さて、戦いに移ることにします。主の全き証し、もしくは、完全・完璧な主の証しに関する戦いです。再度、直ちに申し上げたいのですが、これは特別な戦いです。救われていない人々の救いに関する戦いがあります。それには、主を知らない人々を主にもたらそうとしているすべての人々が関わっています。これは現実の戦いであり、これに関して現実に戦いがなされていることを、私たちはとてもよく知っています。クリスチャンであることや、クリスチャンとして生きていくことに関する戦いもあります。主の道を進み続けるのは、容易なことではありません。私たちが歌う戦いの詩歌のほとんどは、クリスチャン生活全般と関係しており、確かにその正当な地位にあります。なぜなら、クリスチャン生活には戦いとしての面が確かにあるからです。しかし、こう述べても、すべてを述べ尽くしたことにはなりません。主の究極的御旨に関する特別な戦いがあるのです。この戦いは、この御旨と関係するものである場合、別の性格を帯びたものになります。別の世界におけるものとなり、別の形体を取ります。今回の黙想では、この戦いに専念することにします。
そこで、このネヘミヤ記に戻ることにすると、それは、結局のところ、新約聖書の中に、特にエペソ人への手紙や黙示録といった箇所の中に見いだされる、霊的・天的現実の一つの絵図にほかなりません。それらの箇所で、私たちはとても大きな戦いに直面していることに気づきます。この戦いは、目指す目的のゆえに、ある特別な形を取ります。この城壁こそが問題であり、問題の原因です。つまり、主がご自身の民に関して望んでおられることの全き表現の回復です。そしてこれにより、特別な性格を帯びた非常に積極的で執拗な敵意が引き起こされるのです。
敵
この書を見ると、誓いを立ててこの特定の目的の敵となった多くの人々について述べられていることに気づきます。そこで、彼らが反対した方法や形を見る前に、この人々について見ることにしましょう。サンバラテとトビヤとガシムがいます。この人々は誰でしょう?何者でしょう?ここで何をしているのでしょう?どうやってここに来たのでしょう?これらの問いに答えていくと、霊的反対勢力に関する核心に大いに迫ることができます。列王記第二の十七章に戻って、二四節からこの章の最後まで読むと、すべて説明されています。今はこれらの節をすべて読むことはしませんが、私たちをこの状況の中に導くにはこれで十分です。
「アッシリアの王は、バビロンとクタとアワとハマテとセパルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの子たちの代わりにサマリアの町々に住まわせたので、彼らはサマリアを占領して、その町々に住んだ。そういうわけで、彼らはそこに住み始めた時、主を畏れなかった。それゆえ、主は彼らのうちに獅子を送られ、獅子は彼らの数人を殺した。それで彼らはアッシリアの王に語って言った、『あなたが引いて行ってサマリアの町々に住まわせた諸国民は、この地の神の習わしを知りません……』。そこでアッシリアの王は命じて言った、『あなたたちがそこから引いて行った祭司の一人を、そこに連れて行きなさい。彼らに行かせて、そこに住まわせ、彼にこの地の神の習わしを教えさせなさい』。そこで、サマリアから引いて来られた祭司の一人が来て、ベテルに住み、どのように主を畏れるかを彼らに教えた。しかし、すべての民は自分の神々を造り、サマリア人が造った高き所の宮にそれらを置いた。すべての民は住んでいる町々でそのようにした(中略)彼らは主を畏れ、高き所の祭司たちを自分たちのために自分たちの間から立てたので、この人々は彼らのために高き所の家でいけにえをささげた。彼らは主を畏れたが、かつてそこから連れて来られた諸国民の習わしにしたがって、自分たちの神々に仕えた」(二四~二九節、三二~三三節)。
これらの人々が、ネヘミヤが争わなければならなかった人々であり、この働きの継続を挫折させ、妨げようとした人々です。彼らについて見て、彼らの成り立ち、彼らの構成要素について見ることにしましょう。
迷信的な人々
