第四章 復活の原則

T. オースチン-スパークス

「……塩は制限なく与えよ」(エズラ七・二二)。

「あなたたちは地の塩である。しかし、もし塩が味を失えば、何によって塩味をつけるのであろうか?もはや何の役にも立たず、ただ投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである」(マタイ五・十三)。

「塩は良いものである。しかし、もし塩が塩味を失ったなら、何によって塩味を取り戻すのだろうか?自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコ九・五〇)。

ネヘミヤ記に戻ることにします。そして、ネヘミヤの霊感による指導の下におけるエルサレムの城壁の再建に関して、この働きが示しているもう一つの包括的な要因を見てみたいと思います。私たちは主の証しの回復について話しています――行うよう神が彼の心の中に置かれた「大きな働き」とネヘミヤが述べたものについて話しています――そして、この回復の積極面について考えるとき、他の働きをすべて含む、一つの偉大な回復の原則がわかります。それは復活の原則です。あまり深く考えずともわかることですが、エルサレムの破壊された城壁の再建は復活の証しと一致します。また、これがいかにイスラエルの歴史と「一致」しているのかがわかります。というのは、私たちは次のことを理解しているからです――そう言えると私は信じています――すなわち、この城壁はこの民の霊的歴史を象徴するものなのです。この城壁はこの民の状態を表すものにほかなりません――霊的に崩れていて、多くの隙間があり、完全・完璧なものはなにもなく、十分に満足できるものもなにもなく、それゆえ、神に栄光を帰すものはなにもありません。

前に指摘しましたが、ネヘミヤはマラキと同時代の人でした。そして、マラキの預言は当時の神の民の霊的状態について、とても恐ろしくはあるもののとても明確な記述を与えています。ですから、民の状況を示すこの城壁は、復活の必要性をとても明確に示しているのです。イスラエルの歴史では、繰り返しその必要性が訴えられてきました。しかし、まさにこれに関連してあなたは次のことを思い出すでしょう。すなわち、捕囚の先を見据えて、大預言書の著者たちは、彼らの帰還を復活として述べていたのです。たとえば、エゼキエルは、捕囚を十分に視野に入れつつ、主に命じられたように、この民に向かって叫びました、「見よ、わたしはあなたたちの墓を開き、あなたたちを墓から引き上げる」(エゼキエル三七・十二)。そしてこの偉大な絵画的たとえ――枯れた骨の谷――は、捕囚後・放浪後のイスラエルに関する復活の問題をまぎれもなく示しています。ですから、バビロンからエルサレムへのレムナントの帰還と、城壁の建設・再建は、復活に関する預言の成就なのです。とはいえ、その成就は現世的・地的なものであり、とても不完全なものです。さらに大々的な成就はまだ先のことです。

しかし、ここで重要なのは――それは復活の問題である、ということです。捕囚は第一に裁きです、罪に対する裁きです。それゆえ、死がそれに続いたことが示されています。なぜなら、死は裁きに続くものであり、イスラエルは死の中に、墓の中に陥ったことが示されているからです。彼らの流浪は霊的墓の性質を帯びたものでした。死とは何か、と問われるなら、それは神から遠ざけられることであり、神から分離されることです。彼らの場合もそうでした。彼らは、神が彼らと会うために定められた場所を離れました。主から離れました。裁きによって主から遠ざけられることがまず意味するのは、それは間違いなく死であるということです。

地のエルサレムの復活

さて、神がご自身の証しの一部または大半を回復するために再び動かれる時は常に、そのような動きは必ず、復活に固有のもの、つまり命の新しさという印を帯びていました――あるいは、別の言い方をすると、死に対する勝利という印を帯びていました。これは常にそうでしたし、今も常にそうです。より豊かなご自身の証しに関する神の動きは、常に復活の性格、新しい命の性質を帯びています。

エルサレムの歴史的記録を見ると、この都は何度も包囲され、蹂躙され、破壊されてきたことがわかります。エルサレムが地上の都として存続していること自体、奇跡としか言いようがありません。この世に関するかぎり、エルサレムよりも遥かに偉大で栄光に満ちた大きな都が他にもいくつかあります。たとえば、バビロン、カルデアのウルです。それに、ローマ等もあります。それらは偉大で強大な都でした。人の観点から見ると、エルサレムよりも偉大で強大でした。しかし、それらの過去の栄光に関するかぎり、それらは一度かぎり永遠に滅びてしまいました。バビロン――バビロンはどこにあるでしょう?ウル――ウルはどこにあるでしょう?一、二年前、私はカルデアのウルの上空を飛びました――何が見えたでしょう?何世紀も前の発掘物しか見当たりません。ローマ――今のローマは過去数世紀の偉大で栄光に満ちた帝都とは比べ物になりません。過去の栄光を物語る記念碑や廃墟で満ちた影にすぎません。これらの都は倒れて、かつてのように復活することはもはやありません。

