第二章 キリストの勝利の命における合一

T. オースチン-スパークス

「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)

「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)

「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)

「彼の土台は聖なる山々にある。主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの城門を愛される。ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる。セラ。『わたしはラハブとバビロンを、わたしを知る者として挙げる。見よ、ペリシテとツロ、またエチオピヤをも。この者はそこで生まれた』と彼らは言う。しかし、シオンについては、『この者もあの者もそこで生まれた』と言われる。いと高き方ご自身が、それを堅く立てられる。主が諸々の民を記録される時、『この者はそこで生まれた』と数えられる。セラ。」(詩篇八七・一~二)

シオンやキリストについての黙想では、最初に土台に専念して、霊的堅固さについて述べました。この霊的堅固さは、キリストがこの地上におられた間、あらゆる逆境の下で、キリストにおいて実現されたものであり、その後、完成されて、イエス・キリストの霊の供給によって私たちにもたらされました。それはこの特別な点に関して私たちを彼ご自身のようにするためです――堅実で、不動の、頼りになる、静かな、確信に満ちた者とするためです――これは聖霊、イエス・キリストの霊の御業です。

これは安定性に関わる土台についての追加の言葉です。もし私たちが不安定なら、あまり遠くまでたどり着けないだろうことは明らかです。主が私たちを、実際にある程度、土台づけ、落ち着かせ、定着させ、安定させてくださらないかぎり、彼はご自身の家の責任を私たちに任せることはできません。彼の家は物質的な土台の上に建てられる物質的な構造物ではありません。霊的なものです。それは霊的責任、霊的務め、霊的生活、霊的交わり、神の家が表すいっさいのものであり、それを不確かな私たち、私たちの不確かな魂、揺れ動く私たち、私たちの頼りない自己の上に据えることはできません。それは、私たちの内におられる堅固なキリストに属するものの上にのみ据えることができます。

主と共に、また主のために責任を果たすために、信仰の全き確信、神へのこの信頼に至ることが、なんと重要でしょう!

死に勝利する命によって構成された家族

さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命である、ということです。これは漠然とした言葉であることは承知していますが、すぐに説明できます。前の章で指摘しましたが、土台のある都を求めていたアブラハムは、モリヤ山に行ってそこでイサクをささげ、彼を死者の中から返してもらわなければなりませんでした。神は、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記二一・十二)と言われました。ですから、この家族は、死に対する勝利から、死に打ち勝ち、死を征服した命から発しなければならないことは、大いに明らかです。天の家族、神の家族について書かれた御言葉を読むと、常に死と復活が隣り合わせであること、非常に密接に関連していることに気づきます。この天の家族を生み出して、それをこの土台の上に構成するには、死を実際に強力に打ち負かすものがなければなりません。そして、この家族では、その構成員はみな、第一に、死に打ち勝った命を持っており、この命によって生きることを学びつつあります。そして、死が残っているこの地上に滞在している間ずっと、最後まで、死に打ち勝つこの命の力を実証するよう求められています。

それは、私たちがその中に入って経験すべきものであり、実証・確立されるべき基礎です。あなたや私がキリストにあるその命を持つことだけでなく、絶えずその価値を実証し、その力を実証し、それをキリストの復活の力として知ることが土台となります。これがまさに事の土台です。アブラハムが信じるすべての人の父であり、霊的・天的子孫の父である以上、彼は原則上土台でもあります。そして、イサクから出る者が彼の子孫と呼ばれるからには、モリヤ山上で原理的にこの家族が確保されたことは明らかです。死が脇にやられて命が勝利することによって確保されたのです。同じことがモリヤ山で、長い年月の後、ダビデについても起きました。彼は国土に死を招きました。死が国土中に蔓延して、ダビデの愚かさと罪により、右も左も何千もの人々をなぎ倒しました。ついにモリヤ山のオルナンの打ち場でいけにえがささげられ、剣は鞘に収められ、死は阻止され、命が勝利しました。そして、それが神の家、死に勝利する命を最大の特徴とする宮の土台となったのです。

