へブル人への手紙の著者が多くのことを述べた時、彼は、「そのすべてを一つの明確で正確な声明にまとめる必要がある」と確かに感じていたので、「今、私たちが語っている事の要点はこうです」と書き記しました。欄外では、「今、私たちが語っていることを要約すると……」となっています。今、そのような必要が私たちにもありますので、これまで述べてきたことをまとめて、焦点をあてることにしましょう。
神の反応
神の働きの歴史は、運動と対抗運動、作用と反作用、上昇と下降、前進と停止・反転の歴史です。私たちが出版した最初期の本の中には、冒頭に次のような言葉があります、「しっかりと向き合うことがとても重要な二つの点があります。この二つを述べると、互いに矛盾しているように思われるかもしれませんし、あるいは逆説的に思われるかもしれません。一つは、神は諸々の時代にわたって常に新しいことを行ってこられたということです。もう一つは、人からは神の新しい御業に見えたものでも、神の観点では新しくなかったということです」。
次に、私たちはさらに進んで、神は常に完全な状態から開始されることを指摘しました。彼は、開始する前に、すべてをご自身によって完成・完遂されます。その後の彼の活動はみな、実際には、完全な状態に立ち返らせる働きです。とはいうものの、それは人には神の新しい働きに見えます。この行程は、ですから、神が完全な状態から開始されたものです。人はこの完全な状態から堕落して、それを失います。すると、神は反応して、その完全な状態を漸進的かつ段階的に回復するために着実に行動されます。
そして、神の新たな動きにはどれも、二つの特徴があります。
第一に、内在的完全性です。つまり、さしあたっては部分的でしかないかもしれませんが、その中には内在的価値があるのです。それは、全体の可能性をすべて持っているものです。なぜなら、神が行われることはみな、それがさしあたってどんなに小さなものでも、神の御心がその中に、またその背後にあるからです。神は、断片が全体であるかのように、断片に取り組んでおられるのではありません。むしろ、その中に潜在的に全体を含んでいる部分に取り組んでおられるのです。
そして、第二に、彼の動きは常に、それ以前の動きに基づいて前進します。つまり、神の動きはみな、彼が前に行われたことに付加するものなのです。彼は回復の途中、時々、漸進的な道を取られるかもしれませんが、今や次の道では何かが、さらに優った何かが追加されます。当初の完全さを回復する、さらなる御業の段階に入ります。これが明確になるよう私は希望します。この背景と基礎を据えることがとても重要です。
次に、神のこれらの動き――今しがた引用した本の題名では、神の反応と称されています――にはいくつかの包括的・主要な要素があることがわかります。それらの主要な要素の一つは、神によって主権的に起こされた、神のビジョンと神の情熱を持つ器です――これは次のことを意味します。すなわち、これは神の活動であること、そして、主権的行動であるがゆえに、それ以外の観点では全く説明がつかないことです。見る者すべてが正しい器であると言うような器である、ということではありません。その人や器は世人から心からの承認を得るようなものである、ということでもありません。神は主権的に行動されますし、往々にして、こうした反応の中で諸々の器を選ばれます。自分自身や他の人からは、選ばれた者とは思えない器を選ばれます。彼らは、自分には召される資格がないことを強く意識していましたし、往々にして、他の人々も彼らのことを同じように思っていました――彼らはもっとうまくやれたし、期待されていたことをしかるべき仕方で行ってもいない、と思っていました。しかし、神は主権的にご自身の知恵によって彼らを選び、彼らの傍らに立って、それがご自身のものであることを証明されたのです。
ビジョンと情熱を持つ器
