崇拝の霊から癒された、と私は述べているわけではありません。これについては後で見ることにします。しかし、悪の勢力に公然と加担する形の偶像崇拝は、彼らが心から求めていたものが与えられたことによって、滅ぼされたのです。

ある法則の働きの極端な例として、次のようなものがあります。詩篇の作者は荒野におけるイスラエルについてこう述べています、「彼は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らの魂の中にやせ衰える病を送られた」(詩篇一〇六・十五)。彼らは手放すことを拒みました。彼らは欲しがったのです。神の「ノー」の前で「イエス」と言ったのです。「それを得ることにします」。「よろしい」と主は言われました――そして、彼らは得たことで敗者になりました。

今も、ご存じのとおり、この原則は働いています。それは今日働いていないという確信は私にはあまりありません。教会の中で、キリスト教の中で、この世が地位を得ています。神の教会はこの世に出て行って、この世を取り込みました。教会はこの世の霊と結託しています。この世がキリスト教の中で大きな地位を得ています。このような言い方をすることを私は望んでいませんが、私たちは大いに忠実でなければなりません。おそらく、まったく気づかれていませんし、まったく認識されていませんが――神はそうであることを認めておられます――福音的キリスト教の中にすら、世の原則がたくさんあります。神の働きを行うために、霊的でないもの――名前、肩書、能力など――がたくさん持ち込まれています。好意を得るために、利益を得るために、密かに結託しています。こうした一切のことの背後には、別の霊――偶像崇拝の霊――があります。それが主の民を支配しています。さて、何が起きたのでしょう?主は、教会が望みのものを得るようにされました。そして、今日、教会はその力を失い、その地位を失ったと感じています。この世があまりにも大きな地位を得ているからです。得ることによって教会は敗北しました。これはきわめて明白ではないでしょうか?

この原則は働いています――注意してください、もしあなたの心がなにかに向かっていて、主からの「ノー」を受け入れようとしないなら、この原則は個人的にも働くでしょう。あなたが固執するなら、あなたはそれを得るでしょう。あなたが主を脅迫して――たとえ脅迫の形を取っていなかったとしても――「主が自分にこれを与えてくださらないなら、あるいは自分のためにこれをしてくださらないなら、私は前進できません」と言うなら、もしそういったことを言うなら、主はそれをあなたにお与えになるでしょう。あなたがそれを得るようにされるでしょう。それはあなたにとって呪いとなるでしょう。アブラハムはイシマエルのことでそうしました――なんという呪いでしょう。原則があることがわかります。さて、要点はこうです。この人々は偶像崇拝の霊もしくは原則が、自分の生活に入り込むのを許しました。主は預言者を通して「早く目覚めよ」と嘆願されました。しかし、彼らは預言者の声に耳を傾けることを拒みました。そこで主は言われました、「よろしい、欲しいものを得なさい――遠くバビロンに行きなさい!」。彼らはすべてを失いました。

偶像崇拝とは何でしょう?木や石でできている偶像にひれ伏す以外に、それは多くの、多くの巧妙な形を取ります。そして、多くのとき、間接的な形を取ります。それは、神に取って代わるもの、神の道に割り込むものに思いを馳せることです。なんと広大な領域をこれは網羅することでしょう!その影響の結果、最終的に、主は妨げられ、妨害され、求めているものを得られなくなります。これが偶像崇拝の原則です。それは主に取って代わり、主に困難をもたらします。

前に述べましたが、イスラエルは偶像崇拝の外面的形式からは癒されましたが、偶像崇拝の原則・霊は根絶されませんでした。というのは、私たちの主の時代、人々は伝統を礼拝していたからです――伝統は偶像になるおそれがあります。そうです、伝統は偶像になるおそれがあります。伝統に傾倒・熱中するあまり、主に機会を与えられなくなることがあります。それは主の道を妨げます。まるでネヘミヤが通れなかった瓦礫のようです――彼が乗っていた動物はその瓦礫を通れませんでした。多くのとき、主の道を阻む瓦礫は、死んだ伝統、死んだ歴史という瓦礫であり、過去のものであって今では生きていないものです。これが偶像崇拝の原則です。これが、城壁が崩れて残骸・瓦礫・ごみと化した根本的・究極的原因でした。偶像崇拝とは、主に属していないものと心で結びついて交わることなのです。

このネヘミヤ記は、悪い状態、悪や誤りで満ちていること、そして、これらの事柄は城壁の状態に対応していることを覚えておいてください。私は再びこの点に戻って来るでしょうが、あなたにこれを理解していただきたいと思います。この城壁を見て調べると、言わば、向こう側を覗くことができます。そして、向こう側を覗くと、主の民の状態が城壁の状態とぴったり一致していることがわかります。あらゆる種類の不正・悪・誤りがあります。それは瓦礫であり、崩壊した状況です。民の状況は城壁の状況と一致していることがわかります。城壁は霊的状態の絵図にほかなりませんでした。ですからこの城壁を「通して覗く」と、自分が扱っているのは実際には城壁ではなく霊的状態であることがわかります。ネヘミヤは、進み出て城壁に取り組んだとき、人々の霊的状態にも同時に取り組まなければならないことに気づきました。それらは一つの同じものだったのです。美しい城壁を建て上げても、その城壁の背後の状態がそれに見合ったものでないなら、事実上、馬鹿げたことだったでしょう。この二つ――霊的状態とあなたの証し――は一致していなければなりません。証しの背後にはある霊的状態がなければなりません。ある霊的状態が証しを支えていなければなりません。真理のエネルギーの中にないものの建造に取り組むことはできません。

私たちはさらに、この城壁が何を意味するのか、そして、この城壁が何でできていたのかを、見ることにします。しかし、さしあたって、主よ、ご自身のビジョンの中に、ご自身の御旨の中に私たちを導き、力をもって私たちを力づけてください。その力は、ご自身の僕であるネヘミヤやパウロ、それに他の多くの人々が持っていたのと同じ力です。主は彼らを用いてさらに優った御子の証しを回復してこられたのです。