しかし、エルサレムは――復活してきました。包囲され破壊された後、何度も復活してきました。これは、神――復活の神――はエルサレムに関心を寄せておられることを、きわめて明確に示しています。彼は、この世においても、俗世のエルサレム――人の観点からすると哀れなもの――を維持しておられます。エルサレムに住むことを実際に選ぶ人はだれでも、次のような印象を抱いていると思います――すなわち、神は、何度も死からよみがえらされたエルサレムを、より偉大な真理を示すたとえとして保っておられる、という印象です。

死に対する天のエルサレムの全き勝利

地のものから天のものに移る時、旧経綸――パウロがこの地上に「今ある」と述べている、あのエルサレムの経綸――を離れて、使徒が天にある「上なるエルサレム」(ガラテヤ四・二五、二六)と述べている別のエルサレムに、あるいはヘブル十二・二二によると私たちが今いるあのエルサレムに、あるいは最後に全き栄光の中で現れるエルサレム(黙示録二一・十)に移る時、私たちは何に移るのでしょう?死に対する全き勝利に移ります。なぜなら、その最後の天のエルサレムの中に、命の木と命の水の川があるからです。すべてが、死は完全かつ最終的に征服されたことを物語ります。ですから、回復された城壁は、歴史の中で立証され、霊の領域で栄光のうちに全く実現された、この偉大な真理のたとえ・絵図にほかなりません。これはある原則の記念碑です。その原則とは、神がなにかとまたはだれかとかかわられる時、真にかかわられる時、あるいはそれらが神とかかわる時、その印は復活――命の新しさ――であるというものです。それは命になります。命による証しは、回復されたものとしてこの地上で表される証しであり、ネヘミヤの時代を霊的に特徴づけていた多くの特徴を帯びている私たちの時代にまでその光を投じます。神は再び動かれます――神は再び動いておられる、と言ってもいいのではないでしょうか?――それは新たな形で、ある人々の中に、彼ご自身の命の不滅性に対するこの偉大な証しを生じさせるためです。「彼の命は、時として死に下り、飲み尽くされ、圧倒されるように思われたとしても、再び復活する」と告げるものを生じさせるためです。この命が完全かつ最終的に滅ぼされることはありえません。命による証しです。それは神の御業に対する証しです。これが要点です。

復活は神の専権事項である

これまでたびたび述べてきましたが、復活は神の専権事項です。私たちは、蘇生術の人工呼吸については多くのことができますが、復活についてはなにもできません。ひとたび死が訪れるなら、人の力も希望もすべて終わり、あとは神が行動されるか、あるいは無かです。神は復活の神です――それは彼だけの特権です。ですから、真に神の御業であるものはみな、不滅で不朽の命以外には説明のつかないこの印を帯びています。人からのものを超えたなにかがそこにあるのです。

時々、人が神の事柄の中に入り込みます――この書を読み進んでいくとこれを目にします――人が、神の証しに関連して、神のエルサレムにおける神の地位を奪うのです。そして、死が始まり、滅びがその過程を締めくくります。神はそれを死に渡されます。次のことを理解するのは厳粛なことです。すなわち、人が神の道を捕らえて割り込んだせいで、神は後ろに立って死に引き渡さざるをえなくなるのです。しかし、人がそうする時、裁きの火が働きます。このように神に介入した結果は自ずと生じます。その後、火の清めの働きが完了する時、神は戻って来て死からよみがえらせます。多くのものは次のような経緯を辿ってきました。神が開始されるのですが、一連の出来事の過程により後ろに立たざるを得なくなり、その後再び入ってこられる、という経緯です。

