第三章 キリストの命の不滅性

T. オースチン-スパークス

「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)

「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」(詩篇十一・三)

私たちは、永遠から永遠へと私たちを導く神の壮大なみこころと御旨について、膨大な量の教えを受けてきました。また、神のそれらの御旨に関する領域の多くに通じており、少なくとも知ってはいます。しかし、私は大いに悩んできました。なぜなら、それに見合うようには思えないことがとてもたくさんあるからです。まさに、それと食い違っているように、それと矛盾しているように思われます。それと密接に接してきた私たちの間ですらです。試み、所与の環境、敵の攻撃、厳しい試練、他の勢力の猛進の下で、倒れてしまうのです。主に誉れを帰すどころか、その正反対のものがたくさんあります。長い、長い間、この教えが受け入れられてきていて、知られているはずの所ですらそうなのです。これは他の人々だけの話ではありません。私たちはみな自覚しています、私たちが知っている霊的情報のかなりの部分を依然として内側に造り込んでもらわなければならず、「自分たちはそのすべてを生き生きと体現している」とは到底言えないことを。多くの弱さが見つかりますし、自分自身の中に建て上げられるべき多くのものが見つかります。これに気づいて、とても多くの事――主が与えてくださったものに遠く及ばず、多くの場合に多くの方面でそれに大いに反する事――と関わっていくうちに、私は心の中でこう考えました、「何が間違っているのでしょう?これは、結局のところ、土台の問題ではないでしょうか?私たちは、神の御旨や真理や啓示の上部構造に気を取られるあまり、前に述べたように、少し頭でっかちになってしまったのではないでしょうか。上部構造と土台の間の関係に、なにか全く正しくない点があるのではないでしょうか?」。こう私は考えました。これこそ、このメッセージに対する主の御旨だと私が感じていることです。私に関するかぎり、これが私の負担です。

そこで私たちは、自分たちの土台について述べ、キリストについて新たに熟考しました。エルサレムとシオンという象徴、予型、比喩を通してこれに迫りました、私はとても嫌な予感がしています。比喩や象徴は目前の実際的価値を曖昧にするような予感がします。そこで、私はこの枠組みから離れて、直ちに事の核心に迫り、主が求めておられるものであるとまさに感じていることを述べたいと思います。キリストご自身の中に土台があり、他の土台を据えることはだれにもできません。もしこの土台が壊されるなら、義人に何ができるでしょう?見通しに関する問いの形で述べられていますが、これは絶望の叫びです。なにもできず、不可能です。あなたがなにを言い、なにを教え、なにを与えても、全く無駄です、土台がなんらかの形で壊されているならば。欄外では別の時制になっていることに注目してください。むしろ過去形で述べているのです。あなたが手を尽くしても、義人に何ができたでしょう、あなたが手を尽くしても、何になるのでしょう、もし土台が壊されているならば。全く無駄です。

ですから、ここでまた、すべてが実際に土台の上に据えられているのか、その土台は実際のところ何を意味するのかを、しっかりと確認することがとても重要です。これは、土台が持ついくつかの意義を見ることで理解できます。

キリストの堅固さ

第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。どのように堅固さが彼の中に造り込まれて完成されたのかを、私たちは見ました。彼は、あらゆる嵐、逆境、試練、苦難を通られました。彼はなんとしっかりとしていたことでしょう、なんと堅固だったことでしょう、なんとゆるぎなかったことでしょう。次に、イエス・キリストの霊が、これを私たちの中に漸進的に造り込むために来臨されました。私たちは一度で最終的堅固さに達することはありませんが、この問題に関して前進していることを示す明確なしるしが確かになければなりません。以前はたやすく動揺していたけれども、今ではそれに関してたやすく動揺することはない、というしるしです。かつては特定の事で動揺させられたけれども、それらの事が私たちを動揺させることはもはやありません。それを乗り越えたのです。私たちは、今まで出会ったことのない新たな勢力や状況によって、依然として動揺するかもしれません。私たちは、根を張って土台づけられることが依然として必要な、新たな経験を通ることになります。それにもかかわらず、私たちは前進しています。かつては、初歩的な逆境に打ちのめされ、振り回されていましたが、もはや昔のようなたるんだ者ではありません。

