第三章 天的啓示

T. オースチン-スパークス

私たちは、人と共に住むという神の偉大な永遠の御旨について考える際、エゼキエルの預言で「家の規定」と称されているものや、詩篇作者が「聖なることは、あなたの家にふさわしいのです。ああ、主よ、永遠に至るまで」と述べた時に言及したものについて、熟考してきました。私たちは、神の家がヤコブに示されるのを見ました。創世記二八章でそれが示された時から三五章で彼がベテルに戻る時までに、二十年の訓練の歳月がありました。その訓練は、彼をベテル・神の家にふさわしい者にするためのものでした。この後者の章で、主は彼に、立ってベテルに上りそこに住むよう命じておられます。すでに見たように、彼は次のことを理解するようになりました。すなわち、神の家は、絶対的な聖さと神の全面的権利と一致しないものをすべて放棄することを要求する、ということをです。そこで、彼は家族に自分たちの間にある異国の神々を捨て去るよう命じました。それらは偶像崇拝の象徴でした。偶像崇拝とは、神の真理によらない、人の考えによる礼拝にほかなりません。このように、神の家との関係は、人の考えではなく神の根拠に基づくものでなければならないことがわかります。

神は決してご自身の家を私たちの所まで引き下げたりはされません。私たちはそこに引き上げてもらわなければなりません。往々にして、神の家の真理が示された時から、経験的に理解してその中に定着するようになるまでに、長い期間があります。その期間の間、ヤコブのように、肉は不自由にされ、霊的性質を意味する新しい霊的な名を受けなければなりません。神の家に向かう途上、一人の人が彼と会って格闘したと述べられていることに注意してください。その途上、御使いたちも彼に出会っていましたが、彼と格闘したのは一人の人でした。この意味の正しい理解によると、それはキリストにある神であり、御霊によって完全に支配されている人です。この人が肉の人に挑んで、肉の力はいくらよくても弱いこと、肉の力は打ち砕かれてその力は衰えなければならないこと、人は自分の性質を示す名が変えられないかぎりベテルには住めないことを明らかにします。私たちは、肉の中にあるかぎり、決して神の家に住めません。これは私たちが御霊の中にある時だけ可能です。「肉にしたがう者は神を喜ばせることができません」。

新生の時、私たちはすべてを胚芽の形で受けます。神の全き御旨は、事実、最初から現存しています。しかし、何年も後になってはじめて、その胚芽に含まれていたものに気づくことが多いのです。神の家のような啓示は、救いの真理とは別の異なる真理であると思っている人が大勢います。しかし、実は、これこそまさに神が最初から目指してこられたものであり、それゆえ成熟・完成に向かって進み続ける必要があるのです。

ヤコブはまた、聖霊を受けた後でも、肉的な方法や地的な関係に逆戻りする危険性があることを私たちに教えます。これは、創世記三二章から三五章の間の期間に見られます。新約聖書にもそのような例がないわけではありませんが、常にきわめて危険な要素をはらんでいます。

最終的にベテルに到着した時、ヤコブは祭壇を築き、神の喜びと満足を物語る注ぎの供え物をささげました。彼は今や、主を喜ぶようになりました。そしてこれは、ふさわしい者ではなかったにもかかわらず、主が彼を喜ばれた結果でした。この注ぎの供え物によって、自分は全く主のものである、と彼は宣言しました。二八章で、ヤコブは神の家の啓示を受けましたが、実際の霊的状態はまだそれに達していませんでした。今や三五章で、彼はこの啓示に追いつきます。それはもはや苦しい義務ではなく、霊的な喜びと満足を与えるものになりました。彼は、自分自身の利益を中心に考える地点から、神の権益を最優先する地点に移りました。それは、光を持つか、命を持つかの違いです。

第二段階:天的啓示としての家

さて、神の家という偉大な真理のさらなる発展に移ることにします。今度の聖書の箇所は、出エジプト記の三二、三三、四〇章です。ここでおもに示されているのは、神の家に関係している人々の状態というよりは、むしろ、神のはなはだ特別な指示の下で、完全に神の御心にしたがって物事を構成する必要性です。少しの間、出エジプト記の十五章を振り返ることにすると、重要かつ興味深いことに、次のことがわかります。すなわち、紅海でエジプトの力が打ち破られ、敵が裁きに飲み尽くされたとき、モーセとミリアムは歌を歌いましたが、その歌の中に、イスラエルが解放された目的がこう示されているのです――「あなたは彼らを連れて行き、彼らをあなたの嗣業の山に植えられます。これは、おおエホバよ、あなたの住まいのためにあなたが造られた場所、おお主よ、あなたの御手が確立した聖所です」(十七節)。このように、神の家は、神の民が暗闇の権威から救われた究極的目的であることがわかります。ですから、主の個人的・団体的住まいは救いの目的と結びついているのです。二五章を見ると、主はこの問題に関して率先して、「彼らにわたしの聖所を造らせよう」と述べておられます。そして、これに関連して、その型がすべて細部に至るまで御心にしたがって作成されます。この思想は、今日の私たちが考える教会・神の家にも通じるところがありそうです。

