第四章 キリストの尊さ

T. オースチン-スパークス

「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの働きはあらわになります。なぜなら、かの日がそれを明らかにするからです。すなわち、それは火によって現され、その火自身が、それぞれの働きがどんなものであるかを証明するのです。もし、その土台の上に建てた人の働きが残るなら、彼は褒賞を受けます。もし、その働きが焼き尽くされるなら、彼は損失を被ります。しかし彼自身は、火をくぐってきたようにではあっても救われます。あなたたちは神の宮であって、神の霊があなたたちの中に宿っておられることを、知らないのですか?もし人が神のその宮を破壊するなら、神は彼を破壊されます。なぜなら、神のその宮は聖であり、それはあなたたちであるからです。」(一コリント三・十~十七)

「なぜなら、聖書にこう書かれているからです。『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い隅の石を据える。彼に信頼する者は、決して辱められることがない』。こういうわけで、信じるあなたたちには尊いものですが、信じない者には、『家を建てる者たちの捨てた石、これが隅のかしらになった』とあります。」(一ペテロ二・六~七)

「都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四はエメラルドであった。」(黙示録二一・十九)

最初に、土台であるキリストの問題に戻って、矯正的な言葉を述べることにします。私たちは、何のためにここにいるのか、何を求めているのかについて、大いにはっきりしていなければなりませんし、大いに確信していなければなりません。主に属する事柄の啓示が大きくなるにつれて、大きな祝福と豊かさが私たちに臨むかもしれません。これらの事柄はとても素晴らしく、とても豊かで、大いに示唆に富んでいるため、私たちは大きな感銘を受けるかもしれません。その結果、私たちは、自分たちが認識し、知るようになったこれらの事柄について、自分たちに示されたもしくは自分たちに啓示されたと言えるような事柄について、大いに話しだすようになるかもしれません。徐々に私たちは真理・光・啓示を特定の用語、特定の言い回しや特定の文脈で述べるようになり、ある種の教え、ある種の教えの形式、ある種の言い回しやある種の言葉で表現された教えを持つ人になります。そして、それを自分たちが得た場所と関連づけずにはいられなくなります。何が起きているかわかるでしょうか?なにかが形成されつつあります、そしてそれには多くの危険、多くの危機が伴っており、遅かれ早かれ、それが良い方向よりは悪い方向に向かっていることに気づくことになります。前に述べたように、それはとてもたやすく分裂的なものになり、隔てるものになり、この光とこの知識とこの種の教えを持つ人々とそれを持たない人々との間に一線を画すものになるおそれがあります。これがまさに事の成り行きです。

さて、これを述べないわけにはいきません。今日ここにいる私たちは、この問題を直視し、十分に向き合って、この問題についてはっきりさせなければなりません。なぜ私たちはここにいるのでしょう?なぜ私たちはクリスチャンとしてこの地上にいるのでしょう?何を私たちは求めているのでしょう?私たちの務めは何でしょう?キリスト教は終始一貫して何なのでしょう?なぜなら、光と啓示のかけらはみな、ごく初期の始まりから、拡大・増大のあらゆる段階を経て、最後にはどれほど満ち満ちたものになったとしても、一つのこと、ただ一つのことと関係しているからです。もしそれが真理、知識、光、教えを理解した結果でなければ、私たちは偽りの建物を建てていることになります。そして、すべてはまたもや、偽り、人為、虚構の領域のものとなってしまいます。何のために私たちはここにいるのでしょう、何を私たちは求めているのでしょう?

