第六章 霊性

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:一コリント二・六~十五。

「律法が肉のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪深い肉の様で、罪のために遣わし、肉において罪を罪定めされました。それは律法の規定が、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、御霊にしたがっている者は、御霊の事柄を思うからです。肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安だからです。(中略)しかし、神の霊があなたたちの中に住んでいるなら、あなたたちは肉の中にではなく御霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません」(ローマ八・三~六、九)。

「さて霊の賜物については、兄弟たちよ、私はあなたたちに知らずにいてもらいたくありません」(一コリント十二・一)。

「というのは、私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、支配者たちに、権力者たちに、この暗闇の世の支配者たちに、天上にいる悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。こういうわけで、神のすべての武具を取りなさい。それは、あなたたちが邪悪な日にあって抵抗することができ、またすべてのことをやり抜いた後も、なお立つことができるためです」(エペソ六・十二、十三)。

天の支配についての黙想を続けることにします。私たちは天の偉大な象徴的意味の二つ――すなわち、普遍性と主権もしくは優位性――を部分的に見てきました。今、「天」という言葉の三番目の意味に移ることにします。それは霊性です。これはきわめて重要な問題です。実に、他の一切のことの基礎です。これまで示してきたように、神の観点によると、すべからく最も重要なのは事の天的側面、天的意味、天的価値です――事に関する神の御思いです、人の思い・判断・観念・説明ではなく、神がそれによって意味しておられるものです――これが決定的なものです。そうである以上、次のことが直ちに明らかになります。すなわち、霊性はこの意味で重大な支配的要因――支配するもの――なのです。

主の子供である私たちですら、観念、判断、評価、物事の受け止め方や評価法は、非常に物質的です。私たちは、自分のこうした魂的感覚によって大いに支配されており、影響を受けています。物事が他人にどのような影響や印象を自然に及ぼすことになるのか、それらに対する彼らの反応がどのようなものか、それが人々の間でどれだけ重んじられるのか、ということによって、支配されているのです。大事なのはただ、それが世人に与える印象、他人がそれをどう思うかです。私たちの内における十字架の真の御業は、世人がどう思うかは問題ではなくなる境地に私たちを導くことです。これは簡単なことのように聞こえますし、私たちはその境地にあって当然のように聞こえますが、それでも、私たちはみなこの問題で看破されることが時々あります。それは人々にどう見えるのか、どのように影響を及ぼすのか、人々の前にどう立つのか、人々に重んじられるのか、「成功」とならわし称されているものを収めるのか、すべてが私たちのこの魂の命によって判断・決定・判定されてしまうのです。これは全く物質主義的であり、すべて感覚と関係しています。私たちは、こうした事柄が自分に全く影響を与えなくなる境地、あらゆることで天的視点を持つようになる境地に達しなければなりません――そのとき、聖霊により主イエスの御名の中に集められた二人または三人は、なんらかの地的な大義のために集まった千人または五千人よりも、この宇宙における強力な要因であることを、私たちは見るようになります。

霊性はとてつもなく強力な要素です。確かに、私たちは、自分の霊的生活においてすら、きわめて物質主義的です。矛盾しているように聞こえますが、これに疑いはありません。主が、ご自身と共に歩む一人一人の子供にしようとしておられることは、各々を霊的にすること、霊性を発達させることです。主は、ご自身の子供たちの霊性を高めることを、最も求めておられます。新生は霊的誕生であり、「霊から生まれるものは霊」です。真に再生された神の子供の中には二つの実体があります。それは、天然の人が善や悪と称するものではありません。この外なる人、この古い人、依然として天然的理性・天然的感情・天然的選択力を持つ人がいます。この人が依然としてあなたたちと共にいますが、その内側には、聖霊の生かしによって、もう一人の人、心の内なる人、新しい実体が生まれています。この人は霊の人です。神からのものがそこにあります。

