第四章 主権

T. オースチン-スパークス

さて、「天」の二つ目の主な意味である、主権、超越性、優位性に移ることにします。聖書をあまり深く研究するまでもなく、天は霊的に普遍的なものを象徴的に表しており、次に、主権――統治・支配するもの――を表している、という結論に明確に辿り着きます。

創世記の冒頭からご存じのように、神は天に大きな光を置いて昼と夜を統治されました。この意味で天が支配しており、聖書全体を通してこの原則が象徴や型――天体と天の秩序――において維持され続けます。よくご存じのように、目に見える宇宙は天の秩序によって統治されています。ご存じのように、私たちの海の潮流、海流、この地上のすべてのものは天体によって統治されています。もし天に太陽がなかったら、私たちは今日ここにいなかったでしょう。人は、太陽が発するものを利用することで、偉大な発明をしてきました。星々が導いています――天が支配しています。

これは、神に属するいっさいのものに関して統治している霊的なものを表しています。その統治の結果、主権が到来して、天に見られるような主権と共に優位性も到来します。

「天が地よりも高いように……」

「あなたの御手のわざである天を思う時」、優位性、高揚、超越性を得ます――すべてを凌駕します。これらは霊的原則であり、私たちが今まさに住んでいるのはこれらの霊的現実の領域なのです。

型や表象を離れて本体そのものに向かう時、あなたは天が支配するというこの事実によって霊的な奥義――霊的啓示――を有する立場に導かれます。神があなたに事の内なる霊的な面を啓示される時、あなたは霊的に優位な権威ある立場に置かれることになります。万物よりも高くされて、権威・統治・主権の地位につくことになるのです。

さて、私たちはこれまで、すべてを主イエスのパースンの中に集約してきました。彼はこの天的体系全体を代表しておられます。彼に関するものはみな、これらの霊的原則を実証していることを、私たちは見てきました。この主権と優位性の原則を理解するとき、天が代表者である彼のパースンと使命に関して実際に主権的に大いに支配していることがわかります。

福音書は、天にあって人を支配し事物を支配しているものと共に導入されます。これは興味深いことであり、大きな意義があります。私が言っているのはマタイによる福音書の冒頭のことです。もちろん、私が星のことを述べていることはおわかりでしょう。この福音書は、天に見えるものによって導入されます。そして、それが人々の世話を引き受けて、彼らの進路を導きました。そして、天によって支配された進路により、彼らをキリストのもとに導きました。この原則は、福音によって主イエスのもとに導かれるすべての人、あるいは「御子に関する」福音の中に導かれるすべての人と関係しています。これは天の働きであり、天に主導権があります。天の支配をある程度理解・認識しないかぎり、私たちは決して「御子に関する」福音の中に完全に入り込むことはできません。

つまり、「御子に関する」というこの句を使った人は、天にあるものによって御子のもとに来て、主イエスを経験的に知るようになったのです。人が見た最も驚くべきことでした――ナザレのペテン師と思われていた者が、突然、神の御子として啓示されたのです。これにより、この人は顔を伏せました。そして、彼が発した最初の言葉は「主よ……」でした。天が支配しています。福音の天的な面を見ないかぎり、私たちは決して福音の豊かさの中に入り込めません。それまでは、私たちは彼のことを救い主としか見ておらず、君主とは見ていません。神の順序は「君主であり救い主」です。多くの人は彼を救い主と見て、そのような方として彼を受け入れます。そして、おそらく何年もたってから、彼を主と見て、全く彼に明け渡します。これは順序が間違っており、その間、あなたは神が意図しておられる多くのものを失います。私たちはこれを神が述べておられるように述べる必要があります――第一に君主です。つまり、私たちの生活の中のあらゆるものよりも高く上げられて、王座についておられる主イエスです。救い主である彼を持つことは、その中に含まれます。救いのためだけにキリストを受け入れる人々は、福音の一部しか得られません。

パウロが福音の中に入ったのは、まず第一に、主であるイエス・キリストを見ることによってでした。彼は天にあるものを見て、イエス・キリストの主権によって救い主のもとに来ました。これが全き救いへの道です。最初、福音は星によって象徴的に示されます――天に見えるものが、人々の進路を支配・制御して、救い主のもとに導きました。これはとても単純ですが、ずっと維持されるべきとても重要な原則・法則を表しています。マタイによる福音書の最後も全く同じ音色を奏でていますが、その間に様々な展開があります。「天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられました。それゆえ、あなたたちは行きなさい……」。最初に支配していた、天に見えたものが、今や発展して、ついにあなたは、この地上のすべての政治的部門はイエス・キリストの主権的支配の下にあることを見る、幸いな立場に至りました。「天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられました」。この世の政府は、目には見えませんが、主イエスの御手の中にあります。その背後には主権があり、いつの日か、彼は王の王、主の主となられます。

