第三章 天からの務め

T. オースチン-スパークス

「天が支配していることをことを知った後、あなたの王国はあなたに確保されるでしょう。」(ダニエル四・二六)。

「神の見えない永遠の力と神性の特徴は、世界が創造されて以来、明らかに見られており、造られた物において認められているので、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ一・二〇)。

「しかし、キリストが来て、来たるべき良い事柄の大祭司となられ、手で造られたのではない、すなわち、この創造に属するものではない、さらに大いなる、さらに完全な幕屋を通して(中略)こういうわけで、天にある事柄の模型は、これらによってきよめられる必要がありましたが、天の事柄そのものは、これらよりもまさったいけにえによって、きよめられなければなりませんでした。なぜなら、キリストは、まことのものの型である、手で造られた聖所にではなく、天そのものに入られたのであり、今や私たちのために、神の御顔の前に現れてくださったからです。」(ヘブル九・十一、二三、二四)。

天の支配を、ネブカデネザルは認識するようにならなければならず、そのために主は彼をとても厳しい劇的な方法で導いて、「天が支配していることを知った後、あなたの王国はあなたに確保されるでしょう」と言われました。この偉大な神の御言葉が意味する内容の中に、主はいま私たちを導こうとしておられるように感じます。これを霊的に理解できるようになるには、聖霊の大いなる助けが必要である、と私はこれまで以上に感じています。私たちが話している事は、聖霊の明確な助けによってのみ、理解・把握することができます。私たちはこれらの霊的原則に直ちに戻ることにします。これらの霊的原則――天の支配――に、神ご自身に関することがすべてかかっています。

この御言葉が意味するところは次のとおりです。すなわち、聖書の中に神に関する事柄の体系が、多くの局面や側面、多くの詳細、多くの表現形式と共に示されていたとしても、それらは実体ではないのです。それらは、天的で、神聖で、霊的な法則や原則の表象にすぎません。地上の事柄は天の事柄の型にしたがって造られており、地上の事柄や自然界は、大部分、実際ではありません。天的で霊的な実際の反映・表象にすぎません。そういうわけで、私たちは、それを述べているヘブル書に進んだのです。地上に幕屋がありましたが、それは天の幕屋ではありませんでした。地上の幕屋に関するものはみな、偉大な天的体系を示す表象、感覚的表現にすぎませんでした。それは霊的法則や霊的原則の具体化でした。そして、型は過ぎ去って実体に場所を譲る定めにありました。

事実はこうです。天的な体系があって、それは全く霊的であり、一瞬たりとも天然の感覚では理解できないものなのですが、神はそれを型や絵図や様々な方法で描写してこられたのです。しかし、神の御旨は、人が型にすぎないものを握って永続させることではなく、それらすべての背後には、人がその中に入ることを神が望んでおられる霊的体系があることを認識するようになることでした。私たちはこれをある意味で知っていますが、適切に認識していません。そして、私たちがこれを適切に理解していないせいで、キリスト教圏は道に迷っています。キリスト教圏は表象を握って現実のものとし、そうして地上の事柄を目的とし、万物の背後に横たわっている霊的原理を見ることに失敗したのです。

もし事物だけにかかりっきりになるなら、遅かれ早かれ、なんの結果も得られないことにあなたは気づくでしょう。それは、あなたを進み通させることができず、自己目的化してしまいます。しかし、その背後にある霊的原則を理解して、たんなる事物から解放されるとき、直ちに、あなたはまったく無窮なるものの中へと突き進むことになります。神はこれらの霊的原則によって統治しておられます。天的体系が万物を秩序づけています。神と共に不可視の領域の中にある、背後に横たわっているものこそが、最終的・究極的なものなのです。

こういうわけで、全く神に属するものと関係しているものには必ず霊的な啓示が必要である理由を、私たちは理解することができます。それは聖霊によって啓示されなければなりませんし、聖霊によってのみ啓示されえます。それは、個人の側に霊的な状態がなければならないことを意味します。彼らの性質は、真の意味で、霊的でなければなりません。これは、私たちがよく知っているパウロの言葉です。彼が言うには、天然の人(魂の人)は神の御霊に属する事柄を受け入れず、それらを知ることもできません。それらは彼らにとっては愚かなものです。「しかし、霊の人はすべてを判断(識別)します」。