そして、個々のクリスチャン生活でもこうしたことが時々あります。神は、これ以上進めないことに気づかれます。神は可能なかぎり進まれました。今、彼は妨げられています。神に明け渡すことを拒む意志がそこにあります。神に明け渡そうとしないなにかがそこにあります。彼は後ろに立たれます。たとえ長い、長い年月がかかっても――荒野におけるイスラエルの四十年、捕囚の七十年を見てください、不毛で空虚で荒廃した長い年月がかかっても――主は諦めません。回復し、復興しようされます。再び入ろうとされます。そこに証しを持とうとされます。しかし、ああ、なんと厳粛な警告でしょう、主に抵抗することによって、命を失ってはならない、歳月を失ってはならない、取得可能な成果を失ってはならない、彼に対する有用性に関するかぎり不毛な死を経験してはならない、という警告は。神が行われたことは証しします、神が復活させるのは人が神のために行ったことではなく、神ご自身が行われたことである、と。そして、それ以上に――それは命による証しであるだけでなく、命の証しでもある、と。それは、神が行われたことであるだけでなく、神が行われたことを通して神が将来行われることでもある、と。神は器を起こして、それを生き返らされました。彼は復活した器を持っておられます――今、それを通して彼が何を行われるのかを見てください。

命の証し――それは確かに、「天から出て神から下って来る」究極的なエルサレムの輝かしい勝利です。エルサレムという名には、なんと波乱に満ちた歴史があることでしょう!しかし、今や、ついにその名に関して勝利がもたらされます。それが表示・象徴するのは、もはや敗北・失敗・悲劇ではありません。それは今や、神の勝利の象徴です。ここでついに死が勝利のうちに飲み尽くされます。そして何が起きるのでしょう?このエルサレムから命の水の川が流れ出るのです。諸国民はその恩恵にあずかります。その木は、その川によって潤されて、実を結び、その木の葉は諸国民の健康のためにあります。これが命の証しです。

すべては命で充満される

さて、一般的に命と称されているものと、神が意味されるところの命との間には、かなりの違いがあります。これが塩に関する節を読んだ理由です。私たちが話している命の中には、ある要素があります。用いる言葉を「命」から「生命力」に変えたとしても、それは表現を変えたにすぎません。それは表現の異なる同じ言葉ですが、ここでは有用です。この命の中には生命力に満ちた要素があります。そこにはなにか本当に刺激的なものがあります。私たちは時々、「刺激」的なものについて話します。そこにはなにかがあります。それに触れるなら、自分がなにか神秘的なもの、なにか生き生きとしたものに触れていることがわかる、積極的な要素があります。それが状況に触れるなら、それは効果を発揮します。なにかが状況に触れたことが感知されます。それは塩によって表されているこの要素です。

さて、聖書の中で、塩はとても興味深いものです。私たちがエズラ記から引用したことにお気づきでしょうか。もちろん、エズラはネヘミヤに先立ちます。エズラとネヘミヤは、同じ目的のために共に働いています。彼らは全体の中の一部です。エズラが主に行ったのは、宮の再建後の美化や、ある種の改革や、神の御言葉の回復でした。しかし、神は主権的に行動されました。エズラ記の冒頭には、「エレミヤの口による主の言葉を成就するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は彼の王国全体に布告を発した」とあります。王は、自発的に――法律や強制によってではなく、心から喜んで――エルサレムに戻ることを選んだ人々に、自由とあらゆる備えと便宜を与えました――王のこの素晴らしい備えの中に、次のような一文、次のような奇妙な一文が付け加えられていました。「彼らに銀、金、その他のもの、あれやこれやを豊かに与えよ」。そして、こうあります。「また塩は制限なく与えよ」。無制限の塩!

それは何のためだったのでしょう?塩は命の同義語であることがわかります。ユダヤ人やヘブル人の経済圏の外でも、塩は命の象徴としてほぼ共通して認識されていました。ある所では、人々は血によって契約を結びました。互いに血を流し、それを混ぜ合わせることによってです。それは二つの民、あるいは二つの共同体の間の血の契約でした。別の所では、人々は塩を取ってそれを混ぜ合わせて、塩で契約を結びました。しかし、この両者は同じことを意味しました。血と塩は命を意味したのです。塩抜きでは、どんないけにえも神に受け入れられませんでした。これが意味したのは、当時の人々の考えでは、神は死んだいけにえを決して受け入れようとはされないということでした。神にささげられるいけにえはすべて生きたものでなければなりませんでした。たしかに、動物は屠られ、どこから見ても死んでいましたが、塩はそれに立ち向かい、それが死んでいることを否み、それにあのなにかを、あの生命力に満ちたものを、それを生きたいけにえとするものを与えたのです。主イエスは、「あなたたちは地の塩です」(マタイ五・十三)と言われました。パウロは、「あなたたちの体を生きたいけにえとしてささげなさい」(ローマ十二・一)と言いました。「塩で塩漬けられる」は主イエスの句です(マルコ九・四九)。

