第三章 根本的な問題である礼拝

T. オースチン-スパークス

私たちは、ネヘミヤの発言のある句が示している点に専念しています。彼は、敵が狡猾に、自分を陥れるために、どこか遠く離れた場所で会うように誘った時、こう言いました、「私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません」。この言葉を「大きな働き」と短縮することにします。なぜなら、このネヘミヤ記は神の大きな働きを図式や歴史的絵図によって示しているからです。ネヘミヤは、この章のまさに冒頭で見たように、神が自分の心に置かれたことをだれにも告げなかったと述べています。後に彼はそれを明かしましたが、彼が述べているこの大きな働きは、神が彼の心に置かれたものでした。

証しの城壁の再建というこの問題について話を進める前に、ここでとても重要な包括的挿話を入れたいと思います――それは特定の句や御言葉に基づくものではありませんが、全体を貫いているだけでなくその根底にもあるものです。つまり、礼拝です。

というのは、考えてみると、城壁によって境界が定められていたエルサレムは、まさに礼拝の問題を包括的・総括的に物語っているからです。確かに、エルサレムが存在したのはそのためでした。バビロンは、前に見たように、偽りの礼拝、偶像崇拝、神に属さないものの座であり、中心でした。エルサレムは、聖書の中では、それとは反対のものとして、常にバビロンに立ち向かいます。それは神礼拝のために立ちます。それは神礼拝の場です。ですから、このエルサレムの城壁は、神礼拝を包含しているものの絵図であり、それ自体が礼拝の絵図なのです。礼拝は、神との関係の歴史の中で最初のものであり、最後のものです。聖書には、世界が存在するようになる前、創造がなされる前に、礼拝が行われていたという記述があります――「神の子ら」が、世界が存在するようになる前に、神を礼拝していたのです。この神の子らが誰なのかはわかりません。しかし、そう述べられています。彼らは共に喜び歌い、主を礼拝しました。礼拝がそこにありました。礼拝がそこでなされていました。

次に、礼拝が創造における支配的要素として現れます。ご存じのように、アダムの基本的な罪は礼拝の断絶でした。そして、この問題がこの地上で覆された時、神は諸々の時代にわたる礼拝の全行程を開始し、ご自身に対する証しを維持されます。聖書に記されている最後のものの一つは、この宇宙的な神礼拝です。そしてエルサレムは、繰り返しになりますが、型や図式や歴史的絵図に関するかぎり、主の地上における礼拝の座です――ご自身への礼拝を維持する座です。私たちは、新約聖書によると、この経綸において、地上から天へと移されています。「天のエルサレムに、御使いたちの無数の衆群に(中略)長子の教会に」(ヘブル十二・二二~二三)来ています。これは礼拝です。天で再確立された礼拝です。

礼拝とは贖って神にもたらすことである

そこで、数分の間、この礼拝の問題について見ることにします。いま見ているように、ネヘミヤの働きはエルサレムの城壁を再建することでしたが、それは実は贖いの働きでした――状況を贖い、証しを贖う働きでした。それは贖いの働きでした。さて、よくご存じのように、贖いとは神にもたらすことです。「私たちを贖って神にもたらしてくださった」(黙示録五・九、欽定訳)――こう記されています。そして、礼拝はまさに次のことを意味します――すなわち、すべてを贖って神にもたらすこと、神に連れ戻すこと、神のために回復することです。そして、この力強い贖いの働きは依然として続いています――それは次のような意味においてです。すなわち、それはサタンとアダムの間に起きたことを通して被造物の中に入り込んだある種の自然な傾向や流れに対抗する、という意味です。贖いとは、ある傾向から回復することです。被造物の傾向は今や、常に下に向かっています。被造物のどの部分も、自然の流れは下向きです。あなたは毎日、なんらかの形で、それと戦っています。庭を持っている人ならだれでも、下降傾向から贖う働きが日々絶えず必要であることを知っています。医者や看護師ならだれでも、肉体の命の下降傾向と日々戦っています。肉体の世話をしないかぎり、「対抗措置」を講じないかぎり、自然に下降線を辿って、劣化することになります。それで、医療従事者は自分たちの領域で贖いに取り組んでいます。このように、あらゆる領域に進んでいくことができます。なぜなら、どこであれ、なんであれ、自然な道は――衰退だからです。

