「その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネ一・二九)。
「ヨハネはイエスが歩いておられるのを見て言った、『見よ、神の小羊!』」(ヨハネ一・三六)。
これらの節から二つのことに気づくでしょう。一つは、これらの節が主イエスの務めの開始と関係していることです。もう一つは、それらが過越と関係していることです。ヨハネ二・十三には「ユダヤ人の過越が近づいた」とあります。また二三節には「さて、イエスが過越でエルサレムにおられた時」とあります。主イエスの全生涯のどの特別な段階も、過越と大いに密接な関係にありましたが、これには大きな意義があります。
主イエスの生涯の過越との関係
一般には知られていませんが、主イエスが誕生されたのは過越の頃だった可能性が最も高いです。それはその年の春のことでした。そもそも、羊飼いたちが十二月の夜中にベツレヘムの野原で羊の番をできたかどうか、かなり疑問です。さらに、十二月二十五日がキリストの誕生を祝う日と定められたのは紀元三八〇年であるという事実もあります。ローマではこの日に異教の大きな祭りがありました。そして、ローマ教会はこれらの異教の慣習を覆すことを願って、十二月二十五日のその日にキリストの誕生を祝うことにしたのです。こうして、十二月二十五日は、キリストの誕生を祝うための大ミサの日となり、キリストミサと呼ばれるようになりました。これはキリストの誕生日ではなく、忌むべき異教の祭りを征服するためにローマが行ったことにすぎません。キリストがお生まれになったのは四月の過越の時である可能性が最も高いです。先に進むにつれて、私たちはこれをはっきりと裏付ける事柄を見ることになるでしょう。
そこから十二年間は何もわかっていませんし、記録もありません。十二歳の時、彼は過越の祭りのためにエルサレムに上られました。これが次の記述です。
彼がおよそ三十歳になるまで、それ以上何の記録もありません。そして、私たちはこのヨハネ一章に記されている出来事に導かれます。すなわち、彼が出て来て公の務めに就かれたことです。それは過越の祭りと関係していました。
ヨハネの福音書では、他の過越の祭りについても述べられています。いよいよ彼の務めの終わり頃になると、ルカはこう記録しています、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたたちと一緒にこの過越の食事をすることを切に望んでいました」。そして、よくご存じのように、彼は過越の時に死なれました。
ですから、彼がお生まれになったのはその時であるとは証明できませんが、そうであろうとなかろうと、彼の生涯における主要な動きはこの祭りととても密接に関係していたように思われます。これは、「見よ、神の小羊!」というこの御言葉にとても大きな意味を与えます。この言葉は、誕生から死に至るまでの彼の生涯を規定します。そして、この生涯、この完全な生涯の意義は、すべて御座に引き上げられます。小羊の生涯、小羊の務め、小羊の死のすべての価値が、御座についているのです。
見よ、神の小羊!
見よ、神の小羊!すでに述べたように、彼が公の務めに就かれたのは過越と関係していました。それゆえ、遠近から祭りのためにエルサレムに上って来たこれらの人々はみな、ヨハネが言わんとしたことをよく理解しました。その雰囲気は、まさに小羊、過越の小羊に対する思いで充満していました。だれもが過越の小羊のことを考えていました。彼らは小羊に関する儀式にかかりっきりでした。小羊は群れの中から選ばれ、専門家によって検査され、ベツレヘムの野で四日間監視された後、宮に連れて行かれてほふられ、家に持ち帰って食されました。このようなことが行われていたのであり、まさにその最中、だれもが小羊について考えていた時に――その時を神は永遠の過去から定めておられました――「見よ、神の小羊!」というこの叫びが聞かれたのです。