「塩は制限なく与えよ」。これはネヘミヤの回復の証しの中にもありました。つまり、より豊かな命です。豊かな命です。これが、この生命力に満ちた要素が、主が求めておられる証しです。「あなたたちは地の塩です」。別の言い方をすると、あなたたちはこの死んだ世界でまさに命である、ということです。この地上にあるものはみな死んでいます――神に関するかぎりすべてが死んでいます――クリスチャンだけがこれを知っています。確かに、これを知っています。もし私たちが真に主のものなら、この世がどれほど死んでいるのか、周りはみな死であることを知っています――主は言われます、「そうした状況全体のただ中で、あなたたちは命です。この死に包まれた世の命です。あなたたちは世の命であり、地の塩なのです」。「塩で塩漬けられなさい」。「あなたたちの中に塩を持ちなさい」。「生きなさい」。表現を変えると、「生命力に満ちていなさい」ということです。

このような証しが回復されなければなりません――なにかが、鉱物の中にはない神秘的ななにかが、回復されなければなりません。というのは、本物と同じ見かけや外観をしていても、生命力に満ちた性質を失っている鉱物もありうるからです。「もし塩がその塩気を失うなら……」。いくら真似しても、口でなんと言おうと、外観がどうであれ、なにかがなくなりました。このなくなったなにかは、内側にあるべき証しがそこにはない、と告げます。このなにかを回復することを主は求めておられます。外側の枠組みではなく、見せかけの物でもありません――黙示録の中で、このような非難が教会の門前でなされています、「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録三・一)――このなにか、この神秘的ななにかがなかったのです。そのなにかは、主の民に関するものであり、神ご自身から発して、彼らの間における神の臨在を物語るものなのです。

旧約聖書における絵図

この絵図が旧約聖書の中にあります。エリシャとエリコの人々の例があります。ある日のこと、エリコの人々がエリシャの所に来て言いました、「この町の状況は良好です――見通しは良好です――しかし、水が悪く、この地は不毛なのです」(二列王二・十九)――これは死の印です。もちろん、その原因をあなたはご存じでしょう。エリコが滅ぼされた時、その上に呪いが宣告されたことは、覚えておられるでしょう。ヨシュアは言いました、「立ち上がってこの町エリコを建設する者は、主の御前に呪われよ。その基礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末子を失うように」(ヨシュア六・二六)。呪いの印である死が、その上に宣告されました。それから何年も経った今、その町の人々が来て、「この町の見通しは良好なのですが、その水には死が宿っています」と言います。成熟に至るものはなにもありません。「すべては空しく、悩ましいです」。失望しかありません。エリシャは言いました、「新しい壺を私の所に持って来て、塩をその中に入れなさい」。彼らは新しい壺を彼の所に持って来て、塩をその中に入れました。そして、彼が壺を空にして塩を水の中に注ぎ込むと、水は癒されました。死は塩によって滅ぼされましたが、塩は新しい器の中になければなりませんでした。これは復活――新創造における命の新しさ――です。

これに長い時間を費やすこともできますが、要点はおわかりでしょう。かりにエリシャが命の預言者だとすると――間違いなく彼はそうです、というのは、彼とその働きにまつわるものはみな、死を征服する命を物語っているからです――ここにその証しがあります。塩は死の力と、不毛さ・無益さ・失望の力とを滅ぼす命の象徴です。これは素晴らしい命です。「あなたたちは地の命です」。

他にも絵図がありますが、ここでは省略します。前の学びで述べましたが、エズラ記は神の主権を示しており、他方、ネヘミヤ記はその主権との人の協力を示しています。エズラ記に戻って、もしこの書が神の主権的活動を示すものであり、神は天から自ら行動しておられるとするなら、神は何をしておられるのでしょう?もし神がペルシャ王クロスの霊を奮い立たせ、クロスがこの布告を発し、その布告がクロスにおける神の霊の働きの結果だったとするなら、クロスが「また塩は制限なく与えよ」と述べた時、彼は神の主権に誘発されてそう述べたことになります。間違いなく、クロスは神の主権の道具でした。イザヤが彼のことをどう述べているのかはご存じでしょう。「主は彼の油塗られた者、クロスにこう言われる(中略)あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたを守る」(イザヤ四五・一、五)。神の主権の道具でした。そして今、この人は、神の主権の手の中で、「また塩は制限なく与えよ」と述べます。もし塩、生命力がなければ、他のものはみなほとんど意味をなさないでしょう。この要素が、言わば、全体に充満しなければならないのです。