これが自然界や物理界に言えるとするなら、霊界についてもどれほど言えることでしょう。聖書は次の事実を包括的に啓示するものです。すなわち、天からの対抗力がなければ、すべてが下降する、という事実です。何度も、何度も、何度も、こうした下向きの動きが生じるのを、私たちは聖書の中に見ます――衰退、退化が生じて、神はそれに反応されます。その流れから贖うためであり、贖ってご自身にもたらすためです。礼拝は、ですから、すべてを贖って神にもたらすこと、事物に神の意味を与えることを意味します。

礼拝は動機の問題である

宗教はひとまず置いておいて、少しの間、礼拝の初歩的要素について考えてみましょう。宗教的な体系や形式が何もなくても、礼拝は続きます。それがまさにその中に根付いています。礼拝の基本的要素とは何でしょう?それは、人生を動機づける要素にほかなりません――つまり、生きる価値であり、生きがいです。だれもが陥るおそれのある、最低の、最も悲しい、最も悲劇的な状態は、人生への興味をすっかり失ってしまうことであり、「今や生きる目的は皆無です。生きる目的は何もありません」と言うようになることです。これより低い状態はありえません。人生を諦めています。人生になんの価値もありません。この生きがいこそが礼拝の原則です。それは生きる動機であり、生きる目的であり、世界中にあります。ただし、人々がもはや関心も動機も失って、すでに人生を諦めてしまっている悲劇的な世界は別です。それこそがだれにも臨みうる最も悲しく、最も恐ろしいことだと言えます。そのような状態がはびこっていない所では、礼拝はまさにこれです。すなわち、生きる目的であり、生きがいなのです。これが礼拝の原則です。

さて、これをもっと広い、もっと高い領域に適用してみましょう。そこでの生きる目的は何でしょう?最大の生きがいは何でしょう?そこで礼拝をそのあるべき所に置くとき、礼拝は次のようなものになります――「なんと、人生を正当化し、人生に意味と価値と生きがいを与える最大のものは、主なのです!」。礼拝されるべきものとしてのこの世ではなく、この世の王国でもなく、この世の君やこの世の神でもありません。主こそが価値ある方であり、人生で最も価値ある対象であり、私たちの存在に全き意義を与えてくださるのです。それゆえ、彼は完全な地位、中心的な地位を占めておられます。常に主が目的となります。

礼拝とは、どこかの教会の建物に毎週、おそらく一回か二回行って、いわゆる神礼拝に参加することではありません。それは礼拝ではありません。たんなる空虚な形式かもしれません。神を助けようとすることかもしれません。実際にまったく欠けているかもしれません。礼拝は一生の問題であり、週の問題ではありません。また、四半期に一度の「四半期交友」では決してありません。また、教会の大祭日――イースターやクリスマス等――に行われるものでもありません。礼拝とは、人生を主のためにささげることです。すべての瞬間、すべての時間、すべての日、すべての週、すべての年――それはみな主のためにあります。これが礼拝です。私たちが、朝、最初に考えるのは主のことであり、夜、最後に考えるのは主のことです。日中の時間、多くのことを考え、手ずから行っていたとしても、神へと贖われた者の背後には、常に神に向かって手を差し伸べているなにかがあるのです。

そのような人たちの生活は、礼拝の祈りです。彼らは、常に言葉を述べているとはかぎりませんし、常にひざまずいているとはかぎりません。また、常に集会の中にいるとはかぎりません。しかし、彼らの背後から、言わば、なにかが主に向かって手を伸ばしています――彼らは主を慕っています。エルサレムの栄光の時代、イスラエルの人々は、エルサレムから遠く離れていても、エルサレムを慕いましたが、それと同じことが彼らにも言えます。「ああ、あの場所に行きたい、祭壇がある所、神がおられる所、礼拝の場所に!」。彼らはそこを慕いました。離れているときは、決して満足できませんでした。彼らはこの真の原則を表しました。バビロンにいた時、その心がエルサレムにあったこのレムナントたちは嘲られました――バビロン人たちに嘲られました。「私たちにシオンの歌を一つ歌え」(詩篇一三七・三)。「私たちにエルサレムの民謡を一つ歌え」。「柳の木に(中略)私たちは竪琴をかけた(中略)私たちは異国の地で、どうして主の歌を歌えよう?」。彼らはそこに行くことを願いました。引き寄せられていました。私たちはこれを霊的に理解すべきです。私たちのエルサレムは、この地に焦点づけられたものではありません。むしろ、私たちは絶えず主に向かう気風を帯びていてしかるべきです。「自分の生活の中で、さらにどれだけ主が増し加わることが可能なのか?」と問う気風です。

