第五章 神聖な開始における栄光

T. オースチン-スパークス

「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。

「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。

「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。

私たちは、これまでのメッセージの中で、シオンを巡り歩いて、この天的・霊的子孫――キリストとその民――の面をいくつか考えてきました。

今、「栄光」という一つの言葉に集約されるもの、すなわち、キリストと彼ご自身の民に移ることにします。さて、この「栄光」という言葉を念頭に置いて新約聖書をざっと調べてみるなら――コンコーダンスでこの言葉の下にある列を一瞥するだけで――ものすごい感銘を受けるでしょう。栄光というこの概念、栄光というこの事柄が、すべてを支配しているように思われる、という感銘です。

栄光がすべてを支配する

主イエスのこの地上生涯に関する福音書を読むと、その生涯の支配的基調・動機は神の栄光だったこと、その栄光は彼ご自身において現わされ、その弟子たち、その従者たち、その教会に受け継がれたことに感銘を受けるでしょう。新約聖書や福音書に親しんでいる人なら、聖句や御言葉がすぐに思い浮かぶでしょう。「私たちは神の栄光を見た。それは、父からのひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ一・十四)。これは包括的な記述です。というのは、主イエスが天に行かれて地上での生涯がすべて終わってから何年も後に書いたヨハネは、数々の出来事を要約していたにちがいないからです。おそらく、ヨハネは主イエスの変容という特定の時のことを思い出していたのでしょう。ヨハネとペテロは二人とも主イエスの変容の目撃者であり、当時主イエスの栄光を見たと述べました。ですが、ヨハネは主イエスの数々の御業を、ガリラヤのカナにおける主イエスのしるし――そこで彼はご自身の栄光を現わされました――の始まりから網羅しました(ヨハネ二・十一)。彼の御業、行動、彼が行ったことや行わなかったこと、彼が動いたことや動かなかったことを、すべて網羅しました。こうしてヨハネは、主イエスの生涯におけるすべての動機は神の栄光であり、それが彼ご自身において現わされたことを示したのです。

これについて考えてみてください。「栄光」「栄光を帰す」「栄光を受ける」という言葉を思い出してください。彼がこの地上におられた時との関連で、これらの言葉がなんと頻繁に出て来ることでしょう。十字架は栄光を伴うようには到底思われませんが、十字架とそれによって成就された御業の根底にある最も重要なものは栄光なのです。一方において、神に栄光を帰せないものをすべて取り除きます。人、人種、古いアダム、人の習わしを取り除きます。罪とその結果をすべて取り除きます。贖いの強力な御業は、神の栄光には決してなりえず決して栄光を受けえないものを、栄光に全く反する立場を、すべて排除します。他方において、復活の勝利にあって、栄光のための立場を与えます。栄光が十字架の御業を支配しているのです。

そしてまた、それは使徒行伝と共に始まる第二区分で使徒たち全員が抱いている支配的考えです。栄光の霊が使徒行伝の二章で登場します。栄光を受けた方の御霊が、栄光の中で来臨されます。教会は栄光で満たされました。教会は栄光の中にもたらされました。キリストが栄光を受けられたからです。そして、これが教会と宣べ伝えの基調、勝利の基調でした。人々が十字架につけたこの御方に、神は栄光をお与えになりました。使徒たちの手紙に記されているすべての教え、すべての勧め、すべての警告、すべての慰めの務めは、栄光というこの一事と関係しています。「私たちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、私たちにもたらします」(二コリント四・十七)。試練を解き明かす慰めの務めの中にあるのは栄光です。警告の場合、それは高い召しを失うこと、栄光を失うことと関係しています。ですから、新約聖書のこの第二の偉大な区分は、まさにこの栄光という一つの思想によって支配されているのです。このように一般的な話をしたうえで、先に進むにつれていっそう詳しく述べることにします。

黙示録についてはどうでしょう?それは栄光を受けた栄光の主の描写と共に開始し、すぐに賛歌が始まります。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解放して(中略)くださった方に、栄光がありますように」(黙示録一・五)。栄光の主を描写するこの導入部から、その先ずっと、すべてを支配する唯一の事柄は栄光の問題です。すべてが、諸国民も、悪の勢力も、対処されなければなりません。なぜなら、神がご自分の宇宙をご自身の栄光で満たそうとしておられるからです。栄光にかなっていないものはすべて対処されて、取り除かれなければなりません。最終的に、黙示録は栄光の都を啓示します。それは、言い換えると、キリストとの合一の中にある教会にほかなりません――「神の栄光を持っていた」(黙示録二一・十一)。少なくとも新約聖書はこの栄光の思想によって支配されていることを示す、さらに多くの証拠を続けて集める必要があるでしょうか?