まず第一に、彼らは迷信深い人々です。ある出来事を見て、その出来事には超自然的な性格を帯びた背景があるという結論を下します。彼らは主を知らず、このことが主からのものであることを知りません。それには超自然的背景があり、オカルト的なものである、という結論に至ります。超自然的な領域の秘密を知り、その奥義の中に導かれさえすれば、この問題を解決できる、と考えて進みます。彼らが主のことでアッシリアの王に不平を鳴らしたことに注目してください。王は、その地から引いて来られた祭司の一人を遣わしたので、その祭司は主について彼らに教えました――しかし、その内容はあまりにも非現実的であり、偽りであり、誤った、完全に誤った領域の中にありました。ほとんどありえないことがここに述べられています。「彼らは主を畏れたが、自分たちの神々に仕えた」。ここの「主を畏れた」とは、それが主の民の間で意味するところのものを意味するわけでは決してありません。主を畏れることは、彼を実際に主とすること、そして、主である彼に徹底的・完全に服従するようになったことを意味します。それが主を畏れることの真の意味です。しかし、この人々はそうではありませんでした。主に対する彼らの認識は迷信的でした。恐怖、不幸、困難、失敗から生じたものでした。彼らの知識は彼らを決して主に導きませんでした。彼らは自分の神々に仕え続けました。こういう人々だったのです。これが考慮すべき最初の点です。
「彼らは主を畏れた」と一度ならず述べられていますが、これには何らかの意味があるにちがいありません。この祭司のことをどう言えばいいのか、どう考えればいいのか、私にはわかりません。彼は明らかに主について、エホバについて語り、彼らに何ごとかを教えました。しかし、彼らはそれを便宜上、問題から救われるために、間接的に受け入れたにすぎませんでした。ですから、彼らは主の御名を用いていたのであり、おそらく何らかの形で主を認識していたのである、と結論づけることができます。彼らは、表向きは主に対する礼拝の形式を取っていましたが、心の奥底では主を知りませんでした。主の御名を用い、主の事柄を用いていましたが、口先だけの者たちで、主を知る真の知識を全く持っていませんでした。彼らの宗教は模倣品、間接的なものであり、心からのものではなかったのです。
そして次に、いずれにせよ、彼らは常にバビロンに照会して服従していることがわかります。彼らはバビロンの王に仕えています。したがって、これらのことから、ネヘミヤに対するこのような敵意には十分な理由があったのです。彼らに対する真の試金石は、主にとって最も大事なこのこと、神の御心に最も忠実で最も近いこのことに対して、どんな態度を取るのかということでした。彼らはこれに関してどんな立場に立つのでしょうか?これが彼らを見極めます。
主との生き生きとした関係がない
もう一方の点から進んで、こう述べることもできたでしょう。「さて、ここにある人々と、名前が挙げられている指導者たちがいます。彼らは神と天にとって大いに重要なこのことに敵対しています。これが彼らの立場であり、姿勢であり、精神です。これはどうしてでしょう?」。その答えは本質的に、彼らは主との真の関係を持っていないということです。彼らがどんな告白をし、どんな語句を用い、どんな見せかけや形式を取っていたとしても、彼ら自身は主との生き生きとした交わりを実際には持っていません。この人々に関して私たちはここから始めることにします。
しかし、もう少し踏み込むことにします。なぜなら、彼らの指導者について述べられており、この人々は際立った人々だったからです。
まず第一に、サンバラテがいます。彼は「ホロニ人」(ネヘミヤ二・十)と呼ばれています。これは(おそらく)彼がサマリアの町であるベテ・ボロン出身だったことを意味します。彼はサマリアの町の一つの出身でした。彼はアッシリアの王がその地に住まわせたこの人々の一人でした。彼らについては、先ほど読んだ章に記されています。彼は彼らの一人であり、その類の人だったのです。
