第四章 開かれた耳

T. オースチン-スパークス

朗読:イザヤ五十・四~九。

イザヤ五十章のこの節は、四九章と密接に関連付けて読む必要があります。また、預言のその区分全体におけるその背景を認識する必要があります。これは、主がご自身の預言者たちを通してなさった語りかけにもかかわらず、イスラエルが逆らって逆戻りしたことに関する区分の中にあります。彼らは主に対して耳を開くことを拒みました。その結果は何だったでしょう?――この章の冒頭に述べられているように、彼らは主から離縁されました。断ち切られて捕囚に渡されました。その後五三章まで、贖いの御業をされる主の僕が十分に素晴らしく示されます。そして、この方に関してこれらの言葉が語られたのです。これらの言葉は、人々の救いのための奉仕がどうなされるのかについて、少しの示唆を与えてくれます。まず、罪とその結果が示され、次に贖い主・僕と贖いの代価が示されます。「わたしはわたしを打つ者に背を任せ、髭を抜く者にわたしの頬を任せ、恥とつばきからわたしの顔を隠さなかった」――この御言葉は主イエスの事例で文字どおり成就されました。次に、七~九節で彼の正しさの実証について述べられます。「主エホバはわたしを助けられる。それゆえ、わたしは困惑しなかった。それゆえ、わたしは顔を火打ち石のようにして、辱められないことを知る。わたしを義とする方がそばにおられる。誰がわたしと争うのか……」云々。これは主ご自身が十字架を前にして語っておられるのであり、ご自身の苦難の結果と、復活においてご自身の正しさが実証されることとを、確信をもって見越しておられるのです。そしてそのすべてのゆえに――神に対するご自身の確信と、人々の救いのために喜んで代価を払おうとするご自身の意志のゆえに――彼はこの希望の言葉を語られました。「主なる神はわたしに、教えを受けた者の舌を与えて、疲れた者を言葉をもって、いかに支えるかを知らされる」。これは、かなり絶望的な状況にある希望なき人々に対する希望の言葉です。「疲れた者を言葉をもって支える」――これは十字架による希望の務めであり、苦難の僕の復活と、その正しさの実証によります。

そして、彼は次のことを端的に示されます。すなわち、希望と励ましのこの務め、命と救いのこの言葉、暗闇を光に転じるこの働きは、暗闇と死を招いたものに対して彼が取った反対の姿勢のおかげなのです。人々は逆らって引き返し、主の御言葉に対して耳を閉ざしました。彼は従順に神の方に向かい、ご自身の耳を開かれました。つまり、主の御言葉に耳を傾け、注意し、受け入れたのです。これはもっぱら主イエスに当てはまりますが、原則的にはもちろん私たちにも当てはまります。今やすべては次のことにかかっています――主に対して開かれた耳によって支配されている日常生活にかかっています。「彼は朝毎にわたしを呼び覚まし、わたしの耳を呼び覚まして、教えを受けた者のように聞かせられる」。むしろ驚くべきは、主イエスがご自身のことを弟子、学ぶ者、教えを受ける者と述べておられることです。これは、彼は万物の創造者なる神から出て来られた一方で、肉体にあっていかにあらゆることで徹底的に神に拠り頼み、御父から日毎に指示と指導を受けておられたのかを示しています。自己を空にすることのなんという絵図でしょう!彼のこの御言葉はなんと真実なのでしょう――「子は、父が行なわれることを見ないでは、自分から何もすることができない」(ヨハネ五・十九)――あらゆることで日毎に御父に拠り頼んで、すべてを御父からお受けになったのです。もちろん、これがどれほど自分たちにも言えるのかは承知しています。しかし、実に素晴らしいことに、彼の希望の務めは、彼が朝毎に待ち望んで、御父が彼に語り、教え、務めについて教えられたことを聞くことから生じたのです。

これもまた、耳の地位を凄まじく強調しています。神の子供の生活で耳がなんと重要なのかを私たちは見ましたが、それがこのとても美しい節で再び示されます。絶望的状況の中に希望をもたらし、疲れた者、くじけそうな人を言葉をもって支えるには、私たちは主との緊密な接触の中になければなりません。すべてを彼から得なければなりませんし、耳を開いてもらわなければなりません。これは、主が言われることを喜んで聞くことだけでなく、むしろこの場合、イスラエルとは逆に、聞いたことを熱心に喜んで行うことを意味します。こうして、開かれた応答する耳によって、他者に対する価値ある働きが生まれます。この章を読み終える前に、素晴らしい御言葉に出会います。それは、暗闇の中を歩き、光を持たない者たちに、自分の神にとどまるように勧める御言葉です。この御言葉を預言の一部として主イエスに当てはめると――疑いなく当てはまるのですが――とても素晴らしいです――暗闇の中を歩き、光を持っていないのですが、それでも、他の人々を助けられるよう、日毎に主と接触するのです。その結果、他の人々は助けを受け、支えられ、希望を与えられます。日毎に主との接触の中に生きる人々によってです。これは、早朝の静かな時と、朝毎に耳を開いてもらうことの重要性を示唆しているように思われます。私たちはその静かな時を、ほとんど主に語ることに費やしているのではないでしょうか。その時間の中には、主に耳を傾けることに費やすべき時間もあるのではないでしょうか。「……朝毎に彼は私の耳を呼び覚まされる」。その結果、他の人々は助けを受け、励ましと希望を受けるのです。