第五章 城壁は何を物語っているのか

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ネヘミヤ五・二~六、ルカ四・十四~二一、二列王四・一~四。

この一連のメッセージでは、旧経綸における主の偉大な僕であるネヘミヤが、主の証しの全き回復について、私たちに説明し、導いてくれています。ネヘミヤは、自分は「大きな働きをしている」のであり、神がそれを自分の心の中に置かれたのである、と述べました。私たちが関心を寄せているのは、この大きな働きです。それは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建することで歴史的に成就したことに霊的に対応するものであり、神が今日行おうとしておられることです。私たちは今、エルサレムの城壁が崩れた状態にあったことの背後にあったものをいくつか見ることにします。すでに見ましたが、この城壁の状態は当時の主の民の霊的状態の絵図・表示でした。城壁がそのような状態になった理由は、人々自身の生活にありました。この城壁を通して見ると、なぜそうだったのかがわかります。また、そうすることで、難なく、当時から今日に移って、その状況がどのようなものなのか、そして、何をなすべきかがわかるようになります。

破産・束縛・死の状況

ネヘミヤ記五章は、その状態、その特定の状態の最初の点を、私たちに示しています。この点はこの壊れた城壁を特徴づけているものでした。つまり、その城壁が反映していた当時の神の民のありのままの状態を特徴づけているものでした。彼らは束縛されており、破産していました。その城壁を見ることができたなら、「これは、まさに今の主の民の破産状態をかなりよく表している」とあなたは言ったでしょう。その状況は主の御心・御旨に全く反していました。主がご自身の民に望んでおられた自由や豊かさに反していました。「私たちは自分の息子や娘を奴隷として拘束しています」(ネヘミヤ五・五)。そして、主イエスが来て、預言の言葉を用いて言われました。「主の霊がわたしの上にある(中略)捕らわれ人たちに解放を告げ知らせ(中略)傷ついた者たちを解放するためである」(イザヤ六一・一、ルカ四・十八)。これこそまさに、ご自身の民に対する主の御心です。束縛は常に律法と専制を物語り、それゆえ恐れを物語ります。束縛、律法、専制、その結果である恐れ、恐れの生活――これらは常に同行します。

再建された城壁は恐れから守るものである

あなたは、列王記第二の四章に記録されている、預言者エリシャの人生における別の出来事を思い出すでしょう。その物語はご存じでしょうが、ごくわずかな文章にまとめるとこうなります。死が訪れました。債権者が来て、返済不能な金額を要求しました。律法が扉の前で、束縛すると威嚇しており、恐怖に憑りつかれています。この状況にエリシャが立ち向かいます。この人は、ご存じのように、命の霊の法則を表し、体現しています。彼は常に死の状況とその結果を対処します。そこでエリシャが舞台に登場して、命を供給することにより、「命の霊の法則」を行使することにより、義務をすべて果たすことを可能にし、債権者を満足させ、恐れを滅ぼし、子らを解放します。

これは、新約聖書の多くの真理に関する麗しい絵図です。実際、ガラテヤ人への手紙は、このささやかな出来事の解き明かしです。この手紙は、ご存じのように、束縛下にある子たる身分について取り扱っており、解放の道は命の御霊、御霊による自由によることを示しています。

これが、この使信を適用するための土台となります。主イエスは言われました、「主の霊がわたしの上におられる(中略)傷ついた者たちを解放するためである」。これは律法を克服する御霊であり、罪と死の法則を克服する命の御霊です。使徒はこう述べています、「あなたたちは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分の霊を受けたのであり、この霊により、私たちは『アバ、父よ!』と叫ぶのです」(ローマ八・十五)。ガラテヤ人たちに使徒は言いました、「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。だからしっかりと立ちなさい。二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません」(ガラテヤ五・一)。再び使徒はこの同じ人々に向かって言います、「私たちは律法の下で束縛の中にありましたが、キリストは私たちの律法への束縛を征服してくださったのです」(四・三~五)。また、ヘブル人への手紙には、おなじみの御言葉があります、「……また死の恐怖のゆえに一生涯、奴隷とされていた者たちを解放するためです」(ヘブル二・十五)。