さて、この問題全体は一般的に三つの大きな区分に分けられます。第一に、神聖な開始における栄光。第二に、隠れた働きにおける栄光。第三に、最終的顕現における栄光です。神の御言葉に関するかぎり、これがこの問題を要約していると思います。もちろん、膨大な詳細がありますが、総じてそういうことになります。

神聖な開始における栄光

さて、この三つのうちの一つ目である「神聖な開始における栄光」に取り組むことにします。二つの顕著な事例を挙げて、十分な指標とすることができると思います。主イエスの誕生と、次に教会の誕生です。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも、他にも多くの開始があります。聖徒の数だけ神聖な開始がある、と言えるかもしれません。それらはみな栄光を伴っていることがわかります。

ここではこの二つを紹介します。受肉によって、すなわち、神の御子・人の子が肉体となってこの世に来られたことによって特徴づけられる、神聖な開始です。ルカ二章の物語をもう一度読むべきですが、ほとんどそうするまでもありません。

御使いとそのお告げ。そして次に突然、その御使いと共に大勢の天の軍勢が歌い、賛美して、言いました。「いと高き所では、神に栄光がありますように。また地上では、彼の大いなる喜びにかなう人々の間に平安がありますように」(ルカ二・十四)。それは栄光の光景、栄光の時であり、天の栄光がこの世界に嵐のように押し寄せたものでした。

そのようなことが霊的な形でペンテコステの日に起きました。主イエスの昇天は天上においては素晴らしい光景だったとしか考えられません。「ああ、城門よ、あなたたちの頭を上げよ。永続する扉よ、上げられよ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは誰か?」(詩篇二四・七~八)。これはうっとりするような天の光景です、歓迎です――栄光の主、栄光の君の昇天だけでなく、歓迎でもあります。そして、天の喜び、天の嵐のような喜びから、聖霊が来臨されました。この出来事がこの地上の教会で一つのことを表しているとするなら、それは喜びを表しており、栄光を物語っているのです。ああ、なんという日だったことでしょう、教会が天の栄光から生まれて、この栄光で満たされた日は!

栄光は喜び、平安、満足の事柄である

どちらの場合も、その始まりは栄光に包まれていました。間違いなく、神の開始、神ご自身の開始は、常に栄光に包まれています。そして栄光は、それを分解すると、それをプリズムを通して見ると、喜びの問題です。それはたんなる外的な光の輝きではありません。喜びです、奇妙な、しばしば説明のつかない喜びです。それは平安です。不和はやみ、緊張はなくなり、すべては良好であるという素晴らしい感覚があります。平安と満足があります。神の正しさが証明されるために、神が正当化されるために、心中の疑問や問題を解くために、必要不可欠だと心の奥底で感じてきたすべての要求に対して答えが与えられます。神が行動される時、あなたの問題はやみ、あなたの疑問は満足のうちに消え去ります。神がそうしてくださったことにあなたは満足します。すっかり満足します。神がどのようにそうなさったのかは問題ではありません。つまり、とても単純な時もあるのです。山を移す奇跡が必要だと私たちは思っていましたが、ただ静かに事が起きます。私たちの心の中に満足がもたらされます。私たちは昔のナアマンのようではありません――神が現れて何か特別なことをしてくださると彼は思っていました!「ダマスコの川アバナとパルパルは、イスラエルのすべての水よりも良いではないか?」(二列王五・十二)。何かとても特別なことを要求したのです。そうではありません、単純な方法で神はそれを行われ、あなたは満足します。神が事を行われる時は、そういうものです。それが神の栄光の本質であり、あなたは満足します。神の開始、神の創始はこの意味で栄光に包まれています。その原因となる外的なものが何もないのにです。

神の偉大な開始である主イエスの誕生を見てみましょう。さて、その状態、状況、環境、すべてを、ありのままに見てください。宮殿も、地的安寧もなく、神の主権的活動も伴っていません。人の考えによると、地上の側ではすべてが見事に素晴らしく整っているはずなのに――そうではなく、すべてが逆なのです。地上の観点から見ると、弱さ、貧しさ、欠乏、不安がありますが、それでも栄光の中にあります。神の栄光に齟齬はありません。天は満足しています、天は栄光の中で歓喜しています、そして、それに実際に触れる人は大いに満足します。外的なものよりも深くて素晴らしい何かがここにあります。主イエスが新しくお生まれになる時は、常にそうではないでしょうか?このような言い方をするのを許してください。彼があなたの心の中に、そして私の心の中にお生まれになった時、そうではなかったでしょうか?外見上、状況はあまり変わっていないように思われました。家庭も同じ、職場も同じ、この世も同じで、環境は少しも変わりませんでしたが、内側には栄光がありました。喜び、平安、満足、栄光があったのです。

