第六章 十字架

T. オースチン-スパークス

朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。

黙示録のこれらの章は、万物の最終的総括を見せています。この宇宙がその中に含まれており、関係しています。万物のこの最終的な一大総括では、そのまさに中心に、十字架すなわち中心的・普遍的意義を持つ十字架を物語るものが見られます。十字架は最後に彼処に見いだされるだけではありません。なぜなら此処でも、神の当初からの御心にしたがって諸事を見ることができるからです。神の御言葉のどこを見ても、十字架が中心的地位を占めていることがわかります。

十字架はすべての基礎である

幕屋の素晴らしい象徴的体系を振り返ると、十字架が中心にも周辺にもあることがわかります。十字架が至る所にあります。幕屋の中心に、血を振り注がれたあわれみの座がありました。すべての器、すべての幕、内なる聖所から外側の門に至るまで、すべてが十字架の下にあり、血を振り注がれました。宮に移っても同じことが言えますし、宮から本体である主ご自身に移っても同じことが言えます。前の黙想で、主イエスは過越の祭りの時に誕生された、と述べましたが、もしそれが正しければ、彼の誕生はまさに小羊の到来だったことがわかります。彼がすべての関心の中心でした。過越の小羊の世話をしていた羊飼いたちは、その群れを離れて、小羊なる方のもとにやって来ました。王たち又は賢人たち――彼らがだれであれ――が遠方から彼の所に来ました。地は関心を寄せ、天も関心を寄せ、御使いたちは注視しました。ヘロデの反応からはっきりとわかるように、地獄も関心を寄せました。ヨハネが過越の群衆に向かって彼について、「世の罪を取り除く神の小羊」と宣言した日に移ると、またもや小羊が宇宙の中心であることがわかります。天が開かれて、彼について証しします。間もなく、地獄も関心を持っていることが明らかになります。というのは、その後直ちに、彼は荒野でサタンに遭遇されたからです。地上における彼の生涯をずっと辿っていくと、十字架に至るまで彼は宇宙の焦点だったことがわかるはずです。十字架で彼は中心だったことは明白です。ユダヤ人と異邦人がそこにおり、天と御使いたちもそこにいました。地獄と悪魔もそこにいました。なぜなら、それは暗闇の力の時だったからです。そして、黙示録のこの最後の箇所では、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものが、すべて集められます。大天使たちや天使たち、あらゆる部族・言語・国からの人々が、ここにすべて集められます。そして、その中心に、御座の中央の小羊がおられます。ですから、十字架は万物の中心です。その中心性と普遍性について新たに考察することを主は願っておられる、と私は強く感じています。

十字架について述べるとき、十字架を真理や教えの特定の系統の一つと決して考えてはなりません。他の真理の系統と比較して、「ここにはこの系統があり、あそこにはあの系統があります。ここにはこの特定の教理やあの特定の教理があります。十字架を強調する人、聖別を強調する人、聖霊を強調する人など、様々な人がいます」と言ってはなりません。もしそうするなら、全く道を踏み外すでしょう。十字架は「真理の系統」の一つではありません。すべての啓示のまさに中心なのです。他のものはみな、十字架から発し、十字架に戻ります。十字架は事物の中心です。もちろん、十字架について述べる時、他の言葉を用いることもできます。十字架につけられたキリストについて述べることもできます。これこそまさに私たちが言わんとしていることです。キリストの死について述べることもできます。十字架はこれを含んでいますし、これを意味します。私たちが十字架について述べる時、それは主イエスの贖いの働きのすべての面を意味します。それはみな十字架を中心としており、十字架から発するのです。

十字架の二つの面

十字架の二つの面、すなわち客観的な面と主観的な面について、一言述べることにします。この二つの面のバランスを完全に保つ必要があります。一方を他方よりも重んじてはなりません。どちらかを重視するおそれがあります。概して、福音的キリスト教は、今も過去何世紀もの間も、十字架の客観的な面を強調してきました。その反動で、もう一方の面の途方もない重要性を認識するあまり、過度に強調するおそれがあります。この両者のバランスを保つ重要性を、非常に真剣に、かつ忠実に、私は強調したいと思います。私たちに関するかぎり、私はこう信じています。すなわち、主は私たちに、失われている、あるいはほとんど失われかけている、十字架の主観的な面についてのメッセージを、回復する務めを与えてくださったのである、と。しかし、私は次のことも認識しています。すなわち、それを客観的な面に対する適切な関係から切り離して取り上げることは間違いであり、大きな害を及ぼすおそれがあるのです。