しかし、そのような器は、それが個人的なものであれ団体的なものであれ、常に神のビジョンを持っていました。そのような器は、主を見、神の御心を見、神の御旨を見て、神が永遠の過去から意図してこられたものに捕らえられ、魅了されました。それを他の人々よりも遥かによく見ていたのです。見るだけではありません、原理的に神の御心・御意志・御旨の「先見者」であるだけではありません。それに対する神の情熱によって支配されて、この黙想で前に「御旨に至るための神の労苦」と称したものの中にもたらされたのです。これらは神のどの動きでも主要な要素です。神が取られた新しい歩みはみな、この二つの特徴を帯びていました。これを認識しようではありませんか。なぜなら、それは多くのことを明らかにしてくれるからです。
器に対する特別な取り扱い
次に、神の御旨を見たこの器――この召し、神の現在の動きが表すこの「大きな働き」を見たこの器――は、神の御手の下で、きわめて独特な経験をします。神はそのような器を、他の器を扱うようには扱われません。これにとても注意深く留意する必要があります。神はその器を取り扱われます――繰り返しますが、その器は個人かもしれませんし、団体・群れかもしれません――神は、この特別な御旨のために召したその器を、特別な、奇妙な方法で取り扱われます。他の人々や他の事柄に対する取り扱いとは全く違う取り扱いをされます。神の全き御旨の中に召された者にとって、他の人々に対する神の取り扱いから、自分に対する神の取り扱いについて判断することは、決して安全ではありません。そのようなことは常に危険なことです。そのような働きやそのような器に対して、彼はご自身の特別な方法を採られます。それゆえ、この目的のための器、この御旨のための道具は、独特な危険に遭います。彼らは、独特な争い、奇妙な圧迫、奇妙な出来事、神の奇妙な道に巻き込まれます。神は彼らを特別な御旨のために取り扱っておられるのです。
私たちがこれまで見てきたネヘミヤ記は旧約聖書の最後の歴史書ですが、今しがた述べたことを刺激的・教訓的な形で示しています。前に述べたように、この書は次のような区分に自ずと分かれます。一つ目は、城壁と、エルサレムの城壁の再建に関する区分。二つ目は、その働きと働き人たちに関する区分。三つ目は、巻き込まれた戦いに関する区分です。私たちはこれまで、ほとんどの時間を城壁に費やしてきました。ここでは、これまでの形とは少し違った形で、もう一度これについてざっと概観することにします。
エルサレムの城壁はキリストの絵図である
この城壁は何でしょう?エルサレムの城壁はキリストの絵図です――第一に、天の観点、天の光、天の眼から見たキリストの絵図です。天の観点から見たキリストの姿です。これが常に評価・判断の出発点です。城壁はまた、この世に対して表されるキリストの絵図でもあります。そして、サタンの王国、敵対勢力に対して表されるキリストの絵図でもあります。それは三つの外面的な意味――天に対する、この世に対する、悪の勢力に対する意味――におけるキリストです。それらはみな、この城壁に強い関心を持っています。ネヘミヤ記からそれがわかります。
天はこの城壁に強い関心を持っています。そこから私たちは始めます。神は行動されます。そして、城壁が完成すると、それは壮大なものになります。敵対勢力はこぞって激怒したので、ネヘミヤは「この働きは神からです」と言うことができましたし、敵対勢力もこれを認めざるをえませんでした。神は関心を寄せておられました。天も関心を寄せていました。それは天の光の中にあるものでした。次に、この世に関して、この城壁は独自の証し、独自の宣言をなすものでした。さしあたって、これについて述べることはしません。サタンの王国に関するかぎり、その王国が強い関心を持っていたことは大いに明らかです。戦いについて見る時に、おそらく私たちはこの面にほとんどかかっりきりになるでしょう。
しかし、そこには四つ目の面がありました。すなわち、この城壁は主ご自身の民にとってどのような意味があるのか、という面です。言い換えると、キリストは神の民にとって何を意味するのか、という面です。キリストは、偉大で包括的な防御の砦であり、ご自身の卓越性と完全性をご自身の民に栄光のうちに分与されます。聖書で最後に出てくる城壁は、壮大な城壁、宝石の城壁です。それはキリストの完全性・栄光であり、神の御前でその恩恵に浴している神の民です。