「死の恐怖のゆえに」とは何を意味するのでしょう?ヘブル人への手紙の文脈を見ると、それは律法を破った結果に対する恐怖であることは全く明らかです。この手紙は律法と全く対照的です。このユダヤ人たちは、律法を破った罰が何か、よく知っていました。旧約聖書の事例を読むと、律法を破った人々にとってそれが何を意味したのかがわかります。ある例では、彼らは外に連れ出されて石打ちにされました。それは死を意味しました。このように、律法は剣のように彼らの上に吊り下がっていました。彼らは、律法を破って死を招くのではないか、というこの恐怖と不安の中で生活しました。「一生涯」、この律法のせいで、彼らは「死の恐怖のゆえに」「奴隷とされて」いました。しかし、別の人の言葉を聞いてみましょう。「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを追い出すからです」。

では、この城壁は何でしょう?それが壊れている状態は、死をもたらすなにかが起きたことを意味します。そのなにかとは、満たせなかった律法の支配です。この債権者を宥めることも、満足させることもできませんでした。律法は債権者でした。律法を破るなら、束縛の中に、隷属の中に陥ります。律法という恐ろしい重荷を背負うことは死です、全く死です、生きながら経験する死です。ですから、城壁の再建は、なんらかの形で証しが回復されたことをまさに意味します。その証しとは、主の民は自由な民であるという証しであり、債権者は支払いを受け返済されて満足しているという証しです。これは、死は滅ぼされ、束縛は破られたことを意味します。彼らはただ出て行っただけではありません。自由であるだけではありません。貧しくなくなったのです。主の豊かな自由民として、天の富で裕福にされたのです。

今日、神の民の間でこのようなものが回復される必要があることに、あなたは同意されないでしょうか?旧約聖書の律法であれ、新約聖書の律法であれ、かなり多くの人々が御霊の中にある命の自由を享受していません。偉大な教理を有する新約聖書ですら、結晶化されて、律法の体系にされてきました。そして、人々はそれによって打ちのめされています。根本主義はそのようなものです。根本主義なるものは、命なきたんなる律法の体系になるおそれがあります。その諸々の真理は正しいのですが、それだけでは、使徒が文字と霊を区別した時に述べた部類に属します(ローマ七・六)。

事実上、彼は言いました、「完全に正しく、完全に正確で、完全に真実な文字を持つことは可能ですが、正確な真理といえども、あなたを束縛の中に陥らせ、あなたの自由・喜び・富を奪うものになるおそれがあるのです」。言い換えると、教理的に完全に正統的で正しいという事実は、あなたが主のこの豊かさ・この裕福さを享受している主の自由民の一人である証拠ではないのです。あなたは正統性という重荷を首にかけて生活しており、「自分は原則や真理をなにか破っていないだろうか」と案じて、自分のクリスチャン生活に全く満足していないかもしれません。絶対的に正統的・正確な教えや真理の中で、とても惨めな人になるおそれがあります。それでは駄目です。教理は正しくなければなりませんし、私たちは真理の中になければなりませんが、他方で、あの特別な要素があるのです。その要素は、あなたと私は神の解放された民であること、私たちは御霊の自由と御霊の命を享受していることを意味するものです。

ですから、この城壁は恐怖に対する防波堤を表し、物語るものです。どんな都の城壁もこれを意味します。もしその名にふさわしいものなら、これこそがその目的です。よく聞いてください、当時、人々は城壁をとてもしっかりととても頑丈に築いたものでした。トビヤがなんと言おうと、「一匹の狐が上っても、崩してしまうだろう」(ネヘミヤ四・三)というような、一時しのぎの間に合わせではありませんでした。造られた狐をすべてこの城壁に上らせても、それを崩せません。城壁には恐怖に対する防波堤としての意味もあります。この城壁の中に入るなら、安全であり、恐怖から解放されます――捕らわれているという感覚から解放されます。これが城壁の意味です。

