第六章 隠れた働きにおける栄光

T. オースチン-スパークス

「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。

「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。

「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。

「……愛する者の中で、神が私たちに無代価で授けてくださった、恵みの賛美となるためです」(エペソ一・六)。

「……キリストの中で最初に望みを持っていた私たちが、彼の栄光の賛美となるためです」(エペソ一・十二)。

これまでシオンの特徴に、言い換えると、ご自身の民に伝達されて彼らの中に造り込まれたキリストの特徴に取り組んできました。今、シオンの栄光に、もしくはシオンに関する栄光に至りました。前の章で、この栄光の問題には三つの主要な面があることを見ました――第一に神聖な開始における栄光、第二に隠れた働きにおける栄光、第三に最終的顕現における栄光です。

キリストの地上生涯では栄光の大部分は隠されていた

さて、第二の面である、隠れた働きにおける栄光に移ることにします。しかし、この栄光は地上では隠されているため、人々には認められません。天だけがこの栄光を見ることができますが、地上では大部分隠されています。天の栄光を伴う主イエスの来臨について知った羊飼いたちや賢者たちやその他の人々は、数か月後、数年後、どう思ったか、あなたは考えたことがあるでしょうか?もちろん、羊飼いたちがわざわざその赤子の跡を追ったかどうかはわかりません。その赤子はベツレヘムから去って、あちこちに移動し、三十年のほとんどの間ひっそりと育ちました。年々歳々、おそらく、この羊飼いたちは、「あれはとても素晴らしい夜でした。素晴らしいことが起きる大いなる予兆のように思われましたが、その後どうなったのでしょう?」と言ったことでしょう。東方からの人々も同じような問いを発したかもしれません、「私たちは間違っていませんでした。星はよく見えており、示された場所と赤子を見つけられました。私たちは宝物を開けて、その赤子は王であると宣言しました――しかし、その子はどうなったのでしょう?三十年のあいだ、その子のことをなにも耳にしないのですが」。これは想像の産物かもしれませんが、たとえ想像にすぎなくても、要点を理解する助けになります。つまり、三十年間だけでなく、三十三年半のあいだ、栄光は全く隠されていたのです。つまり、彼がご自身の栄光を示された際の奇跡や、変貌の山で文字どおり栄光が現わされた唯一の時のように、栄光を示す事例がちらほらあるのを除けば、栄光は大部分隠されていたのです。栄光を暗示するそうしたまれな事例を除けば、その栄光は人々には見えず、隠されていました。栄光は去っていませんでしたし、そこには最初に劣らぬ栄光がありましたが、隠されていたのです。世人も、彼と接触した大多数の人々も、その栄光に気づかず、感知しませんでした。栄光は内に隠れていたのです。

天はその栄光を見ることができた

しかし、天は大きな関心を抱いており、地獄も大きな関心を抱いていました。誕生のときに天が示した関心は、その後も維持されました。四十日四十夜の荒野での戦いの後、御使いたちが来て彼に仕えました。そうです、御使いたちは見ていました。起きていることをすべて知っていました。とてつもない関心を抱いていました。御使いたちは、「いと高き所には栄光がありますように!」と宣言しました。この栄光は彼らから見ると消えていませんでした。彼らには依然として見えていましたし、注視していたのです。御使いたちがやって来たのは、一度や二度のことではありません。最後には墓に御使いたちが登場します。彼らは絶えず傍にいて、絶えずこれを気にかけています。天は他のだれにも見えないものを見ています。天は他のだれも知らないことを知っています。天は見ており、注意しています。

天は何を見ていたのでしょう?何に天は注意していたのでしょう?栄光です!しかし、どのようにでしょう?今、栄光は隠された形で働いていたことがわかります。天はその栄光を様々な形で見ることができました。天はその栄光を気にかけていました。新たな誘惑、新たな試み、彼に仕掛けられた新たな落とし穴や罠、彼に降りかかった新たな苦難、新たな試練、新たな危機、二者――勝利か失敗か――のうちの一方が起きる可能性がある時のたびに、天は、栄光がどのように勝つのか、栄光がどのように現れるのか、栄光がどのように勝利するのかを、注意して見ていました。栄光は、たんなる後光の光よりも、もっと内面的なもの、もっと現実的なもの、そうです、もっと決定的なものになりました。それは今や力であり、決定的要因でした。あえて言えば、主イエスの地上生涯の問題はまったく、栄光が残るのか、それとも奪われてしまうのか、覆われてしまうのか、昔のエルサレムに起きたこと――その時、挫折と失敗のゆえに、預言者たちは、栄光がエルサレムから昇って行って、遠く離れるのを見ました――が彼についても起こりうるのか、ということでした。私の神学を疑う根拠を自分は持っている、とあなたは感じるかもしれませんが、よく見れば、この中に真実が含まれていることがわかるでしょう。それは、栄光はどのように現わされて維持されうるのかという問題なのです。