このように、ですから、この城壁はキリストのこの四つの面の絵図なのです。
思い返すと、アブラハム――当時はアブラムでしたが――はバビロン・カルデア・それらが意味するところから分離されました。彼は「土台のある都を探していた」(ヘブル十一・十)と述べられています――その都はあの天の都、あの天のエルサレムの型です。それは最終的に完成されて、「天から出て神から下って来」ます。それは「神の栄光を持って」います(黙示録二一・二)。アブラハムが見た都は天のエルサレムの型でした。この二つの都、バビロンとエルサレムは、常に対立してきました。主の民がエルサレムに関する主の輝かしい構想・意図から逸れた時、彼らに残された唯一の選択肢はバビロンでした――神が彼らの父祖アブラハムにおいて彼らを召し出された偽りの都でした。彼らはアブラハムにおいて分離された都に戻って行きました。すでに指摘しましたが、主は彼らにそれを味あわせました。そして、彼らの多くにとって、それはうんざりするものでした。当時のエルサレムがどんな場所だったとしても、彼らは何としてもエルサレムに戻りたがりました。
さて、主イエスが来られた時、彼は二つのことを行われました。バビロンに代表されるこの世、偽りの王国を否定し、地上のエルサレムを否定されました。なぜなら、それはもはや神の御思いを表していなかったからです。そして彼は、この都のあるべき姿に関する神の御思いをすべてご自身の中に集約されました。霊的な形で、個人的に宮の地位を占めただけでなく、エルサレムの地位をも占められたのです。彼は今も昔も、城壁に囲まれて仕切られているこの都に関する神の御思いをすべて体現しておられます。ですから、この城壁が意味するところとこの都が意味するところを探究するとき、私たちはある主題や何らかの題目について学ぶだけでなく、主イエスについて熟考せざるをえなくなるのです。
時には絵図を忘れて、型や図形の背後に回り、それらが表すものを直視すること――言うなれば、それらが表している主を直視すること――がとても重要です。「天の猟犬」を書いた詩人、フランシス・トンプソンのある評論家は、「逆巻く比喩の海のせいで、彼の描く光景が見えない」と述べました。そして時として私たちの象徴論も、象徴されていることを覆い、隠し、ぼかすことがあります。私たちが城壁やネヘミヤについて述べる時、そのような罠に陥らないように、私は希望します。むしろ、私たちの目は常に、ネヘミヤを通して、この城壁を通して、真に見るべき御方を見ていなければなりません。
ネヘミヤ記と使徒行伝の対応関係
さて、さらに先に進まなければなりません。なぜなら、神はペンテコステの日にご自身の証しを完全に回復されたからです。ネヘミヤ記と使徒行伝の間にどのような対応関係があるのかを見ると助けになります。証しが再び完全に興されました。主の証し、「イエスの証し」がペンテコステの日に完全かつ十分なものになりました。ネヘミヤ記の特徴がみな、使徒行伝の中に、特に最初の数章の中に見られます。すぐにこれをもっと詳しく見ることにします。私がこれについて述べるのは、ネヘミヤ記を読む時にそれがあなたの助けになるからです。ネヘミヤ記をたんに歴史書として、あるいは旧約聖書の最後の歴史書として読むのではなく、常に使徒行伝を念頭に置いて読むなら、この二つの書が全体を通してどう対応しているのかがわかります。
しかし、これに関してさらに進む前に、私がここで述べたいのは次のことです。すなわち、主はペンテコステの日にご自身の証しを(万物を創造する前に彼が目指しておられた当初の御旨を除いて)かつてなかったほど完全な形で回復されましたが、まもなく、その反作用である衰退が再び始まったのです。新約聖書を読み終える前に、壁に隙間ができて、証しが弱まるのが見え始めます。実に、それよりも遥かに悪化します。というのは、コリント人への第一の手紙を読んで、そこにあるあらゆるがらくたを見るなら、「証しはほぼ完全に損なわれた」と私たちは言うだろうからです。なんというがらくたがこのコリント人への第一の手紙の中に啓示されていることでしょう!なんという残骸と破壊の状況でしょう!新約聖書の手紙の最後に来て、アジアの七つの教会へのメッセージが記されている黙示録を取り上げるとき、私たちは疑いなく壊れた城壁のさらなる絵を見ることになります。証しは再び損なわれて、完全なものは何もありません。「わたしはあなたのわざが完成されているのを見ていない」(黙示録三・二)。証しは破壊されて、その中に大きな隙間があります。そして、それが新約聖書が閉じるときの状態です。