おそらく、あなたたちの中には、「私はクリスチャン家庭に育ち、大きな転機を経験することもなく、ごく自然にクリスチャン生活に入ったように思われます」と言う人もいるでしょう。その後、あなたは主を霊的に経験しなかったでしょうか。主があなたの人生の中に入って来られて、何らかの形で、このように動かれるのを経験しなかったでしょうか?緊張は去り、悩みは去り、恥は去り、不満は去り、失望は去りました。平安に包まれ、大きな喜びが溢れ、満足したのです。私たちは皆、このような経験について話せると思います。しかも、一度ならず何度もです。神の新たな開始は常に栄光に包まれています。御子の場合がそうでした――これをもう一度こう述べさせてください――ある人生、ある場所で、御子が誕生される時は毎回、こうした栄光のしるしが伴うのです。

神の栄光の本質

しかし、この栄光の本質は何でしょう?イエスがベツレヘムにお生まれになった日、何がその栄光の本質だったのでしょう?さて、ここで、とても注意深くある区別をしなければなりません。なぜなら、まさにここで、人々は間違いを犯し、困難に陥るからです。ベツレヘムでのキリストの誕生の栄光の本質は、あらゆる出来事や神の新たな動きにおける栄光の本質と同じように、昔も今も、神ご自身がご自分の喜ぶものを導入されたということです。神はご自分の喜ぶものを導入し、もたらされました。そして、主イエスこそが御父の喜びの対象です。もし彼がそこにおられなければ、御父が喜ばれるものはありません。彼がそこにおられる時、御父の喜ばれるものがそこに現存します。御父の喜び、満足、歓喜は、御子と御子のおられる所に集中しています。今、とても多くの人が陥っている危険は、彼らがその原因よりもそれが及ぼす効力を受け入れていることです。その効力とは――そうです、歓喜と平安と満足と深い感動、感謝と喜びです。次に彼らは、こうした効力や感覚や結果を受け入れて、それをながらえさせようとします。彼らはそれがなくなるのを恐れます、「これはどれくらいもつのだろう?朝起きたら、すっかりなくなっていないだろうか?またあの驚異の九日間しかもたないのではないだろうか?」と恐れる状態に陥ります。こうして彼らは、その効力を保持・維持することに必死になり、基本的現実を見逃してきたのです。

基本的現実はキリストであり、キリストは神の歓び、神の喜びです。感覚ではなく、事実です。その感覚を取り戻そうとしたり、その感覚にしがみつこうとしたり、その感覚や影響を維持しようとしたりしている人、栄光と称されている抽象的なものに手を伸ばそうとしている人が、あなたたちの中にどれくらいいるでしょう?そのようなことは間違いです。神の事実は残ります。感覚は変わるかもしれません――それは栄光というこの問題全体の第二の部分、すなわち栄光の隠れた働きと関係しており、全く別の領域と関係しています。私たちは神の開始に取り組んでいます。しかし、神が御子を迎え入れられる時、神は一連の感情、多くの感覚を得るだけでなく、神の栄光の対象そのものである、強力な永遠の現実をも得るのです。そして、あなたたちの内におられるキリストは栄光の望みであり(コロサイ一・二七)、それについてのあなたの感覚ではなく、この強力な基本的現実です。神はこれを喜んでおられます。彼の喜びは、私たちがどう感じていたとしても、私たちや私たちが何者なのかにはよりません。私たちが大喜びしている時の方が、最も惨めな時よりも、神は喜んで満足しておられる、とは私は信じません。私たちの魂の命はそのように移ろいやすいのです。私たちは浮いたり沈んだりします。神の喜びと満足は御子に集中しており、彼は私たちが自分自身の移ろいやすい反応にではなく彼の事実に信仰を置くよう望んでおられます。そうです、神はまさに次のように開始されます。すなわち、神はご自分の満足となるものを、それまでそれが全くなかった所にもたらされるのです。それはキリストであり、キリストの及ぼす効果が最初ではありません。ああ、その効果は現存します、そのことのゆえに神に感謝します。しかし、多くの場合、その効果は事の初歩的な面、幼年期にあることがわかります。あなたは成熟に達しなければなりません。そして成熟期では、感覚ではなくキリストに基づいて生きることを学ばなければならないのです。