クリスチャンの目的は地上でキリストを示すことである

私の見るところ、このような問いに対する神の御言葉の答えはただ一つです。それはイエス・キリストを示すこと、表すことです。主イエスを見えるようにすること、表すこと、実際に地上におられるようにすることです。それは、すべての人が彼を見ることができるようになり、すべての人が彼を知ることができるようになるためです。あなたたちはこう言うかもしれません、「そんなことは全く期待外れです。私たちはそれよりももっとましなことを期待していたのです」と。ちがいます、これはそうなのです。私が間違っていなければ、あなたたちがクリスチャンとして長く進めば進むほど、年を取れば取るほど、知れば知るほど、ますますあなたたちは、主イエスを知る非常に現実的な知識に至らず、彼を表現する結果にならない、あらゆる種類の教えやあらゆる量の教えを恐れるようになります。つまり、教えだけでは満足できない、とますます感じるようになるのです。深刻な必要と激化する困難、高まる圧力、こらしめのゆえに、あなたたちは絶えず、ますますこう感じるようになります、「ああ、しかし、これは結局のところ何なのでしょう、これは私たちをどこに導くのでしょう、これは人生にどんな価値があるのでしょう?」。私たちはよく知っています、そうではないでしょうか、主ご自身だけが私たちの必要に応じることができ、私たちに降りかかるすべてのものに真に立ち向かえることを。主ご自身だけです。私たちはこれに絶えず立ち返らなければなりません。ああ、そうです、大事なのは、自分たちの教えや自分たちの真理の尺度・程度・種類・形式・性質ではありませんし、自分たちの話し方、自分たちの解釈、自分たちの言葉でもありません。そうではありません。それらすべてに見合う主イエスの臨在と顕現が大事なのです。この二つは均等にバランスを保っているでしょうか?それとも、考えや思想、偉大な知的観念は、それ自体としてはとても素晴らしいものであり、熟考するたびにその素晴らしさがよくわかるのですが、それでも、主は日々真に現されてはおらず、主を真に知る知識からもかけ離れているのではないでしょうか?自分は他の人々よりも多くの光と啓示を持っていると考えている人々は、本当に他の人々よりも主イエスを相応に多く現わしているでしょうか?それが問題です。何事もそれが決定的な点であり、要因なのです。

もしあなたや私が、より多くの光と啓示を持っている、と主張するなら――そのような主張をすることを神は断じてお許しになりません!――しかし、もしそう考えているなら、その証拠・真価は――人々は私たちの中に他の人々よりもキリストを多く見ているのか?ということです。なぜなら、神は決して御子を超えて進もうとはされませんし、理論や教えや教理やいわゆる啓示に向かって進もうともされないからです。ただ、生ける御子が表されている領域内にとどまられるのです。私の言わんとしていることがわかるでしょうか?これはとても単純で、とても基礎的です。大事なのは、主イエスの顕現、目に見える認識可能な臨在です――彼の臨在を人が好むかどうかは別問題です。彼の臨在は多くの反感や敵意を引き起こすかもしれませんし、あるいは、多くの人の心の求めに応えるかもしれません。その効果は、いずれにせよ、彼の臨在の結果であり、彼が認識された結果です。それは、私たちがどれだけ主イエスを現わしているのか、ということにほかなりません。私たちが教え、集会し、会合した後で、どれだけ私たちは主イエスを現わしているでしょうか、どれだけ彼が私たちの中に見いだされるでしょうか?これが万事の価値を決定する要因です。ですから、証しのしるしは私たちが「証し」と称しているものではありません。このいわゆる「証し」は、多くの人にとって、ある種の教えの形式や範囲を意味するものとなっています。いいえ、証しのしるしは生き生きと現わされたキリストご自身です。これが、始めるにあたっての矯正の言葉です。

私たちはこれにより再びこれらの土台(複数形)に導かれます、あるいは多くの面を持つこの土台(単数形)に導かれます。黙示録に記されている土台(複数形)には多くの面がありますが、土台(単数形)は一つであり、それは多くの面を持つキリストです。黙示録では、あらゆる種類の宝石が使われています。ペテロは、「こういうわけで、信じるあなたたちには尊いものです」(一ペテロ二・七)と述べています。ですから、その上に据えられるすべてのもの、その上に建造されるすべてのもの、その上に安置されるすべてのものに、その性質と性格を与えるこの土台は、主イエスの多面的な尊さなのです。

御父に対するキリストの尊さ

さて、この尊さとは、第一に、御父にとっての尊さです。「見よ、わたし(つまり神の語りかけです)はシオンに、選ばれた尊い隅の石を据える」(一ペテロ二・六)。神に対するキリストの尊さを調べるなら、当然、次のような明確な結論に達するはずです。すなわち、神にとって尊いものとは、神ご自身の性質に応えるものであり、それなしでは神はことをなせないものであり、神にとって持たないわけにはいかないものなのです。それが尊いのは、それは神にとってなくてはならないものだからです。神にとってなくてはならないものが何かを見るなら、それは神ご自身の性質の構成要素であることがわかるはずです。それに対して、神が憎んでおられるもの、捨て去られるもの、ごみとして拒絶されるものを見れば、神にとって何が尊いのかがわかるはずです。すでに述べましたが、高ぶりは神にとって忌むべきものであり、捨て去られるべきものです。では、神にとって尊いものは何かというと、それは柔和さであり、謙虚さです。ペテロは「柔和で穏やかな霊という朽ちない衣服(飾り、欽定訳)(中略)は神の目に大きな価値のあるものです」(一ペテロ三・四)と述べています。尊いものなのです。柔和さはキリストの美徳であり、高ぶりとは対照的です。このように私たちは進み続けるべきですが、これらの宝石を一つ一つ取り上げるつもりはありません。