それ以降、一度や二度ではなく、何度も神は再び行動を起こして、当初の御旨・証しを少しずつ取り戻してこられました。諸世紀にわたる過去の歴史について見るつもりは私にはありません。様々な形で証しに出会いますが、神はそれを放棄されなかったことがわかります。彼は戻って来られました、再び戻って来られました。今はこれ、今はあれ、今は別の何かを回復しようとしておられます。絶えず当初の完全形に向かって動いておられ、それを完全な形で得ようとしておられます。神に感謝します。今日、彼の証しは暗黒時代よりもずっと多くあります。今日、新約聖書の偉大な事柄の多くが教会の中に確立されています。それらは偉大な要素です。私がそれらについて述べる必要はありませんが、神はご自分のレムナントたちと共に着実に前進して、常に何かを取り戻しておられます。
私たちが関心を持っているのはこの点です。彼は今まさに、さらなる回復を必要としておられ、それに打ち込んでおられるのではないでしょうか?そして、もしかすると、彼の主権と恵みにより、私たちは城壁を十分かつ完全に回復するための神の現在の動きと関係しているのではないでしょうか?私たちの役割はそれを築くことではないかもしれませんし、それを完成する役目を私たちは与えられていないかもしれません。しかし、もしかすると、イエスの証しを完成するために、何かを加え、何かを行うよう、私たちは召されているのかもしれません。もし今の時代がこの書とネヘミヤの働きに対応するものであるなら、つまり、経綸の最後であるなら、「自分たちはイエスの証しの最終段階・最終局面にある」と私たちが感じるのももっともです。確かに、私たちにはそう考える理由がないわけではありません。
さて、ネヘミヤ記と使徒行伝の間の対応関係というこの問題に戻って、それをもっと詳しく見ることにしましょう。今から取り組むのは、城壁よりも、働きと働き人たちについてです。
天からの動き
第一に、ネヘミヤ記と使徒行伝の二つの書を見ると、天からの動きがあった事実に気づきます。覆って浸透し尽くす神の霊が動いておられた事実に気づきます。ネヘミヤ記では、それはバビロンで始まりました。神の霊が動き出されました。まず、ペルシャのクロス王の霊を奮い立たせて、それを推進するための命令と備えをさせられました。天からの動きがありました。次に、それはこのネヘミヤという人の心の中に移って、深い心配と不安、現状への不満を生じさせました。神の霊が動いておられました。次に、この便宜により、ネヘミヤがエルサレムにやって来ると、彼の中にあった霊、彼の中にあったあの衝動が広まっていきました――最初は数人の兄弟たちに、次に、わずかな例外を除いてすべての民にです。ある人々について、「彼らはその働きに服さなかった」(ネヘミヤ三・五)と述べられていますが、それは例外でした。御霊が動いておられ、まず、現状に対するこの不満、状況に関するこの心配、状況は変わらねばならないというこの感覚を生じさせられました。それは、前に述べたように、たんなる不平や批判の霊ではありませんでした。それは御霊の働きでした。積極的であって消極的ではありませんでした。その目的は建設的なものであって、破壊的なものではありませんでした。神の霊が、最初に地を創造したときのように、再び動いておられました。覆って、混沌の中から秩序を生じさせるために動いておられました。それがこのネヘミヤ記の冒頭にも見られます。