このネヘミヤ記をこのような光の中で読むなら、それはあなたにとって全く革命的なものとなり、驚くべき光を放つものとなるでしょう。ネヘミヤは、遠く離れたバビロンで、主を大いに切望するところから始めました。彼はエルサレムに来て、状況を把握し、これは主の誉れに反すると嘆きます。泣き、祈り、仕事に取りかかり、他の人々を引き寄せます。どんな代価を払ってもこれ――主への証しを十分かつ完全に興すこと――を完成させるまで休みません。これはすべて礼拝の精神です。これに加わった人々――彼らの働きについてはこれから述べることにします――には働く気がありました。喜んで働く意欲がありました。しかし、それは礼拝の精神だったことがわかります。彼らは、彼らなりの方法で、パウロがローマ人への手紙の中で、「兄弟たちよ、私は神のあわれみにより、あなたたちにお願いします。あなたたちの体を、聖なる、神に受け入れられる、生きた供え物としてささげなさい。それが、あなたたちの霊的な礼拝です」(ローマ十二・一、アメリカ改定訳)と述べているところを果たしていたのです。彼らは自分の体をこの働きにささげました。その動機は霊的礼拝でした。礼拝は、ですから、ある動機から発するのです。

主は礼拝に基づいて近づかれる

さて、これこそまさに聖書の分岐点です。神が人を造り、ご自身との交わりの中に招かれた時、すべては主のためでした。人には、主以外に生き、働く目的がありませんでした。それはとても麗しい状況でした。人と主だけでした。主は夕方の涼しい頃に来て、エデンの園を歩き、ご自身が造った人々を迎え入れられたように思われます。彼らの生活と働きの中には喜びがありました。主はこれを喜ばれました。聖書が絶えず示しているように、主は礼拝の状態にある人々を喜び、近づかれます。つまり、人々の心がご自身に向かっているとき、主は近づかれるのです。そうでないときに主が近づかれることは、裁きの時でないかぎりありません。しかし、主が恵みと恩恵をもって来られる時、それはその心がご自身に向かっている人々がそこにいるからなのです。聖書に示されているように主が園の中に来られたのは、その心がご自身に向かっている人々がそこにいたからであり、ご自身を満足させるものをそこに見いだされたからでした。主イエスが地上におられた時もそうでした。ご自身に対して心を開いている人、ご自身を受け入れる準備ができている人、ご自身の願いに答える準備ができている人がいる場所にいることを、彼は好まれました。だから、頻繁にベタニヤに行かれたのです。そこには主を求める心の持ち主がいました。そこには礼拝の精神がありました。

人類に対する悪魔の欺き

しかしその後、恐ろしい断絶が生じました。神から逸らすために、自分自身に向かわせるために、敵がエデンの園にやって来ました。しかし、どうやってでしょう?――これは認識するのが恐ろしいことです。敵は人自身の個人的利益を示し、人自身の個人的利益を第一とし、人に次のことを示しました。すなわち、人はなにかを所有できること――なにかを得られることを示したのです。その時までは、主が何を得られるのかが目的でしたが、今や、人が何を得られるのかという状況です。敵は狡猾・巧妙な形で働いていました。それは人を神から引き離して、自分自身に引き寄せるためでした。そして、人を自分と同盟させるためでした。彼は人を欺いて、「自分は利益を得ることになる」と思わせました。しかし、その間ずっと、利益を得ようとしていたのは悪魔だったのです。これが人類が陥った欺きです。人はなにかを得るために、楽しい時間、この世などを得るために、神から離れました。そして最終的に、自分は騙されたこと、悪魔がすべてを手に入れたこと――しかも自分を大安売りしてしまったこと――に気づきました。これは悲劇であり、詐欺です。しかし、要点は次のとおりであることがわかります。すなわち、それは、この利己主義、この自己中心性によって、神から遠ざけるためだったのです――そして、これによって礼拝が破られたのです。その時からずっとそうでした。この世は利己的な世であり、自分に引き寄せる世であり、神に地位を与えず、最初から最後までなにも神に得させない世です。そのような状況なのです。