雨季は終わり、その役目を終えました。その地の急流によって路地は破壊され、橋は流され、旅は非常に困難になりました。そのため、エルサレムに過越のために上って来る人々のために、過越の前に人々の群れをその地に送り出して道を整え、橋を修理することが長年の慣例でした。この慣例との関連で、預言者イザヤはバプテスマのヨハネについて預言の言葉を発しました。「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を備えよ、砂漠で、私たちの神のために大路を真っすぐにせよ」。さらに、「通って行け、城門を通って行け。民のために道を備えよ。土を盛り上げ、土を盛り上げて大路を造れ。石を集めて取り除け」。バプテスマのヨハネは主の道を備え、そして小羊を、世の罪を取り除く神の小羊を指し示したことがわかります。これは神の小羊です。イスラエルが選んだイスラエルの小羊ではなく、神の小羊です。神聖で、天的な、永遠の関連性を見ると、神は世の基を据える前からご自身の小羊を選んでおられたことがわかります。ですから、黙示録十三・八には「世の基が据えられた時からほふられていた小羊」とあります。神は世を造る前にご自身の小羊を選ばれました。神はご自身の小羊を選ぶにあたって、すべてを予期しておられたのです。
次にヨハネは、彼の福音書の六章で、神がご自身の小羊に証印を押されたのである、と私たちに告げます。「朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたたちに与えるものである。それは彼に、父なる神が証印を押されたからである」。ユダヤ人が群れの中から自分の小羊を選ぶ時、一般のユダヤ人は小羊によく見られる病気の専門家ではなかったので、当局は羊や小羊がかかりやすい病気を熟知している特別な資格を持つ人々を任命してその検査をさせました。ラビたちによると、傷の種類は七十を下らないといいます。それで、ユダヤ人の家長は群れの中から小羊を選んだ後、それを専門家の一人の所に連れて行き、わずかばかりの料金を払って検査してもらい、健康で傷がないかどうか確認してもらいました。専門家の目で小羊はこの検査を受け、汚れや傷やしみや病が何もないことがわかると、その専門家はその上に証印を押しました。小羊は証印を押されました。そして、四日間、証印を押された他の小羊と一緒に野に連れて行かれ、過越を待ちました。これに主イエスは言及しておられます。「彼に、父なる神が証印を押されたからである」(これらの点はみな、とても重要な意義があるので、すべて理解していただきたいと思います)。
神はご自身の小羊を選び、専門家であるご自身の目から見て検査に通ったものとしてその小羊に証印を押されました。神の目のように明晰で鋭い目を持つユダヤ人の専門家は一人もいませんでした。神から隠れられるものは何もなく、神の目の前にすべては裸であり顕わです。このように神はご自身の小羊をご覧になり、傷のない完全なものとしてご自身の裁きを通ったものとして証印を押されました。それでヨハネは、「見よ、神の小羊、この方に御父は証印を押されたのです!」と言いました。要点はおわかりでしょう。この御方は神の小羊であるからには、全く罪はなく、欠点もなく、傷もしみもありません。彼は神に証印を押されたのです。
そして、彼はその後も観察下に置かれました。十日目から十四日目まで監視されました。四日間ずっと監視されたのです。四は被造物の数字であり、ここでは彼が新創造の真の代表者として試されたことを示しています。過越まで試験されましたが、彼には何の欠陥も生じませんでした。もちろん、その詳細をすべて取り扱うつもりはありませんし、その必要もありません。私たちが歌に歌うこれらの小羊、そして羊飼いたち、彼らは何でしょう?ベツレヘムの野にいたこの羊飼いたちはこれらの過越の小羊を見張っていた、というのが最もありえそうな話です。
そして、小羊は連れて行かれてほふられました。実は、ご存じのように、人が主イエスをほふったのではありません。神が彼をほふられたのです。「あなたは彼の魂を罪のための供え物とされました」。彼は、選ばれ、証印を押され、証明され、実証され、ささげられた、神の小羊でした。
命の問題
さて、これらの事柄はすべて私たちに何かを物語っています。それは特に一つのことと関係しています。それはもっぱら命と関係しています。これがこの問題全体の争点です。それゆえ、私たちは出エジプト記十二章に記されている最初の過越に連れ戻されます。そこでは、エジプトによって代表される全世界が裁きの下にあります。私たちはこの問題に対する適切な洞察力と理解力を持つ必要があります。この段階的な裁きはなぜでしょう?なぜこのように不義の杯が満たされるのでしょう?なぜこのように裁きが満ち溢れる点にまで至るのでしょう?なぜでしょう?その答えは「わたしの子を去らせよ。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせよ」という何度も繰り返される要求にあります。僕であるモーセやアロンによる神の要求は、実際にはずっとこの一つの要求だったのです。ですから、この裁きはみな、世が神の御旨に従うのを拒んだことと関係しています。神の御旨は、子としてご自身と関係している一つの民です。すなわち、脱出して自由になり、霊的に栄え、優位性と勝利と豊かさと命の中にある一つの民です。ご自身の御心にしたがって構成された、ご自身のための民です。これが神の御旨です。神の御旨を受け入れてそれに従うのを拒むことが裁きの理由です。これを常に覚えていてください。こうして、予型により、全世界が裁きの下にあるのはまさにこの理由によることがわかります。これはみな長子に集約されます。というのは、最終的にすべては長子を焦点としているからです。