使徒行伝に移ると、天が動いていること、御霊が動いておられることがよくわかります。何かが起きています。長い夜は過ぎ去って、水平線上に光の筋が射しつつあるように思われます。覚醒と動きの感覚があります。そして、あの偉大な日に事が始まります――天が裂け、御霊が降り、御霊の動きが始まります。それは一つの核と共に始まりますが、次に、この核を通して御霊は外に向かって動き、他の人々を捕らえて、神の御心に関する一つのビジョンと一つの情熱の中に彼らを導かれます。ネヘミヤ記ではこれはこう述べられています、「人々は働こうとする心を持っていたからである」(ネヘミヤ四・六)。しかし今、使徒行伝を見てください、この人々を見てください!この最初の数章は、「人々は働こうとする心を持っていた」としか描写できません。
主の全き証しの支配的動機
その目的――主の十分かつ完全な証し――はネヘミヤ記でも使徒行伝でも共通しています。それについてさらに述べることもできますが、この最初の数章から次のことはあまりにも明白であると思います。すなわち、教会と使徒たちと伝道者たちのこれらの初期の宣言、これらの初期の宣べ伝えは、キリストの絶対的至高性・豊かさ・完全性・十全性・終局性に対する証しだったのです。これに、絵図・予型として、ネヘミヤと人々は、当時、専念していたのです。
しかし、これを私たちの心に刻みましょう。何世紀も前のことを考えるのではなく、私たち自身の現在の中にこれを持ち込もうではありませんか。私たちは、主の証しが完全に、無制限に、そして途切れずに存続するよう気遣っているでしょうか――神の御旨によって支配され、神の情熱によって突き動かされているでしょうか?どうでしょうか?
主なるキリストの統治
さて、それらの要素のいくつかを見ることにしましょう。第一に、皆がネヘミヤに服した様はとても印象的です。これは、エズラ記とネヘミヤ記をとても注意深く読まないかぎりわかりません。エズラ記を読むと、反抗的な人々や支配者たちや祭司たちが大勢いたことがわかります。彼らは状況に関する自分自身の考え、自分自身の意志と自分自身の方法を持っていました。エズラや彼の考えを受け入れようとはしませんでした。個人的・利己的なものがたくさん現れて、自己主張しました。しかし、ネヘミヤ記に来ると、それは全くなくなっています。この人が登場すると、皆が彼に地位を与えるように思われます。彼こそ適任であることを皆が認めるように思われます。彼らはみな言われたことを行って、服従します――彼は彼らに対して好きなように行えます。この支配者たちの中には、人々の資産や土地を買い取った人々もいました。彼らは人々を犠牲にして自分を富ませており、貧しい人々は彼らのせいで悲惨な状態にありました。そこでネヘミヤは言います、「あなたたちはそれをみな、一つ残らず返しなさい。一銭残らず返しなさい!」。この世の人にそんな提案をしたら、いったいどうなることか!しかし、この人々はそうしました。ネヘミヤが何を命令・要求するかは関係ないように思われます――彼らはそうするのです。
使徒行伝に移ります。ここでは、すべての人がイエスは主であることを認め、彼に服しています。反抗的な要素は、アナニヤとサッピラの中にあった一つだけです。しかし、キリストの主権体制を破ることは彼らにとって割に合わないことでした――キリストの主権が彼らを破りました。しかし、残りの人々はすべてを――資産、土地、金、自分自身、すべてのものを――放棄して、皆が主イエスに見事なほど服従しました。彼の全き証しに関して少しでも前進するには、生活全体・生活全般に対して主が優位・上位に立つ必要があります。
そこには、対応する一つの要素があります。その要素は全く明らかです。民衆、祭司、支配者はみな、ネヘミヤに頭首の地位を与えました。このもう一つの神の動きでは、皆がイエス・キリストにかしらとしての地位を与えました。彼は確かに、主として宣べ伝えられただけでなく、主としてすべてを委ねられたのです。
この証しに対する熱い情熱
次に、この二つの書に共通するもう一つの点は、この証しが物や人をすべて支配した方法です。それがネヘミヤだけでなく、彼が代表していたものも支配しました。これは二つの点に見られます。
