朗読:出エジプト記十二・一~十一。
「私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た。」(黙示録五・六)
「御座の中央の小羊が彼らを牧し、命の水の源に導いてくださり、また神が彼らの目から、涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示録七・十七)
「御座の中央におられる小羊……」。主イエスのこの呼称は、ご存じのように黙示録の中に何回も出てきます。二十八回ほど出てきます。それに関してこの書にざっと目を通すなら、基礎を据える助けになると思います。
五章では、この呼称は四回出てきます。そこでは、高く上げられて御座の中央におられるほふられた小羊としての主イエスについて記されています。次に、礼拝の中心としての主イエスについて、次に、裁くのにふさわしい方としての主イエスについて記されています。封印された書があり、その書を取って開くのにふさわしい者はだれも見つかりませんでした。天においてさえも見つかりませんでした。天使や大天使の純粋さ以上のものが必要でした。大天使でも持っていない何らかの特徴、要素が必要でした。その書の封印を解くのにふさわしい者がだれも見つからなかったので、ヨハネは泣きました。その書とその封印を開く権利を与える資質を備えた方として、小羊が示されます。それは裁きの、世の裁きの書です。小羊だけが、その資格のゆえに、世を裁く権利を持っておられます。それがここで示されている第一の点です。
六章では、この呼称が二回出てきます。その書が開かれて裁きが始まります。ここでは小羊の怒りについて述べられています。
七章では、だれも数えることのできない大群衆に関連して、この語が再び四回出てきます。彼らは大きな艱難から出て来て、小羊の血で自分の衣を洗って白くした人々でした。彼らは小羊の御座の前にいます。
この呼称が次に述べられているのは十二章です。とても馴染み深い箇所です。この呼称はここでは、勝利者の群れに関連して一度だけ述べられています。彼らは小羊の血によって龍に打ち勝ったと述べられています。
十三章で、この呼称がもう一度出てきます。ここでは、小羊の命の書に名を記されていない人はみな獣を礼拝します。
それから、十四章では六回登場します。ここではこの呼称を四つ含んでいます。小羊がシオン山上に現れます。そして、彼と共に十四万人四千人がいます。
十五章では、獣に打ち勝った者たちについて再度述べています。彼らは神の僕であるモーセの歌と、小羊の歌を歌います。
十七章では、十人の王が自分たちの権力と権威を獣に与えて、小羊と戦います。
二一章では五回出てきます。第一に、小羊の妻。第二に、小羊の十二使徒。第三に、小羊は宮です。第四に、小羊は都の光です。第五に、小羊の命の書。
最後に、二二章では、小羊について二回述べられています。命の水の川が神と小羊の御座から発します。次に、「神と小羊の御座」という句がはっきりと述べられています。
この呼称の意味
さて、これは聖書の引用の要約以上のものです。これは、すでに述べたように、非常に重要な考察の土台となるものであり、「小羊」というこの呼称の意義は何か?という問いに私たちを直ちに導きます。
単純に考えるだけでも、そのすべてが不思議であり、特殊であると感じるにちがいありません。考えうる最も偉大なこと、神の宇宙の中心から周辺に至る広大な範囲に及ぶ、これらの途方もないことはみな、「小羊」という呼称を与えられた御方を焦点としているのです。