天然の人にとって、全く神に関するものはすべて、謎であり、霊的啓示によってのみ理解可能です。それには、その人は霊的存在になっていなければなりません。ここで、たんなる賢さはすでに排除されていることがわかります。それはここでは通用しません。発達した知性や力のようなものは脇にやられています。学識のようなものは、御霊に属するものとなんの関係もありません。天然の人は、良かれ悪しかれ、ここに立ち入れません。人間的能力はこの領域の中に入り込めません。天然の人は天然の事柄に頼ろうとするので、神は彼を排除せねばなりません。高慢な人は御霊に属する事柄の中に入れません。しかしそれでも、私たちは往々にして、あたかも物知りであるかのように人前に出てしまいます。私たちは、この地上で、ある種の長所や能力を持っており、それらを人前でひけらかしてしまいます。これがまさに現在の組織の恐るべき危険性です。人をひとかどの者に仕立て上げて、特定の地位に置き、人々の群れに対して権力を持つ立場を与えているのです。

神は高ぶる者を遠くからご覧になります。霊的祝福の真髄が欲しければ、砕かれ、揺さぶられ、粉々にされた、自分自身では全く無に等しい人のところに行かなければなりません。神はそのような人を通してご自身を注ぎ始め、望みのものを獲得されます。神が望んでおられるのは、このように最も深い意味で霊的な人々です。啓示を与えて、天が支配していることを示せるような、全く霊的な人々です。

繰り返しになりますが、これは、本質的に神に属する事柄の中に入ろうとしているすべての人に必要なことを示しています。神から出ているものに不可欠なことは何でしょう?上からその中に入らなければならないことです。水平的に物事の中に入ることもできます!――大学である程度準備することにより、あるいは、そのための他の準備によってです。そして、「務め」と称されている、この地上の物事の中に入ることができます。あるいは、水平的に聖書の教えの中に入ることもできます。それを知ることができますし、引用することもできるかもしれません。聖書のすべての教理の中に入り込むことができます。あなたは、「それを取り上げた」ので、このような形でその中に入ったのです。あなたはこれを「教会に加わること」と呼びますが、そのような形で中に入ったとしても、その中にいることには全くなりません。あなたは完全に間違った立場にあります。特別に神に属している事柄の中に入る唯一の道は、御霊の中で、御霊によって、啓示という方法で、中に入ることです。

その時、「務め」は、もはや教会や講壇や会衆等の問題ではなくなります。務めは外面的なものによって支配されるものではなくなります。神はあなたに啓示を与え、そして、あなたの骨の中には火が燃えているようになります。あなたは、自分が生きている時に対する神のメッセージを持ちます。天が支配しています。あなたは神の御言葉の中に、賢明かつ知的な方法で入り込むかもしれませんが、聖霊は聖書の背後になにかを持っておられます。それは人々のための聖書の素晴らしい話ではありません。それが終わった時、人々は「気の利いた話だった」と言いますが、大きな変化はあったでしょうか?彼らの存在の奥底に強力な影響を与えたでしょうか――どうでしょうか?彼らが神の御子のかたちに同形化されることについてはどうでしょうか?

あなたは水平的にではなく上から、務めの中に入ります。上からその中に入らないかぎり、神の御旨を完全に果たせる神の僕は一人もいません。そして、そのような方法で入る時、それはその人の人生に、凄まじい激変的性質を帯びた何かを引き起こします。これが、模倣が不毛である理由です。キリストを模倣することはうすら寒いことであり、その中になんの力もありません。とても麗しく神秘的ですが、あなたの存在の根底を変えることはありませんし、あなたを御子のかたちに同形化することもありません。物事を聖書の型にはめても、命は得られません。神に属するものはみな、聖霊によって造り込まれなければならないのです。

今日、天の支配が大いに必要です。しかし、聖霊がそれを行わなければなりません。組織的キリスト教の中に見られるものはそれではない、という事実を私たちは認識するようにならなければなりません。霊的な神の民は、自分たちはキリスト教や教会や教会制度の古い体系から分けられていると、ますます感じるようになりつつあります。人々は、これまで長いあいだ支配してきたものに、深い不満を覚えるようになりつつあります。霊的実際を求める叫びが上がっています。多くの説教は気の利いたものであり、機知に富んでいます。しかし、霊は飢えています。あらゆる活動がなされていますが、霊の命はありません。主は天にある事柄の性質を私たちに示してくださる、と私は信じています。人が地上に引き降ろし、取り上げ、永らえさせてきたものは、せいぜい、天にある事柄の貧弱な模倣にすぎません。非常に広大な領域では、それは天的な事柄の戯画にすぎないのです。