長子は二つのことを表しています。第一に、長子は常に父親の喜びです。長子に父親の喜びがすべて集中しています。父親は自分の命を自分の長子と結びつけています。これが神の御言葉からわかることです。
次に、もちろん、長子は他のすべての家族の代表です。ですから、裁き、解放、生死の問題は長子を焦点としています。エジプトの長子とイスラエルの長子を焦点としています。それは、裁きの結果である死からの解放です。死からの解放がこの問題全体の主要な要素であり、ここで小羊が導入されます。裁きと死からの解放の唯一の根拠は小羊です。小羊がこの問題全体を決します。誰が死に誰が生きるのか、誰が裁きに陥り誰が裁きを通して勝利するのか、誰が死の力の餌食であり誰が死に勝利するのかを決します。小羊が、誰が滅びに陥り誰が支配に上るのかを決します。小羊がこれを決します。この問題のどの面も小羊と結びついています。ほふられた小羊は裁きについて物語ります、小羊が神の裁きを担ってくださったのです、それは小羊を裁きからの解放として信仰によって受け取ったすべての人のためでした。これはご存じのように単純な福音の事実であり、すべての基本です。
小羊の血と肉
しかし、この小羊には二つの面があります。その肉があり、その血があります。注ぎ出された小羊の血は、側柱とかもいに振りかけられなければなりませんでした。しみも傷もない小羊のあの血は、あることを証しします。それは、神の義が全く満たされた事実を証しします。それは朽ちることのない命であり、罪のない性質を帯びており、しみや傷やそうした類のものが何もない命です。それは神を満足させます。神はそれに目を留められます。それは試験されて実証されました。神はそれを受け入れることができます。神はそれに満足されます。神の義が満たされます。これが血の意義です。血はこれを力強く証しします。愛する人よ、あなたも私も、どれほど長く主の民だったとしても、またどれほど遠くまで主と共に進んできたとしても、これからは髪の毛一筋ほども逃れられません。この地上の滞在の最後の瞬間になっても、私たちにはそれが、主の御許に来た時と同じくらい必要なのです。神の義は満たされたこと、満たされていること、これが敵に対する勝利を保証する唯一の基礎であり根拠です。満足しているとき、あなたはそれ以上何を望むでしょう。神は満足しておられる以上、彼はそれ以上何を望まれるでしょう?謹んで申し上げますが、神はやり過ぎることを望んでおられません。神が満足しておられるなら、それでもう満足なのです。あなたも私もこの問題に完全に決着をつけないかぎり、どのみち全く落ち着かないでしょうし、敵は私たちを大混乱に陥れるでしょう。
しかし、多くのものが見えます。荒野が見えますし、戦いが見えます。つまり、私たちの日々の歩みの中で通るべき、多くの経験や行程、多くの試験、多くの信仰の試み、諸々の条件や環境の中で遭遇することになるとても多くの逆境があるのです。私たちの前には巡礼の旅があります。また、天上における、主権者たちや権力者たちやこの暗闇の世の支配者たち等々との、多くの霊的戦いがあります。私たちは、この血のいさおしによって、そのすべてに立ち向かわなければなりません。黙示録からわかるように、勝利者が御座に達する手段は、罪人が新生のときに神に受け入れられるための条件と同じです――すなわち小羊の血です。小羊の血は神の義が完全に満たされたことを意味します。
その血の美徳は罪のないことです。それは神のために取っておかれています。常にこれを覚えておいてください。旧約聖書全体にわたって、それを飲んではならない、という命令が轟いています。それは神のために取っておかれています。神はほむべきかな、新契約においては、神は飲むためにそれを私たちに与えてくださっています。しかし、神の小羊がほふられるまでは、決して、決して、飲んではなりません。神の小羊がほふられる時、型ではなく実際に真にほふられる時、私たちが神から不滅の――というのは不朽だからです――命を受け取る確かな土台が据えられます。予型の下では不朽の命を持っている人はだれもいませんでしたが、私たちは持っています。これが主がバプテスマのヨハネについて、「バプテスマのヨハネよりも大いなる者は、起こったことがない。しかし、天の王国で小さい者も、彼よりは大きいのである」と言われた理由です。王国から始めるなら、あなたは預言者たちやヨハネが達したよりも高い点から始めることになります。あなたは永遠の命、不朽の命を持ちます。なんという高みから始められるのでしょう!それは素晴らしい始まりです。