今、主はそのような類の証しを望んでおられます――自分たちは絶対的に確実で安全な所にいることを主の民は知っている、という証しです。彼らは全く恐れる必要はありません。恐怖はすべて滅ぼされます。彼らは恐怖の束縛の中にはありません。見事に解放されています。再びガラテヤ書の言葉を用いると、彼らは子らです。奴隷ではありません。今や、御父のもとに来ています。彼らはたんなる生徒ではありません――というのは、使徒は、ご存じのように、律法は私たちの養育係だった(ガラテヤ三・二四)と述べているからです。しかし、私たちはもはやこの養育係の下にはありません。子らであって、生徒ではありません。子らであって、囚人ではありません。子として、私たちは自由です。

この城壁は、ですから、安全、安心、恐怖の束縛からの解放を物語ります――ああ、主がそのような民を獲得されますように!

さて、あなたの証しはどうでしょう?主の証しは真にそのようなものです。あなたの証しはどうでしょう?あなたは束縛――新約聖書の束縛――恐怖に対する束縛の中に生きているでしょうか?あなたは毎日、この「大きな突き棒」の脅かしの下で、自分自身の良心という突き棒の下で、「間違いを犯すのではないだろうか」という恐怖を抱いて生きているのでしょうか?この恐るべき専制のせいで、惨めな顔をして恐れているのでしょうか?そんなことは私たちに対する主のみこころではありません。主はご自分の民が恐怖から完全に解放されることを望んでおられます。なぜなら、「あなたたちは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分の霊を受けたのであり、この霊により、私たちは『アバ、父よ!』と叫ぶのです」(ローマ八・十五)。

負債は完済された

この城壁は、次に、負債は完済されたこと、また恵みが豊かに与えられたことを物語ります。これは単純な基本的福音ですが、素晴らしいです。負債は完済されて、債権者は満足しました。主イエスが私たちのために十字架でこれをなしてくださいました。律法に対する負債をすべて支払い、律法を満たし、債権者を追い払ってくださいました。私たちを債権者――律法――から解放してくださいました。すべての負債から解放してくださいました。ああ、霊的負債からすっかり解放されたことを知るのは素晴らしいことです。神の律法に直面してそれに応じなければならないことを知るのは恐ろしいことです――もしだれかが自分の負債を支払ってくれなければ、時と永遠の中でなんとかしてその要求に応じなければなりません。しかし、キリストが自分のために行ってくださったことを知っている神の真の子供は、いつでも次のように歌うことができます――

律法から解放された――ああ、なんと幸いな状態!
イエスが血を流してくださったので、赦されているのです。

天のエルサレムの特権

次に、この城壁はエルサレムの城壁であり、別のエルサレム・霊的な天のエルサレムを指し示すものであって、天的特権、天のエルサレム・天の自由人の特権を物語ります。

ある出来事を思い出してください。使徒パウロが囚われの身となった時のことです。彼はローマの百人隊長の所に連れて行かれ、鞭打ちによって取り調べられることになりました。つまり、人々は問題がいったい何なのかを彼から聞き出すために「厳しい」尋問をしようとしたのです。私たちの訳では、何が行われていたのかよくわかりません。彼は「縛られた」とだけ書かれています。実際のところ文字どおりには「彼らは彼を締め上げた」となります。ローマ人が取ったこの方法は、実に、とても厳しいものでした。両手両足をきつく締め上げられた状態で鞭打たれることは、とても恐ろしいことだったため、結果的に死に至ることもありましたし、一生障害を負うこともありました。パウロはそのような状況に置かれた時、「ローマ人であり、また有罪とされていない者を、むち打ってもよいのですか?」(使徒二二・二五)と尋ねました。隊長は、自分に有利な案件だと思って、「私は多額の金で、この市民権を手に入れたのだ」と答えました。「私は自分の好きなことを行う自由を買いました――自分は自由人としての自分の権利を行使しているにすぎません。そのために大金を払ったのです」。しかし、パウロは「私は生まれながらの自由人です」(欽定訳)と答えました。

