第三章 神の御旨に関する過越

T. オースチン-スパークス

「この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって一年の最初の月となる」(出エジプト十二・二)。

「この日は、あなたたちにとって記念となる。あなたたちはエホバへの祭りとして、これを守らなければならない。あなたたちは代々にわたって永遠のおきてとして、その祭りを守らなければならない」(出エジプト十二・十四)。

「それゆえに、あなたはこのおきてを年々、その定められた時に守らなければならない」(出エジプト十三・十)。

「さて、過越と呼ばれる種なしパンの祭りが近づいていた(中略)過越の小羊がほふられる種なしパンの日が来た(中略)時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちも彼と共に席に着いた。イエスは彼らに言われた、『わたしは苦しみを受ける前に、あなたたちと一緒にこの過越の食事をすることを切に望んでいた。わたしはあなたたちに言う。それが神の王国で成就されるまで、わたしは決してこの食事をすることはしない』。そして、イエスは杯を受け、感謝をささげて言われた、『これを取って、あなたたちの間で分けなさい』(中略)それから、イエスはパンを取って感謝をささげ、それをさいて彼らに与え、言われた、『これは、あなたたちのために与えられるわたしの体である。わたしの記念にこれを行ないなさい』。彼らが食事をした後、杯も同じようにして言われた、『この杯は、あなたたちのために注ぎ出される、わたしの血によって立てられた新しい契約である』」(ルカ二二・一、七、十四~十七、十九~二〇)。

「私は主から受けたことを、あなたたちにも伝えました.すなわち、主イエスは裏切られたその夜、パンを取り、感謝をささげてから、それをさいて言われました、『これは、あなたたちのために与えるわたしの体である。わたしの記念にこれを行ないなさい』。彼らが食事をした後、杯も同じようにして、言われました、『この杯は、わたしの血によって立てられた新しい契約である。わたしの記念に、それを飲むたびに、これを行ないなさい』。ですから、あなたたちがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせる(告げる)のです」(一コリント十一・二三~二六)。

「永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が……」(ヘブル十三・二〇)。

過越と主の晩餐の関係という、あまりにも明白な事柄について、長々と論じたり議論したりする必要はないと思います。主イエスが上の部屋でこの二つを結び付けられたことに、疑いの余地はありません。彼はユダヤの過越を取って、より高い水準に引き上げ、神聖な思想を賦与し、新しい秩序すなわち教会のためのものとして渡されました。そうすることによって彼は、ユダヤの過越によって予型的に示されてきたすべてのことに、霊的な意味を与えられました。そして、最初に取り入れられて、教会における主要な要素となったのが、いわゆる日付の問題でした。

過越は霊的歴史の始まりである

「この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる」。つまり、この時から歴史が始まるのです。過越がイスラエルにとって彼らの霊的歴史の始まりとして主の印となったように、主の死は教会とその構成員一人一人の歴史の始まりです。もちろん、これはだれもが受け入れるであろう単純な事実です。

しかし、この事実には認識すべき何かがあります。前の黙想で指摘しましたが、出エジプト記十二章では、まず、エジプトとエジプトにいたイスラエルとに代表される全世界が裁きの下にあることがわかります。しかし特にエジプトは、この世における神の御旨を執拗に拒絶・拒否しました。神の御旨は長子である御子と関係していました。長子たちと関係していました。イスラエルは団体的かたちで長子を代表しています。神の御旨は個人的・団体的に御子と結びついていました。この御旨は世に知らされましたが、何度も何度も何度も世は神の御旨を拒否しました。それゆえ、この世は完全かつ最終的に神の裁きの下に置かれます。

神の御旨との一致により霊的歴史が始まります。そして、神の御旨との一致の瞬間から、この御旨が歴史を支配し、形成します。歴史を特徴づけます。御子に関するこの御旨こそ、常に神が霊的歴史を形成される根拠です。それゆえ、すべては――最も深い意味で――神の御旨と一つになることから始まります。これはあまり大したことではないように思われるかもしれませんが、一時の間これについて考えたいと思います。なぜなら、贖いにおける神の御思いを完全に理解しないかぎり、私たちは大して進歩できないからです。荒野におけるイスラエルの遅々とした退屈な歩みは、彼らが神の御旨を心で理解できなかったためでした。彼らは自分の殻に閉じこもって、この道は自分にとって得なのか損なのか、主のみもとに来たことの益・不利益、それが自分に及ぼす影響について考えてばかりいました。今日、状況がかなり良好なら、彼らは進む気満々になります。しかし、明日状況があまりかんばしくなくなると、彼らは皆、急いで逃げ帰ろうとします。自分の生活にどう影響するのかによって、彼らの反応や応答も変わります。彼らは、このすべてが神の御旨に関連していることを理解できていませんでした。彼らの祝福と益は、もちろん、神の御旨が成就されることにありました。愛する人よ、あなたや私が次のことを知ることが重要です。すなわち、私たちが救われたのは、たんに救われ、祝福され、天を与えられ、あらゆる種類の問題から解放されるためだけではないのです。私たちは神の永遠の御旨のために救われたのです。物事が容易に、あるいは有利に運ばない時でも、この御旨に支配してもらわなければなりません、この御旨から漂い去ってはなりません。神の御旨が実現されだす時、歴史が始まります。神の御旨が自分の霊的経験の中で始まって進んで行くことによって、歴史が形成されていくのです。

