第一章 主にのみ聞く耳

T. オースチン-スパークス

朗読:ローマ十二・一、出エジプト記二一・五~六、申命記十五・十二~十八、レビ記八・二二~二四、三〇、イザヤ一・四~五、黙示録三・二〇~二二。

これらの節では、すべて耳について述べられていることに気づかれたでしょう。僕の刺し通された耳、祭司の聖別された耳、らい病人の油塗られた耳について述べられており、イザヤ一章では教えに対して開かれている耳、黙示録三章では注意深い耳について述べられています。主が耳をいかに重視しておられるのか、またどれほど聞くことについて聖書に書かれているのかを理解するとき、感銘を受けます。様々な聖書の箇所をまとめると、聞く問題や耳の問題は霊的生活のまさに根幹に関わるものであることがわかります。エバの耳を捕らえることによって、すべての罪が人類の中に入り込みました。敵であるサタンが「神はそう言われたのですか?」と言った時、彼女は聞くことに同意して耳を貸しました。それが人々の間におけるすべての霊的悪の始まりでした。それ以来、サタンは常に耳を捕らえることによって自分の王国を広めようとしてきました。サタンは全く同じ方法を用いて、荒野で断食しておられた主イエスのもとに行き、「もしあなたが神の子なら……」と言いました。この言葉は「神はそう言われたのですか?」という言葉と似ています。というのは、その少し前に、神は「これはわたしの愛する子である」と言われたからです。しかし、最後のアダムは聞くことを拒み、耳を閉ざされました。その示唆や暗示の相手をすることに同意しようとされませんでした。そして、敵に耳を傾けることを辛抱強く拒むことによって、贖いが成就されました。まさにこの点における最初の失敗の過ちは、すべて克服されたのです。

黙示録を見ると、耳に対する訴えがなされていることがわかります。それは完結の時でした。最初の数章は、主からの言葉として聞くべき事と関係しています。最後の数章では、御霊の命の働きの全き結果が見られます。創世記と同じ諸々の原則が見られます。それは全く命の問題であり、この命はサタンに耳を貸すなら失われ、御霊の言われることに耳を傾けるなら獲得されます。

ですから、霊的生活と霊的行程は全く霊的聴力にかかっている、と言うことは、ある意味で正しいのです。死と命の両極の間には、サタンに耳を傾けることと主にのみ聞くこととの両極の間には、上記の節で見たように、霊的聴力に関する多くの面があります。それらについて今は詳しく触れるつもりはありません。さしあたって、御霊の言われることを聞く耳を持つこととそれを用いることとの必要性を強調して満足することにします――「耳のある者は聞きなさい」。外側で聞くだけでなく、それが内側深くに届くように、それが変化を生じさせるように、私たちは心がけなければなりません。同じ人々に再三同じことを言っても、その人々はあなたの言うことを知っていて、「あなたが前にそう言うのを聞いたことがあります」と言い返すかもしれません。しかし、あなたの言葉はなんの違いも生じさせません――彼らは内なる耳で聞いていなかったのです。このように内側で聞くこと――自分の耳を用いて御霊の言われることを聞くこと――に命がかかっています。ですから、これはみなこの御言葉に集約されます、「兄弟たちよ、こういうわけで、私は神のあわれみによって、あなたたちに勧めます。あなたたちの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。それが、あなたたちの霊的な奉仕(礼拝、改定訳欄外)です」(ローマ十二・一)。