第一章 キリストの堅固さ

T. オースチン-スパークス

「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・一、二、十二~十四)

「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)

「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)

「彼の土台は聖なる山々にある。主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの城門を愛される。」(詩篇八七・一~二)

詩篇四八篇十二節の御言葉は、シオン全体について黙想するよう述べています。「シオンを回り、その周囲を行き巡れ」。エルサレムとシオンに関する聖書の内容を、主イエスとその教会に思いを馳せずにまとめることはできません。世界のどこかのある都に関する聖書の記述をたくさん持っていても、私たちの霊的生活や、私たちの葛藤・苦難・困惑や、神と共なる歩みにとって、ほとんど価値はないでしょう。たとえその都に偉大な歴史があって、多くの争いや論争や対立の中心・対象として大いに注目されていたとしても、また、その都の国民が大いに喜び歓喜していて、詩篇作者たちがそれに関して詩篇や賛美や他の賛歌を作っていたとしてもです。記録されて伝えられた本としてそれを持っているだけでは、ほとんど私たちの助けになりません。聖書はそのようなものではありませんし、聖書の目的は教訓を引き出す本となることでもありません。つまり、大昔に起きた出来事から多かれ少なかれ教訓を引き出して実例とする、というものではないのです。聖書はそれを遥かに超えたものです。聖書に記されていることはみな、時間を超越しており、それゆえ、常に霊的に価値があります。一言で言うと、それはみな主イエスに集約されて、次に、聖霊の中で私たちにもたらされ、私たちの霊的経験において実際的・現在的な価値を持つものにされるのです。そして、エルサレムとシオンについて多くのことが述べられていますが、それはみな主イエスに関することなのです。すでに述べたように、座って、これらの名を帯びているものをまとめようとするとき、そもそもあなたが霊的に照らされているなら、何らかの形で神の霊から教わっているなら、あなたは主イエスのもとに導かれて、これらの事柄は大いに現実的な内的な形で自分に関係していることに気づくでしょう。ですから、御霊の中でシオンについて黙想するとき、キリストについて黙想することになります。エルサレムが多くの点で包括的な象徴であり、神聖な意義の象徴であるように、キリストもまたこれらすべての意義の実際であり、信者と生命的・有機的関係にあります。キリストはこの多くの面を持つ象徴によって語られます。私たちの人生に語りかけ、私たちの存在の深みにまで降りて行って、励まし・慰め・保証・必要ないっさいのものを与えてくださいます。詩篇しか知らない人でも、主の民を慰めて助けるために、どれほど多くのことがエルサレムとシオンに関して述べられているのか知っています。

しばしば指摘してきましたが、詩篇は人の必要をすべて網羅しています。神の民は、必要を抱えている時、常にこの書に向かいました。どれほど歴代の人々は、詩篇に向かって、意識しうるほぼすべての必要を満たすものを詩篇の中に見つけてきたことでしょう。まるで、詩篇を書いた人々は、人が経験しうるあらゆる経験を通らされて、その経験の中で神を叫び求め、神を見いだすようにされたかのようです。そうです、まさにそのとおりです。そして、その多くがエルサレムやシオンと関連しているように、それはみな主イエスを指し示しており、主イエスに集約されます。それがまさに意味するのは、彼こそ私たちのすべての必要に対する答えであるということです。シオンが昔のイスラエルや、こうした多くの経験をくぐり抜けた詩篇作者たちに語りかけたように、彼は私たちに語りかけてくださいます。

シオンの土台

さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台にです。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他に土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山々にあります。アブラハムに対する主の御言葉は覚えておられるでしょう。主はアブラハムに、遠くの山、モリヤの地に行き、そこでイサクを全焼のささげ物としてささげよ、と言われました。そして、モリヤ山の頂に到着して、時の流れを越えて見渡すと、次にモリヤ山が登場するのはダビデの時代です。イスラエルを数えたダビデの失敗の物語は覚えておられるでしょう。国土全体が荒廃しました。最終的に、モリヤ山の打ち場で、主にささげ物がささげられて死による荒廃は食い止められ、いけにえと宮、主の家の場所が確保されました。こうして、神の家の土台に関する別の局面、別の地点に到達します。次に、モリヤや他の地上の山の名には触れずに、その地点からダビデと共に長い時の流れをさらに見渡すと、アブラハムが求めていたものに至ります――土台のある都に至ります。キリストに至ります、天のエルサレムに至ります、そして、神がずっと目指してこられたものを目にします。そして、アブラハムの経験は土台だったこと、ダビデの経験は土台だったことに気づきます。イサクをささげた意味、彼を死人の中から返してもらった意味、モリヤ山でのダビデに対する神のあの大きなあわれみの意味を一緒にすると、霊的な土台が何なのかがまさにわかります。それらについてはこれから見ることになりますが、ここで見ている土台はシオンの土台です。