贖いは神にもたらすことである

さて、この御旨はへブル書十二章で「長子の教会」と称されている教会と関係しています。これは出エジプト記に記されていることの本体です。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である(中略)わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ」。これが御旨です。それは長子たちの教会と結びついています。出エジプト記十三章を見ると、長子の神への分離・奉献について記されています。過越の祭り、過越の小羊に基づいて、長子は神へと分離されました。これは、贖いとは神ご自身にもたらすことである、という大いに明確かつ積極的な事実を示しています。使徒二〇・二八にこの問題に関するとても積極的な言葉があることを、あなたは思い出すでしょう。「あなたたち自身と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は彼らの間に、あなたたちを監督として立てられ、神がご自身の血をもって獲得された神の教会を牧させるのです」。黙示録五・九「あなたは(中略)あなたの血によって、あらゆる(中略)国から人々を神へと買い取られました」。神へと買い取られ、神へと贖われました――贖われた者に対して主は絶対的所有権を有しておられます。これは、私たちの意識中にさらに深く根付く必要のある思想です。そうすれば、私たちのクリスチャン生活の多くの弱さから救われるでしょう。

神ご自身が、一つの民をご自身へと買い取るために、ご自身の血を流されたのです。神はこれを行われました、愛する人よ、ご自身にとって無限に尊い御旨に関連して、神はご自身の血をもって私たちを実際に買い取ってくださったのです。そうであるからには、機会さえ与えられれば、神はその御旨を実現し、御目的に到達し、私たちに関することを成就されるでしょう。こういうわけで使徒はこう述べています。「永遠の契約の血による羊の大牧者を死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、あなたたちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、あなたたちを成就してくださいますように」。機会さえあれば、彼はご自身の教会の中で御旨に到達されます。彼は大きな代価を払って教会を買い取られました。私たちをエジプトから、この世から出して、御名によって唱えられるようにするだけでは、彼は満足されません。彼は、贖いにおける御心と支配的御旨とを成就することに、最後まで専念されます。私たちは神へと買い取られました。これを思い出すと、とても大きな助けになります。先に進むにつれて、自分は徹底的に無価値であること、そして自分が価値ある者になるのは不可能であることを、私たちはますます深く意識するようになります。自分の性質の中にどんな邪魔物があるのかを、ますます意識するようになります。自分に目を留め続けるなら、絶望してしまいます。私たちの解放、突破口、希望、保証は、神と共にあります。私たちの希望は彼にあります。その根拠は、彼は御心に定めた御業を成就するために、ご自身の血をもって私たちを買い取られたこと、そして、機会さえ与えられるなら、神は決して敗北しないことにあります。彼は私たちに関することを成就してくださいます。

黙示録には多くの意義がありますが、その一つは、この御旨が成就されることを示している点です。長子たちの教会、花嫁、小羊の妻が、小羊のかたちに同形化されて、彼と共に栄光の中にいるのです。事はなされて、神の御旨が実現されるのを私たちは見ます。彼はある目的をもって買い取られました。もしあなたや私が彼に機会を与えて、イスラエルのように彼に反逆しないなら、彼は私たちに関することを成就してくださいます。「ご自身の目に喜ばれることを、私たちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、私たちを成就してくださいます」。

この成就における霊的歴史

それを認識しさえするなら、目を完全に開かれるなら、とりわけ次のことがわかるはずです。すなわち、彼は、私たちの内なる人の中で自己嫌悪感を深め、強化することによって、これを行っておられるのです。もしあなたや私がこの死の体、旧創造の中にある自分のこの性質から一度かぎり完全に解放されて、もはやそれを意識することも、それに悩むこともなくなり、自分の肉の内に誘惑がなくなっていたなら、この地上にとどまっている理由は何もなかったでしょう。理由は全くなくなるでしょう。これが起きる瞬間、私たちは栄光の中に入るでしょう。それではなぜ私たちはここにいるのでしょう?私たちの霊的歴史における最大の現実の一つは、一方において、自分を取り巻く旧創造の罪と不義の深さをますます知るようになることです。それは依然として私たちと共にあります。しかし、他方において、私たちの中にはそれに対する憎しみもあります、それに対する反発が強まりつつあります、それからの解放を求める叫びが深まりつつあります、それとは別のものを愛する愛があります。愛する人よ、これが私たちの霊的歴史の主たる意義の一つです。もちろん、他のものをすべて一挙に取り除けていたならとてもよかったのに、と私たちは思うかもしれません。なぜなら、完全になるとき、願いはすべて果たされて、目標は達成されるからです。しかし、何かに対する反発と他の何かに対する憧れを深化・強化することによって、主は私たちを教えておられるのであり、ご自身の目に喜ばしいことを私たちの中で行なっておられるのです。主は内なる人を建て上げておられるのです。