栄光は内側で働いていました、密かに働いていました、彼の内的生活で攻撃を受けて試されました。この問題はすべて次のように要約されます。すなわち、主イエスが変貌の山で満ち満ちた栄光をお受けになったのは、たんなる機械的・自動的なことではなかったのです。それは、彼の信仰が勝利してその時に至ったからでした。彼は、ご自身の前に置かれた喜びのゆえに、下って来て、十字架を耐え忍び、恥をものともされませんでした。主イエスが栄光を受けたのは、彼がそのような輝かしい道徳的完全に到達されたからであり、その栄光はそれがその時に輝き出たものだったのです。神と共にある彼の内的命の状態・状況が、変貌の山で現れたのです。これこそが、これから見ていくように、すべての栄化の基礎です。

教会の中に隠されている栄光

元に戻りましょう。その栄光は隠されました。教会に移ると、ペンテコステの日はなんという日だったことでしょう!再び天が裂かれ、再び栄光が下り、再び栄光が宣言・布告されました。こうしたことはどれくらい続いたのでしょう?その栄光が隠されるまでそう長くはなかったと思います。栄光は去った、栄光はもはやそこになかった、という意味ではなく、ペンテコステの外面的特徴はあまり長続きしなかった、という意味です。教会は進み続けました。多くの人は次のような疑問を抱いたかもしれません、「あのきわめて幸先の良い始まりはどうなったのでしょう?ペンテコステの日の栄光はいったいどうなったのでしょう?それはどこにあるのでしょう?状況は変わってしまいました。今やそのような状況ではありません。そのような状況は見当たりません。かつて起きたことの特徴は今では見当たりません」。ある変化が教会に訪れました。栄光は内面的なものになって、隠されています。世人が教会を見る時、キリストが誕生された夜やペンテコステの日のように、栄光を見ることができるでしょうか?世人はそのような外に現わされた栄光を見ることができるでしょうか?いいえ!見る目があれば見えるはずの栄光が、世人には見えません。世人にはそれは隠されています。これはすべての個々のクリスチャンにも言えるのではないでしょうか?

前に述べたように、個人の生活における神の開始は栄光に包まれています。回心のとき、新生のとき、私たちは主のもとにやって来ますが、そこには栄光のしるしがすべてあります――喜び、平安、満足があります。クリスチャン生活のこの初期の日々を形容する唯一の言葉は栄光です。しかし、そのような状態のままではありません。もし、それが生涯を通じて途切れなく続くなら、神に感謝します。私は、その痕跡が一切なくなる、と言っているのではなく、そのような状態は通常続かない、と言っているのです。状況は変わり、あらゆる問題や疑問、敵の攻撃や訴えのためのあらゆる根拠が生じます。敵は私たちに、それは幻想、感情、偽りである、と告げます。あるいは、お前は罪を犯して聖霊を悲しませているのだ云々、と言います。それというのも状況が変わったからです。栄光は去っていません、栄光はキリストだからです。しかし、なにかが起きました。栄光は隠されました。それはそこにあり、活動し、働いていますが、隠れた形で働いているのです。

栄光は恵みに基づいて働く

栄光の始まりと、来るべきその完成との間の中間的な段階にあって、栄光は今どのように働いているのでしょう?栄光はここにありますが、どのように働いているのでしょう?この章の冒頭に追加した御言葉は、栄光の隠れた働きがどのように恵みに基づいているのかを示しています。「彼の恵みの栄光」。恵みは栄光の基礎です。栄光は恵みと結びついています。エペソ書を読むとわかります――「彼の恵みの栄光の賛美となるためです」。「彼はキリストの中で私たちを選び(中略)私たちを子たる身分へとあらかじめ定め(中略)それは彼の恵みの栄光の賛美となるためです(中略)私たちが彼の栄光の賛美へと至るためです」。栄光は恵みに基づいて働きます。