(a)客観的な面

十字架の客観的な面は、まさに信仰の錨です。それは私たちの立場の根拠です。客観的な面が完全に確立されないかぎり、私たちにとって主観的な面には何の価値もありません。第一に、私たちの立場は、私たちのためになされたことに対する信仰のみの問題です。主イエスの十字架において、私たちのためにすべてがなされました。その働きは、私たちがそれに少しも寄与することなく、私たちのために完全に成就されました。私は客観的な面にとどまるつもりはありませんが、これを確立したいのです。すでに述べたように、客観的な面により、私たちの立場の問題は信仰を通して解決されます。あなたがこの立場の問題について完全に確立されないかぎり、十字架の主権的な面を扱うことは致命的でしょう。信仰が確立されて、信仰の錨が十字架におけるキリストの客観的な働きにしっかりと固定されないかぎり、もう一方の面に導かれてそれに直面することは、だれにとってもきわめて危険なことです。客観的な面からは決して離れられませんし――離れるべきでもありません。この客観的な面という立場に関して、私たちは最後まで試されることになります。実に、私たちの戦場は客観的な働きに関してであって、主観的な働きに関してではありません。敵の攻撃の狙いは、私たちの立場、地位、受容、主との私たちの関係に関する最初の根本的な確信を私たちから奪うことです。私たちはこれを知っていると思います。しかし、私は心から強調したいのですが、神が私たちのために行ってくださった十全な御業に関して、神のすべての子供は完全に確信する必要があります。この十全な御業により、私たちの状態にもかかわらず、信仰を通して義と認められて、私たちは今いる地点にもたらされました。それに関して私たちはこう確信しなければなりません。すなわち、敵の新たな攻撃のたびに、「敵は神の選ばれた者を責めることはできない」と私たちは言えるのである、と。敵は私たちを責めることはできません。これは私たちが完全だからではなく、私たちのために神を満足させてくださった完全な御方のおかげです。

(b)主観的な面

しかし次に、もう一方の面があります。客観的な面で十分である、とあなたは思うかもしれません。しかし、十分ではありません。受け入れてもらうにはそれで十分であり、立場や地位のためにも十分です。しかし、その後、神が私たちを取り扱われる根拠が重要になります。十字架の主観的な面は、私たちの立場ではなく、私たちの状態と関係しています。客観的な面は、私たちがキリストの中にあること、キリストによって包まれていること、信仰によって彼の中にある者と見なされることと関係しています。十字架の主観的な面は、私たちの内におられるキリストと関係しており、彼においてすでに有効であることを私たちの内でも有効化することと関係しています。客観的な面は、キリストご自身がどのような方なのかと関係しています――彼が私たちのために神に対してどのような方なのかについて黙想するのを、決してやめないようにしましょう――主観的な面は、私たちがどのような者なのか、どうあるべきなのかと関係しています。

十字架は完全に確立された事実です。それは確立された事実であり、成就された事実であり、達成された事実であり、果たされた御旨であり、完成された働きであり、天で永遠に決着済みのものです。この十字架において、神は御旨を達成されました。小羊が今よりもさらに御座の中央におられるようになることは決してありません。「わたしがあなたの敵どもをあなたの足台とするまでは、わたしの右に座していなさい」という御言葉は、すでに語られた言葉であり、この瞬間も有効です。しかし、十字架は完全に確立された事実であるだけでなく、一つの転機と一つの過程を伴う一つの経験でもあります。一つの転機から一つの過程が生じます。十字架は諸々の働きの基礎であり、それらの働きが遂行される手段でもあります。十字架は神がなさったことを示しますが、神がなそうとしておられることをも示します。神は、御子にあって完成した御業を基礎として、私たちの内で漸進的御業を開始されます。これは単純なことですが、これらのことを覚えておいてください、心に留めておいてください。ですから、十字架は、前の黙想で見たように、創造のゼロ点であり、新しい開始を伴う終結なのです。