人は天的な事柄を握り、地に引き降ろし、それらを地的な事柄にしました。これにより、最初からすっかり道を誤ったのです。最初、事は御霊に属していました。人々は自分の家で、あるいは至る所で集まりました。大事なのは場所ではありませんでした。務めではありませんでした。主だったのです。人々は彼の周りに集まりました。しかしその後、人々が「公共の建物が必要だ」と言う時が来ました。そして、建築物が一つの要素となり、こうして諸々の事柄が発達していき、人が注目する地上のものとなりました。人々を引き寄せることを、彼らは欲しました。そしてこれが、教会を襲った最大の危機の一つの第一歩でした。威信、名声、世人を引き寄せることを求めた結果、教会の中に混合が生じたのです。大物をそれに所属させられれば、人々を引き寄せられます。悪魔の最大の手段の一つは、教会を大衆化させることです。最も重要なことが失われます。それは、教会とキリストは天然の人にとっては謎であるということ、そして、天然の人がそれを理解することを期待しても無駄であるということです。教会は本来、神の御心によると、霊的なものです。すべてを実際に支配しているのは、事物に関する神の観念であって、私たちの観念ではありません。主と共に進み続けるなら、全体的な体系の変化が起きて、私たちはますます物事を天の観点から見るようになるでしょう。天的な結果を得るには、天的な体系の中に入らなければならないのです。

「天」の意味

「天の支配」について述べるとき、「天」という言葉が最も大事な思想です。私たちは聖書における天の象徴的意味を理解したいと思います。聖書の中で天が示す最初の点は普遍性です。聖書全体を辿っていくと、天は普遍性を表していることを常に見いだします――すべてに浸透し、すべてを包み、すべてを含む、天の普遍性を示しています。天はすべてを束ねます。存在するものはみな、天の内側にあります――どんな惑星を訪れたとしても、天はその外側にあります。これが天という思想の普遍的原理です。その所で、あなたは霊的秩序を理解し始めることになります。

この普遍性は主イエスと密接な関係にあり、主イエスはそれと密接な関係にあります。彼は天的な方であり、天的な人であり、天的な主です。彼は――「わたしは天から来た」――「あなたたちは地からであり、わたしは天からである」というこの事実を、地上でなんと絶えず繰り返し強調されたことでしょう。彼が口にされた「天」という言葉は、途方もない意義に満ちています。なぜなら、彼は、神に関する一切のものの代表者だからです。この原則は、神に関するものを、絶対的に普遍的なものとして示しています。

コロサイ書の一章は、主イエスの素晴らしい普遍性を啓示しています。それは永遠の過去まで遡って、創造の時の彼を示します――「彼により万物は創造され」「彼から、彼を通して、彼に至るように、万物は造られ」ました。――諸々の時代を彼のパースンで覆い、あなたを時のない永遠へと導きます。この一つの章の中に啓示されている私たちの主イエスのパースンは、絶対的に普遍的です――すべての時代、すべての領域を含んでいます。エペソ書によると、彼はあらゆる天を越えておられます。主イエス・キリストの普遍性は、父なる神の御思いであり、御旨であり、御意向です。ですから、彼は神に属するすべてのものを包括的に表している方であり、あなたが霊的に神に属しているものの中に入る時はいつでも、直ちに、絶対的に普遍的なものの中に入ることになるのです。