小羊には二つの面がある、と私は述べました。第一に、すでに見たように、血があります。神は満足されたこと、神の義は満たされたことを、それは力強く証しします。それゆえ、死に対して力強く証しします。しかし、さらに、食すための肉があります。愛する人よ、あなたや私にとって、食すためのこの肉の意義を考慮することは、その血の強力な価値を考慮することと同じくらい重要なことです。パウロはこれをこう述べています、「私はキリストと共に十字架につけられました。しかし、私は生きています。ですが、もはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」。これはキリストを私たちの命とすることです。これは人の子の肉を取ることです。これは、私たちが停止して、彼が私たちの代わりになられることを意味します。さて、これはさいわいな真理ですが、私たちに要求を突きつける真理でもあります。その要求とは次のようなものです。すなわち、信仰によって彼の肉を取ることにより、私たちは小羊との生命関係の中に入るのであり、それには、神の観点から見て、私たちにとって生きることはキリストとなることが必要なのです。
さて、小羊とは何でしょう?前の黙想に戻ると、小羊は次の二つのことを表します。第一に、純粋さであり、それは自己の命という傷が全くないことを意味します。第二に、神のみこころへの無条件の明け渡しであり、これは同じことを別の言葉で述べたものです。
神の働きの目標
さて、これが神が求めておられることです。愛する人よ、あなたに申し上げたいのですが、これこそまさに神があなたや私の中に働いておられる目的であると私は信じています。ああ、このことにもっと早く気づいていれば!私たちに対する神の取り扱いはみなこの一事のためです。すなわち、私たちの内に小羊を生み出すことです。ペテロに主は言われました、「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」。これは移行であり、霊的過程を意味することがわかります。自己本位、自己実現、自己表現、野心、ああ、こうしたものが、主に献身した若かりし頃、すべては主のためであると堅く確信していた頃、どれほど多くあったことでしょう。あなたも私も多くの過程を経てはじめて、主に対する自分の献身さえも汚染されていたこと、主のためのどの奉仕にも隠れた動機――自分が地位を得て主に対してひとかどの者になること――があったことに気づきます。それはとても巧妙であり、とても奥深いです。神と共なる行程、深遠な行程以外の何ものも、実はそれは主に対する純粋な献身ではないことを私たちに納得させることはできません。しかし、私たちはそれを理解するようになったのではないでしょうか?長く進むほど、ますます私たちは自分自身の心の不純さに気づくようになるのではないでしょうか?私たちは用いられることをなんと好むことでしょう!働きに参加することをなんと好むことでしょう!機会を得て扉を開くことをなんと好むことでしょう!私たちはそうしたことを好みます。確かに、これは別の装いで現れた古いアダムにほかなりません。深遠な、深遠な行程によってのみ、私たちは次のような境地に導かれます。すなわち、掌中のその事柄が真に主からのものであり、主ご自身がその真の実行者であることを百パーセント確信しないかぎり、主のための働きからでさえ退いて逃げ去ろうとする境地です。主は私たちの内に小羊を生み出そうとしておられるのです。
再び問いますが、純粋さとは何でしょう?純粋さとは神の栄光だけを一心に見つめることです。神が私たちを火の中へ深く通されないかぎり、自分の心が主への献身という点で本当に純粋なのかどうか、あなたも私も決してわかりません。つまり、私たちに対する主の多くの取り扱い、深い取り扱いだけが、私たちを自分自身から真に安全な地点に、私たちが心に抱いている目的は神の栄光であることが真に明白になる地点に導けるのです。私たちは皆、そうですと言うでしょうが、ああ、神はご存じです。神はご存じです!