ですから、愛する人よ、私たちが話すときに心がけているのは、たんに十字架についての技術、教理、教えを与えることではありません。大いに実践的なことを心がけているのです。私たちの霊的生活・成長・発達・度量の問題はみな、この問題と結びついています。私たちは常に、自分の霊的進歩の遅さ、自分の霊的容量の小ささに悩まされています。私たちはこれらの問題で自分自身について悩みますし、他の人々に対する責任を負っている私たちの中のある人々も自分の霊的貧しさや小ささのために時として非常に悩みます。一方において、霊的宏量さではない宏量さがあり、それが常に道に割り込みます。それは活動や行いの形を取ることもありますし、思い込みの形を取ることもあります。何でも知っていて言うことを聞かない、頑固な立場という形を取ることもあります。しかし、ご存じのように、それは霊的なものではなく、真に霊的価値があるものではありません。主イエスご自身の代わりに立場を占めているものです。他方において、主の事柄において、愚かしいこと、数多くの不賢明なこと、愚行がなされていますし、あまりにもちっぽけで制限されている面もあります。そのせいで多くの問題や、心労、不満が生じています。この問題のせいで、霊的成長は遅らされ、主を知る真の知識の度量も限られています。

この領域全体を特徴づけている一つの点は、そのどの面についても、主を真に内的に知って主と共に歩むことに失敗していることです。さて、これはとても現実的な問題です。働き人たちの集会のための良い題目です。この状況の原因が何なのかを私たちは知りたいのです。なぜ真に霊的に信頼に足る人々がこんなにも少ないのでしょう?頼りになる人々、その人の所に行けば必ず霊的な判断と理解を得られる人々が、なぜこんなにも少ないのでしょう?なぜでしょう?このような問いを無数に発することができます。私たちは霊的欠陥の領域全体を取り扱っているのです。私たちが述べているのは、成熟したものをあまり期待できない正当な霊的幼年期についてではありません。しかし私たちは、これについても、時間的要素を排除しなければなりません。霊的成熟を時間や年数で考えないようにしましょう。主との関係に関してほとんど赤子のような人でも、真に霊的な方法で早くから他の人々を教え始められるようになるのは、驚くべきことです。彼らは飛び込んで行きますが、他方、他の人々は、時間に関するかぎり、長くその道にあったにもかかわらず、依然として真に霊的に価値あるものを一つも与えることができません。これが何故なのか私たちは知りたいのです。私たちは皆、霊的に成長し、成熟に達して、主にとって真に価値あるものとなることに関心があります。

さて、これが私たちの現在の黙想の背景です。私は信じていますが、愛する人よ、霊的成長は十字架の主観的な面の問題にかかっています。もちろん、立場に関して失敗ばかりしているなら、十字架の客観的な面を受け入れることに関してどこかが間違っています。人々が信仰の中にあるかどうか定かではない場合、その時は、立場の問題に一度かぎり永遠に決着をつけなければなりません。しかし、成長して主にとって真に価値あるものになるという問題では、十字架の主観的な面が問題になるのです。

十字架は旧創造のゼロ点である

決着をつけなければならないことが幾つかあります。主イエスの十字架に根差して、私たち全員が決着をつけるべき第一のことは、人は完全に無力である、ということです。これを心で理解するのが早ければ早いほど、私たちにとって良いのです。だれにも見えるよう、この十字架には次の文字が記されています。すなわち、人は生来、神の事柄に関するかぎり、全く無力である、と。つまり、人は神の事柄のための能力を失ったのであり、神の事柄の領域の中に生きたまま入るための能力を自らの内に持っていないのです。こう述べてもあなたには単純で初歩的なことに思われるかもしれません。しかし、あなたに申し上げますが、これはとても、とても、深刻で重大な問題なのです。人の存在は遍く損なわれました。中心から周辺に至るまで存在全体にわたって、人は損なわれています。そして、その損傷によって、神の事柄におけるいかなる地位からも完全に排除されているのです。

知識の問題では、人は神の霊の事柄を知らないだけでなく、知ることもできません。愛する人よ、あなたや私の内には、十字架が経験とならないかぎり、神の事柄について知るための力や能力は全くありません。もちろん、これから霊的知識の性質に関する問いが生じます。ああ、もちろん、聖書と聖書の全容を知ることはできます。聖書の真理や教理や解釈の全範囲に精通し、そうしてそのすべてを知ることはできます。しかし、これに専念する長い生活を送って、それを使い尽くしたとしても、依然として霊的知識の最初のかすかな光明すら持っていないかもしれないのです。こう述べるのはとんでもないことですが、これは事実です。そうでなければ、神の御言葉は真実ではないことになります。「さて、天然の人は神の霊の事柄を受け入れません(中略)それを知ることができません」(一コリント二・十四)。こう御言葉は述べています。霊的知識に関するかぎり、人は生来、全く無能です。知識の問題に言えることは、関連する他のすべての問題にも言えます。知ることができない以上、確かに人は神の事柄を行うことはできません。人は神の働きをすることができません。そうです、あらゆる面で、あらゆる方面で、人は無能です。ですから、どの方面であれ、真に生きている霊的知識の断片をごくわずかでも得るには奇跡が必要なのです。