もちろん、これが、私たちの主イエスの十字架の理由であり、古い人とそれに関する一切のものの磔殺の理由です。その理由は次のとおりです。あの十字架は、神の御旨よりも劣るものを終わらせ、清算するのです。というのは、事物は神の御旨よりも低い水準に引きずり降ろされてしまったからです。分裂、疎外、人や物の束縛が生じて、神と神のこの世界における人に対する御旨は制限されました。十字架はそのすべてを解消します。復活は、無限なるものへの、普遍的なるものへの、解放を意味します。私たちの主イエスご自身の場合、それは、もはやシリヤの数マイルの土地に縛られないこと、時間はもはや問題ではなく、地理ももはや問題ではなく、距離は関係ないことを意味しました。復活は普遍性を意味します。なぜなら、復活はあなたを霊的実際の中に導くからです――肉から解放されて霊の中に移され、人に属するものから解放されて神に属するものの中に移されます。私たちはピリポのように体ごと引き上げられたりはしないかもしれません。しかし、私たちの新創造の命は、また、私たちの務めは、普遍性を帯びています。私たちにはいかなる形の制限もありません。私たちは今晩この場所にいるかもしれませんが、それによって縛られてはいません――祈りによって地の隅々まで触れることができます。私たちは今、復活の立場に基づいて、解放されており、天の王国の解放の中に移されています。御霊の油塗りの下で、主イエス・キリストの普遍性の中に移されています。これが十字架の理由です。

ここで、子たる身分という問題の全容が見えてきます。子たる身分は常に復活と関係しています。主イエスの場合、彼は特に復活という根拠に基づいて神の子と定められました。これは、その前は彼は神の子ではなかった、という意味ではありません。子たる身分はこの根拠に基づきます。これはヨルダン川での出来事に象徴されています――予型としての復活という根拠に基づいて、御父の声が御子を証ししました。「あなたはわたしの子、今日、わたしはあなたを産んだ」――これは十字架の御業と深く関係していました。

子たる身分とは何でしょう?それは全く普遍的です。コロサイ書一章を読むと、子たる身分は時を超越していることがわかります。それは復活と関係しています。なぜなら、復活とは時を超越したところに入ることであり、時を超越した命――代々にわたる命――が入って来ることだからです。これが復活の命であり、それと共に、時間を超越した子たる身分がもたらされます。エペソ書を見ると、あなたは十字架により時の前に連れ戻されて、この世界を創造する前から神は私たちを御心に留めておられたことを示されます。ローマ書は同じことを述べており、神の永遠の御心・御思い・御旨を啓示していますが、それによると、世界を創造する前から神は私たちのことを御心に留めておられたように思われます。私たちは神に選ばれました―「予め知っていた者たちを、彼は御子のかたちに同形化しようと予め定められました」。私たちは彼と共に復活させられ、「違反と罪の中で死んでいたあなたたちを彼は生かして」くださいました。これに関連して、子たる身分の永遠性が見えてきます――予知と予定から見えてきます。子たる身分は永遠であるだけでなく、普遍的でもあります――この地上の事柄であるだけでなく天のものでもあります。私たちは今や、「アバ、父よ」と叫ぶ子たる身分の霊にあずかっているのです。

私たちの主の誕生の普遍性に注目してください――あらゆる普遍的要素が彼の誕生に関わっています。そこに天が関わっています。子たる身分の中に入るとき、あなたは神が人のために定めておられた所に立ち返ることになります。神は当初、人がご自身の宇宙の中心となるように定めて、ご自身の周りに万物を集めようとされました。人は、神の御旨により、御手の業を支配するよう定められていました。一人の新しい人――「彼のからだである教会」が完成されて――栄化される時、そのような結末になります。万物は教会を通して支配されます。子たる身分にあずかる人はみな、遍く子たる身分にあずかります。子とされるのは素晴らしいことです――罪を赦されて地獄から救われることを遥かに超えています。私たちの宣べ伝えの働きには適切な背景がなければなりません。地獄からの救いは、人に関する神の御旨の偉大な永遠の流れの中では、最初の小さな一歩にすぎません。子たる身分は永遠を含みます――すべての時代を含みます。「神の相続人であり、キリストと共同の相続人」なのです。子たる身分は時間を超越した普遍的なものです。なぜなら、子たる身分は霊的だからです。

天と、天の霊的な体系に属するものには、局所的でしかないものはなにもありません。ここにあるもので神に適っているものはみな、神の御思いによると、普遍的なつながりがあります。私たちは、神に属する一切のものが有している普遍性を見なければなりません。

パウロは偉大な例です。彼は特に天と関係していました。ダマスコ路の途上、天が開けて、彼は主の御声を聞きました。後に彼は再び天の啓示を受けました。その後ふたたび、彼は第三の天に引き上げられました。天について彼はなんと多くのことを述べたことでしょう!彼は、地上の限界から解放された素晴らしい例でした。