キリストの尊さは信仰を通して私たちのものになる

私たちは「尊さ」という言葉を取り上げて、これに基づいて、神ご自身の性質とその神聖な聖なる要求をすべて満たすキリストは信仰を通して私たちのものとなる、と述べているのです。「信じるあなたたちには尊いものです」。この尊さとは、主イエスの麗しさと栄光の現れです。ああ、これはある種の主題に関する話である、と思わないでください。これは集会や、大会や、御言葉の学びの時のためではないことを、どうか理解するよう努めてください!これは、明日も明後日も、家で日々の家族生活を送っている時も、職場、路上、旅先にいる時も、私たちに伴っているべきものなのです。毎日、主イエスの麗しさと卓越性の現れがなければならないのです。問題は私たちが説いていることや、私たちが宣教者であることではありません。教えや私たちの集会の背景に、他者との日々の働きの中に――たとえそれが何か人々にはわからなくても――キリストを見ることができるか、キリストが感じられるか、ということなのです。私たちの神なる主の麗しさ、キリストについて告げるものを私たちは帯びているか、ということなのです。私たちが神の御思いや願いについて説いても、人々が私たちのことを論争的で厄介な気難しい不平家云々と思うなら、意味がありません。キリスト、キリストの麗しさ、御父に対するキリストの尊さこそが土台であり、この土台の上に置かれるものはみなそれにふさわしくなければなりません。さもなければ、それは火にくべられて、なにも残らないでしょう。

キリストの栄光を見るのです。なにものにもまして主イエスを現わしたいという熱い志を私たちの中に生み出してくださるよう、主に求めましょう。偉大な真理を説くこと、説教者や教師などになることではなく、主イエスを、彼ご自身から出ているものを、彼ご自身の臨在を、彼ご自身の尺度を、彼ご自身の性質を現わすことを求めましょう。宣べ伝えの機会が訪れるのは――そもそも私たちに宣べ伝える気があればの話ですが――私たちが話せるからではなく、主のなにかを持っているからなのです。神の家の上層階に住みすぎないようにしましょう。神の家は一つであり、地下室もあれば台所もあります。私たちは最上階ばかりに住んでいたくはありません。天的、霊的、抽象的になりすぎるあまり、真理において高遠になりすぎるあまり、台所の実際的な事柄をおろそかにしないようにしたいものです。あなたがある家に入り、上の階に連れて行かれ、とても華やかで素晴らしく飾られた上の階を見せられたとしましょう。その後、なんとか台所に降りて行くと、とてもひどく汚れていて散らかっています。上の階で見たものとは全く異なっています。あなたは何と言うでしょう。これはなにかが間違っている、齟齬がある、と言うでしょう。霊的生活には台所の面があります。実際的、日常的、単調な事柄があります。そこで主を現わさなければなりません。まさにキリストにあって天上にあるときと同じくらいです。彼処にばかり住まないようにしましょう。私たちはこの地上に住まなければなりません。これが神の御言葉が述べていることです。これがパウロがそのエペソ書で述べたことです。彼はこの書の半分で天上について記し、次に、章に分けずにそのまま手紙を書き続けました。「あなたたちにお願いします。あなたたちが召された召しにふさわしく歩きなさい」。次に、夫、妻、子供、親、主人、女主人、奴隷について記しました――これは天の栄光を携えて台所に降りて来ることです。これは非常に重要な側面です。尊さがこの地上に現わされなければなりません。「天でなされるように、地にもなされますように」(マタイ六・十)。高尚な事柄に専念するあまり、自分たちのような「霊的」(?)な人々が火をつけたり皿を洗ったり部屋を掃除したりすることは自分の尊厳に反する、と思ってはなりません。それは自分の仕事ではない――自分はそれよりも霊的である!と私たちは思うかもしれません。集会には来るけれども自分の家をおろそかにして、それは別の領域だと考えている人々ほど、主を不愉快にさせるものはありません。ちがいます、自分の家はこの領域のことなのです。あなたが知りうる最高のものはキリストの顕現であり、これがより多く試されるのは、おそらく、列に並んだりするような単調な日常の平凡な事柄においてです。そうです、しかし、キリストはそれでもそこにおられます。二つの世界があるわけではなく、同じ世界です。ああ、これを許してください、もし許す必要があるのなら、その単純さを許してください。私たちはすべてを高い水準に引き上げる必要があります。私が言わんとしているのは、主イエスの実際的な現れ・表現・顕現から切り離された、高尚な考えや偉大な真理観念を持つ人々になってはいけないということです。キリストの臨在を表しましょう。それこそが、私たちが持っているものの価値を証明するものなのです。