奇跡とは何でしょう?奇跡とは自然の通常の営みを超越したものです。奇跡は超自然的なものであり、真に霊的な知識の最初の光明のためには奇跡が必要です。だからこそ、ペテロが「あなたはキリスト、生ける神の子です」と言った時、主は思わず感嘆されたのです。これは、ご存じのように、「人々は人の子について何と言っているか?」という主の問いへの返答でした。人々は推測し、自分の意見、判断、合理的結論、観察結果を述べていました。主は言われました、「シモン、あなたはさいわいである。この啓示を伝えたのは肉や血ではなく、天におられるわたしの父である」。

さて、愛する人よ、私たちの知識の性質というこの問題に取り組むことは、私たちにとってとても重要です。あなたにお尋ねします、あなたは主の事柄に関する知識をどのように知ったのでしょう?どのように知ったのでしょう?そう信じるよう育てられたからでしょうか、子供の頃そう教わったからでしょうか?集会に行くことにより、自分の聖書を読むことにより、キリスト教の一般的な指導・情報・伝授・教育によって、それを受けたのでしょうか?どのように知ったのでしょう?もし、ある一点について尋ねられたら、あなたは自分の信仰や知識をどう説明するでしょう?この問いに取り組むことは、取るに足りないことではありません。なぜなら、頭の中が様々なことでいっぱいで、自分の知識を役立てていない人が大勢いるからです。彼らの知識には何の意味もありません。あらゆる知識、すべての情報を得たとしても、生来あなたは無能であり「無力」であるという事実は残ることがわかります。そうです、霊的知識の最初の光明は啓示によって臨みます。そして、啓示によって臨むものだけが生きており、力があり、実を結び、効果があります。これは真実です。ああ、私はあなたに訴えたいと思います、教えを受ける際は気をつけてください。すべてを問いただすよう心がけよと、あなたに求めるつもりはありません。ましてや、すべてを疑ってかかれ、すべて自分の頭で考えよ、と求めるつもりもありません。しかし、私はあなたに、主の御前にすべてを持ち出して、こう言うように訴えたいと思います。「主よ、これは真実かもしれません。私の見るかぎり、これは真実です。私にはこれは真実であると信じる用意があります。しかし、それは聖霊の生かす力によって私の心に臨まなければなりません。そして、私の中で生けるものとならなければなりません。それは啓示されたものでなければなりません。たんなる話や教えであってはなりませんし、たんに他の人々が宣べ伝えたり信じたりしているものであってもなりません。それは私自身の個人的な啓示にならなければならないのです」。ああ、もしすべての人がこの基礎に基づいてすべてを得ていたなら、なんという違いが生じていたことでしょう!

さて、いま述べたいのは、主イエスの十字架に見られるこの被造物のゼロ点は、私たちには生来何の能力もないことを告げている、ということです。これを認識するのが早ければ早いほどいいのです。実際のところ、愛する人よ、神の事柄の領域では、私たちはみな愚か者であり、全くの愚か者なのです。主と共に十分長く進み続けるとき、私たちはそれがわかるようになり、神の事柄に関する自分のたわ言を忌み嫌うようになります。さて、私たちは自分のこうした天然の能力――それらがとても小さなものであれ、何らかの結果が得られそうなものであれ――を発揮して利用することもできますし、神聖な事柄や神の御言葉に関する自分自身の学び・調査・研究の結果を発表して、大量に蓄積することもできます。しかし、あなたに申し上げたいのですが、私たちの頭脳はこの問題では価値がないのです。頭脳はたんなる媒体・経路であって、決して発見の手段ではありません。これを覚えておいてください!人の最高の頭脳ですら、神聖なものを発見する道具・手段には決してなりません。なりえません。頭脳の用途は、啓示が通る経路にすぎません。それは人間である私たちの知性のためのものであり、他の人々に知的に示すためのものです。頭脳は決して啓示の座ではありません。頭脳は霊的知識の座ではありません。ですから、自分の持っているちっぽけな頭脳を、それが爆発するまで用いたとしても、どうにもならないのです。