さて、パウロが言ったことを聞かされたこの上官は、ひどい恐怖に襲われました。自由人を、ローマ帝国の自由市民に生まれついた者を捕らえて、鎖と枷につないだだけでなく、鞭打つ寸前のところにまで行ったからです。生まれながらの自由人がそんな扱いを受けることはあってはなりませんでした。彼には帝国の特権という後ろ盾がありました。生まれつき自由であることは、金で買った自由以上に重要でした。生まれつき自由であることは、束縛の中にもたらされること、鞭打たれること、そういった取り扱いを受けることはありえないことを意味しました。そんなことをしようとする者には禍が降りかかります――皇帝に申し開きをしなければなりません。ローマ帝国が総力を挙げて、生まれながらの自由人の後ろ盾になっていたのです。それが意味するところをパウロは知っていました。ですから、生まれながらの自由人をこのように扱ったことを知った時、隊長は恐れに満たされたのです。

この絵図がわかるでしょうか?そうです、私たちは長子である、と御言葉は述べています。私たちの名は天に登録されており、私たちは神の王国の権利を持っています。私たちが束縛の中にもたらされること、律法によって鞭打たれること、このような扱いを受けること、この暴君によって厳しい扱いを受けることはありえません。この暴君がどんな権利を要求したとしても、それに優る要求があります。それは子たる身分の要求です。神の子らを他の人々を扱うように扱うことはできません。これはこの偉大な真理の素晴らしい絵図です。

このエルサレムの城壁は、ここに天的な民を取り囲むものがあることを意味します。この民は束縛から解放され、すべての負債から自由にされ、子たる身分の益に浴して歩いている民です――神の自由な民であり、神の豊かな民です。これは神の御言葉が示している真理です。子たる身分は享受されるべきものです。あの崩れた城壁は喜びを表す絵図ではありませんし、あの民の状態も喜びを表す絵図ではありません。主が望んでおられることと矛盾しています。いま見たように、彼はこのような方法でそれを獲得されます。

回復された安息日

さて、次の点は――安息日です。ネヘミヤ記では安息日に十四回言及されています。安息日が無効化されていました。その証拠をご所望なら、ネヘミヤと同時代のマラキを見てみるといいでしょう。彼がそれについて何を述べているのかがわかります。しかし、このネヘミヤ記では、安息日について十四回言及されており、したがって、実に大きな地位を占めています。ご存じのように、この人々は無効化された安息日を表していました。今、私はセブンスデー・アドベンチズムや安息日主義の議論を始めるつもりはありません。この問題はそれよりも遥かに高遠で、もっと輝かしいものです。しかし、安息日は現存する最古の契約だったことを思い出してください。神は七日目に働きを休み、七日目を聖別して、その後ずっとそれを聖別すべきことを命じられました。この問題を調べるなら、どれほど神の民の生活が、良くも悪くも、安息日と安息日の契約を守ることと密接に関係していたのかがわかります――安息日の契約は、おそらく、根本的な契約であり、契約の中の契約だったのです。

しかし、それは何を意味していたのでしょう?もちろん、それはキリストの予表でした。神は七日目にその労苦とすべての働きを休まれました。「そして神は七日目を祝福して、それを聖別された」(創世記二・二、三)。イスラエルがバビロンに捕囚になったのは、彼らが主の安息を守らなかったからでした――七番目の日、七番目の月、七番目の年、七の七倍の四十九年目を守らなかったからでした。彼らはあらゆる意味で安息を守ることに失敗しました。それで、彼はご自身の安息年のゆえに、彼らをバビロンに七十年間送られたのです。「人がまくものはなんであれ、これをまた刈り取るからです」(ガラテヤ六・七)。この「なんであれ」は常に有効です。そして今、あの崩れた城壁は破られた安息日、無効化された安息日を物語ります。ネヘミヤは安息日を回復していますが、ご存じのように、彼は非常に精力的な方法でそれを行いました。商人たちが安息日に城門にやって来た時、彼は彼らを追い払い、とても手荒く扱って、安息日を回復したのです。