「信じるあなたたちには尊いものです」。キリストに言えることがすべてここに記されています。このようにヨハネの福音書をもう一度読んでみてください。自分はこれである、と彼が述べておられることがすべて記されています。「わたしは命のパンである」(ヨハネ六・三五)。「わたしは世の光である」(ヨハネ八・十二)。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ十・十四)。「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネ十五・一)。「わたしは復活であり命である」(ヨハネ十一・二五)。ここで偉大な「わたしはあるI AM)」方が、ご自身が何であるのかを述べておられます。次に、彼がそれと「~する(shall)」を頻繁に結び付けておられることに気づきます。ヨハネの福音書の「わたしはある」の「~する」はとても印象的です――常にこのとおりの言葉が使われているわけではありませんが、文脈から同じ結論が得られます。しかし、以下はこの「~する(shall)」の例のいくつかです。「わたしは命のパンである」「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ六・五八)。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩くことがない」(ヨハネ八・十二)。彼が何であられるのかと私たちとを結ぶものは、「わたしを信じる者は」です。「わたしはある」方のなんたるかが、その人にも言えるようになります。「わたしを信じる者は決して死ぬことがない」(ヨハネ十一・二六)。「……飢えることがない」(ヨハネ六・三五)。羊飼いのいない羊のようにさまよわずに、生活の中で羊飼いのように現実を支配・制御します。「暗闇の中を歩くことがなく、命の光を持つ」。「わたしはある」方のなんたるかが実際化します。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことがない」。「わたしはある」方のなんたるかが、信じる時に有効化されるのです。

今、私たちがどうなのかは関係ありません。私は死んでいますが、彼は生きておられます。私は全く死んでいるしかありませんが、命である彼は、私が信じさえするなら、私の死において、私の中で命となることができます。私は飢えています、霊的に飢えています。彼はパンであり、私は飢える必要はありません。自分自身においては絶えず飢えていても、彼はパンとなって私を供給してくださいます。これを考えてみてください!私は決して飢える必要はありません、私はへんぴな田舎で孤立しており、交わりもなく、食べ物もありません。私は霊的なパンのない離れた場所にいますが、彼は「わたしを食べる者は決して飢えることがない」と言われます。これは私がいる場所に左右されるのでしょうか、私の状況や環境が霊的な糧を得られるものかどうかに左右されるのでしょうか?いいえ、大事なのは彼ご自身であって、場所ではありません。しかし、どのようにしてそうなるのでしょう?――「信じる者は」とあります。「主よ、私は飢えています。私があなたを食べるなら、私は飢える必要はない、とあなたは言われました。今、私はあなたの御言葉を受け入れます、あなたご自身でもって私を養ってください」。大いに実践してください。私は主を試みるよう示唆しているわけではありませんが、これを試してみてください。この尊さと関係していることがわかります。私は聖ではありません、それ以外のものには決してなれません。しかし、彼は聖であり、義と聖さの問題で神を満足させてくださるのです。

ペテロの言葉は、あらゆる点(それがなんであれ、私たちに欠けているので彼にその欠け目をご自身でもって満たしていただく必要があるもの)を網羅しています、「わたしはシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石を据える。彼を信じる者は辱められることがない」。自分自身を見てください、もし放っておかれたら、どんな結末になるでしょう?間違いなく――私たちにはその結末がわかります――恥と失敗です。もし放っておかれたら、結末はそうなります。奇妙なことに、ペテロは旧約聖書からこの節を誤って引用しています。彼がここで引用している旧約聖書の御言葉は、「信じる者はあわてることがない」(イザヤ二八・十六)です。しかし、これは誤引用なのでしょうか?あなたはあわてているでしょうか?なぜあなたはそんなにもあわてて、状況を救おうとしているのでしょうか、なんとかしようとしているのでしょうか?どうしてあなたは、「なんとかしなければなりません。なんとかしなければ、これは全く悲惨なことになります」と気をもんでいるのでしょう。ペテロは、聖霊の下で、これにまさに触れて、「辱められることがない」と述べています。あなたは興奮して、あわててあちこち駆け回り、状況を救おうとする必要はありません。「彼を信じる者は辱められることがない」。信じるあなたには尊いものであり、信じるなら辱められることはありません。キリストがなんであられるのかと信仰とのつながりがわかります。