しかし今、神はご自分の霊的なエルサレムを欲しておられます。主はそれが回復されることを願っておられます。そこでは、人々は自発的に、喜んで――歓喜して――すべてを主にささげます。人々は主を喜びます。私たちの主イエスはこの原則を体現されました。「ああ、わたしの神よ、わたしはあなたのみこころを行うことを喜びます」(詩篇四〇・八)。彼の喜びは主にありました。彼は天のエルサレムの精神の真の体現者です。天のエルサレムでは、すべてのことが、束縛されることなく、心を込めて主に向かって行われるのです。

二心

さて、私たちが今回見ているように、廃墟となって崩れているこの城壁を見てください。そうするなら、あなたは今一度こう言うでしょう、「この状況はどうしてでしょう?この悲劇的光景はどうしてでしょう?それを見た人がみな、頭を振ったり、ため息をついたりするのは、どうしたことでしょう?かつてはとても輝かしかったものがこんなことになるとは、何が起きたのでしょう?これはどうしてでしょう?」。その答えは次のようなものです、「彼らは主を礼拝することから離れ去ったからです。主に尽くすことがまさにエルサレムの存在目的だったのに、それが損なわれてしまったのです。他の礼拝対象に心と生活を奪われてしまったのです」。そうです、主はお怒りになりました。そのため、神の目に、エルサレムが存続すべき理由はなくなりました。神はエルサレムを存続させる理由を見いだせませんでした。それで、それを滅びに渡されたのです。これはそのはずではありませんでした。

これが、多くの弱さの理由ではないでしょうか――そうです、私たちの生活や教会全般、主の名を帯びているものの中にある弱さの理由ではないでしょうか。敗北し、挫折しています。主の臨在のしるしに欠けており、主が喜んでおられるしるしにも欠けています。二心なのではないでしょうか?差し控えているものが生活の中にあるのではないでしょうか?結局のところ、心の奥底で自己の原理が働いているのではないでしょうか?そうではないでしょうか?私は裁いているのではありませんが、私たちの心の欺瞞性をよく知っています。心は確かに「すべてのものにまさって偽るもの」(エレミヤ十七・九)です。往々にして、自分がしていることは主のためであると思っている時でも、自分自身それを大いに喜んでいるのです。そして、主への奉仕で、個人的な喜びの要素が差し控えられたり、隠されたりすると、私たちはとても嫌な思いをします――結局のところ、それはどういうわけか自分のためだったのです。確かに、そのような有様です。内省的になりすぎてもいけませんが、私が言わんとしていることはおわかりでしょう。主は心をご覧になります。そして、心が全くご自身に向かっているのを彼が実際にご覧になる時、混ざり物や、他の神や、他の関心がないのをご覧になる時、主はその人に、そのエルサレムに、ご自身をお委ねになるのです。ご自身にささげ尽くしている所に、主はご自身をお委ねになります。これが礼拝です。

さて、サタンが神から遠ざけたり逸らしたりするための立場は、様々な形を取るこの惨めな自己の命であることがわかります。それに対して、神の立場――そこに神は宿営して、ご自身をお委ねになります――は、ご自身という立場です。神がご自身をお委ねになるのは、ご自身にであって、他のだれでもありません。主がここにおられるなら、主が全く、完全に、徹底的に、ご自身の地位を占めておられるなら、すべて主にささげ切っているなら、主はそのような立場にご自身をお委ねになります。私たちの立場ではなく、決してサタンの立場でもありません。ご自身にお委ねになるのです。もし主に味方するなら、主はご自身の味方をされます。それは全く安全であり、それ以外のものは全く安全ではないことに、私たちは皆同意するでしょう。主が唯一安全な立場であり、この立場に基づいて彼は自ら働き、臨在することができるのです。