次にトビヤです。その発音に注目してください――「トビ・ヤ(Tobi-jah)」です。あなたの聖書ではそのような発音になっていませんが、これが正しい発音です。彼の名の最後が「ヤ(jah)」すなわち「主」であることに注目してください。この人は、表向きは主と何らかの形で関係していました。しかし、トビヤはアンモン人です。申命記二三・三を思い出してください、「アンモン人は主の会衆に入ってはならない。十代目になっても、彼らに属する者は永久に、主の会衆に入ってはならない」。そして、その理由が述べられています、「彼らはメソポタミアのペトルからベオルの子バラムを雇い、あなたたちを呪わせようとしたからである」。これがトビヤの背景です。神の嗣業を侵害しており、神とのつながりや関係らしきものがありますが、実際のところ本質的には主に敵対しています。これがアンモン人のトビヤです。
そして、彼の背景に戻って考えてみると、アンモン人はロト自身の娘たちによるロトの子孫の一つだったことを思い出します――旧約聖書全体の中で最も悲劇的な恐ろしい出来事の一つです。ですから、アンモン人をヘブル十二・八に記されている人々の中に含めなければなりません。「もし懲らしめがないなら(中略)あなたたちは(中略)子ではありません」――偽りの子です。私たちが使うのを控えている恐ろしい言葉ですが、神の子供のふりをしているのです。これがロトによるアンモン人です。神やアブラハムと関係していますが、内面的にはアブラハムの純粋な子孫ではありません。イスラエルの純粋な子孫ではありません。神の民の純粋な子孫ではありません。彼の名前は何らかの形で主の民と混ざり合っていますが、真の子ではありません――偽りの子です。これがトビヤです。肉的にその地と関係していますが、霊的には主から離れており、真に霊的な者を迫害しています。パウロが述べているとおりです。「肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害しました」(ガラテヤ四・二九)。これは常にそうです。
少ししたら、もう一人の人について見ることにします。その人はガシムです。一時はガシュムと呼ばれていましたが、同じ人で、「アラビア人」と呼ばれています。彼はエドム人かイシマエル人かのいずれかでした。どちらにせよ、かなり悪いです。彼らの歴史については、両者とも霊的なものといかに戦ったのかについては、ご存じでしょう。パウロは、ガラテヤ人への手紙で、これについて多くのことを述べています。女奴隷から生まれたこのイシマエルは、自由な女から生まれた者と戦いました。このように肉は御霊に対して戦い、地的なものは天的なものに対して戦います。あるいは、彼はエドムに属する者、エサウに属する者でした。どれほどエサウはヤコブに対して戦ったことか!彼は主権的選びの系譜の中にある者に立ち向かいました。彼は確かにある時、それをほふろうとしました。この両者は、エサウであれイシマエルであれ、エドム出身のアラビア人であれアラビア出身のアラビア人であれ、肉と御霊の間の戦い、天然のものと霊のものとの間の戦いを表しています。
肉的な人々
さて、新約聖書の手紙は、まさにこれで満ちていることがわかります。今まで述べてきたような、人々の救いに対する敵意や、クリスチャンであることに関する一般的な戦いが見られるだけではありません。神のいっそう豊かな御旨が示される所ではどこでも、特殊な攻撃も見られるのです。パウロが何よりも示しているのは、神の完全な究極的御旨です。彼を通して私たちは、主イエスに関する永遠のみこころと御旨についての広大で壮大な展望を持ちます。そして、まさにこれらに関する攻撃と、パウロは常に特別な方法で戦わなければなりませんでした。ペテロはこうした攻撃をあまり受けなかったように思われます。ヤコブには彼なりの困難がありましたし、ヨハネにも彼なりの困難がありましたが、パウロは特別な困難に遭ったように思われます。