私たちに対する神の姿勢としての恵み

新約聖書におけるこの恵みの問題について見ると、これもまた三つの面に分かれていることがわかります。第一に、私たちに対する神の姿勢としての恵みです。恵みといえば、私たちはおもにこれを思い浮かべますが、それは神の恵み――私たちに対する神の恩寵的姿勢です。これは私たちの理解を超えています。私たちに対する姿勢としての神の恵みは、私たちの対処能力をはるかに超えています。「彼は世の基が置かれる前から、キリストの中で私たちを選ばれました」。彼は「イエス・キリストを通して、私たちを子たる身分へと、彼ご自身へとあらかじめ定められました」(エペソ一・五)。聖書には、「あなたの書物に私のすべての日々が記されました(中略)しかもまだそれらが一日も始まっていないうちに」(詩篇一三九・十六、欽定訳)とあります。私はこの世界にやって来ました。男女がこの世界にやって来ました。彼らの日々はすべて彼の書物にすでに記されていました。そして、彼らはきわめて悲惨な恐るべき罪に陥ることを許されます、ダビデがしでかしたようなことをしでかすのを許されます。おそらく、あなたたちの中には、ダビデを経綸的に排除する人もいるでしょうが、この原則は排除できません。ペテロのように、誓いと呪いをもって主を三度も否むようなことをした人でも、経綸的に排除することはできません。タルソのサウロがしたようなことをした人でも、経綸的に排除することはできません。サウロは、キリストの栄光で顔が輝いている若者を石打ちで死刑にすることに同意しましたし、地上におけるイエス・キリストの最後のレムナント・残党を撲滅しようと決意して、「この道」の者を迫害して死に至らしめました。これ以上続ける必要があるでしょうか?私たち自身についてはどうでしょう――罪や失敗を犯し、挫折し、あなたも私も私たちの主に汚名を着せてきました――彼は、私たちに体を与える前に、そうしたことが起きるのをすべてご存じでした。彼はご自分の書物に私たちの日々を記して、私たちが一日も送らぬうちに、意図して私たちに体を与えてくださいました。彼は、そのようなことが起きること、私たちが何をするのか、どのような生涯を送るのかをご存じでした。それをすべてご存じでした。彼はイスラエルの背教をすべてご存じでした。イスラエルがいつの日かご自身から離れて、ご自身を否み、偶像に香を焚いて、モロク礼拝のために息子たちを火の中に通すことをご存じでした。彼はそれをすべて知りながら、イスラエルを選び、イスラエルが誕生する前にイスラエルをご自分の書物に記されたのです。

これはいったいどう説明されるのでしょう?私たちの理解を超えています、私たちはこれを説明できませんし、理解できません。なぜ神はキリストにあって私を選び、キリストにあってあなたを選び、その後、私たちに体を与えることによって、私たちにあのようなことを行わせたり、あのような道を行かせたりして、ご自身を辱めるようにされたのでしょう?これは私たちの知性・知力を超えた問題です。聖書の中に一つの答えがあります。ここで私たちは膝が折れそうになります。倒れ伏すしかありません。「……それは、キリストの中で、最初に望みを持っていた私たちが、彼の栄光の賛美となるためです」。そこに栄光はありませんが、内側で働いているのではないでしょうか?天と地獄以外、誰がそれを見ているでしょう?世人はそれについて何を見ているでしょう?神の恵みの働きの痕跡らしきものがそこにあるかもしれませんが、世人には神の恵みがわかりませんし、その栄光も見えません。神の恵みを知るにはキリストが必要であり、それゆえ、神に栄光を帰すにはキリストが必要であり、したがって、それは教会における、またキリスト・イエスにおける栄光であって、すべての世代に至るまで、永遠に続きます。そうです、それは私たちに対する神の姿勢としての恵みに基づく栄光です。私たちにはそれを説明できません。なぜ彼はあなたや私を選ばれたのでしょう?自分に問いかけてみてください。あなたたちの中に、次のような線の上でスタートを切る用意のある人はいるでしょうか?すなわち、「私はなぜ彼が私を選ばれたのか知っています。神が私を選ばれたのにはもっともな理由、正当な理由があります」という線です。もしそうなら、あなたは神の恵みをなにもわかっておらず、神に栄光を帰すことはできません。これは神が恵みの中で私に向けておられるこの姿勢のおかげです、と心から言えるようになればなるほど、ますますあなたは神に栄光を帰すようになるのです。