主を求める気質

さて、この動機についてもう一言述べて、終わることにします。使徒は、ローマ人への手紙十二・一~二の礼拝に関する偉大な言葉の中で、続けてこう述べています――この御言葉を読むのを途中でやめてはいけません――「……これがあなたたちの礼拝です。そして、この時代にしたがって、かたどられてはなりません。むしろ、思いを新しくすることによって造り変えられなさい」――心を「新しくする」ことについて述べられています。「心の持ち方」が礼拝の原理であり動機です。私たちは何を思っているでしょう?全く主を思っているでしょうか、私たちの「思い」は全く主に向かっているでしょうか?「思いを新しくすることによって造り変えられなさい」――あなたの思い、傾向、気質は、いわゆる堕落においてアダムによって生じたものとはまったく異なる、新しい気質へと至るのです。

神に感謝します、これは真実です。おそらく、これは自分が理解・認識している以上に真実であることもたびたびあります。私が思うに、私たちは往々にして、自分自身に関して真実ではないことで悩み、困惑します。自分自身に関して真実ではないことを考えています。もちろん、自分が罪になびきやすいことはわかっています。自分の肉の中にある悪はわかっています。自分がいかに邪悪であり、いかに価値がないかといったことは、みなわかっています。しかし、その後、私たちは度を越してしまいます。私はあなたにお尋ねします。たとえ全く無価値で、全く罪深く、自分の肉の中にあらゆる邪悪さがあったとしても、結局のところ、私たちには主を求める心があるのではないでしょうか?自分は大失敗した、間違っている、と私たちは感じます――そうなのですが、私たちには主を求める心があります。それはどこから来たのでしょう?昔は、私たちに主を求める心はありませんでした。そのような気質、傾向はありませんでした。しかし、なにかが私たちの奥底で起きました。私たちのあらゆる弱さ、強情さ、欠点、愚かさ、罪よりも強力ななにかが起きました。私たちが間違いを犯すたびに、ある反応が生じて、私たちを嘆き・悲しみ・失望のうちに、切望のうちに、主のもとに送り返します。そして、主を見いだすまで、私たちは再び幸いにはなれません。

この気質は何に由来するのでしょう?それは彼の御業です。これが礼拝の基本です。これに基づいて、彼はすべてを獲得されます。ですから、あまり落胆しないようにしましょう。私が、「自分の罪深さや愚かさを大目に見て、それらに所を得させよ」と述べているとは、あなたは決して思わないでしょう。しかし、次のことは輝かしい事実です。すなわち、これがみな真実であって、サタンは私たちに関して悪いことをたくさん告げることができたとしても、私たちは以下のような詩歌の言葉で返答することができるのです:

私はそれをみな自覚しています、もっとたくさん自覚しています。
しかし、エホバはなに一つご覧になりません。

私たちはあらゆる訴えに立ち向かって言うことができます、「それでも神は私の内になにかをしてくださり、私の心をご自身に向けさせてくださいました。私のあらゆる失敗にもかかわらず、私の心は彼に向かっています。私のあらゆる挫折にもかかわらず、私は主のためにあります」と。こうして私たちは進み続けます。この精神により、この礼拝の法則により、ひたすら燃やされます。そして最終的に、彼ご自身、ただ彼ご自身の他、御前になにも残っていないことに、私たちは気づきます。

これは単純な言葉ですが、これが、結局のところ、エルサレムに関してここに示されていることの根底にあるものです。城壁の再建というこの問題の詳細について述べるべきこと、あるいは述べうることは、すべて礼拝という土壌に根ざしています。このエルサレムは地上で賛美となるべきものであり、神の栄光を告げるべきものです。それはすべて彼の栄光と誉れを証しすべきものです。そのためにエルサレムは存在するのであり、そのために霊的な天のエルサレムに属する者である私たちは存在するのです――その目的とは、すべてを主に連れ戻すこと、彼の御心を満足させること、彼が満足される証しを建て上げることです。