第一に、城壁です。どのようにして城壁は皆の支配的目的・関心事になったのでしょう?城壁が主イエスの予型・絵図だとすると、それは、主イエスの全き証しが皆の主要な関心事になったことをまさに意味します。彼の証し以外に、当面のあいだ生きる目的は何もありませんでした。この城壁が物や人をすべて覆っていました。この経綸の草創期もそうでした。イエスの証しが他のものすべてを覆っていたので、彼らはそれを推進するために生きました。彼らはひたすら、この証しを推進するために生き、考え、計画し、夢見ていたのです。
御霊の御声
しかし、次に、ネヘミヤ記にはもう一つの要素があったことに気づきます。それはラッパでした。ラッパを持つ人をネヘミヤは配置しました。その時の言葉を思い出してください。「どこででも、あなたたちがラッパの音を聞いたなら、その所で、私たちのもとに集まってください」(ネヘミヤ四・二〇)。そのラッパが統括しました。このラッパは何でしょう?私が思うに、旧約聖書のラッパは常に聖霊の御声の型です。言い換えると、「御霊が諸教会に仰せられること」です。このラッパの音で、イスラエルは荒野を移動しました。彼らが移動すべき時には、必ずラッパが鳴りました。予型として、彼らは御霊により、また御霊の中で、御霊の統治の下で動いたのです。
御霊の御声による統治――これは、もちろん、使徒行伝を見るときわめて明白です。これはどんなに強調しても強調しきれません。おそらく、私は、各々の点を十分に考慮せずに、あまりにも多くのことを詰め込もうとする危険に陥っているのかもしれません。しかし、これによく注意してください。私は今、とても恐ろしいことを言おうとしていますが、私は自分が言おうとしていることを全く自覚しています。私はこれをこの世界の広い範囲で検証してきました。御霊による生活の意味を知っているクリスチャンはごくわずかしかいません。クリスチャンが魂で送る感情・感覚・衝動の生活を知っている人は大勢います。「御霊が仰せられること」を知ること、御霊による生活を知ること、御霊によって導かれること、御霊によって吟味されること、御霊が自分の内側で「否」「然り」と仰せられること――こうしたことを彼らはごくわずかしか知りません。それについて少しでも知っている人はごくわずかしかいません。彼らは伝統や慣行によって導かれています。あるいは、一定の決まった真理や教理の体系によって、「既定」事項によって導かれています。あるいは、現行の結晶化・組織化されたキリスト教の形態によって導かれています。その形態はとても厳格なものであり、定着しているものなので、それ以外のものの存在は許されません。もし「キリスト教」の既定路線から髪の毛一筋ほどでも逸れるなら、問題視されます――異端視されます。彼らはそのように支配されており、導かれています。彼らは御霊による生活を知りません。
私は、御霊による生活は真理や、神の御言葉や、神にとって決定的に重要なものと矛盾する、と述べているのではありません。既定の伝統的体系に優るものがある、と述べているのです。神の霊に導かれる、ということがあるのです。使徒行伝が何かを述べているとするなら、それはまさに次のようなことです。すなわち、不変的な解消不能な立場――固定された確定的な立場――に落ち着くことは許されないのです。
使徒行伝に記されている偉大な動きの一つに次のようなものがあります。使徒たちはみな、エルサレムを「キリスト教」の本部にしようとしていました。エルサレムが世界のすべての中心になると思っていました。そこで、この中心が建て上げられて、エルサレムに集約されつつありました。聖霊は介入して言われました、「だめです――本部は天にあります。この地上にはありません」。そして、人々を一掃してエルサレムから追放されました。人々は至る所に散らされました。使徒たちはそこに残って主のために何かをしていましたし、そこを本部にしようと戦っていましたが、そこはもはや本部ではありませんでした。かなりの期間、彼らはエルサレムからすべてを支配しようとしましたが、聖霊は彼らに反対されました。この偉大な世界的働きは、その後、決してエルサレムを中心とすることはなかったのです。