私たちの惨めで、哀れな、堕落した、役立たずの自己が、しばしば彼の栄光を現わすのではなく隠す手段になっているのは、不思議ではないでしょうか?私たちは、自己を見つめ続け、自分の惨めな自己について話し、自分の惨めな自己に目を留め続けています。「ああ、私の場合、神の恵みは素晴らしいものです」と絶えず述べて、神の恵みに栄光を帰す代わりにです。これはもう一方の面です。さらにそうするよう、神が私たちを助けてくださいますように!栄光は恵みに基づきます。私たちに対する神の恵みに関するかぎり、不可解で計り知れませんが、だからこそとても素晴らしいのです。

神の力としての恵み

次に私は、恵みの別の範疇、別の領域、別の側面が、新約聖書に述べられていることに気づきました。それは神の力としての恵みです。神の好意や姿勢だけでなく、神の力です。パウロは自分の弱さや欠点について、彼がどのようにそれを主の御前に持ち出して、この弱さや欠点、自分を悩ませ苦しませるこの問題について主に懇願したのかを述べています。主はそれについては何も言わず、「わたしの恵みはあなたに対して十分です」(二コリント十二・九)と言われました。新約聖書には、生命力としての、神の力としての恵みについて、多くのことが書かれています。

私たちに対する神の恵みは自己の暴露を要求する

これらの面はみな、ある種の要求を課すものであることがわかるでしょうか?私たちに対する神の姿勢としての恵みという面の場合、自己の暴露が必要です。自分自身を暴露されないかぎり、私たちは決して神のこの姿勢を高く評価しないでしょう。では、なぜ、クリスチャン生活の行程は、ある観点から見ると、私たちを暴露し、裸にし、私たちの中にある腐敗を深みから浮かび上がらせ、「自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものは住んでいません」(ローマ七・十八)とますます言いたくならせるような過程なのでしょうか?なぜ神はいつも私たちを責めて、叱責の根拠を深みから浮かび上がらせようとされるのでしょうか?自分の罪によって、私たちを惨めにさせようとしておられるのでしょうか?いいえ、私たちが自分に対する神の姿勢にますます栄光を帰すようになるためには、自己の暴露が必要なのです。神は言われます、「あなたは自分の真相を見ています、しかしそれでも、わたしはあなたを愛しています。あなたは自分の内にある不法がいかに深いかを見ています、しかしそれでも、わたしの姿勢はあなたに対して恵み深くあります。あなたは自分が何をしでかせるのかを見ています、しかしそれでも、わたしは顔をあなたから背けません。わたしの顔はあなたの方を向いています。わたしの姿勢は無限の同情、無限の忍耐のそれです。わたしの姿勢は依然として恵みのそれです」。自己の暴露が必要です。そして、神の力という形を取る恵みの問題では、別の要求が課されます。その要求とは試練、苦しみ、苦難です。

神の力としての恵みは苦難を要求する

多くの苦難がありますが、それらは信者の分であり、信者でなければ決して遭わなかったであろうものです。私たちは主のものなので、苦しみと試練は私たちの分です。主が私たちを買い取ってご自身の所有とされたので、私たちは苦しみ、試練を受け、悩まされるのです。私たちは弱さを経験し、逆境を経験し、知恵も力もすべて尽き果てるのを経験します。これこそ、恵みに基づく神の栄光を経験するのに必要なことです。常にそう信じていられたら、と私は願います。暗闇の時、恐ろしい苦しみの時に、これを水晶のように常に自分の前に置いておけたら、と私は願います。しかし、私は新約聖書の中にそれを見ます、この人々の中にそれを見ます、主イエスの中にそれを見ます。私は、栄光が今、このような隠れた形で働いているのを見ます。ああ、この人々はその中を通りますが、神の恵みはとても素晴らしいです。神の恵みが絶えず彼らを引き上げ、連れ戻し、なにがあっても彼らを進み続けさせます。今度こそ彼らはおしまいだと思っても、再び浮かび上がって来ます。コルク全般のように何度でも跳ね上がるのです。恵みは生命力です、恵みは神の力です。

主イエスを見て、そうでないかどうか見てください。教会を見て、そうでないかどうか見てください。あなた自身の過去と心を見て、そうでないかどうか見てください。栄光とはそのようなものです。御使いたちが栄光に関する天の歌を歌うのとは、かけ離れた考えです。なにかが中に入って行きます、下に潜って行きます。力強く地下で働いており、私たちを切り抜けさせてくれるのです。