この指示が出されてから、それが実際に遂行されるまでには、明らかに時間がたっているように思われます。その期間の間に、三二章と三三章の出来事がありました。神の民は過ちを犯しました。また、アロンによって金の子牛が造られました。ここで再び偶像崇拝が導入されますが、これまで見てきたように、それはエホバから完全に離れ去るという問題ではなく、人自身の考えに基づいて神礼拝を構成することです。それは、神を、神にふさわしくない水準に引き下げることです。創造主というよりはむしろ被造物の水準に引き下げることです。これが偶像崇拝の性質であることを覚えておきましょう。至高の神は排除されていないものの、人の考えに還元されているのです。

神の家と罪に対する裁き

この物語からわかるように、このためにモーセは民に対してきわめて厳しい対応をせざるをえませんでした。裁きと破壊がそれに続きました。モーセは会見の天幕を宿営の外に移しました。これは明らかに、三二章に言及されているものではなく、一時的なものでした。また、彼が神の住まいの意味に関して霊的な理解力を持っていたことは、きわめて明白であるように思われます。つまり、神の家は罪・暗闇・偶像崇拝から完全に切り離された場所であり、罪に対する裁きという土台の上に存在している、ということを彼は理解していたのです。

注目すべきことに、神の家が示される所には、悪の勢力が常に登場します。出エジプト記のこの箇所では、敵が偶像崇拝によって神の民の間に侵入して、神への礼拝をわがものにしようとしています。あの神の住まいの完成を妨げようとしています。エペソ人への手紙を見ると、これが最もよくわかります。この手紙の主題は「彼のからだである教会」であり、これに敵対して主権者たちや権力者たちが活動していることがわかります。神の真の家を破壊することに最も成功した敵の方法の一つは、神の啓示にしたがってではなく、人の考えにしたがって礼拝を構成することです。出エジプト記に示されている神の家は、すでに述べたように、山で示された型にしたがって造られつつあったものと特に関係しています。侵入したその偽物を対処するには、モーセとレビの子らが示したような霊的・祭司的エネルギーが必要です。彼らは剣を取って、情緒や天然的関係を無視して、この偶像崇拝を裁いたのです。「御霊の剣すなわち神の御言葉」は「生きていて力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通します」(ヘブル四・十二)。

さらに注目すべきことに、宿営では礼拝が人の考えにしたがって構成されていましたが、罪に対する完全な裁きに基づいて宿営の外に会見の天幕が張られた時、主は、人がその友と語るように、モーセと顔と顔を合わせて語られました。このように、交わり、交流、啓示は、たとえ宗教的なものだったとしても、人に属するいっさいのものからの完全な分離と深い関係にあります。新約聖書に移って、教会が実際に誕生する箇所を見ると、当時の宗教的体制から霊的に分離された一団を見いだします。その一団は、言わば宿営の外にいたのであり、そこに主はご自身の臨在を現わして、彼らをご自身の霊の家の最初の構成員とし、救われた人の一団を彼らのもとに集められました。彼らはこの剣、すなわち、刺し通し、切り分け、悔い改めに導く御言葉の力の下に服した人々でした。この意味で、教会はエクレシアつまり「召し出された」群れであり、「聖く、悪巧みがなく、罪人とは分離して」おられる方の性質にあずかっています。こういうわけで、「御霊による神の真の住まい」「彼のからだである教会」「神の家」を信者が知るようになるのは、歴史的観念や伝統的信認にはよりませんし、教理の提示にもよりません。聖霊による心への啓示によるのです。それは本質的に天的なものであり、霊的なものなのです。

使徒パウロは、教会の真の性質を示されるために、第三の天に引き上げられる必要がありました。そして、この地上の聖徒たちにその啓示を語ろうとした時、必要を覚えて、彼らのために熱心に、「どうか御父が知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて彼を知らせ、あなたたちの心の目が照らされますように」と祈りました。彼は続けてその寸法について、「その広さ、長さ、高さ、深さ」について述べていますが、この寸法は、新エルサレムが天から出て神から下って来る時の神の究極的住まいの寸法です。「神の幕屋が人と共にある」と述べられています。これは団体的に表現されたキリストの豊かさです。言い換えると、生ける神の教会です。今日私たちに必要なのは、人の観念ではなく神の御心によると神の家は何なのかについての新たな啓示です。すでに述べたように、神に属するものの中に人の判断や知恵のための余地はありません。すべては聖霊によるのです。