神は、物事の枠組以上のこのなにかを求めておられます。それは名状しがたいものです。時々、あなたは蓄音機のレコードに記録された詩歌――見事な美しい詩歌――を耳にすることがあるでしょう。これらの詩歌は、二つの異なる種類の人々によって歌われるかもしれません。ある詩歌は、とても有能でとても芸術的な合唱団によって、完璧な技術と見事な芸術性、そして素晴らしい声とハーモニーで歌われるかもしれません。他方、他の詩歌は、専門技術や芸術性や標準的声質がさほどない人々によって歌われるかもしれません――しかし、救われている人々と救われていない人々の違いは常にわかります。一方は回心していない人々からなる教会合唱団であることがわかります。つまり、こういうことです――おそらく厳しい判断かもしれませんが――なにかが欠けているのです。素晴らしく、見事なのですが、なにかがそこにないのです。他方、この人々は救われている人々であり、主を愛し、主と関係をもっているので歌っていることがわかります。

さて、もちろん、この違いを見分けるにはクリスチャンである必要があります。しかし、違いがあるのです。あなたにはそれがわかりますし、あなた自身も聞いたことがあるでしょう。それはまさに塩です――この名状しがたいなにかによって、主との生き生きとした関係の中にある人々と、この関係を持たずに同じことをしている人々との間に、あらゆる違いが生じます。彼らには塩のような見せ掛け・外観・形体がありますが――そうなのですが、なにかがそこにありません。その塩には塩気がありません。私たちが欲しているのは、たんなる方法、精密な正しい教理、適切なキリスト教的実行・形式・典礼等々ではありません。必要なのは、これらのものがあってもなくても、この生き生きとしたなにかなのです。このなにかによって人々は理解します、「彼らは芸術家ではないかもしれませんし、とてつもなく有能な人々でもないかもしれません。また、素晴らしい能力を示す印をすべて帯びているわけでもないかもしれません。しかし、あなたは主に出会います。あなたの心に応える名状しがたいなにかを感じます。それこそ肝心なものなのです」。この証しを回復することが、あらゆる言葉、言い回し、形式、方法よりも重要です。新約聖書的な方法、新約聖書的な教会、キリスト教的な教理や実行があったとしても、依然として、印象的なこのなにかに欠けている大きなおそれがあります。そして、それこそ回復されるべき証しなのです。

ですから、この問題は命の問題であることがわかります。さて、これを得るために、神はしばしばとても厳しい措置を取らなければなりません。彼はそれ以下のものでは決して満足されません。他のものがどれほどあったとしても、それ以下のものでは満足されません。ですから、彼はそれを火の中に通す覚悟をしておられます。一時の間、それを手放されたかのように思われるほどです。ただしそれは、失われたものを回復する可能性がある場合の話です。彼は復活の神です。もしかすると、主は私たちの中の何人かをこの線に沿って取り扱っておられるのかもしれません。かつては今よりも多くの塩がありました。私たちの証しには今よりも刺激がありました。主は私たちを導いて困難な道を通らせておられるのかもしれません。あるいは、もしかすると、主が望んでおられる刺激が全くなくて、主はご自分が復活の神であることを私たちに教えようとしておられるのかもしれません――私たちは無力で、役に立たず、価値がないことを教えようとしておられるのかもしれません。その結果、ついに、神は自ら行動され、私たちは彼だけが与えられるこのなにかを求めて叫ぶようになります。それがなんであれ、これが主が求めておられるものです。そして、彼はこれを目指して、常に私たちをあの手この手で取り扱われます。彼の取り扱いの目的は、死の力に対するご自身の絶対的勝利に対する証しを最終的に得ることです――これは主にしかなしえません。もしあなたが今日、主しかなしえないことにあずかっているのなら、どうか私を信じてください、あなたはまさに希望に満ちた立場にあるのです。スポルジョン氏はかつてこう言いました。「ある事を成し遂げるのに奇跡が必要だと感じる時はいつも、あなたは神にそれを求める正しい立場にあるのです!」。