さて、この言葉にはどんな意味があるのでしょう?私が見るところ、神に選ばれた小羊には二つの顕著な特徴があります。一つは純粋さであり、もう一つは神のみこころに対する無条件の明け渡しです。これはとても単純に聞こえますが、核心を突いています。純粋さと神のみこころに対する無条件の明け渡しです。これらは実際には、本質的に一つです。明け渡しとは、自己意志、自己本位、自己決定、自己理屈、自己志向、自己関心といった要素が全くないことを意味します。これが「しみも傷もない小羊」という句の意味だと私は理解しています。しみや傷とは何でしょう?自己の命、自己中心的な何らかの要素を構成するものです。この小羊にはそのような要素や特徴はいっさいありません。神がご自分の小羊の内なる諸部分を調べても、そこに自己の原理の痕跡は見当たりません。サタンの干渉によってアダムの中に生じたあの自己の原理の痕跡は見当たりません。この自己の原理の完全な破壊と除去が、神が全く喜ばれる根本的状態を確保するために必要不可欠です。神のみこころに対する明け渡し、無条件の明け渡しとは、自己の要素をすべて全く排除することです。しみがなく傷もないこと、これは純粋さでもあります。神を見る心の純粋さとは、神のみこころを一心に見つめることです。心の清い者は神を見ます。心が清いとはどういうことでしょう?それは、この宇宙や人生において、神のみこころ以外の関心を何も持たないこと、神の栄光だけを一心に見つめることです。これが心の純粋さです。小羊は傷のない者でなければなりません。神のみこころをさえぎる意志という傷のない者でなければなりません。したがって小羊は、あのみこころに対する絶対的明け渡しという特徴を帯びています――「ほふり場に引いて行かれる小羊のように……」。あなたはこの御言葉をご存じでしょうし、これを述べている御言葉をすでに思い浮かべておられるでしょう。イサクはこの小羊の予型です。イサクをささげものとすることに関して彼の父は「わが子よ、神自らが小羊を備えてくださるのです」と言いましたが、イサクは御父のみこころに対するこの無条件の明け渡しの化身でした。御言葉全体にわたってこれを見て取れます。
小羊の血――朽ちることのない本質的な命のエネルギー
さて、小羊の血、この小羊の命のエネルギーは、この朽ちることのない性質を帯びています。どんな挑発や試練や誘惑の下でも、御父のみこころの代わりに自己の利益を優先させることのない性質です。主イエスの全生涯はこの一点に集約されます。彼が神の小羊として公に紹介されたその日から、その小羊を損なおうとする地獄の陰謀がほとんど直ちに起こりました。その陰謀はすべて、何らかの自己権益、自己保存、自己考察、自己共感、自己憐憫、自己野心、自己実現、自己が働きうる数千の方法を持ち込もうとするこの線に沿っていました。最後の最後まで、そして恐るべき最後の苦しみのときも、この誘惑は依然として続いていました。「降りて来い、そうすればわれわれは信じよう!」。この提案の背後で、火のような激しさで、またもや試みがなされました。自己を救うために「自己」の性格を帯びた行動を引き起こそうという試みです。しかし、だめです!「わたしが来たのはあなたのみこころを行うためです」。神のみこころと、人の意志、肉の意志とは、決して手を取り合って進めません。小羊の血は朽ちることのない本質的な命のエネルギーです。それが朽ちることはありえません。地獄は小羊を堕落させるためにその邪悪な力を最後まで使い尽くしましたが、失敗しました。小羊は勝利しました、小羊は打ち勝ちました、小羊が御座の中央におられます。
小羊に照らして見た黙示録
これがいかに黙示録に記されているすべてのことに光を投じるのかがわかります。すべては小羊と関係しています。したがって、この書に記されていることはみな、他のすべての書と同様に、この性質、この朽ちることない性質という光に照らして、すなわち、この性質を持つこの御方に照らして、見なければなりません。
(a)この世の裁き
ですから、五章は小羊に照らして見なければなりません。誰が裁きを下す権利を持っているのでしょう、誰が他者の上に、世の上に裁きを下す権利を持っているのでしょう?道徳的に非の打ちどころのない御方、あらゆる試みを経て、堕落させようとするいかなる試みも物ともしないことが実証された御方だけです。裁きは不朽不滅の御方の手にあります。彼に御座が与えられたのは、彼の道徳的価値のためであり、公的任命のためではありません。「あなたはふさわしい方です」が大事な点です。「あなたはふさわしい」のは、あなたが神の御子だからではなく、あなたが神の小羊だからです。