福音は主権の福音書であるマタイによる福音書と共に登場します。そして、この書には主イエスの主権の様々な象徴があります。「天」という言葉が出て来る回数は、マタイによる福音書では七十五回を下りません。また、この福音書では御使いもたくさん出てきます。というのは、御使いに出くわす回数は十七回を下らないからです。超越性、高揚、優位性を常に物語るもう一つの要素は、山々への言及です。山はマタイによる福音書の中に十四回出てきます。この山々について調べてみると、それらは何らかの統治する力において現れることがわかります。何らかの形で主はご自身が統治――支配――している事実を浮き彫りにしようとしておられます。この書は山で終わります。

ルカ書は恵みの福音書であり、ルカはエルサレムで終えます。これは恵みです――主イエスを拒絶した人々に対する恵みです。マタイによる福音書はエルサレムを脇にやって、ガリラヤの山に向かいます。主権はもはやエルサレムにはなく、今や主イエスにあります。「天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられています」――この原則が終始一貫しています――超越性、高揚、優位性、主権はみな、主イエスのパースンにあります。

さて、マタイによる福音書は、天に見えるものが支配するという原則と共に始まり、すべての権威が主イエスのパースンに与えられたことで終わります。そしてその間に、行政上の手段が導入されます。教会がマタイによる福音書に登場するのはきわめて意義深いです。十六章には、「この岩の上にわたしはわたしの教会を建てる。ハデスの門もこれに打ち勝つことはない」とあります。主権は教会と関係しています。行政上のこの手段と、主イエスのパースンにある天のこの主権とは、とても堅く結びついているので、ハデスの門もこれらに打ち勝てないほどです。次に、主は教会の権威について語り始められます――「あなたが地上で縛るものはすべて、天でも縛られ、あなたが地上で解くものはすべて、天でも解かれます」。これが教会におけるキリストの権威です。

主イエスに関する何らかの真理を知的に把握することは一つのことですが、聖霊の啓示によってキリストに属する事柄の中に経験的に入り込む時、あなたは上に立つ強固な立場――あらゆる支配を超越する立場――にあずかるようになります。ある真理、健全で正統的で聖書的な真理を得て、それを真理として提供することと、自分の心の中にその真理の内的な意味を啓示してもらって、それを提供することとは、大違いです。二人の人を例にあげましょう。一人は神の御言葉の何かを取り出して、それをメッセージとして与えます。そこには何の落ち度もなく、健全な教理なのですが、何かが欠けています。もう一人は全く同じ真理を取り出してメッセージを与えます。彼がメッセージを与える時、あなたは命を感じます――何かがあなたに届きます。一方のメッセージは他方と同じく真実でしたが、一方は本としての聖書から語り、他方は聖霊によって自分の心に与えられた聖書の啓示から語ったのです。後者は座って健全な説教を用意したのではなく、神の御言葉を膝の上に置きつつ、開かれた天から真理が自分の心に啓示されるまで主の御前で待ったのです。

素晴らしい説教者が大勢いますが、彼らは養っていません、建て上げていません、栄養を与えていません、満足を与えていません。命の経路ではありません、天の介入を感じません。支配するのは天であり、あなたは天にあるものを見なければなりません。エゼキエルが御使いに連れられて、測るための葦を持ってエルサレムの宮を巡ったことを、あなたは覚えておられるでしょう。そのような務めを持つには、まさにそうでなければなりません。示してもらわないかぎり、どうやって神に適っているものを示せるでしょう?同じように、聖霊に神に適っているものを啓示によって示してもらわなければなりません。啓示によって聖書にないことが示される、という意味ではありません。聖書の中にある、聖霊が開かれないかぎり見れないものを示してもらうのです――御使いがエゼキエルに示したように、私たちも連れ回されて示してもらうのです。このために聖霊は来臨されたのです。というのは、宮はキリストの型にすぎず、キリストを啓示する御霊は「わたしのものを受けてそれをあなたたちに示」されるからです――「彼はあなたたちをすべての真理の中に導」かれます。神の御心に適う事柄の啓示により、あなたは霊的権威と優位性の立場に導かれます。

私たちは主に、天上に在ることの意味を啓示してくださるよう、求める必要があります。天上は私たちが行くべき場所ではなく、私たちがすでに来ているのに気づいていない立場です――この立場は私たちを尊大にするためではなく、霊的・道徳的優位性を与えるためのものです。主は他の人々がそれに気づくようにされます。神に適っている事柄の啓示を受ける立場は強力な立場です。