いいえ。人々がこの地上に何かを確立しようとする時、聖霊は偉大な「分散化」の要因です。御霊の中に入ると、次に何が起きるのか、次に自分がどこにいるのかわからなくなります。「私はここに行こう、あそこに行こう」とは言えなくなります。聖霊はご自分の道を行かれます。彼は「思いのままに吹」かれます(ヨハネ三・八)。それがここでの偉大な真理です。御霊による生活はこのようなものです。「さあ、どこそこの場所に長い年月のあいだとどまって、それから場所を変えよう」とは決して言えません。主がなさることに、すっかり驚いてしまうかもしれません。新約聖書で最も霊的な人々ですら、事前に計画を与えられていなかったのです。彼らに許されていたのは、自分の道をある所まで進むことだけであり、その後、聖霊によって中断されました。彼らが何かを企てたり試みたりしても、聖霊は許されませんでした。この人々は聖霊の支配下にありました。彼が物事を掌握しておられます。本部は天にあります。
当時はこのような状況でした。すべてはラッパ、御霊の御声の統治下にあったのです。
全員がこの証しに関して共に協力しあうこと
そして、さらに、他のものはみな、この一事――この証し――と足並みを揃えるようになり、従うようになりました。私はこの素晴らしい動きに感銘を受けました――ネヘミヤ記を注意深く読み返すなら、あなたはこの素晴らしい動きに感銘を受けるだろうと思います。あらゆる商売、あらゆる天職、あらゆる職業、あらゆる地位の人々がいました。祭司たちがおり、金細工職人たちがおり、薬剤師たちがおり、支配者たちがいました。また、ある人とその娘たちが全員石工になったことが記されています!祭司は、「ああ、こてとモルタルを手にするのは、自分の尊厳に反する」とは言いませんでした。金細工職人は、「石打ちをしに行ったら、金細工をするための自分の両手がだめになる」とは言いませんでした。支配者たちは、「あなたは私に監督の仕事を与えなければなりません――与えてくれるなら、傍らに立って、きちんと仕事がされているのかを見てあげられます。降りて行って自分で働くなんてとんでもない!」とは言いませんでした。だれ一人そんなことは言いませんでした。全員――祭司たち(糞の城門を築いたのが高官だった事実に私は感銘を受けました!)、金細工職人たち、薬剤師たち、支配者たち、人々とその娘たち――がみなこの働きに参加しました。地位も、職業も、能力も、すべてがこの一つの関心事――この証し――に服したのです。
城壁が完成した後、彼らは自分の仕事に戻ったのではないでしょうか。彼らがそうしたことを私は願います。もし主があなたの両手をご自身の働きに関するあの全き務めで常に満たしてくださらなくて、当分のあいだ離れざるをえなくなり、自分の仕事に戻ったとしても、何か間違ったことをしたと考えてはいけません。あなたは依然として薬剤師、金細工職人等々であり続けます。パウロは最後まで天幕造りであり続けました。彼の生涯の記録のどこを見ても、彼が天幕造りをやめたとは記されていません。彼は明らかに、証しの傍らで、また証しのために、ずっと天幕を用いました。これをはっきりと理解してください。「全時間奉仕」に関して誤解しないでください。あなたはあなたのままでいなさい。職業を主のために用いなさい。しかし、それを主の証しという支配的関心事に服させなさい。それがここで起きたことです。
使徒行伝でも、そうだったように思われます。人々の商売や地位について詳しくは述べられていませんが、パウロの手紙には、人々がどういう人だったのか、どんな人だったのか、といったことがかなり述べられています。しかし、彼らはみな、言わば「城壁」の内側に集められていました。彼らはみな、この証しによって支配されていました。そして、すべては証しに役立てられました。だれも、「いいえ、私の方が優れています。そんなことは私の尊厳に反します」「そんなことに私は召されていません――私は他のことに召されています」とは言いませんでした。だれもが、自分が何者だろうと、この世でどんな資格を持っていようと、何よりも重要なのはこの証しであることを理解していたのです。