土台の重要性

土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります。私たちは自分の土台に基づいて常に対処されています。神は、私たちの土台やご自身の土台に照らして、私たちを取り扱っておられます。大きな建物が全く崩壊して、調べてみると、土台に問題があったことがわかることが時々あります。建物が非常に歪むことが時々あります。ほんの数日前、私はスコットランドである建物を見ました。その建物は建てられた時はまっすぐだったのに、今では片側ともう片側の角度がずれていました。窓は閉まらず、扉は合わず、何もかもが斜めでした。もちろん、その理由を説明するのは何も難しくありません。土台が崩れていて、雨風に耐えられなかったのです。その建物は開けた田野に面していました。その田野を越えて、彼方の山々から風が吹いて来て、土台を打ちました。そこにこの建物が建っていたのです。これは多くの人の生活にも言えます。崩壊しきった生活もありますし、歪み、ねじれ、全く逆さまで、混乱し、てんやわんやな生活もあります。これはまさに土台の問題です。上部構造にひどい齟齬がある生活もあり、土台となる働きの十分さに大きな疑問を投げかけています。往々にして、これは全く土台の問題です。上部構造の真理で、頭でっかちになるおそれがあります。教会、キリストのからだ、それ自体は全く正しいこれらの天的なものをすべて持っていて、それをみな教えの事柄として持っていたとしても、逆境の日に何かが起きると、私たちはバラバラになって、耐えることができません。暴露されて、倒れてしまいます。私たちはみな、こう告白しなければなりません。私たちは倒れます。土台の部分のどこかに弱点があるのです。

さて、その意味は何でしょう?私たちはどうしなければならないのでしょう?まず、土台との関係で、キリストについて新たに考えなければなりません。もし彼が土台であり、シオンが彼からその性格を受け継いでおり、シオンが聖書に記されているとおりのものであるなら――「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの城門を愛される」(詩篇八七・二)。「見晴らしの良いシオンは、全地の喜びである」(詩篇四八・二)――このように続けることができます――これらは真実であり、このようなシオンはその性格を土台から受け継いでいます。そうである以上、これらが私たちや教会にも言えるようにするには、私たちは土台に目を向けなければなりません。つまり、キリストにもう一度、さらにもう一度目を向けなければならないのです。

土台であるキリストの堅固さ

ここで一つ、これまで述べてきたこととの関連ですぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じることなく、泰然自若としていたことでしょう。彼を動揺させるもの、揺るがすもの、揺り動かすものは、何もありませんでした。彼は静かに、着実に、冷静に、地上や地獄からの敵対勢力のあらゆる猛攻に立ち向かわれました。まさしく、彼は岩でした。急速に勢いを増しつつある嵐――その性質を彼は完全にご存じでした――が彼ら全員の上に臨もうとしていました。それは歴史上最も恐るべき嵐であり、地上のあらゆる手段を通して働く地獄の勢力でした。まさにそれに直面して、彼は「あなたたちは心を騒がせてはなりません」(ヨハネ十四・一)と言われました。彼はご自身と彼らの上に臨もうとしている問題をご存じでした。「あなたたちは心を騒がせてはなりません」。そうです、これが主イエスです。堅固なのです!