「あなたはその書を受け取るのにふさわしい」。愛する人よ、すべての裁きはこの根拠に、裁きのこの基礎に基づきます。この真理の幸いさは次の点にあります。すなわち、信仰によって小羊の側に立ち、その尊い血の価値を信仰によってすべて取得した者たち、小羊に結合された者たちは、すでに裁きが終わっているのです。彼らに対する裁きは過ぎ去り、彼らの罪はあらかじめ裁かれているのです。もはや裁かれることはありません、なぜならキリスト・イエスにある者たちは罪に定められることがないからです。世に対する裁きを五章は見せています。裁きの鉢が注ぎ出されます。五つの恐るべき裁きが下され、その後、先立つ五つの裁きよりも悪い裁きが下されます。これはみな次の根拠に基づきます。すなわち、裁きから逃れられる義が人々に提供されていたのに、人々はそれを拒絶したので、もはや逃れられない、という根拠です。これは小羊にしたがっています。
(b)義とされた人々
次に、神と小羊の御座の前に立っているだれも数えることのできない大群衆について記されています。彼らは大きな艱難から出て来て、自分の衣を小羊の血で洗って白くしました。これは、彼らが、立場的にも状態的にも、信仰によって小羊と結合されたことをまさに意味します。立場的に?そうです。しかし、彼らはまた、自分の衣を小羊の血で洗って白くしました。彼らは何をしたのでしょう?小羊を自分の義として、聖として、「霊のしみなき天の衣」として受け入れたのです。しかし、彼らはまた、自己の命、自己権益・自己実現・自己本位の生活を否み、大きな艱難の中にあって、自分自身の救いを求めることを拒み、自分自身と自分の利益に逆らって小羊と共に立ったのです。彼らは日夜、彼の宮で彼に仕えます。
(c)勝利者
勝利者:勝利者もまた、小羊の血のおかげで、勝ち抜いてこの地位に至りました。ああ、そうです、あなたも私も、キリストのエネルギー、生命エネルギーである彼の血のこの強力な力を、もっともっと学ばなければなりません。その力は、サタンが働くあの立場――それに基づいて彼は、肉的関心・利己的関心・旧創造的考えによって私たちを動かそうとします――に立ち向かいます。愛する人よ、勝利者は常にこの一点に関して試されます。あなたは、圧迫・試練・試み・苦難・逆境の下で、小羊の道、神のみこころ、神の栄光への無私の明け渡しを、自分の体面を気にして放棄するのでしょうか?二つの側が全く明らかであることがわかります。自分自身の命か小羊の道かです。勝利者の道は小羊の道です。小羊の血、つまり自己のエネルギーに立ち向かうキリストのエネルギーの道です。もちろん、これをもっと詳しく述べることもできますが、これが示されている原則です。
(d)獣
獣:結局のところ、獣とは一体何でしょう?政治的獣であれ、宗教的獣であれ、あるいは預言における何であれ、それは二の次です。重要なのは、獣は道徳的にどうなのか?ということです。その意味で、獣は小羊に反するいっさいのものの化身・権化にほかなりません。獣は小羊と戦います。覚えておいてください、焦点は依然として小羊です。獣は神の御子と戦う、とは述べられていません。獣はイエス・キリストと戦う、と聖書は述べていません。獣は小羊と戦うのです。小羊の特徴に目を留めるなら、すべてに対する鍵が手に入ります。
この小羊の意義は何でしょう?それはこの純粋さであり、神の栄光の実現のために神のみこころに全く明け渡して肉や自己の関心が全くないことです。獣は、小羊に反するあらゆるものの総計です。獣は小羊の原則に反対します。私たちはこれを知っています。獣を求めてロシアのどこかを探すまでもありません。獣は私たちのだれからも遠く離れてはいません。もちろん、これにはそれ以上の意味があることは承知しています。しかし、ここでいう獣とは何でしょう?あなた自身の集積、総計にほかなりません。旧創造の中にあるもの、神のみこころに逆らい、神への無私の明け渡しというこの徹底的純粋さに逆らうものの、強力な顕現・具現化です。獣は堕落したもの、不純なもの、邪悪なものです。獣は小羊と戦います。神はほむべきかな、小羊は勝利します。小羊と共にいる者たちも小羊と共に勝利して、神の僕モーセの歌と小羊の歌を歌います。彼らは獣から逃れました――これはイスラエルに関する神の霊的な御思いを大いに表しています。これについてはさらにまた見ることにします。