神の中心的関心事

この「新しい人」に神は関心を寄せておられます。神の関心はすべてそれにあります。神が追い求めておられるのは、それを成長させて、成熟した状態にもたらすことです。それによりその人の残りの部分を取り扱うことができることを、彼はご存じです。魂と体は、主イエスにある贖いにおいてそれなりの役割がありますが、神は霊すなわち新創造の人から始めて、それを通してその人の残りの部分に働きかけて、その天然の人を虜とされます。新しい一組の能力を持つこの新しい人に、神は関心を寄せておられます。天然の人は、理性・理解力・感情、自己表現、選択力という能力を持っていますが、これらはみなこの外なる人と関係しています。再生され、天から生まれて、新しい人が誕生しないかぎり、霊的能力はありません。この新しい人は、天然の人にはない全く新しい一組の能力を賦与されています。霊的な理解力である理解の能力を持っています。神聖な事柄に関する新しい価値観を持っています。主は、聖霊によって、これらの能力の発達に注意を払っておられます。ヘブル書の著者は、私たちの霊の父が私たちをその中に導いて課される「子供の訓練」について述べています。それは、私たちの感覚がそれによって訓練されて善と悪を見分けられるようになるためです。しかし、それらの感覚は私たちの霊の感覚です――私たちの霊を成熟した大人にするためのものなのです。

これを見るとき、私たちは聖書のかなりの部分を理解できるようになります。「私たちは肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩きます」。「肉の思いは死ですが、霊の思いは命と平安です」。これは、ある事が神からかどうかをいかに見分けるのかという、導きにおける偉大な支配的原則の一つです。御霊の中を歩いているなら、あなたは、ある事が神からかどうかを、命と平安のあるなしで判断できます。もしその事柄が生きておらず、それに関して大いに不安を覚えるなら、それを放っておきなさいということです。しかし、あなたが神と共に歩いていて、それに関して平安と命を感じているなら、それは御霊の思いを持っているということです。それは、正しいか間違っているかに関する天然の人の理屈ではありません。それは、聖霊があなたの霊の中に住んでいて、命を与えておられるからなのです。それは、啓発された良心以上のものであり、聖霊が神の事柄を証ししておられるのです。

霊性とは何か

霊性とは、天が意味するところのものであり、統治するものです。霊性の度合いが、神の観点から見た終局性・確実性・確定性・力の度合いです。

霊性とは何を意味するのでしょう?霊的であることについて話す人のことを、この世離れした空想的で夢想的な人物と思う、大勢の人と私たちは会ってきました。彼らは、そのような人物のことを、抽象的になってしまって、実際的なものをすっかりなくした人と思うのです。そうではありません。霊性はとても実際的なことです。霊性は神秘主義の同義語である、と考えている人々もいます。しかし、神秘主義と霊性との間には大きな違いがあります。「神秘主義」という言葉を使うのは危険です。新約聖書で使われている「神秘(奥義)」という言葉の意味について、私たちははっきりさせなければなりません。新約聖書における「神秘」は、ある時までは覆われて秘密にされてきたけれども、今や明るみに出されているものを意味するにすぎません。「神秘主義」は全く別のものです。神秘主義は、常に物事の隠れた心霊的理由を見つけ出そうとするものであり、顕在化している物事の背後に回って潜在的要素についてなんらかの示唆を与えようとするものです。多くの聖徒が神秘主義者と呼ばれてきましたが、それによってその務めはすっかり台無しにされてきました。神秘主義は霊性とは全く別のものです。神秘主義は絵空事であることがしばしばです。霊性は現実的です。一方は純粋に魂の問題です。「神秘主義者」の中には、物事をきわめて美しく描写できる人もいますが、その道徳的性格の中核は邪悪であるかもしれません。