まずは、このユダヤ主義者たちを例にあげましょう。彼らは常に彼を追いかけていました。彼がどこに行っても必ず、彼らは直ちに彼の後を追って、彼の働きを台無しにしようとしました。彼の務めを滅ぼし、彼に汚名を着せ、彼の使徒職を損なおうとしました。このユダヤ主義者たちはどのような人々だったのでしょう?クリスチャンではないユダヤ人ばかりではありませんでした。ガラテヤ人への手紙が正しければ、この人々はガラテヤの諸教会にこう言いました――「キリスト教は、たしかに許しますし、許可しますし、認めます。しかし、結局のところ、それはユダヤ教の付属物にすぎません――ユダヤ教の補足のようなものなのです」。彼らはそれをユダヤ教的キリスト教にしようとしました。ユダヤ人たち、ユダヤ教の指導者たちが、どのようにアンテオケに下って行ってクリスチャンたちにユダヤ教の律法を認めさせようとしたのかを思い出してください。彼らはユダヤ教の律法をキリスト教の中に組み込もうとしました。ユダヤ教の儀式をすべて守ってもクリスチャンでいられるようにしようとしました。ヘブル人への手紙はすべてその問題について扱っています。しかし、ここに誘惑されているクリスチャンたちがいます。律法を放棄したり、律法から離れたり、律法を認めて保持することをやめたりするように誘惑されていたのではありません――そういうことでは全くありません――そうではなく、このユダヤ教、律法とその慣習をキリスト教に付け加えて、この二つを組み合わせるよう誘惑されていたのです。彼らは、「あなたたちは割礼を受けなければなりません、あれをしなければなりません、これを守らなければなりません」と言われました。
パウロはこれを、彼らを信仰から逸らすものと考えました。それは彼らの背をキリストに向けさせることでした。このように教えた人たちはパウロの真の敵でした。私は、彼らはみな回心者だった、と言っているのではありません。彼らはある程度主と関係していましたが、実際には主に敵対していた、と言っているのです。それは奇妙な混合物でした――主の御名を用いているのに、主の全き御旨に逆らっていました。それは特異な種類の反対です。それは、一言で言うと、肉的な人々から来ます。往々にして、天然的な関心や思惑によって突き動かされている、影響力のある人々から来ます。ああ、たしかに、彼らは主を知っています。主について語り、ある種のキリスト教の形体を取り、神とそのパースンに関する根本的真理などに対してとても忠実です。しかし、この究極的問題になると、彼らは同意せず、往々にして敵対することがわかります。彼らはそこそこ進みますが、この完全な御旨を目にするとしり込みします。そして、この領域で、神の全き御旨に関して、現実の独特な敵意が生じます。神の全きみこころと御旨に取り組む時、クリスチャンやキリスト教の指導者たちから、この世からよりもはるかに大きな反対を受けるのも、不思議ではないのではないでしょうか?
ネヘミヤがエルサレムに来た時もそうでした。この人々は、「イスラエルの子らの益を求める人が来たことで、大いに嘆いた」(ネヘミヤ二・十)。あなたにはこれを理解できないでしょう。あなたはこう言うかもしれません、「この人々が主を少しでも知っていて、主を認識しているなら、主に関する彼らの話に何らかの意味があるとするなら、彼らは、『あなたが神の民のためにすることは何でも協力します』と言うでしょう」。しかし、彼らは恐れています――ああ、奇妙で異常なことです!――主が多く得れば得るほど、自分たちの所有はますます減る、と彼らは恐れています。これは真実であり、私たちはこれについて大いに忠信でなければなりません。これは事実です。常にそうでした。これが敵です。
新約聖書を見ると、これについて多く記されています――ユダヤ人の妬み、ユダヤ人の嫉妬について記されています。「彼をほうっておくなら(中略)ローマ人たちがやって来て、われわれの土地も国民も奪い去るであろう」(ヨハネ十一・四八)。彼らは自分たちのもの、自分たちが支援したものや取り組んだものを失うことを恐れています。「このままでは、私たちは失うことになります、人々を失うことになります。このままでは、何らかの損失を被ることになります」。これがどれほど真実かはご存じでしょう。これは特殊な恐れです。理不尽な恐れです――なぜ恐れているのか、彼らが一度も分析したり、調べたりしたことのない恐れです。しかし、理由があるのです。彼らにはわからなくても、私たちはその理由を知っています。確かに知っています。強大な王国があるのです。その王国は、救われていない人が救われることに抵抗し、クリスチャン生活を絶えず困難なものにしようとする一方で、キリストの豊かさや、ご自身の嗣業にあずかられるキリストが目に入ると、きわめて悪質化するように思われます。それは、何か独特な性格を帯びた特別なものを呼び覚ますように思われます。