キリストの堅固さの秘訣

しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼の愛好句は――「天におられる父」でした。彼の生活は全く、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づけられ土台づけられていました。「父」「わたしの父」という言葉は、心の関係を示唆します。

さて、御父とのこの心の関係は、私たちの場合は存在しないけれども、彼の場合はもともと存在していた、というものではありません。つまり、それはあらゆる方法で試練と試みを受けたものだったのです。サタンは最大限努力して、御父とのこの心の関係を妨げようとしました。「もしあなたが子であるなら……」(マタイ四・三)。すべてが、御父とのこの心の関係に集中していました。欠乏と弱さの中にあるこの御方を御父は顧みておられない、と示唆されています。「もしあなたが子であるなら……」。最後の恐るべき試練もこの同じ点に集中しました。「父がわたしに与えられた杯を、わたしは飲まないはずがあろうか?」(ヨハネ十八・十一)。ああ、なんと苦い杯でしょう!しかし彼は言われました、「この杯は――神がわたしに課されたものでも、飲まざるをえないものでもなく――父が私に与えてくださったものなのです」。わたしの父は、人がこれまで飲むよう要求された最も苦い杯を、わたしにお与えになりました――わたしの父がそれを与えてくださったのです。要点がわかります。それは恐ろしい杯ですが、御父から手渡されたのです。これは心の関係を物語っていないでしょうか?

そうです、その関係について、あらゆる方向から試され、それをご自身のものとされたのです。「あなたたちの天の父は知っておられます……」(マタイ六・三二)。「わたしの父……あなたたちの父」(ヨハネ二〇・十七)。天におられる父。そこに彼は根差しておられ、そこに彼の土台がありました。その場所は全くこの世の外にありました。そうでなければ堅固ではありえません。もし彼の土台がこの世にあったなら、堅固でも安全でもなかったでしょう。彼の土台はこの世の外にありました。ああ、神に感謝すべきことに、私たちの世界の外に安全な場所があるのです。使徒はもう一つのたとえを使って、幕の内側にある、確かで堅固な、魂が錨を下す場所について述べています(へブル六・十九)。これは同じことです。錨を下す場所であり、土台のある場所であり、外に根を張る場所です。キリストはご自身の土台を、地上の光景やそれに属するいっさいのものの外側に持っておられました。パウロはこれをこう述べています――「あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ三・三)。地上の光景の外側に隠されています。そうです、隠されているのです。土台は常に隠されていますが、ああ、なんと大事なことでしょう!

キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性

もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」とあるのは、彼の神性と神格を意味するものであり、彼が十字架上で偉大な贖いの御業を成し遂げ、死者の中からよみがえり、天に昇り、高き所の威光ある方の右にいて、再び来られることを意味するものである、これらのことが土台を成しているのである、と言ってきました。これはみな真実です、私を誤解しないでください、私はそれから何かを差し引こうとしているわけではありません。私が言いたいのは、たとえこれをすべて信じていたとしても、ひどく動揺させられて、全く倒れてしまうおそれがある、ということです。それを教理の問題、事実の問題として信じることは可能ですが、私たちの完全に正統的な教理、健全な教理と、私たちの生活の堅固さ、生活の実直さ、生活の一貫性との間のどこかに、何らかの溝が依然としてあるのです。どこかに弱さがあるのに、それをみな持っています。キリストが土台であるのは、たんに教理の問題ではありませんし、何らかの客観的方法によるのでもありません。聖霊はキリストの霊として来臨して私たちの中に入られました。パウロはイエス・キリストの霊の供給について述べており、イエス・キリストの霊の供給によって自分は事をなせると述べています(ピリピ一・十九)。彼は何を言わんとしたのでしょう、それは何でしょう?それは次のことをまさに意味します。すなわち、主イエスにあって成就・承認され、試練・苦難・試みを経て彼にあって完成されたものが、今や、聖霊によって、私たちの中で実際化されるのです。私たちは自分の性格を御霊により彼から受け継ぎます。また、私たちの心は、一度にではないにせよ、確実に、段階的に、より確信に満ちた、より堅固な、より動じないものとなっていきます。私たちが遭う初期の嵐は児戯に等しいですが、それでも子供にとってはささやかな逆風でも恐ろしいハリケーンであり、怖いものです。主と共に進んで行くとき、私たちは、子供では立ち向かえない霊的逆境という暴風やサイクロン、試練、攻撃に遭うようになります。そして、この新たな試練、新たな試み、主が許されたこの新しい攻撃の形態によって、自分が動揺していることに気づきます。ああ、神はほむべきかな、私たちは流されません。素晴らしいことに生き延びて切り抜けます。なぜでしょう?――イエス・キリストの霊の供給のおかげです。

イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「あの出来事を切り抜けられるとは思っていませんでした。あの出来事を乗り越えられるようには見えませんでした。あの出来事で私はおしまいのように確かに見えました。しかし、私は切り抜けました」と礼拝して言える地点にますます近づいているところです。このような形で彼は私たちの土台です。土台的真理は彼の神性と贖いであることを、私は承知しています。これは私たちの信仰の土台です。しかしどうにかして彼ご自身が中にやって来て、私の栄光の望みとならなければなりません。さもなければ、全く望みはありません。彼は内側で私の栄光の望みとなり、私の霊の中で確かな土台、揺れ動かぬ土台とならなければなりません。長年主とともに進んできた人々なら、大いにへりくだって、「そうです、私はよくその方面で引っかかっていたものでしたが、今ではその方面で引っかかったりはしません。それでひどく動揺する時もありましたが、神に感謝すべきことに、私はそれを乗り越えました。動揺しなくなったわけではありませんが、それに関してはかつてのように動揺しなくなりました」と言うことができます。ご自身の堅固さという問題について、彼は少しずつ私たちを導いてくださっていることがわかります。彼がペテロに「この岩の上にわたしはわたしの教会を建てる」「あなたはペテロ(岩の塊)である」(マタイ十六・十八)と言われた時、彼がまさに言わんとされたことは、岩のようであることだったのではないでしょうか?これは一人の弱い人に関する預言でした。その人が自分の主から自分の性格を受け継いで、その意味でキリストの一部となること、そして、聖霊によって、キリストに言えることが彼にも言えるようになることの預言だったのです。

岩のようであること――ああ、なんと多くこれらの詩篇では岩について述べられていることでしょう。「あなたは私の岩です」。何回、ダビデはこの句を彼の主について使ったことでしょう。土台がわかります。前に述べましたが、私たちは決して土台から離れ去れない、という感覚があります。つまり、神は絶えず私たちを土台の問題に関して対処しておられ、ますます私たちを落ち着かせ、しっかりとさせ、確信を持たせようとしておられるのです。この地上ではそれに終わりはありません。新たな揺り動かしはみな、これを実現するためです。新たな逆境はみな、土台の問題を対処するためのものです。私たちは決してそれらから逃れられません。言い換えると、私たちは信仰の試みや試練から決して逃れられません。信仰こそはすべての土台ではないでしょうか?キャンベル・モルガン博士はヨブ記に関する小冊子を出版しました。ヨブ記の最後の数章を見ると、これらの章で主はヨブとの問題を取り上げて、彼を外に連れ出して――「わたしが地の基を据えた時、あなたはどこにいたのか?」(ヨブ三八・四)と言われました。「このことやあのことについて、あなたは何を知っているのか?」。彼は神の計り知れない巨大さの中に導かれました。モルガン博士はこう述べています、神はヨブの問題にはいっさい触れず、ヨブのために彼の問題を解決しようとせず、ヨブの問いに答えようともされなかった、と。神がヨブの問題を対処された方法は、ご自身が主であることをヨブに確信させることでした。モルガン博士は述べています、ヨブが神を確信する地点に至った時、彼の問題はなくなって、消え去ったのである、と。そうではないでしょうか?主は、私たちの問いにお答えになりませんし、私たちの経験を説明して私たちの問題を直接解決することもなさいません。彼は、私たちがご自身を確信して問題がその力を失うようになる地点に、私たちを導くために働いておられます。「彼の土台は聖なる山々にある」。主はシオンのもろもろの城門を愛されます。そこに主は御心を留めておられます。

さて、アブラハムは神の友と呼ばれていることに注目してください。彼はどのようにして神の友になったのでしょう?どのようにして彼は、神がヤコブのすべての住まいにまさって愛しておられるもの――それを神は御心に留めておられます――になったのでしょう?それは彼が、試練を通して、試みを通して、御子イエス・キリストの霊を吸収したからです。それがモリヤ山の光景ではないでしょうか――イエス・キリストの霊がご自身の命、ご自身の魂を捨てたのです。そうです、アブラハムの中におられたキリストにより、試練と試みを通して、アブラハムは神の友とされたのであり、神は「わたしの友、わたしの喜び、わたしの愛する者。ヤコブのすべての住まい、これら地上のもの以上に」と言えるようになったのです。