それはいったい何なのでしょう?すでに述べたように、それはキリストを指し示していました――キリストは、新創造の中で、神の働き・新創造の働きをすべて成就されました。神に再び満足をもたらし、神を彼の安息に導きました。神を満足させて安息させました。ですから、キリストと彼が成就された御業が、今や安息日なのです。安息日は日ではなく、パースンです。安息日は全く時間の問題ではありません。安息日は成就された働きであり、それゆえ、それを破るなら主によって厳しく対処されます。それは次のことを意味します――キリストが完全に成就された御業と、彼に対する神の絶対的満足から少しでも離れて、安息日の原則を破るなら、あなたは契約を破ることになるのです。これが理解されれば、セブンスデー・アドベンチズムは五分で崩壊するでしょう。「では、主の日を守るべきではないのですか?」と、あなたは言うかもしれません。ああ、守るべきです――しかし、証しとしてであって、律法の問題としてではありません。今、私たちは週の一日、最初の日に共に集まって、神は御子に満足しておられるという輝かしい真理を祝っています――つまり、私たちは彼の食卓の周りに集まって、神の満足の根拠であるイエス・キリストの尊さを礼拝しています。それからなにかを取り去るなら、あなたは安息日を破ることになります。

さて、回復されるべき証しがまさに意味するのは、次の事実、次の偉大な現実を享受している民が必要であるということです。すなわち、贖いの御業は見事に成就されたという事実、神は安息しておられ、完全に満足しておられるという事実、彼の民は彼の安息に入ったという事実です。こう述べると、おそらく、とても単純に聞こえるかもしれませんが、私たちはこれに関して試されているのではないでしょうか?私たちの生活のほぼ毎日、私たちは安息日に関して試されています――たんなる日としての安息日に関してではありません。神の満足による私たちの安息、神の安らぎに対する私たちの安らぎとしての安息日に関してです――言い換えると、次の事実に関する私たちの理解に関してです。すなわち、キリストは新創造の働きをご自身ですべて成就して、神の最終的要望・要求に応じられた、という事実です。これを喜んでいる民を神は欲しておられます。そのような証しを欲しておられます。主よ、私たちをそのような民にしてください!城壁はこれについて物語ります。というのは、お気づきのように、城壁が完成するとすぐに、バビロンへの訪問を終えて戻って来たネヘミヤは、安息日をそのあるべき所に戻し、安息日に関する事柄をすべて清めたからです。

血統の純粋性の回復

さしあたってもう一点――混合の状況が存在していたことについて。この民の子供たちはヘブル語で話せなかったと述べられています。半分は一つの言語で、半分は別の言語で話していました。次に、外の諸国民との異種族間結婚について記されています――多くの男性が外国人の妻を持っていました。このように、主の民の中に混合の要素や特徴がありました。そこで、ネヘミヤはそれを一掃する働きに取りかかりました。彼はそれを大いに徹底的に行いました――神に感謝します、この民は彼に協力しました。これは、霊的原則として、行う必要がありました。しかし、ここでもまた、混合は城壁が表す状態の一つでした――城壁は崩されて、破壊されていました。イスラエルに純粋さがなかったからです――再建されることにより、城壁は混血に対する防波堤となりました。

これはあることをとても強烈かつ明確に告げます――神の都の中に、神の教会の中に、神の王国の中にあると主張する者はみな、次のことを証明できなければならないのです。すなわち、自分の血統は純粋であることをです。また、自分は真に上から生まれており、主の純粋な命を自分の内に持っており、体質的に混血の民ではないことをです――一つの舌、一つの言語、一つの血統、一つの命を持つ民であることをです。再建された城壁は、主の民の間のこの混合の問題を「一掃」したことに対する証しとなるべきものでした。血統の純粋性、言語の純粋性、礼拝の純粋性に対する証しとなるべきものでした。