反対の形態
少しの間、この反対のいくつかの形態について見ることにしましょう。これまで述べてきたように、この特別な目的が示されるとき、特別な種類の敵意と戦いが引き起こされます。それは、神の御旨を破るために、取りうるどんな形でも取ります。このネヘミヤ記には、これらの敵の側からの絶え間ない反対が見られます。彼らは、ある時は一つの戦術を試しますが、その後、それがうまくいかずに敗北すると、別の角度に転じてそれを試します。そして、それもうまくいかないと、また戦術を変えるのです。
「嘆き」
それで、第一に、この人が来たことを彼らは大いに「嘆いた」ことがわかります。しかし、それにあまり大した効果はありません。大きな損失を及ぼしません。私たちは彼らの大きな嘆きの背後に目を向けなければなりません。なぜ彼らは嘆いたのでしょう?もし主の権益に対する配慮が少しでもあったとするなら、これもまた実に不可解なことです。ネヘミヤはこの城壁再建の働きを行う自分の動機は、「私たちがこれ以上非難を受けないため」(ネヘミヤ二・十七)であると説明しました。現在の状況は、主の民が非難の下にあることを意味します。教会は辱めの下にあります――これはそういうことになります。世人は教会を重んじていません。主の栄光は覆われて、非難されています。「この人々に純粋な動機が少しでもあるなら、少なくともこの非難を取り去りたいと思うだろう」と、あなたは考えるでしょう。
しかし、ここであなたは状況の核心に至ります。というのは、前に述べたように、サタンの一つの狙いは常に、主の御名に汚名を着せることだったからです。常に、どんな手段、どんな路線を用いてでも、主の民の上にある主の御名を貶められるなら、彼はそうします。主の民の上にあった主への非難を取り除こうとする者がいたので、彼らは大いに嘆きました。これは恐ろしいことです。パウロは、まさにこれが理由で、多くの問題に巻き込まれました。彼はコリントのあの問題だらけの状況を解決しようとしましたが、コリントには彼に反対する人々がいて、彼について散々なことを言っていました。
軽蔑と嘲り
次に、彼らは主の民を軽蔑しました。「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか?一匹のきつねが上っても、彼らの石の城壁を崩してしまうだろう」(ネヘミヤ四・二、三)。彼らは軽蔑し蔑んで、「結局のところこれには何の意味もない、注目する価値もない――あまり真に受けてはならない!――」と考えようとしました。主の民の中には、この類のことに耐えられない人々もいます。彼らはその下でボロボロになります。彼らに劣等感を植え付けようとするだけで、それは功を奏します――彼らは倒れます。しかし、ネヘミヤは違いました。その非難は自分や同労者に向けられたものではなく――主に向けられたものであることをネヘミヤは知っていました。そこで、彼はここでこう述べています、「ああ、主よ、トビヤに目を留めてください」(四・四、五)。彼はこれを主に委ねました。しかし、この軽蔑に満ちた行動や姿勢は大いに現実的なものであり、大いに現実的で巧妙な悪魔の手口でした。これにより悪魔は、「自分はなれない者になろうとしている、全く何の価値もないことをしようとしている」という考えを植え付けようとしていたのです。「自分の行い、労苦、苦しみ、代価はみな、結局のところ何になるのでしょう?何の価値もありません!自分の人生が終われば、それはすっかりなくなってしまうでしょう」という考えを植え付けようとします。
もしそのような考えを受け入れるなら、あなたは主の証しの回復というこの事業の最初の段階より先には進めないでしょう。思うべき限度を超えて自分を高く評価したり、自分に委ねられた務めを過度に重視することは正しくありませんが、神が求めておられる御旨に関する天のビジョンを見るとき、私たちは自分のものではない威厳を帯びることになります。ネヘミヤは、その後、きわめて深い謙遜から生じた真の謙遜によって、こう言うことができました。「私のような人が逃げるべきでしょうか?私のようなもので、誰が宮に入って自分の命を救うでしょうか?」(ネヘミヤ六・十一)。これは彼の個性を超えた威厳でした。「私は大きな働きをしています」と彼は言いました。それは偉大な召命から発した威厳でした。威厳を与えるのは、この大きな仕事であって、私たち自身が何者かではありません。