ネヘミヤ三章では、この麗しい特徴が現れています。全員がこの証しに関して共に協力しあったのです。この章では、あるささやかな句が絶えず繰り返されていることに気づきます――「彼の隣で」「彼の隣で」「彼の隣で」というように。さて、これはある事実を繰り返したものにすぎませんが、聖書を読む時は、いつでも想像力を働かせてもかまいません。そうするのは常に良いことです。そのありのままの事実が述べられていますが、そうした事実の背後にはおそらく膨大な霊的経緯、膨大な個人的勝利の経緯があったのではないかと思います。「彼と一緒に働きたくありません――もっと感じの良い人、もっと仲良くなれる人と隣り合わせにしてください!」。事実がただ述べられています――「彼の隣で」「彼の隣で」というように。もともと、彼らは全く一緒にやっていけず、一緒に働けない人々だったことは、みなさんご存じでしょう。しかし、彼らはこのように共に協力して働き続けました。そして、これは確かに、彼らの間における偉大な勝利を物語っていました。この勝利を、完成した時に城壁は表すことになっていたのです。
その城壁が完成した時、それは大きな勝利でした。それは、あらゆる個人的利益、天然的気質、好き嫌いに対する大きな勝利でした。それは、あらゆる領域でなんという勝利だったことでしょう!あの城壁は、個人生活における勝利、人間関係における勝利の証しでした――「彼の隣で」「彼の隣で」「彼の隣で」は勝利の証しでした。想像力を働かせるなら、もしかすると、この隣り合っていた人々の地位・能力・天職には実際のところ食い違いが見られたかもしれません。その場にいれば、だれが隣り合っていたのかを述べることもできたでしょうが、世人から見ると見事なまでにごちゃ混ぜでした。共通点は何もありませんでした――祭司たちも金細工職人たちも薬剤師たちも、貴族も平民も、皆が互いに隣り合って働いていました。全然ごちゃ混ぜではありませんでした。素晴らしく調和していました。それは彼ら自身の心の中にある勝利のおかげでした。なんと壮大な証しでしょう!
あなたの新約聖書を見てください。使徒行伝の最初の数章に記されている初期の時代、これはなんと真実だったことでしょう!個人的な関心事は脇にやられました。様々な地位、様々な能力、様々な人生観、様々な気質・気性の人々が、みな一緒にされました。核となるこの十二人の一団は、内なる強力な勝利の輝かしい、驚くべき証しではないでしょうか?彼らがもともとどのような者だったのか、また以前どのような者だったのかを考えてみてください――彼らがいかに互いに喧嘩をしたり、口論したり、誰が一番なのかを争ったりしたのかを考えてみてください――それなのに、今や彼らは共に立っています。一人の人のように立っています。何かが起きました。この「彼の隣で」という関係を実現する内なる勝利があったのです。使徒パウロは、神の教会に関する神の全き御思いを私たちの前に示す時、この関係をキリストのからだという絵図によって見事に示します。キリストのからだの肢体たちは関係しあっており、互いに関係しています。すべての部分が主によって定められた所にあり、他のすべての部分と連携して働いています。ああ、主の民にこの勝利が必要です!嫉妬、競争心、批判、悪意、個人的思惑や感情がないこと、そうしたものが何もないこと――これが証しです。主の権益が第一です。主イエスに対するこの証しは、こうしたものをすべて排除します。
私たちにこのような心を与えてくださるように、聖霊のこの支配的影響力の下で、このような証しを求める神のこの情熱に私たちを導いてくださるように、主に求めようではありませんか。そして、その実際的な面を大いに真剣に心に留めようではありませんか。それは、これまで述べてきたことをすべて意味します。再度あなたにお願いします。予型、図形、絵図から離れて、実際的な霊的現実に向かってください。私たちは神の恵みにより、代々にわたって主が関心を寄せてこられたものに、何かを付け加えるよう召されています――この証しを完成に近づけるよう召されています。しかし、どの時代も同じ原則が関係しており、同じ特徴を帯びていなければなりません――これらがみな真実でなければならないのです。