キリスト教は魂の命の事柄ではない

次に、土台であるキリストについてのパウロの言葉のこの文脈の中で、彼は、その土台の上に多くのくずや、多くの混ぜ物をもって建造している人々がいる、と述べています。調べてみるなら、そのくずが何なのかを見い出すためにあまり遠くを見るまでもありません。「金、銀、宝石、木、草、刈り株」というこの様々な材料でパウロが何を言わんとしているのかに関して、列挙するまでもありません。彼の手紙とその前後の文脈を見さえすれば、すぐに彼がなにを言っているのかがわかります。あなたたちコリント人は、自分自身の魂の命からキリスト教を建て上げようとしています。「さて、天然の(魂の)人は……」。これはコリント人への彼の言葉です。コリント人への第一の手紙を見ると、なんと多くの魂主義があることでしょう。言葉の知恵、この世の知恵、好き嫌い、好み、偏見、反感、嫉妬といったことです。それはこの土台の上では役に立ちません。自分自身の魂の命をキリストとの関係の中に持ち込まないでください。それは不相応で、切り抜けられず、煙になって消え失せます。あなたは自分のキリスト教を自分の感覚の事柄にしようというのでしょうか?あなたは多くの様々な事柄からなる複合的なキリスト教を持つことになります。まったく首尾一貫しておらず、まったくのパッチワークです。パッチワークのクッションやキルトなど、とても巧みなものもあります。素晴らしいものであり、とても巧みです。しかし、デザイン性はなく、首尾一貫しておらず、日の下のあらゆる色を帯びています。これは感覚領域における魂の命です。今日はある感覚を感じ、明日は別の感覚を感じます。自分の魂の中で気分的に浮き沈みします。首尾一貫しているものはなにもありません。あなたはそれをキリストの上に置くつもりでしょうか?それはキリストと全く相容れません。知性の領域におけるあなたの魂の命では、ありとあらゆる矛盾する推論や議論がなされており、物事に決着をつけて知的結論に至ろうとする試みがなされていますが、うまくいきません。ある事柄に関して非常に良い論理的結論に達したと思ったとしても、なにかがやってきてすべてをひっくり返してしまいます。ロバート・ブラウニングはある不信心者について述べています。その不信心者は、「神などいない」と納得できる理論を見事に構築したのですが、その後、「日没がそれをすっかりひっくり返してしまった」と述べました。そのような道では決して切り抜けられません。あなたの魂は、知的活動や葛藤の領域では、決してキリストと一致することはありません。また、私たち自身の魂の意思、実行力については、自分はとても強い、二度とあのようにひっかかりはしない、二度と同じ轍は踏まない!と感じるかもしれません。しかし、まもなくそのような失敗に陥ることになるのです。ああ、私たちの魂はなんと私たちを辱めることか!自分の感覚、意志、考えが不安定なせいで、私たちはなんと辱められてきたことでしょう。辱められてきたのです!辱められてきたのです!辱められてきたのです!私たちの魂は絶えず私たちを馬鹿にします。「彼を信じる者は辱められることがない」。この魂の命の働きを決してキリストの上に置いてはならない、とパウロは述べています。それは両立しません。問題はあなたがどうであるかではなく、キリストがどうであられるかなのです。

見て理解して知的に解決できない時、なにも感じず、まったくなんの感覚もない時、あるいはとても悪い感覚がする時――それは一つの領域の事であり、あなたがどうであるかにすぎません。キリストはそうではありません。そのような時、私たちは、「主よ、これは私の弱さであり、私はこんな有様ですが、あなたはそうではありません。私は自分の信仰を自分自身から、これらの事柄から、あなたに移します」と言わなければなりません。キリストは土台であり、私たちがこの土台の上に建てるものもみなキリストご自身でなければなりません。彼は土台であるだけでなく、建物全体の各部でもあるのです。

私は述べたいことを示唆したにすぎません。私たちがたんなる教えや真理にではなく、主イエスにもっともっと夢中になるよう、真に願います。私たちを解放して助けるために臨むすべての啓示のゆえに感謝しますが、啓示自体に価値があると見なして、それを宣伝の手段としないようにしましょう。そうです、大事なのは啓示を通してやって来て、私たちにとってますます重要になられる、主ご自身なのです。もしすべてのものの中に主を見られないなら、なにかが間違っています。主でないものは失敗することになります。ですから、この真理やあの真理について、からだ、教会、あれこれのことについてではなく、主について話すようにしましょう。イエス・キリストご自身の他に教会はありません。イエス・キリストご自身の他にからだはありません。彼ご自身の他にはなにもありません。彼はすべてのすべてです。「信じるあなたたちには尊いものです」。なんらかの事柄、キリスト教や教会、運動、何であれ真理・教理・教え・解釈等のみから成るものを建て上げるのではなく、栄光の望みである私たちの内におられるキリストを真に建て上げるよう、心がけようではありませんか。