激怒
今や、城壁は出来上がりつつあります。状況は終点に至ろうとしており、完成目前です。そこで今、敵は大いに怒ります。あのような嘲りには大きな意味があったのです。実は、敵は心底動揺していたのです。この激怒は、ここには考慮すべき何かがあることをサタンが認識していることを意味します。外面的にどんな態度を取っていたとしても、内側深くでは、ここには自分の王国を根底から揺るがすものがあることに気づいているのです。もし敵が激怒する日が来たら、これをすべて思い出してください。それはあることを示すものなのです――実は敬意の表明なのです。ここには価値ある何かがあることを認めるものなのです。悪魔が激怒しているのは、私たちが認識している以上のことを彼は認識せざるをえないからなのです。そこには彼にとって厄介な何かがあるにちがいありません。
これらの敵は大いに怒りました。そして激怒に駆られて、共謀して戦いに出ようとしました。しかし、これはネヘミヤの知るところとなり、彼は特別な措置を取りました。働いている人々を武装させて、片手にはこてを、もう片手には剣を持たせたのです。敵の計画がわかれば、戦いは半分勝利したも同然です。こうして、この陰謀は失敗しました。
策略
この反対は他にも多くの形を取りました。手紙についてはご存じでしょう。「オノの平地にある村々の一つで会見しましょう」(ネヘミヤ六・二)。「そして、この件について話し合いましょう」。とても狡猾です。ネヘミヤはそれに気づいています。彼らは彼を害そうとしていました。暗殺しようとしていました――それが狙いでした。そこで彼は言いました、「私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません」。これは失敗しましたが、敵は狡猾です。何とかして私たちを妥協させようとします。自分と合意させようとします。自分に有利で、私たちが追放されるような条件を見つけようとします。使徒パウロは、霊的戦いについての偉大な議論をすべて、まさにこの点に集中しています。「神のすべての武具を身に着けなさい。悪魔の計略に敵対して立つことができるためです」(エペソ六・十一)――悪魔の策略に敵対して立つことができるためです。
捏造
次に、捏造です。「報告によると、あなたが城壁を築いているのは、自分が王となるためであり、エルサレムには王がいることを宣言するためである、とのことです。また、あなたは預言者たちを任命して自分のことを説かせているとのことです」(ネヘミヤ六・六、七)。敵がこの路線を試すとき、時として非常に不愉快な気分になります。恐ろしい暗示です。「あなたは自分のために名を上げようとしており、自分のために地位を得ようとしています。これが、結局のところ、あなたの隠れた動機にほかなりません。すなわち、有名になりたい、ひとかどの者になりたい、世間に注目されるようなことをしたい、ということです」。もしあなたに少しでも柔和な心があるなら、この刺すような言葉はとても危険で残酷な言葉です――その代償は神だけがご存じです。敵は、あなたの労苦に対して、虚偽の動機を吹聴しようとします。「結局のところ、あなたは自分の目的しか考えていません。凄いことをして、名を上げようとしているのです」。
そうです、敵は何があってもやめません――嘘や中傷も辞しません。「これについての真実は何でしょう?これは本当でしょうか?」。とにかく、こうした敵の嘘から離れて立って、「それは本当でしょうか?これを否定する証拠を私は持っているでしょうか?」と言おうではありませんか。ネヘミヤは答えました、「あなたが言っているようなことは何もなされていません。あなたがそれらを自分の心の中で捏造したのです」。私たちもこう答えます、「これらの非難は真実ではありません!もし私が自分の目的を追い求めていたなら、これとは全く別の道をとっていたでしょう。もし私が、だれもが偉大な働きであると受け入れ、認め、承認するような、壮大で偉大なことをしたいと思っていたなら、私はこの道を取っていなかったでしょう」。私たちはネヘミヤと共に答えることができます、「そのようなことはありません」――それは嘘・中傷です。