神の開始時の御業が将来の働きのための彼の基礎である

第二に、神がご自分の喜ぶものを獲得されるとき、その最初の開始時の御業が将来のすべての働きのための彼の標準・基礎となります。その後のすべては、その開始時の最初の御業に見合うものとなります。恍惚感や栄光の感覚が永遠にいつまでも続く、という意味ではありません。そうではなく、神はそれを獲得した後、ご自身を満足させるもの、つまり、ご自身の栄光の座と中心を導入された、という意味です。そして、彼はその後永遠に、御子の中にあるものを私たちの内に実際化するために働かれます。それは私たちが御子に同形化されて、栄光への道、漸進的栄光への道を歩むためです。神を満足させるものを自分の内に造り込まれることによって、栄光が広がって定着し、私たちは御言葉が語る「神は(中略)あなたたちをご自身の栄光の中に召してくださいました」(一ペテロ五・十)にますます近づいていきます。神の最初の御業が結末を支配します。結末は最初に対応していますが、さらに大きくなります。最初は比較的小さいかもしれません。ベツレヘムは、ある意味、小さくて、ちっぽけです。そこでのキリストは制限されています。それでも、豊かな栄光が、この小さなものにおいて、このちっぽけなものにおいて、完全に開け放たれます。最終的に、この栄光は付け足し的なものにはならないでしょう。広がって宇宙を満たしたあの栄光になるでしょう。神は開始時の御業にしたがって働いておられます。それはそれに見合う結末を迎えるためです。ですから、神の開始時の御業が神のすべての働きの基礎です。最終的に、教会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたって続くのです(エペソ三・二一)。

これは実際的です。主が何かを行って、ご自身に属するものを、ご自身のキリストに属するものを、この地上の私たちの内に個人的に個々に、主の御業として導入されるとき、それは神が開始されたものであり、深い喜びと感謝の現われを伴って到来します。ああ、これは神によるものであり、人によるものではない、主がこれを行われたのである、と確信できることは、なんと幸いで尊いことでしょう。このような実感を持てることは、なんと心強く、心を満足させてくれることでしょう!神がこれを人生の中で行われる時、その人はこう言うことができます、「私が彼を選んだのではなく、彼が私を選ばれたのです。主導権は神にあります。それは私が行ったことではなく、主が行われたことです。もし主がおられなければ、私は決して、今日、ここにはいなかったでしょう」。多くの人はこう言うことができます、「道中ずっと、彼は最初に行われたことを行い続けてくださいました。私は迷いました、いや堕落しましたが、私は今日ここにいます。それは神がこれを開始されたからです。それは前進し続けるでしょう。それは栄光に包まれて始まり、栄光は私の移ろいやすい性質の問題ではなく、私とは全く関係ないからです。それは御子であり、彼は御子を植え付け、私ではなくキリストに基づいて、私の人生全体を通して働いてこられ、今も働いておられるのです。最終的に、彼が私を召してくださったあの豊かな栄光に私が達する時、『彼がそれを行ってくださったのです、それは主が行ってくださったことであり、私が行ったことではありません。彼がそれを行ってくださったのです!』と私は言わねばならないでしょう」。

神はご自身の開始時の御業に基づいて働いておられます。私は、新約聖書のかなり深遠な真理の大半はこれに集約される、と信じていますが、それは扱わないことにします。こうした神の深い事柄はみな、世の基が置かれる前から彼にあって選ばれていたことに関するエペソ一・四のパウロの言葉や、ローマ八・二九「彼はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められました」(これは私たちを時間や時間に属するいっさいのものの外に、この人間生活やそれに属するいっさいのものの外に直ちに連れ出して、直ちに永遠に岩なる方の上に置きます)に集約されるのではないでしょうか?それはみな、神が主導権を握って、ご自身の開始時の御業にしたがって働いておられる、ということに集約されるのではないでしょうか?私は、自分の責任や、前進し続けて堅固であることといった義務を無視しているわけではありません――それは別の面の事柄です。しかし、もし神が自ら事を開始して、そのために土台を据えられたのでなければ、私たちの努力や決意はすべて無益なものになるでしょう。私たちの従順、遵守、応答、神と共に進もうという私たちの心構えは、もしそれが神が据えられた土台の上になければ、なんと空しいことでしょう。しかし、私たちは岩なる方のもとに行きさえすればいいのです。