一心に見つめる目、神のみこころに対する従順な無条件の明け渡し。試練の時、私たちのどれくらいがこのようであるでしょう?しかし、神は私たちの内に小羊を生み出すために、あるいは複製するために働いておられます。小羊は手放すことによって勝利されます。明け渡しによる勝利というこの道を私たちはどれくらい進んでいるでしょう?これが小羊です。そして、これが御座の中央におられる小羊です。御座についていることに関する神の観念は、私たちの観念とはかけ離れています。最大の力は最大の愛にあります。神の愛が私たちの心を真にとらえて、主の働きに対する愛ではなく主ご自身に対する愛が大事にならないかぎり、あなたも私も霊の力について何も知ることはできません。ああ、これは大いに心を試し、探ります。私以上にそれを知っている人はだれもいません。その目的は何でしょう?小羊に同形化することです。「あなたの小羊は傷のない、一歳の雄でなければならない」。ペテロは「傷やしみのない小羊」と述べています。この傷やしみが何かを私たちは見ました。それらは一語にまとめられます。すなわち、自己の命です。
「ここに来なさい。あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう」。私たちは何を見ることになるのでしょう?パウロは私たちに、「キリストは教会を愛された」と告げるでしょう。「夫たちよ、キリストが教会を愛して、教会のためにご自身を捨てられたように、あなたたちの妻を愛しなさい(中略)それは、しみやしわやそのようなものが何もない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです」。小羊にしみや傷はありません。花嫁にしみやしわや傷はなく、小羊に同形化されています。これが婚姻です。その時、婚姻することができます。そこに気質の不一致は見られません。この合一が破れることは決してありません。そうです、姿が全く同じであり、御子のかたちに同形化されているからです。これが神が今あなたや私の内でなさっていることです。愛する人よ、私たちが最大の奉仕をするようになるのは来るべき時代のことです。今、最も大事なのは、私たちの内に小羊の性質を発達させることであり、彼に対して私たちが後に持つことになる価値は全くそれにかかっています。なぜなら、この天的地位とこの天的務めはみな、小羊と関係しているからです。統治について言うと、それは小羊の御座です。万物に流れて行く命の川について言うと、これもまたまさに小羊の御座です。都のあかりについて言うと、それは小羊のあかりです。会見の場所、宮について言うと、小羊が宮です。これは、小羊であるキリストが来たるべき時代、この宇宙の中心ですべてを統治されることを意味します。主は私たちをその中に導こうとしておられます。この世の基準からすると、それはとても弱々しく、卑しいものです。小羊のようであること!これはこの世にとってはけなし文句です!しかし、神はそれによってすべてを規定されます。ああ、世人に地上で今起きていることを見て理解する目があれば!獣が何をするのか、あなたにはわかるのではないでしょうか?また、今日、獣が小羊に取って代わられる必要性がわかります。神は歴史の中で御旨を成し遂げて、ついには全宇宙が頭を下げて、「あなたは正しいです!私たちに必要なのは獣ではなく小羊です」と言わざるをえなくなります。それは、手放し、明け渡し、空っぽにされ、仕え、神に栄光を帰す力です。
これ以上先に進まないことにします。命の問題についてもっと述べたいと思っていました。なぜなら、結局のところ、命こそが問題だからです。ヨハネ六章は素晴らしいです。「彼に、父なる神が証印を押されたからである……」という御言葉の文脈に注意してください。そこから主はさらに続けて(主のたとえは変わりますが原則は同じです)、わたしは世の命のために天から下って来たパンである、と仰せられました。「わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物である」。「人の子の肉を食べ、彼の血を飲むのでなければ、あなたたちの内に命はない」。この章は、神の小羊であるキリストを食べ飲みすることによる命で満ちています!すべては小羊と関係しています。キリストを食すこと、キリストを受け入れること、キリストは私たちの命であることについて考えたり話したりする時、生命力等の抽象的観点から考えないようにしましょう。それは神の御前における道徳的状態であることを覚えておきましょう。キリストは私の命です。ああ、彼のことをたんなる私のエネルギーにすぎないと思っているわけではありません。私が言わんとしているのは、キリストは私にエネルギーそのものを与えるわけではない、ということです。キリストの力とエネルギーを知るには、キリストの小羊的性質を知らなければならないのです。
これを別の言葉で述べることもできます。主は私たちにエネルギーを与えて、何でもできるようにしてくださるわけではありません。主は私たちの命となって聖なることを行わせてくださいますが、もしあなたや私に聖くないところがあるなら、彼の命は機能しません。これがヤコブ五章に記されていることです。「あなたたちのうち、だれか病んでいる人がいますか?その人は教会の長老たちを招き、主の御名の中で油を塗って、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして主は彼を立ち上がらせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していても赦されます」。この罪の問題は、神の御言葉のどこを見ても、常に命と隣り合わせです。義に基づいて命を活用できるようになるには、罪が対処されなければなりません。次に、キリストが私たちの命となり、生命エネルギーとなるには、小羊の性質が必要です。小羊の性質は神の栄光を一心に見つめること、心の純粋さです。だれもこの神の命を取って、その命を用いて自分の栄光のために何かを行うことはできません。要点がわかります。ああ、そうです、この命はある性質を帯びており、決して自らに矛盾することはなく、決して自らを否定することもなく、決して自らに逆らって働くこともありません。それは自身の立場に基づいて働きます。あなたや私が彼を自分の命としてますます知るようになることは、あなたや私がますます神の小羊である彼のようになることを意味します。
「見よ、神の小羊!」。どうか私たちが彼を見続けますように。