この現在の時、イエス・キリストの主権と権威は、この地上における政治的なものではありません――人々の間に現れていません――「わたしの王国はこの世のものではありません」。しかし、彼の主権は霊的な主権です。彼は密かに統治しておられ、それには強烈な衝撃力があります。天上の中に入ることは、あなたが霊的・道徳的優位性を得ることを意味します。神と共に脱出する道は何でしょう?困難から、苦難から抜け出すことでしょうか?それは通り道です。地上であなたは何らかの苦難・困難・逆境の中にあります。解放を主に叫び求めても、主は解放してくださいません。そして、あなたは様々な心の葛藤に陥ります。なぜ主はあなたを解放されないのでしょうか?彼はあなたが支配するよう訓練しようとしておられるからです。解放の道は、あなたの霊によってそれを克服することによります。あなたは、「主よ、私はこれを支配して、あなたの御旨に役立たせます。そして、霊の中でその下に落ち込むことを拒みます」と言わなければなりません。この立場を取る時、あなたはそこから抜け出します――神が入って来られます。私たちは自分の問題から解放されることを願っていますが、主は私たちがご自身にあって問題を克服することを願っておられるのです。

パウロもそうでした。彼の肉体のとげは、ある意味において彼を苦しめましたが、彼はそれを克服していました――そのとげは彼に役立つものでした、彼はその餌食ではありませんでした。これが天の支配です。それには効果があります――私は何度もこの効果を実証してきました。問題は、時として私たちがあまりにも蒙昧で、盲目的に進み続けることです。それに屈したり、敵に目をくらまされたりしているうちに、突然、その下にいてはならないことがわかってきて、「主の御名の中で、私はこれを克服します」と言うようになります――天によって抜け出すのです。

主は私たちに、まず、天が支配していることを示し、次に、私たちを霊的にも統治的にもご自身の高く上げられた地位――ハデスの門も私たちに打ち勝つことはありません――に導いてくださいます。そして、地と天のすべての権威が御手の中にあるというあの偉大な地位へと導いてくださいます。

神の今の御旨は、行政上の手段を確保して、その手段を統治のために訓練することです。人々は、主はなぜ宇宙から悪魔を一掃しないのか、なぜ苦しみや苦悩を止めないのか、と不思議に思っています。というのは、御言葉は私たちに、私たちの主イエスは「悪魔のわざを滅ぼすために現れた」と告げているからです。このようなことがすべて許されてきたのは、教会を個人的にも団体的にも試練を霊的に克服する立場に導くためです。神の御旨は私たちをより高い地位に置くことであり、それこそがキリストにあって私たちが占めるべき適切な地位――そこでは天が支配します――なのです。あなたの霊が下にある時、あなたは落ち込んで、外に、下にいるしかありません。神は、私たちがそのような状態を克服することを望んでおられます。啓示はまさにこれと関係しています。素晴らしいことに、あなたが自分の立場をほとんど維持できずにのろのろと進んでいるとき、突然主はあなたに閃きを与えてくださいます――なぜあなたはキリストにある自分の立場を取らないのか?という閃きを与えてくださるのです。

主権は天的立場にあること、そして、「私たちはキリスト・イエスにあって天上に座らされた」がゆえに、天的立場は今や私たちのために主イエスにあって確保されていること、これは偉大な事実です。主権、統治、優位性、高揚――すべて私たちの主イエスの中にあります。そして、この地位にあって、私たちは物事を統治する者――霊的統治者――であるべきです。これは声の大きさや言い回しの問題ではありませんし、こぶしを握る問題でもありません。あなたの霊がおそらくとても静かに、深く、しかし、力強く、「いいえ、私は主権者である主の御名にあってそれを拒みます」と言える立場にあることが大事です。私たちは、キリストにあって静かにはっきりとした立場に立つことで、暗闇の勢力を弱めます。これは知的なことではなく霊的なことです。なぜなら、天は霊的なものを表しているからです。

私はエズラ記の七章を読んで感銘を受けました。この章は命令について述べています。王はエズラに命令を与えましたが、敵はその働きを妨げようとしました。しかし、彼は命令に基づいてやって来ました。エルサレムでの働きの遂行に関して王が三回使った言葉は「天の神」でした。天の神のおかげでエズラは命令を受けました。そして、その働きの達成を妨げようとする者はだれでも、しかるべく対処されました。あなたが天の神から命令を受ける時、神はあなたの使命が成就されるよう見守ってくださいます――あなたの敵があなたに打ち勝つことはありません。あなたがある場所から追い出されたとしても、神は他の扉を開けてくださいます。天の神の大使であることは偉大なことです。委員会や理事会や教会会議はあなたを地上のすべての教会から追い出すかもしれませんが、天の教会からは追い出せません。天が支配しているからです。