(e)小羊の婚姻
小羊の婚姻。なんという思想でしょう!どこよりもここで、私たちは自分の考えを調整する必要があります。小羊は、小羊であるので、ご自身と同じ種類ではない何者とも決して結婚されません。小羊はご自身のような妻しか持ちません。ここにもう一人の女、遊女どもの母がいます。小羊は彼女と結婚されません。一人の妻と結婚されるのであり、この妻は準備を整えました。「この望みを彼に置いている者は(ヨハネはこれを別の言葉で表現しているにすぎません)、彼がきよくあられるように、自分をきよくします」。小羊の婚姻は、彼のかたちに同形化された一団の存在を意味します。この一団は彼とのこのような関係に入れてもらえます。それはあらゆる点で一つである者たちの一団です。これほどまでに真に一つである婚姻はあったためしがありません。それは小羊と、小羊の行くところへはどこにでも従って行った者たちとの間の婚姻です。つまり、彼らは小羊の道を進んだのであり、無私の道、神のみこころに対する無条件の明け渡しの道を進んだのです。これが婚姻であり、小羊の妻です。同じように、私たちはこれらの他の点についても同じ光に照らして見なければなりません。
(f)小羊の御座
小羊の御座があります。小羊は、小羊であるがゆえに、高く上げられて高い地位を与えられています。これは、「わたしの王座にわたしと共に座らせよう」という先の御言葉に光を投じます。そうです、この王座は小羊の御座です。私たちはどのようにして彼と共に高く上げられ、彼と共に統治し、彼と共に御座を共有するのでしょう?統治する生活の基礎は何でしょう?御座の生活のまさに本質は何でしょう?無条件の明け渡し、無私の心です。これはこの世の偉人たちが権力の地位を得た方法ではありません。彼らの道は自己主張であり、あらゆる形の自己です。これが今日私たちが目にしていることです。しかし、彼らの王座と王冠は滅びます。この御座は永遠です!この御座はその道徳的性質のゆえに持ちこたえるのです。
(g)宮とこの都の光
小羊は宮です。宮は何のためでしょう?宮は、あなたが神と交わる所、神があなたと会ってあなたに語られる所です。宮は、神に近づく所、天が開かれている所、主と交わる所です。何が宮を構成しているのでしょう、何が神とのこの交わり、この開かれた天、この神との会見、この神の語りかけを構成しているのでしょう?それは何でしょう?それは小羊です。それはある種の性質、気質です。それは場所、状態、姿勢、心の状態ではありません。「わたしが目を留めるのはこのような人である……」。これが宮です。どんな豪華な建物もそれを確保できず、どんな悲惨な地下牢もそれを排除できません。もし小羊と一つなら、私たちは神の宮の中にいるのです。小羊は宮です。小羊は都の光でもあります。
(h)命の水の川と小羊の命の書
命の水の川が小羊の御座から流れ出ます。ですから、この川は小羊という存在にその源があります。小羊の命の書も同じです。小羊の命の書に名を記されるとはどういうことでしょう?何かを刻むことではありません。神は天でそのようなことをする必要はありません。もしそうしていたなら、多くの御使いの書記を忙しく働かせ続けなければならなかったでしょう!そんなことはありません。何かが霊的に刻まれているのです。道徳的・霊的な言葉で刻まれているのです。小羊によって神との関係に決着がついて確立されたのです。自分の生命力を搾り取られて吸い取られる経験を少しでもしたことがあるなら、私たちはそれを忘れないでしょう。そのために私たちは何らかの代価を払います。それを確保するために自分のまさに命を犠牲にしたことを、ずっと覚えています。言わば、自分の血をそれに注ぎ込んだのです。そのために命を犠牲にしたのです。主イエスがご自分の命を信者の心の中に分け与えられる時、あらゆる必要を抱えて必死な信者が信仰によって彼のこの尊い力を引き出す時、彼ご自身の一部が流れ出ていきます。