これらがどれほど混合しやすいかはご存じでしょう。特定の言葉や表現で話していても、御霊の言葉だとは感じられない人々を、よく見かけます。ああ、彼らはキリスト教的な表現をみな持っていますが、そこには多くの混合があり、生活の中にも多くの矛盾があります。純粋な言葉を話す人々、真に御霊の言葉を話す人々がいなければなりません。信仰を告白しているにもかかわらず、御霊の言葉を話さないクリスチャンが大勢いる、というのは事実ではないでしょうか?私が言わんとしていることを、あなたたちの多くはご存じです。「キリスト教」や「宗教」についての彼らの話しぶりは、彼らが実際には上から生まれていないことを示す、なんらかの印を帯びているのです。

十分の一税の回復

もう一点述べて終わることにします――十分の一税の不履行についてです。当時の状況を描写したマラキは、主の十分の一税の件に関してこの民が怠っていることを非難しています。彼は、神からの言葉を語って言いました、「あなたたちと全国民は、わたしのものを盗んでいる」「しかもあなたたちは言う、『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのですか?』。十分の一とささげ物によってである」(マラキ三・九、八)。十分の一税の件が履行されていなかったのです。

しかし、これは何でしょう?ああ、収入の十分の一を取ってそれを主にささげるだけでこれから免れられる、とは思わないでください。そうしたとしても全く十分の一税をささげたことにはならないおそれがあります。この十分の一税は何を意味するのでしょう?それはこういった感じでした。十分の一は全体の中からささげられました――収入、畑、ぶどう園、動物の群れからです。その次第はこうでした。農夫、農民、牧者は、最初に実る果物、最初に熟す作物、最初に出て来て生まれる動物を、注意深く見張りました。例えば、トウモロコシが育っている畑の場合、農夫は、時が近づくと、歩いて外に行き、トウモロコシの状態を見て、最初に熟す穂を待ちました。そして、熟した穂を見るとすぐに、全体が熟すのを待たずに、それらを神の家に持って行き、事実上こう言いました、「主よ、これはすべてがあなたのものである事実を表しています。これは来たるべき収穫の前触れであり、初穂です。これはみなあなたのものです。すべてはあなたのものであること、あなたが第一の地位・全き地位を占めておられることの印として、私はこれをあなたにささげます」。果物であれば、農民が同じことをしました。牧者であれば、牧者は群れの初子を取って言いました、「主よ、これはこの群れの初子です。これは、すべてはあなたのものであることの印です――あなたが第一の地位を持っておられ、全き地位を持っておられます」。

これが十分の一税です。十分の一税は、一部を取り分けて神にささげるけれども、残りは自分のもの、というものではありません。それは、最初から最後まで主が唯一の地位を持っておられることを示す印です。さて、これがイスラエルの問題だったことがわかります――十分の一を納めることを怠っていたのです――これが証しが崩れた理由でした。彼らのすべての関心事、すべての懸案、すべての所有物において、主は第一の地位、全き地位を得ておられませんでした。主は、この証しを真に担う民を欲しておられます。彼は証しの城壁を再び建て上げられます。それは、彼に一つの地位や部分を与えるだけでなく全き地位を与え、どうすれば主の権利であるものを主にもたらせるのかを常に考えている人々によってです――そのような人々によってです。

この単純な言葉を忍んでください。しかし、この言葉は、あなたが思っている以上に、深くまで及びます。とても重要な諸問題に触れます。これはみなとても現実的です。ネヘミヤがこれらのことを正した時、彼はたんに城壁を建設しているだけではありませんでした。城壁が表していたものを正していたのです。証しは背後にある霊的実際によって支えられていました。これが主が欲しておられるものです。