第三章 聖別された耳

T. オースチン-スパークス

朗読:レビ記八・二二~二四、三〇、十四・二五~二八。

血をつけられた耳

この二つの節の前の箇所では、アロンとその子らの聖別と、彼らの右の耳たぶに血をつけたこととが記されています――血によって耳が聖別されたのです。ご存じのように、血は常に区別と分離の手段でした。血を振りかけられたものはみな、主へと分離され、主に対して聖別されました。その血は――ある体制全体に終止符が打たれ、全く新しい体制のための準備が整えられたことを物語ります――血がその間に立ちました。これを聖書から説明する必要はほとんどないでしょう。なぜなら、多くの説明があるからです。おそらく旧約聖書で最も傑出している絵図は、エジプトにいたヘブル人の家の戸口の柱と鴨居に振りかけられた小羊の血でしょう。この振りかけられた血によって、彼らは印づけられてエジプト人から分離され、全く新しい未来、新しい歴史を持つ民とされました。血は分離して、全く新しいもののための基礎を据えました――この過越から彼らは新たな方法で神の民に構成されたのです。これが血の原理です。すなわち、血は一つの体系から分離して、別の体系のために道を開くのです。

さて、この祭司職では、これがとても強く強調されています。聖別のための雄羊の血が耳につけられました。これはまさに次のことを意味します。すなわち、耳を通して心に示される一切のことを血は試し、検査し、裁くのです。血は、耳を通して内なる生活に入って来る一切のものに対して、それがどこから来たのか、どのような性質のものなのかを問いただします。血は裁いて言います、「これは神からではなく、主の御心にかなっていません。それは罪と同盟関係にある旧創造に属しています。サタンが耳に語りかけた当初の源から発しています」。血はこうしてすべてを裁き、神から出ていないものを断罪し、主のために道を開き続けます――とても単純な教訓ですが、とても強力です。主イエスは、「聞くことに注意しなさい」(マルコ四・二四)と言われました。この箇所の祭司は霊的な人、全く主にささげきっていて、全く主の意のままである人を意味します。霊的な人は、自分の聞くことに、大いに注意します。自分の心や内なる生活の中に耳を通して入って来て、内的に自分の一部となるのを許すことに、大いに注意します。なんにでも耳を傾けるわけではありません。何を聞くのかを判断して、かなり多くのものを拒否するのです。

さて、これは多くのことにあてはまるので、目録を作るのは賢明ではないかもしれません。もし主からではないものや、主に反するものに耳を傾けることを許すなら、自分自身の霊の命に言いようのない損害を与え、主は私たちに語れなくなるおそれがあります。敵は世人の耳を通して自分の王国のために大きな力を得ています。敵は聴覚を通して人々を大いに捕えています。敵は多くのものを用います――ある種の音楽や話し方を用います。聖別された主の僕は、そのようなことを自発的に許したりはしません。私たちはこの世におり、聞くことを願うべきではない多くのことを聞かざるをえません。しかし重要なのは、私たちの外側の耳に入る周囲の音ではなく、それに対する私たちの反応、聞こえていることに同意するかどうかなのです。私たちはそれを裁き、内側で反抗し、拒むのでしょうか、それとも、それに耳を貸すのでしょうか?

これは特に、人々に関する話に耳を貸すことにあてはまるのではないかと思います。噂話や批判が計り知れない害を及ぼしています。さて、聞く耳がなければ、話す口があってもどうにもなりません。時として、聞くことを拒否することによって、賢明でない制御不能な口を閉ざすことができます。祭司は、なんにでも耳を傾けることを拒否し、それを裁いて、「私はそんなことを聞きたくありません。それに耳を傾けるつもりも、それを受け入れるつもりもありません」と言うよう求められています。今日、噂や、会話や、伝聞や、解釈が引き起こすひどい過ちが、神の真の子供たちの間にすら、なんと多く存在しているのかは、きっとおわかりでしょう。私たちはそうした影響をなんと受けやすいことか!この血をつけられた耳、聖別された耳は、根本的な教訓を伝えます。一方において、この世のものをなんでも受け入れて、それが内なる生活の中に入り込むのを、この耳は拒否します。

御霊によって油塗られた耳

次にもう一つの側面――油塗られた耳――があります。両方の面がレビ記十四章の清められたらい病人の事例に見られます。彼は、汚れた肉の生活から解放されて、命の新しさの中を、御霊によって歩いている人の型です。その耳は血をつけられています――神からではないものに耳を傾けることを拒むしるしです。また、その耳は油塗られています――主に喜んで聞くことのしるしです。主の民の多くが主に聞く耳――聖霊によって生かされている開かれた鋭敏で敏感な耳、澄んだ耳――を持っていないせいで、なんと多くのものが失われていることでしょう。敵は主の僕たちの多くを大忙しにして、主に耳を傾けさせないようにしています。すべては不出来であり、うまくいかず、的外れです。敵は働き人たちを働きの惰性だけで進ませています。敵は、主が語りたいことを聞く時間を彼らが持たないように見張っています。黙示録冒頭の諸教会には賞賛すべき点が多々ありましたが、おそらくこれまでだれにも臨んだことのない最大の驚きが諸教会のいくつかに臨みました。事実上こう言われたのです、「あなたにはこのような働き、労苦、忍耐、他にも大いに賞賛すべき点がありますが、主に聞く耳がありません。これらは悪いものではありませんが、ずっと重要なことがあります。あなたは御霊が言われることを聞いていません。耳のある者は、御霊が言われることを聞きなさい……」。矯正のために、調整のために、物事に関する御心をなおもよりよく知るために、主に対して開かれた耳が必要だったのです。

一つの世界に対して閉ざされた耳があり、別の世界に対して開かれた耳があります。血によって閉ざされた一つの世界があり、御霊によって開かれた別の世界があります。これはみな内なる耳、心の耳を中心としています。それはとても大事なものです。主よ、私たちに恵みを与えて、私たちをこの問題に関して大いに従順で注意深くならせてください。自分が聞くこと、受け入れるのを許すことに、注意するようにさせてください。そして、主がなにかを話すことを望んでおられるとき、私たちの耳をふさがれた状態ではなく、御声に対して開かれた状態に保ってください。