次に、支配的要因としての霊性の向上の問題に移ることにします。パウロがこう述べたことは覚えておられるでしょう。「私はあなたたちに、霊の人に対するようには書き送ることができず、むしろ肉の人に対するように、赤子に対するように書き送りました。私はあなたたちに乳を飲ませて、肉を与えませんでした」。しかしそれでもパウロの手紙は霊的な事柄でいっぱいです。「さて霊の賜物については、兄弟たちよ」(十二章)。これが意味するのは、この人々は霊的な事柄に大いに興味を持っていたということです。彼らは霊的な事柄にすっかり夢中でした。「霊的なもの」が彼らを大いに魅了していました。異言で語ることや、霊的であると称されている他の多くの事に夢中でした。しかしパウロは、「私はあなたたちに、霊の人に対するようには書き送ることができず、むしろ肉の人に対するように書き送りました」と言いました。霊的な事柄に肉的な関心を持つおそれがあるのです。今日、多くの人が異言で語ることに興味を持っていますが、それは肉的な興味です。それは誇示することのできるものです。霊的なものを見せびらかすために欲しがるのであれば、それは肉的です。それらは自分の感覚に訴える証拠だからという理由で求めるのであれば、それは肉的です。その領域にあるものを証明できるようになりたいと思うなら、それは肉的です。このように、霊的な事柄に関心を寄せていたとしても、依然として肉的であるおそれがあるのです。それでどうなったのかはご存じでしょう。彼らは「私はパウロにつく、私はアポロにつく……」と言っていたと、彼は述べています。「あなたたちは肉的であって、ただの人のように話しているのではありませんか?」。霊の人はただの人のように話すことができず、神のように話します。ただの人のように話してはならない、とあなたは命じられています。これらの事柄に関心を持つことは、霊性の印ではありません。その正反対かもしれません。

霊性の証明は、全く証拠がない時でも神と共に歩めることです。神がご自身を隠される時、信仰のみで歩まなければならない時でも、そうすることです。アブラハムのように、すべてが神を否定しているように思われる時でも、神を実証するものを求めないことです。神は、ご自分の子供たちを、ご自身の臨在を感覚的に示す多くの証拠がなくても、信仰によってご自身と共に歩むことができる、と信用できる地点に導こうとしておられます。神が与えてくださる証拠に頼らざるをえないのは、幼子である証拠です。無知な人々の間における神の御業の歴史においては、神は御力を示すために素晴らしいことをされたことがよくあります。しかし、彼らが真に霊的に自分の足で立つようになり始めるやいなや、徐々にそうした事は差し控えられるようになります。そして、神は彼らに、ご自身をご自身のゆえに信頼するよう要求されます。これが成長であり、霊性の増し加わりです。

近頃、私たちはこのような地点に導かれつつあるのではないでしょうか?主が私たちをしるしや不思議や自分の感覚を満足させることから乳離れさせられる地点、私たちが信仰によって主と共に歩むようになる地点、主が「よしよし、わたしはここにいますよ」と私たちの感覚を絶えずなだめすかさなくてもよい地点に、導かれつつあるのではないでしょうか?使徒が彼らを最終的にどこに導いたのかに注目してください。彼は「さて霊の賜物については、兄弟たちよ」と述べて、それらをすべて列挙していきました。そして、こう述べたうえで、彼はさらにこう述べたのです。あなたが大いに興味を抱いているものをすべて取り扱ってきたけれども、結局のところ、それよりも優る霊性があるのだ、と(十三章)。たとえこうした霊の賜物をすべて持っていたとしても、愛に欠けているなら、私は完全ではありません。一コリント十三章によると、ここに示されている霊性は、神の愛の表現・顕現です。この章を注意深く読み通すと、それは霊的成長を表していることがわかります。その基準に達せさえすれば、霊的に成長していることになります。もちろん、愛は霊の賜物に置き換わるものではありません。むしろ、それらの不可欠な基礎であり、支配的原理なのです。

このように、このコリント人たちは、霊的な事柄に大いに関心を持っていましたが、霊的成長は遅れていました。ですから、あなたは先に進んで行って、霊性の意味をもっとよく見なければなりません。霊性とは物事の神の面を理解することです。それは、まず、状態の問題です。「霊的である者は」。それは私たちの命の状態です。私たちは、一時的に霊的状態にあるだけでは、霊的な事柄を決して理解できません。一時的に霊的状態になった後で、霊の事柄が問題になるのです。