神に感謝します、岩なる方がおられます。この岩なる方とはキリストです。彼がそれを行ってくださいました。ですから、私たちは逸れても、戻って来ます。失敗しても、再び立ち上がります。私たちは恥じ、悲しみ、こらしめを受けますが、見捨てられることはありません。神がこれを開始されたのであり、それは栄光です。それは彼の恵みの栄光です。

要点は、神はご自身の開始時の御業にしたがって働いておられるということです。彼の開始時の御業は、最後に至るまでずっと、彼のさらなるすべての働きの基礎です。そして、キリストは最初であられるがゆえに、最後もキリストになります。また、最後はキリストです、キリストが最初であられたからです。神は、次に、栄光のうちに私たちと共に開始されます。私たちのうち何人がこう言えるでしょう、「そうです、それについては知っています。最初、ある時点で何かが起きたことを私は知っています。その結果、大きな喜び、大きな平安、大きな満足感がありました。それはまさに栄光でした。それについては、それは栄光だった、としか言えません。私は何度も恐ろしい間違いを犯しました。当時自分が持っていたその効力や素晴らしい感覚をすべて造り出そうとする、恐ろしい間違いです。私はキリストの事実を忘れていたのです。それでも、私はその栄光を知っています」。主が御子に属するものをさらに多く私たちの生活の中にもたらせるようになるたびに、これが再び起きます。ここで主と私たち、私たちと主の間に論争が生じるおそれがあります。私たちは未決着の問題のせいで妨げられてしまいます。聖霊と私たち自身との間に論争が生じます。私たちはもたもたしており、不従順であり、のろのろとしていて、戦いに備えていません。平安、安息、満足はなく、私たちの生活は引き裂かれ、栄光は私たちの顔から、私たちの証しから消え去ります。その後、次のような日がやって来ます。聖霊の辛抱強い、切迫した制約の下で、「この問題に決着をつけよう!」と私たちが言う日です。私たちは中に入って扉を閉め、「もうこれで終わりにしましょう。何かが起きなければなりません」と言います。私たちは主の御前に至ります。戦い、苦しい戦いがあるかもしれませんが、私たちは切り抜けます。主にご自身の地位が与えられ、私たちは引き下がります。自分の意志、自分の願い、何であれ、私たちは主に手渡して言います、「これを手放しました。私は終わりました。今、主よ、あなたの意志、あなたの道に服します」と。私たちが切り抜ける時、栄光が再び戻って来ます。そうです、喜び、平安、満足が戻って来ます。ある事柄に関して、主イエスの豊かさが新たに、あるいはいっそう豊かにもたらされるたびに、それには栄光が伴います。戦いを長引かせることによって、状況に取り組まないでいることによって、なんと多くの栄光を失っているのかを知ってさえいれば!ああ、私たちは自分から栄光を奪っています――しかも私たち全員がそうしているのです。私たちは学ぶのが遅いのです。

しかし、ここに神の事実があります。それは、御子により、また御子がその地位を得ることにより、その上に栄光が宿るという事実です。こう述べて終わることにします。主が御子のために全き地位を得られさえすれば、私たちの心の中の栄光の度合いはそれに見合ったものになるでしょう。環境は全く変わらないかもしれません。あなたは依然として困難に遭うかもしれません、あなたの道や場所や働きで困難に遭うかもしれません。状況は変わらず、人々は変わらず、場所は変わらないかもしれませんが、内面は違います。もしかすると――私は強要したくはありませんが――主は、内側でその地位を得ないかぎり、外側では何もされないのではないでしょうか。その遅延は、私たちが弱さを誇る境地に達していないからではないでしょうか。まあ、それについては主に尋ねることにしましょう。しかし、心に留めておいてください。神の御旨は栄光なのです。また、彼の開始は、それが彼の開始の最初の局面であれ、あるいはその後の多くの局面における開始であれ、彼が新しい局面や、さらに新しい局面や、なおもさらなる局面を開始しつつある時(なんと多くの開始を私たちは経験してきたことでしょう――過去に戻るわけではなく、まるで新しい局面、新しい開始のように思われるのです)、神の開始――そこで彼は御子のために望みのものを獲得されます――はみな栄光に満ちているのです。主は私たちをその栄光の中に、その栄光を私たちの中に、もたらしてくださいます。その栄光とはキリストです。「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」。「神に、教会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」。