彼の国民性を見てください。これだけでも、彼の回心は奇跡中の奇跡だったでしょう。ここに過激なユダヤ人、ユダヤ主義者がいます――今日、これ以上に過激な原理主義者は地上にいません。ユダヤの伝統と権益のために彼が何をするのかを見てください。なにがあってもやめず、優しい気持ちをすべて捨てます。彼は、この道の者を男でも女でもすべて投獄する権威を受けていました。優しい気持ちはまったくありません――きわめて過激です。ここに一人の若者がいます。この若者の顔からは、天の栄光を仰ぎ見ている様子が伺えました。また、その口から「天が開かれて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」という言葉が発せられるのが聞こえました。しかし、タルソのサウロはユダヤ人的血気のゆえに、それをすべて打ち砕いたのです。彼はそのような人でしたが、後に異邦人への使徒となった彼を見てください。ペテロに抗議した彼を見てください。それは、ペテロは入って行って異邦人と共に飲み食いしていたのに、ユダヤ人たちが下ってきたら身を引いたからでした――「私は面と向かって彼に抗議しました……」。これが教会について書いた人です。天の啓示以外のなにものも、このような人を変えることはできません。この人が後に、「そこにはユダヤ人もギリシャ人も、男も女もありません……」と記したのです。そこでは、地に属するものにはなんの地位もありません。それでも今日、依然としてこの低い水準にある霊的な人々がいます――地的区別がなくなっておらず、一つからだのビジョンもありません。あなたや私はイギリス人でも他国人でもありません――私たちは天の市民であり、あなたは私のことを肉にしたがってではなく霊にしたがって知っています。もしそうなら、そこには一つ霊――子たる身分――があります。私たちの共通の立場がそこにあります。御霊の一致は御霊の一体性です――これが普遍性です――天が支配しています。神の観点では、天が支配しているのです。

コリント人たちを大いに悩ませた問題は、「あなたたちはみな、私はアポロにつく、私はケパにつく、と言って」いたことでした。自分たちが好む人々の選択を制限していたのです。彼らが人々の周囲を巡っていたので、パウロは「私はあなたたちに、霊の人に対するように書き送ることができませんでした。むしろ、肉の人に対するように書き送りました」と記しました。これは強力な原理の働きであり、こうしたものが入って来ると主は出て行かれます。

パウロはあらゆる面で、天の支配を行政上代表していました。諸国民に関するかぎり、彼は天の原則の体現者となりました。国々のようなものは彼にとってはもはや存在していませんでした――すべての国民の中から一つからだを形成するために、彼の務めは天的な務めでした――天からの務めでした。彼の超越性、天的性格を示す途方もない印は、彼の普遍的著作が牢獄、鎖、ローマの法廷といった状況から出てきたにもかかわらず、当時最もよく使われていた表現が「天上で」だったことです。彼は天然的には制限の中にありましたが、普遍的な務めをしていたのです。彼はこう述べています、「今後、私はいかなる人も肉にしたがって知ろうとは思いません」「愛すれば愛するほど、愛されなくなったとしても」。この人は人に属する事柄を超越していました。彼はコリント人たちのために愛を注ぎ出しましたが、それでもその手紙の中でパウロは彼らが自分について言っていたことを引用しています。パウロは地的感情を超越していました――天が支配していました。取るに足りないちっぽけなものから抜け出して、普遍的なものの中に入りなさい。子たる身分について多くのことを書き記した人の中に、子たる身分の実例を見ることができます。ローマ八章とガラテヤ人への手紙を読んで、子たる身分がいかに人に属するあらゆる地的制限――人の知性、思い、判断、姿勢、評価――からの絶対的な解放と自由を意味するのかを見てください。彼は御子によって自由にされていました。そして、御子が自由にされる者は、確かに自由なのです。

新しい人は、自分を創造された方のかたちにしたがって、新しくされつつあります。このかたちは普遍的なものです。主イエスを見てください。彼の誕生、バプテスマ、死の普遍性を見てください。主の死を記念することは、ほとんど儀礼的な儀式の問題となっています。しかし、神の永遠の御旨は、あらゆる国民の中から一つのからだを集めて、永遠の普遍性の中に移すことです。神のみこころは、ご自身の食卓を囲む会衆が天のものを身にまとって、生きた証しとなることです。儀式を行うことと、生けるものを記念することとは、全く異なります。天が支配しています。主はこれらの事柄の霊的意味を回復することを願っておられます。