私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです。

これを主イエスに照らして考えると、もちろん、彼が「わたしはわたしの父、またあなたたちの父、わたしの神、またあなたたちの神へ昇る」(ヨハネ二〇・十七)と言われたのは彼の復活の時だったことがよくわかります。それまで彼が述べてこられたこと――「あなたたちの父、またわたしの父」――は、彼の復活により、その完全な霊的意義と真価において、はじめて真実となったのです。彼らは再生されて「イエス・キリストの死人の中からの復活によって生ける希望を持つ」(一ペテロ一・三)ようにされました。これは勝利の命というこの偉大な現実を体現する家族です。そしてこれに関して、使徒は私たちにとてもなじみ深い二コリント二・十五の御言葉「私たちは神に対してキリストの香ばしいかおりなのです」を述べています。別の点には触れずに、「命から命へと至らせる香り」というこの点に移ることにします。「私たちは神に対してキリストの香ばしいかおりなのです」。つまり、私たちは、キリストに属するもの、神にとって尊く受け入れられるもの、神が喜ばれるものを、神のもとに持って行くのです。それはキリストです。それは何でしょうか?他の人々の中で命となる命の香りです。私たちは死に打ち勝つこの命の知らせと力を他の人々にもたらしているのです。それは神にとってキリストの香ばしいかおりです。これが命の力の中にある家族です。

神はこの家族の上に建造される

土台に関しては、神は何の上に建造されるのでしょう?何の上にしか建造できないのでしょう?その答えは大いに明確です。神は命の上にしか建造できません。命の上にしか家族を築けません。私が思うに、神の御言葉、神聖な真理の中で、とても尊い点の一つは、まさに次のことです。すなわち、神の土台の霊的本質はこの家族である、ということです。私たちは、多くの事柄によって、またそれらの上に、建造することを考えますが、ここで多くの混乱が生じます。私たちは真理、教理、知識、光を基準にして建造することを考えます。こうした基準を始終作ってばかりいます、そして、それらのものが誤解によって家庭的雰囲気を壊すことがよくあります。真理や光を人間関係や交わりの問題とするとき、私たちは主の民を分裂させます。無意識のうちに、ほとんど無意識のうちに、分裂的なものが生じます。優越感、尺度や認識のずれが生じます。「彼らは見ていない!」「彼らは啓示を受けていない!」という言葉を発するようになります。この言葉の口調は、彼らはある部類に属しているが、自分たちは別の部類に属している、ということを暗に意味します。これはとても巧妙なことであり、自分の光の尺度を自分の交わりの尺度にしているのです。その結果は何でしょう?そのつもりは全くなくても、その結果は分裂、隔たり、ずれです。

あなたや私、そして主のすべての民は、どうすれば希望を持って良いスタートを切れるのでしょう?今、多くのことをすべて除外して、「そんなことは無理だ」と言うこともできます。もしだれもが同じ光の尺度を持ち、同じ真理理解、同じ解釈を持たなければならないとするなら、私たちは希望を持って良いスタートを切ることはできません。そうしてもどうにもなりません。しかし、あえて言いたいのですが、もし私たちが次のような姿勢を取って、それを堅く貫いたとしたらどうでしょう――すなわち、私たちは一つの家族に属しており、一つの家族の一員であり、私たち全員の内に、一つの命、ひとりのキリストを持っている、という姿勢です――もしこの姿勢を貫くなら、私たちは長い道のりを進めるでしょう。あなたは多くの点で私に同意しないかもしれませんが(そうでないことを私は希望します)、そのせいであなたは離れ去り、私と手を切って、私と何の関係も持たないようにするでしょうか?もしそうなら、あなたは教えや教理や解釈といったものを人間関係や交わりの基礎としていることになります。もしあなたがこう言ったとしたらどうでしょう、「私は特定の事柄、きわめて多くの事柄に目をつぶることにします。しかし、私たちは一つの家族に属しています。私たちには一つの土台があります。それは、私たちは同じ家族の一員であるということです」と。こう述べるとき、それは良い出発点となり、少なくとも私たちがどれだけ一緒にやっていけるのかを見るための土台を据えることになります。土台を正しなさい、土台の何たるかを見なさい、土台はあれやこれやのことではありません。私たちは一つの命を共有しており、一つの家族の一員である、ということです。また、その名にふさわしい家族なら、少なくとも、家族であるがゆえに、一緒にやって行こうと努めるはずである、ということです。これはとても初歩的なことです。ほとんど述べる価値のないことですが、まさにここでこの命の力が試されることがわかります。これが私の言いたいことです。「私たちは一つの命を共有している」と私たちは言います。そうなのですが、それはどのような類の命なのでしょう?それは抽象的なもので、自分たちが共有しているものを永遠の命と呼んでいるだけなのでしょうか?私たちはそれに、この人生を超えて自分たちを永遠に進み続けさせてくれるもの、という定義しか与えてきませんでした。

