第二章 僕の刺し通された耳

T. オースチン-スパークス

朗読:出エジプト記二一・五~六、申命記十五・十二~十八。

ここでは僕の耳について記されています。表面上、愛、耳、永続的な奉仕との間につながりがあることがわかります。愛はここでは刺し通された耳と関係しており、この継続的な奉仕の基礎となります。この継続的奉仕は、自発的に行うべきものであり、法的に強制されるべきものではありません。それは、心情や心境のゆえに、僕自らが引き受けるべきものです。愛するがゆえに、ある権利と自由を放棄するのです。この僕には自由になる権利があります。彼は外国人ではなく、強制的に奴隷の働きをさせられる雇人でもありません。彼はヘブル人であり、ヘブル人としての権利があります、自由になる権利があります。法律や義務を何ら破ることなく、出て行って自由になれます。むしろ、その時点で彼に対して義務を負っているのは彼の主人の方です。しかし、この僕は愛のゆえに自分の権利と自由を放棄します。これは法的義務による制約とは違います。全く別の領域のことなのです。

パウロ自身、しばしば自分のことをイエス・キリストの奴隷と述べていますが、このように自由を放棄することの意味を様々な発言で示しています。例えば、彼はこう述べています、「すべての事が私に許されているのですが、すべての事が益になるのではありません」(一コリント六・十二)。「権利を主張しようと思えば主張できます。律法に関するかぎり、私を禁じたり強制したりするものは何もありません。しかし、私はそれ以上のものによって促されているのです。他に考えるべきことがあるのです。主の権益と主に対する私の関心によって、私は特定の自由と権利を放棄するよう導かれているのです。私は主のためにそれらを放棄します」。彼は奴隷として理解していたのです、通常の善悪の基準で判断するとある事柄には何の問題もなく、その基準によるとある行程を取っても全くかまわないかもしれないけれども、何らかの高遠な権益を考慮すべき場合もあるということを。それは、主のためにそうした自由を放棄しさえすれば、よりよく、より十分に主に奉仕できる場合です。これは遥かに高い水準です。この水準にある僕は言います、「私は自由になって出て行くつもりはありません。そうする完全な権利を持っていますが、そうしません。私がここにいるのは、いなければならないからではありませんし、強制されているからでもありません。私がここにいるのは愛のゆえなのです」。これは、より充実した、より高度な世界であり、多くの点で私たちに触れます。私たちはそうすることができます……そうしてもかまいません……何の問題もありません……しかし主の最高の権益のために、私たちはいくつかの点で自分自身を否んで言わなければなりません、「それには何の問題も害もありませんが、そうしない方が主によりよく仕えることができます」と。「すべての事が私に許されているのですが、すべての事が益になるのではありません」。このような姿勢を取るなら、主との新たな関係、つまり永続的な奉仕の関係が築かれます。しかし、今やその関係は一家の一員、家族の一員を超えたものです。子たる身分の霊が入って来られ、「あなたはもはや奴隷ではなく子」(ガラテヤ四・七)となります。愛は高めて移します。そして、それは依然として奉仕ではあるのですが、奴隷と――同時に――子との間の驚くべき関連性を私たちは新約聖書の中に見いだします。

主イエスが偉大な模範となることがわかります。彼には権利がありました、とても大きな権利がありました。彼はそれらを保持することもできました。彼には自由がありました。それらのために戦うこともできました。彼には何かを行う法的義務はいっさいありませんでしたし、御父と共に永遠の栄光の中にとどまることもできました。彼は自ら「僕(奴隷)の形を取り(中略)死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました」(ピリピ二・七~八)。彼は「わたしは出て行って自由にはなりません」と言いました。そして、御父は彼の耳を刺し通されました。彼は永遠の御子・僕です。彼においてはこの二つは結合しています――子たる身分と奴隷としての身分が御父に対する愛の中で結合しています。そして、彼において最高かつ完全に表わされているものが、より小さな形で私たちに伝達されます。愛のゆえにある事柄に対して「否」と言わざるをえないことが度々あります。それ自体は無害であって、ある意味で望ましく、自分自身の利益のためだけに仕えているなら十分に許されるような事柄であってもです。それらに対して私たちは「否」と言います。私たちにとって主人以上の存在となった方の権益のためです。彼が主となられたのです。