恵みは神の性質の問題である

次に、恵みの三番目の面は神の性質と関係しています。恵みはいわゆる優しさの問題である、と言われることがあります。つまり、恵みは刺激の下で神の性質とかたちから発するものである、というのです。ペテロの言葉を翻訳する時に翻訳者たちが首尾一貫していなかったのは、なんと残念なことでしょう――「あなたたちが善を行って、そのために苦しみ、耐え忍ぶとしたら、これは神に受け入れられることです」(一ペテロ二・二〇)。他のどの箇所でも、「受け入れられる」という言葉は「恵み」と訳されています。「これは神と共にある恵みです」。善を行って苦しむ時、善を行って打たれ、それを耐え忍ぶ時、これは神と共にある恵みです――これは栄光ではない、とあなたは私に言うのでしょうか?!あなたが不当に苦しめられ、中傷され、誤解され、迫害され、攻撃されており、しかもそれには実際のところなんの根拠もないことがよくよくわかっている時、あなたが反対を受けているのは、おそらくあなたがクリスチャンであって、なんらかの理由で好かれていないからなのです。あなたが全く好感を持てない人物だからではありません。そこにはなにか別の理由があることを、あなたは知っています。あなたがクリスチャンだからこそ、あなたは耐え忍ばなければならないのです。ですから、不当に苦しめられるとき、もしあなたがそれを耐え忍ぶなら、恵みに基づいて神に栄光を帰すことになります。恵みは神の性質の問題です。

自己を服従させる必要性

では、ここで要求されていることは何でしょう?自己を服従させる必要性にほかなりません。耐え忍ぶことの反対は何でしょう?「彼は罵られても、罵り返すことがなく、苦しめられても、脅かすことをされませんでした」(一ペテロ二・二三)。苦難に対するあなたの反応、自分に浴びせられることや他の人々によって経験させられることに対するあなたの反応は、こうでなければなりません。たとえ、それがあなたの間違いのせいではなく、むしろ、あなた自身と主との間に関するかぎり、それには全く理由がなくてもです。それに関してあなたになんの責任もなくてもです。あなたの反応は彼と同じでしょうか?彼は罵り返すことがなく、脅かすことをされませんでした。彼は全く憤らず、復讐せず、仕返しをしようという気もありません。「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ二三・三四)。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒七・六〇)。これは恵みですが、神に栄光を帰すことです。これは神の栄光であり、キリストの栄光です。

ああ、そうです、しかしこれは深く隠されていることです。進行中のこの戦いをだれも知りません。ああ、この残忍さ、この不義、この悪は、どれほどあなたの内にある苦々しさを掻き立て尽くし、その性質の上に働いて、辛辣なことを言いたい気分にさせることでしょう。あなたは内側で真の戦いを経験します。祈って征服します――これを彼らはなにも見ていません。静かで穏やかな霊があります。私利私欲は服従させられ、自己の命はこの戦いの中ですっかり服従させられて、あなたは切り抜けます。しかし、あなたにそんな気配はまったくありません。これが恵みです、これが栄光です、恵みに基づく栄光です。しかし、それは隠された方法、秘密の戦いによります。その過程を他の人はだれも知りません。進行中のすべての出来事や、ご自身の上に臨んだすべての出来事の背後で、主イエスがご自身と御父との間で経られた過程を、他の人は全くだれも知りません。そうです、主イエスの栄光は、試練の下で、迫害の下で、神の恵みが現れたものだったのです。彼の聖徒たち、僕たち、教会も同じです。あなたについても、私についても同じです。

「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」。しかし、その栄光は時として全く理解不能なものです。それでも、それは同じ栄光です。彼が誕生された日に御使いたちが歌い語った栄光は、天がゲッセマネに見た栄光と、異なるものではありません。そうです、同じ栄光です。しかし、神は内側で働いておられます。それは、最終的に、その原初の栄光を輝きわたらせるためです。試練によって、逆境によって、苦しみによって、そうしたあらゆる手段によって、この栄光が内側に造り込まれます。それは、私たちが彼の栄光にあずかる者、彼の栄光の共有者となるためです。そして、これが今、私たちにとって栄光なのです。「主は恵みと栄光を与えてくださる」(詩篇八四・十一)。この二つは、今の中間期では常に同行しますが、やがてすべてが栄光となるのです。