あなたも私も、この地上にいる間は、古い性質の罪深さをますます意識するようになること以外に、何も期待してはなりません。もし私たちがそれに降伏して、それが常に勝利すると言い、自分の内に御霊がおられることを自覚しないなら、それは悲劇です。御霊は新創造に属しており、古い性質は全くなく、神にしたがって、聖さにしたがって歩まれます。また、自分の肉の中に見られるものに対する嫌悪感の強さが、私たちにおける恵みの御業の尺度です。最も進んでいる人々は、自分の内に、自分の古い性質の内に、少しも罪を感じていない人々ではなく、自分に対して最も大きな反感を抱いている人々です。使徒パウロが晩年にピリピ三章に記録されている言葉を記した時、彼は心にこう思っていたと、私は信じています。彼はこう叫びました、「キリストの中に見いだされるためです。それは、律法からの私自身の義を持つのではなく(中略)信仰による神からの義を持って(中略)私は、すでに獲得したとか、すでに完成されているとか言うのではありません。そうではなく……」。これによると、晩年、この人は、進むべき道のりはまだ長い、と感じていました。他のいっさいの事情にもかかわらず、神と共に前進しようとするこの意欲、これこそが霊的成長です。これは、自分の失敗を恥じる能力、自分を恥じる能力、自分自身の霊的弱さや道徳的挫折に対する感受性です。これが霊的成長であり、霊的練達です。神は私たちの内で御旨をなしつつあります。次のように述べても間違いではないと私は思います。すなわち、もし私たちが真に神と共に前進してきた者であるなら、自分は最も聖であると感じるどころか、最後の息を引き取るまで、自分の古い性質のどうしようもなさを痛切に感じるでしょうし、私たちの義である方に向かって精一杯手を伸ばすでしょう。

この話の要点は何でしょう?神は贖いにおいて主導権を取り、御旨をもって主導権を取られました。そして、御旨のための器を獲得するために、払いうる最大の代価を支払われました。そうである以上、神は御業を成し遂げて、完全に成就されるでしょう。ただしそれは、これは自分にとっていま益があるのかどうかという問題ではないことを、私たちが覚えていさえすればの話です。これは、差し当たってそれは自分にどう影響するのか、という問題ではありません。肝心なのは、神は私たちの経験から何を得ようとしておられるのか?ということです。この問題、この試練、この苦しみ、この逆境、今日のこの苦難を、私たちはどうとらえるのでしょう?イスラエルが荒野における自分たちの困難を、大きく立ちはだかる「私」の観点から眺めてばかりいたように、私たちもそれをそう眺めるのでしょうか?もしそうするなら、それはまさに荒野です。しかし、もし私たちがすべてを神の御旨に照らして眺め、信仰によってその御旨を理解するなら、この試練――それがどんな性質のものであれ――を越えるとき、主は私たちの内でさらに多くの領域を得られたこと、主は何かを得られたことが、わかるようになるでしょう。年を取るにつれて、主と共に長く進むにつれて、ますます私たちは自分の困難な日々をこのように――残念ながら決して十分とは言えませんが――とらえられるようになります。ああ、さらなる困難にもつぶやいたり、驚きの声を上げたりしなくなります!むしろ、これには主の何らかの意図がある、という立場を取るようになります。目に見えるものを見てはいけません。これを越えたとき、「確かに、主はこれを通して何かを獲得されました!」と言うようになる、と神を信じようではありませんか。主は私たちを贖ってご自身へともたらされましたし、ご自身のために常に働いておられます。私たちはこう信じます、主が私たちの内に得ようとしておられる領域を獲得される時、主はご自身の領域の中に私たちを導いて、それを私たちに与えられるようになるのである、と。

これがイスラエルの歴史の二つの面だと思います。イスラエルは、主が彼らの中に望んでおられたものを得るまで、決して良き地を得ませんでした。ヨシュアとカレブは、主が全き地位を獲得された人々を表していました。また、あの最初の不信仰な世代に続いた世代は、主が常に求めてきたものを獲得された人々を表していました。主が私たちの中に求めているものを獲得される時、主は私たちを導き入れてご自身の豊かさを享受させられるようになります。覚えておいてください、主がご自身の分け前にあずからないかぎり、私たちは決して祝福にあずかれないのです。今日という日は、主が何かを得られつつある日ですが、私たちにとっては暗闇です。明日、主が求めているものを獲得されたら、私たちも何かを得ることになって、それは光になるのです。