彼はご自身からのものを与えてくださいます。そして、彼がご自身をお与えになった人は彼ご自身と一つであり、彼ご自身の一部です。その人は彼の血から彼の命を得ます。これは忘れ去られることはありません。永遠に、忘れ去られることはありません。それは霊の言葉により忘れえない形で刻まれています。まさに小羊の命が流れ出ました。小羊の命の書もそのようなものです。それは命の書です。紙の書ではなく、命の書です。命の書を描写することはできません。それは豊かな命です。私たちはそれに分があります。私たちは命を持っているので、その中に記されています。この命を持っている者はみな、その書の中に記されています。そこに登録されています。これはみな小羊と関係していることがわかります。どの文脈でも、「小羊」というこの言葉の意味を見て取れます。
永遠の命の保証は小羊である
また、一言で言うと、これはみな次のことを意味します。すなわち、神の御目的が果たされ、神の御旨が成就され、神の道が取られるのは、この小羊のような性質という基礎に基づくのです。小羊のような性質とは、一面において純粋さであり、もう一面において、神のみこころに対する無条件の明け渡しです。これは人が知る最も強力なものであると述べられています。泣いているヨハネに応えて発せられた叫びは、「泣いてはいけません。見よ、ユダ族の獅子が(中略)打ち勝ったので、その書を開くことができます」でした。そこで、この力強い百獣の王、この勝利の君、ユダ族の獅子を見ようと振り向くと――見よ、「ほふられたような小羊」を見たのです。神は私たちの心に、心の純粋さの力、威力、高貴さ、勝利について語っておられます。心の純粋さとは、神の観点では、神の栄光を一心に見つめることです。それは、別の言い方をすると、古いアダムの種族に属することがわかっているすべてのものに関して自己を排除することです。これは基礎にすぎません。さしあたって、ここでやめることにします。
しかし、私は信じていますが、これは主との私たちの関係のあらゆる点に、何らかの新たな意義と価値を与えてくれるでしょう。また、私たちが「小羊はふさわしい!」と言う時、私たちの内にいっそう深い感慨を生じさせてくれるでしょう。それは、私たちの信仰の土台を、遥かに輝かしくて素晴らしいものにしてくれるでしょう。私たちはなんと異なっていることか!この小羊はそうではありません。私たちは性質的にも気質的にもこの小羊ではありません。私たちの内には、挑発されるなら小羊とは反対であることがわかるものが、何でもあります。しかし、愛する人よ、小羊が占めておられる地位を私たちも占めることができます、御座さえもです!小羊が意味するところのものは、すべて私たちの内で有効化されることができます。その川、その光、その宮、花嫁さえも、すべては小羊の血を信じる信仰によります。小羊は勝利し、打ち勝たれました。小羊の血が勝利しました。あなたも私も、この血を信じる信仰によって、征服し、勝利し、打ち勝つことができますし、不義をご覧になることのできない神の御前に出てそこに永遠にとどまることができます。私たちは自分のことを考えるととても嫌になりますが、それでも小羊の血のおかげで、小羊がおられる所に同じ条件でいることができます。つまり、不法を見つめることのできない方、罪を見ることのできない方の目の前で、永遠の炎の中にとどまることができるのです。私たちが勝利するのはただ、これを理解し、信じ、そこに立つ時だけです。私たちは小羊の地位を取らなければならないことを覚えておいてください。別の言い方をすると、私たちは十字架に行かなければならないのです。そして、自己の力、自己の意志、自己の理屈、自己からのものはみな、十字架で滅ぼされなければならないのです。神の栄光が私たちの心の中で王座につかなければなりません。神の栄光だけを一心に見つめて明け渡さなければなりません。もし私たちが彼の栄光の中で統治することを望むなら、彼のみこころが統治しなければなりません。どうかこれにより私たちが小羊への礼拝に導かれますように!