しかし、あなたと私が共有している命には、この宇宙のあらゆる破壊的な勢力を遥かに上回る何かがあります。それらの勢力が主イエスの十字架に集中しました。破壊し、崩壊させ、分裂させ、散らそうとしていました。彼の復活において、この命はこれらすべての破壊的な勢力を遥かに上回ることが証明されました。ペンテコステの日に、その命が何を行ったのかを見ることができます。主が裏切られた夜、彼らはみな散らされました。ペンテコステの日に、彼らは共にいます。そして、救われた人々について、彼らはしっかりと交わりの中に居続けた、と述べられています。何かが起きました。破壊・崩壊させる死の勢力や霊の勢力は対処されました。彼の復活において、交わりの中にある麗しい家族が生まれたのです。この命の中にあるのは、たんなる受動的な抽象的命ではありません。その中には統合して混乱を征服する力があります。それはイエス・キリストの霊です。

ああ、彼の十字架の前に、その群れが全くばらばらになることは、なんとたやすかったことでしょう!彼らが主と疎遠になり、互いに疎遠になること、その集団や群れ全体が分かれ、分裂し、なくなることは、なんとたやすかったことでしょう!彼にとって、彼らのことを見込みのない輩として諦めて、彼らと手を切り、「彼らはどうしようもありません。彼らを何らかの形で一つにすることは到底無理です」と言うことは、なんとたやすかったことでしょう。全くそんな状況でした。しかし、彼は「世にいるご自分の者たちを愛し、極みまで愛され」(ヨハネ十三・一)ました。彼は彼らを去らせませんでした。諦めませんでした。手を切りませんでした。「彼らはどうしようもありません!」とは言いませんでした。「何某さんは容認できません、どうしようもない人です!」とは言いませんでした。彼は分裂が生じるのを許されませんでした。最後まで、ご自身の愛によって、彼らをご自身につなぎとめられたのです。

イエス・キリストの霊は、あなたと私の中にこの同じことをなすために来臨されました。それは私たちが、自分の失敗や不完全さ、そして私たちを疎外し、引き離し、分裂させるあらゆる類のことのゆえに、やすやすと互いに離れ去ることのないためです。私たちは、自分たちと同じように見ていないからといって、他の人々を去らせることはできません。啓示を受けていないからといって、主の民を去らせることはできません。私の言わんとしていることはおわかりでしょう。イエス・キリストの霊はこの家族の霊です。そして、この家族は、同じように見ている人々、ある場所に集まって、ある解釈に夢中になっている人々だけで構成されているわけではありません。ちがいます!この家族は、それよりも遥かに大きなものなのです。排他的性質を帯びているものは何であれ、聖霊ご自身の家族的精神と家族的性質を侵害するものです。もし主が私たちを、私たちの本来の姿にしたがって、御思いとみこころに関する私たちの理解の度合いや、私たちがキリストに似ている度合いにしたがって扱っておられたなら、私たちはみなどうなっていたでしょう?とてもわがままな子供や、とても学ぶのが遅い子供――そうです、大いに罪を犯している子供に対する、彼の無限の忍耐と辛抱強さに、私たちは負っています!外面的なものを交わりの基礎としないようにしようではありませんか。この家族は全くそのようなものではありません。決して「物」を関係性の土台にしないようにしようではありませんか。土台はキリストであり、憎しみと死の力を全く対処して征服したキリストであることを、認識しようではありませんか。この命があなたの中に、そして私の中にあります。それは、分裂と死という線に沿って働く悪のあらゆる働きの領域で、その力と真価を証明するためです。土台は命、命であるキリスト、死の働きに勝利されたキリストです。自然界では、死が生じた所では、すぐに分解が始まることはご存じでしょう。命がある所には、依然として希望があります――命はまとまりを保つ基礎なのです。