脅し
次に、脅しです。ここに一人の人がいます。その人の家にネヘミヤは行きました。ネヘミヤは、妥協しない精神の持ち主でしたが、とても友好的な人だったように思われます。彼は、ある日、友好的にこの人に会いに行きました。この人は友人のふりをして、彼のことをとても案じているかのように言いました、「私たちは宮の中に行き、その戸を閉じた方がいいでしょう。彼らが来てあなたを殺そうとしているからです」。しかし、ネヘミヤは言い返しました、「私のような人が神の家に逃げて行って自分の命を救うべきでしょうか?私は入りません」。この人は、結局のところ、偽りの友人でした。ごく身近なところにいるユダでした。この人は、主イエスに向かって、「主よ、とんでもないことです。そのようなことは、決してあなたに起こってはなりません」と言うような人です。この言葉はペテロを通して耳に聞こえる形で発せられました――ほかならぬペテロから発せられました――しかし、主は直ちに言われました、「サタンよ、わたしから退け。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ十六・二二、二三)。親しさを装って来るのは、恐怖を生み出すための敵の兆候です。ネヘミヤはそれを指摘して、「彼らは私たちを恐れさせようとしているのです」と言います。恐れを入り込ませることに敵が成功するなら、私たちはおしまいです。
疲れ
この本を読むと、こうした問題を外部からすべて見ることができます。次に、内部から、「荷を負う者たちの力は衰えた」(ネヘミヤ四・十)という問題が生じます。人々は疲れ果ててしまいました。おそらく、この証しと共に進んで行くうえで、疲れほど大きな敵はないかもしれません。これについてはご存じでしょう。肉体的な疲れ以上に、落胆はなんと大きな影響を及ぼすことか。敵は疲れに乗じて押し寄せてくるのではないでしょうか?精神的に疲れて、もはや精神的に物事に対処できないと感じるとき――それはなんと危険な状態でしょう。
「荷を負う者たちの力」はなくなりました。それは危険な瞬間であり、ネヘミヤは疲労に直面して特別な措置を取らなければなりませんでした。ああ、油断してはいけません。敵はあなたを疲れさせるだけではありません。時として、敵はあなたを疲れさせます。私が思うに、疲れの大半が敵による消耗や促しのせいであることもあります。しかし、敵は私たちにすべきでない多くの愚かなことを行わせて、自ら疲労を招かせ、こうして有利になろうとすることもあるのです。しかし、そうであるにせよ、ないにせよ、常に覚えておいてください、敵は疲れを利用してあなたの前進を食い止めて、あなたの証しを損なおうとするでしょう。それは危険な瞬間です。疲れている時は、特別に注意する必要があります。
目を覚まして賢く祈る必要性
これは戦いです。その性質や形態については少し触れましたが、全体の状況が救われたのは、大部分、細心の注意を払っていたおかげであることがわかります。サンバラテやトビヤをはじめとする他の人々は、内部で起きていることを逐一知らせる秘密の情報提供者を持っていましたが、ネヘミヤも情報源を持っていました。彼は、敵の陣営で何が起きているのかを非常によく把握していました。そして、彼の綿密な警戒と粘り強い祈りが勝利の秘訣でした。「目を覚まして祈りなさい」(エペソ六・十八)。祈るだけでは十分ではありません――賢く祈らなければなりません。情報、知識、識別力、認識力をもって祈らなければなりません。なぜなら、これらが効果的な祈りの力だからです。
ですから、勝利してこの証しが完成されたのは、大部分、このように目を覚まして祈ったおかげでした。敵が巧妙な形で行っていることをすべて防ぐために祈ったのです。これだけでも一つの主題になりえます!これはまさに戦いです!実は、神が新しいことを行って、全き御旨をさらに回復しようとされる時、それには激しい特別な戦いが伴うのです。この戦いは多くの異なる形を取るかもしれませんが、その狙いは全く一つです――すなわち、その働きをやめさせることです。
主よ、私たちを最後まで進み続けさせてください。