新約聖書には、キリストにあって堅固であること、主にあって強くあること、常に豊かであること、不動であることについて、多く記されています。こうでなければ、全く乗り越えられません。私たちがその上に建てている建物はすべて崩壊することになります。私たちは永遠の御旨、永遠からの神の御心、教会、その偉大な召命と運命についてなんでも知っているかもしれませんが、もし下に根を張り、土台づけられ、しっかりした、堅固な、不動の者でないなら、つまり、土台である御方、揺るぎない岩である御方と一つでなく、この御方と調和しておらず、岩の土台である御方から岩のような性格を受け継いでいないなら、すべてはトランプの束のように崩れてしまうでしょう。

これは召命であり課題である一方で、これを励みにもしようではありませんか。なぜなら、私たちは多くの不可思議で説明のつかない逆境や苦難、神の側からも説明のつかないことの中を通らされることになるからです。それらの中に神を見ることはできませんし、なぜ神がそれを許されたのか、どのようにそれが神と一致しているのかもわかりません。ああ、そうです、次のように述べることは間違ったことではなく、多くの人の経験上正しいです――神の道は不思議であり、まったく究め難いのです。私たちは、まさに自分の土台、自分の信仰を揺るがせて、恐るべき疑問にとらわれて行き詰まりかねないことを通ることになります。今、主は私たちをその道に導かれます。堅固さの歴史は、一本の木の歴史のようです。その木は植えられた後、打ち続く嵐のたびに、一時的に根は少し緩み、状態は少し危うくなりますが、そのような嵐の影響の結果、より深く根を下ろすことになります。最大の暴風にも揺るがない丈夫な木は、さらにしっかりと深く根を張らせる多くの揺り動かしの総合的結果にほかなりません。これが私たちに対する主の道です。そうです、私たちの中には、ひどく揺さぶられて、きわめて深刻な問いを投げかけたり、きわめて深刻に「なぜ?」と疑問に思ったりしない人はだれもいません。しかし、これが確立される道なのです。ですから、結局のところすべてが疑わしく思われる時を通っているときでも、落胆してはなりません。ただ思い出してください。そのような時こそ、キリストの霊が、キリストの強力な岩のようなあの堅固さを、あなたの生活のまさに土台として、よりよく表されるための機会なのです。

勝利の命の統合する力

次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面でよく見られるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教会・キリストの一体性に関する真理をすべて持っているのに、至る所で自分と他のクリスチャンたちとの間に混乱を引き起こしています。それが統合する要因とならずに、分裂させる要因となっています。この真理は分裂させてはならないのに分裂させています。もし私たちが真に正しくキリストを理解しているなら、私たちの心の中には、すべての聖徒に対する神聖な愛がもっとずっと多くあったはずです。その愛は、私たちの特定の見解、私たちの特定の啓示の尺度、私たちが支持するものを受け入れる人々だけに対するものではありません。これはきわめて有害なことです。「もしオノ・オークに行ったことがないなら、あなたはなにも知らない!」と言う人々を私は至る所で見かけるようになりました。これが他の人々にどんな影響を及ぼすのかを見てください。それは分裂的であり、真理の誤った理解、誤った適用です。私たちはすべての信者の合一のためにここに堅く立ちます、たとえ彼らがキリストについてかけ離れた理解を持っていたとしてもです。もし彼らがキリストにあるなら、私たちは彼らと一つです。もし彼らがキリストにあるなら、彼らは私たちと一つです。この上に私たちは建造します。このキリストの上に建造します。土台は家族関係です。御父、御子、子供たちです。土台に正しく合わせてください。

キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る

さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なんと粘り強く生き残っていることでしょう!何度も何度も復興します。それは依然として世界的要因であり、すべての諸国民が考慮せざるをえない要因です。何回、エルサレムが倒され、包囲され、破壊され、占領され、所有されてきたのかを、考えてみてください。その長い興亡の歴史を考えてください。今日、エルサレムはかつてと同じように世界情勢に大きな影響を与えています。依然として台頭しています。今は、私は預言の領域に降りるつもりはありません。地的水準に降りるつもりはありません。それについてあまりにも多くのことが述べられています。神がそれをこの地上に置かれたのはただ、私たちに他のなにかを指し示すためです。エルサレムの歴史は、次のことを述べる神の方法です。すなわち、キリストに基づいて設立された彼の教会は、生き残るのです、勝利のうちに生き残るのです。そして、すべての紛争、すべての攻撃、すべての包囲、すべての壊滅的に見える状況の後でも、それは何度も何度も勃興して、最後には、この宇宙で考慮されるべき最高の要因として存在するようになるのです。

イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エルサレムの娘は、イスラエルにほかなりません。イザヤ書とエゼキエル書を見ると、この都の光景はまるでなにも起きなかったかのようであり、消え失せなかったかのようです。「彼は私を非常に高い山の上に下ろされた。その山の上に、町のような構造物があった」(エゼキエル四〇・二)。イザヤは後の預言で、エルサレム、シオンが栄光のうちに生き残ることについて、多く述べています。ああ、彼らはそれを手放しません、諦めません。これは彼らにとっては依然として無傷のままです。彼らは知っていました、信じていました、これは神が興し、神が制定し、神が構成したものであり、「すべて神が行われることは永遠である」(伝道の書三・十四)ことを。なにが起きても、それは生き残ります、勝利のうちに生き残ります。ああ、さて、「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」。私たちの土台は、主イエスの不滅の、永遠の堅固さです。主イエスが最終的に敗れるかどうかに、すべてがかかっています。主イエスは、結局のところ、退場されるのでしょうか?神の御旨は敗れるのでしょうか?これに対する私たちの答えが、私たち自身の内なる諸々の問いに対する答えです。

主イエスの意義は何でしょう?彼は私たちを離れてはなんの意義もありません。イエス・キリストの存在はまさに、ご自身の教会の存在と関わっており、暗示しているのです。彼は私たちから離れては存在できません。受肉の意義、彼の地上生活の意義、彼の十字架の意義、彼の復活・昇天・高揚の意義は、すべて彼の教会です。彼の教会に照らして見るときはじめて、彼は正当化され、その意義を理解することができます。「この岩の上にわたしはわたしの教会を建てる。ハデスの門もそれに勝つことはない」(マタイ十六・十八)。ハデスの門が勝つことはないのです!それは永遠の都であることがわかります。それは、時間の外側に、起こりうるすべてのことの外側にある、永遠の土台の上にあるからです。

真に土台と一致しているなら、私たちは生き残ります。真にキリストに根差しているなら、私たちは生き残りますし、最後に彼と共に立っているでしょう。それを妨げようとした他のものがみな倒れ、滅ぼされた時、その瓦礫の中から私たちは立ち上がって、彼と共に立つのです。

勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める

私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚や自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼ぶことはできません。私たちは罪を犯します。これを分析するなら、直ちにこれを証明できるでしょう。「すべて信仰からではないものは、罪です」(ローマ十四・二三)。いつであれ、神に関して少しでも疑問を持つなら、それは罪です。それはすべての根幹に達します。ほんの僅かな高ぶり、霊的高ぶりでさえ、罪です。「すべて心に高ぶる者は主にとって忌むべきものである」(箴言十六・五)。「高ぶる者を、彼は遠くから知っておられます」(詩篇一三八・六)。私はこの罪の問題について分析するつもりはありません。私たちは罪を犯します、酷い仕方で罪を犯します。失敗し、倒れ、間違いを犯し、弱さを見せます。そして、神の霊がそれを打たれたこと、聖霊が自分の生活の中でそれを責めておられることを、私たちは心の中で自覚します。自分がどれほど失敗しているのかを自覚します。そしてそれが、自分たちは捨てられることはない、脇にやられることはない、主は私たちを見捨てることはない、という私たちの確信を往々にして損なうものなのです。敵は、私たちの失敗を根拠にして、この確信を損なおうとします。自分たちは勝利して無事に切り抜けるという私たちの確信を弱めようとします。

結局のところ、私があなたたちに総じて言えるのは、シオンに戻れ、エルサレムに戻れ、ダビデに戻れ、ということです。ああ、なんと恐ろしいことでしょう!ダビデについて考えてみてください。彼は殺人者であり、彼の両手は人の血で染まっていました。その人の妻を得るためです。その他にも、モリヤ山で頂点に達したあの恐ろしい出来事に至るまで、彼のわがままのせいでイスラエルで数千の命が失われました。エルサレムの歴史を振り返って、預言者たちがエルサレムについて、その不義について述べていることを見、ダビデに対する神のあわれみについて考えてみてください。「ダビデに対する確かなあわれみ」(イザヤ五五・三)。なんという句でしょう!ダビデに対する、エルサレムに対する、シオンに対する、神のあわれみ、神の恵みです!神は私たちと手を切られたわけでも、私たちを見捨てられたわけでもありません。それは生き残ります。私たちが善良で、堕落することも罪を犯すことも決してないからではありません(これは私たちの罪の言い訳にはなりません)。神の無限のあわれみと恵みによって、私たちは生き残るのです。私たちは、イエス・キリストにある神の恵みの上に土台づけられています。彼が土台であり、神が私たちに要求されるあらゆる完全さについて、神に応じてくださいます。これこそが、私たちが勝利して生き残る道です。キリストこそが、堅固な岩なのです。