霊的知識の性質と力

知識の問題を考えてみましょう。人は「知識は力なり」と言いますが、それは天然的な知識のことです。知的な知識のことです。人々の間では、それは力かもしれませんが、天然的知識よりも遥かに強力な霊的知識があります。パウロは、この世の知識は命の主を十字架につけたほど愚かなものである、と再度述べています。それは、最高度に発達したこの世の知識です。支配者たちはこれを行いましたし、賢い人々もそうしました。「私たちは神の知恵について語ります」。霊的知識は途方もないものです。それは天の支配です。主ご自身を知る知識は、これまで人に与えられた中で最も強力なものです――主を知る真なる、個人的な内的知識なのです。

最終的に重要なのは霊的理解力です。人々の知恵は尽きることになります。彼らは急速にそれに近づきつつあります。彼らはこの世の諸問題を解決するすべを知りません。この世の状況を対処するすべを知りません。その日が来る時、人々がこの世を賢く統治する問題で完全に敗北する時、主を知る人々は強くなり、安らかになります。彼らは重要な存在になります。人々の心が恐れでくじける時、主を知る人々に彼らは頼ることになります。

しかし、全宇宙が霊的理解力・知識によって統治されるようになることを、あなたは理解しているでしょうか。天がいま支配しているというなら、どのように支配しているのでしょう?天使や大天使はどうやって神のみこころを知って、彼の命令を遂行しているのでしょう?彼らが神と協力してこの世界を統治しているのを、私たちは見ています。彼らは、言われたから知っているのではありませんし、座って考え抜いたから知っているのでもありません。直感的に知っているのです。直感は霊の機能であって、魂の機能ではありません。あなたがある人と一緒に暮らして、その人を完全に理解するようになるのと同じように、彼らは知ります。あなたは長く一緒に暮らすことでその人と一つになります。座って探求する必要はありません。その人があることをどう思っているのか、直感的にわかります。神が宇宙を教会を通して統治されるようになるとするならば、それはみこころを知る直感的知識によってなされるでしょう。次に何をなすことを彼が望んでおられるのか、私たちはわかるようになります。これは主との親密な霊的歩みと交わりの結果です。

私たちは、私たちを対処する神の御手の下に来ているのではないでしょうか?主がある時になさりたいことを感じ取るために狭い道に入りつつあるのではないでしょうか?主が望んでおられることや望んでおられないことを、あなたは心の中で知ります。それを主が望んでおられる時を知ります。それは御霊によってあなたに臨んだのです。それは霊的識別力であり、霊的知識たる霊性です。しかし、私たちは自分の頭で物事を考え、神聖な知識を人の理解力の水準に引き下げようとします。そこで、主は私たちを当惑させ、唖然とさせなければなりません。天然的能力で霊の事柄を取り扱おうとしているせいで霧の中にあるような状態に、私たちを陥らせなければなりません。彼は、みこころを内側に証しできる地点に私たちが至ることを望んでおられます。

「知恵と霊的理解力のかぎりを尽くして、神の御言葉を内に豊かに住まわせなさい」。

これは他の多くのことにも及びます。世人は強さを力だと考えていますが、主は愛と柔和さを力だと考えておられます。打ち勝ったのは愛であり、打ち勝つのは信仰です。何度も何度も神の偉大な勝利をもたらしたのは柔和さです。神はこれらのものを発達させられます。この宇宙で最も強力な力の一つは聖さです。主は、もし私たちが進み続けるなら、霊性をさらに加えてくださいますが、私たちに対する主の悩みは私たちが進み続けようとしないことです。私たちは依然として肉にあって歩いており、肉にしがみついています。自分のこの天然的能力をすべて持ち込んで霊的なことを行おうとしています。自分の熱意・情熱・力や、こうしたことを自分で考え抜くことが神のためになる、と思っています。それによって成し遂げられたものはなんであれ、いずれ火の試練に耐えなければなりません。永遠に残るのは聖霊によってなされたものであり、ただそれだけです。聖霊だけが神の働きをすることができます。もし聖霊が神の働きを私たちを通してしておられるのでなければ、私たちが神のためにしていることはすべて無駄になります。