十字架の試金石

十字架は、あらゆることで、新しい開始です。十字架は終わりであり、旧創造はその最良の状態にあったとしても神の霊の事柄では成功できないことを告げるだけでなく、新しい始まりがここにある!とも告げます。十字架が試すことがわかります。十字架はあらゆる権威を試します。あらゆる経験を試します。あらゆる権威と経験の試金石は、十字架が決定的に内面的なものになっているかどうかです。何かが権威をもって与えられる時、つまり権威があると主張する人から与えられる時、私はその権威の根拠を知りたいと思います。何の権威によってあなたは話しているのでしょう?だれかが私に自分の経験について話しても、それだけでは私には不十分です。ああ、人々の経験に釣られてはいけません。最も危険なのは、他の人々の経験を受け入れて、自分も同じ経験をしたいと言うことです。大勢の人々が他人の経験に振り回されてきました。他人の経験を求めて一生ひたすら祈ってきた人々を、私は知っています。さて、ある経験について語られ、示されても、それだけでは不十分です。私たちはその経験の根拠が何かを知りたいのです。その権威を試すのと同じように、その経験を試したいのです。あらゆる権威や経験の試金石は次のことにあります。すなわち、このことやあのことで、十字架が明確な決定的経験となり、生ける力となっているのか、ということです。

自分自身の魂の命から生じた経験、途方もない経験、神聖な事柄の真っ赤な偽物の経験をするおそれがあります。私たちは恐れ驚きます。その恐ろしさを私は特に強調します。自分自身のことを知れば知るほど、自分が恐ろしい存在であることがますますわかるようになります。こう言っても過言ではありません。私たちは恐ろしい存在です。それは、この人間の魂の能力や、心霊的性質を帯びた能力は、私たちを経験・現象・実践・影響・達成の領域へと連れ出す、という意味においてです――ああ、それは恐るべきことです。いわゆる――裁いたり批判したりするつもりはありませんが――「ペンテコステ的経験」をすることもできます。私は知りたいのです、それがあの強固な心霊的命の中に深く植え付けられた十字架の働きから生じているのかどうかを。もしそうでないなら、私はその経験を拒みます。

唯一安全な経験の根拠は、あなたが自分自身の魂に対して十字架につけられていること、十字架があなたの心霊的能力全体の中心に植え付けられていることです。ローマ六章はローマ八章に不可欠です。経験と権威は同じ手段、同じ方法で試されなければなりません。あなたは権威をもって話し、宣言し、断言します。今、私は知りたいと願います、それはあなたの強固な確信から発しているのか、それとも、あなたが十字架につけられている結果生じた経験から発しているのかを。断言する力、知っているという主張は試されなければなりません。私は、権威の背後にあるもの、経験の背後にあるものを見て、こう尋ねたいのです、「私が相手にしているのは真に十字架につけられている男女でしょうか?この男性、この女性は十字架を真に知っていて、天然の命、魂の命――心の強さ、意志の強さ、感情の強さ――に対抗しているでしょうか?」と。十字架がすべてを試します。これは消極面であることは承知しています。しかし、十字架において私たちはこの領域から切り離されたことを、はっきりと認識することが重要なのです。

さて、主観的な面は、生来の私たちに関するかぎり、神はご自身のゼロ点に遡って働かれることを意味します。客観的な面は、私たちがそれを明確に受け入れたということです。客観的に私たちは言います、「キリストは私の唯一の希望です!キリストは私の唯一の義です!キリスト、キリストだけが私の救いです!自分自身には何もありません!」と。客観的に私たちは、キリストはその十字架によって私たちのために神にとってどのような方なのか、というこの根拠に基づいて受け入れられています。しかしその後、聖霊はこの根拠に基づいて私たちに対する取り扱いを開始されます。そして、十字架における神のゼロ点へと遡って働かれます。聖霊によって真に統治されているすべての信者の経験は次のようなものです。すなわち、彼らが主と共に長く進めば進むほど、遠く進めば進むほど、ますます戻ることになるのです。彼らがある意味において前進するとき、それは別の意味における後退と釣り合いが取れています。つまり、自分が常にゼロに近づいていくこと、自分自身の力の価値がますます減っていくことを、彼らは常に実感するのです。肯定的に述べると、彼らはあらゆることで主にますます拠り頼むようになるのです。しかし、これは私たちを出発点に立ち返らせるにすぎません。聖霊が来臨されたのは、私たちの立場を損なうためでも、私たちを受け入れられなくするためでもありません。経験上、キリストに言えることを私たちにも言えるようにするためです。すでに述べたように、小羊の妻が小羊に同形化されて、しみやしわやそのようなものがなくなるためです。

私たちはほとんど消極面ばかりを見てきました。しかし、これに決着がつかないかぎり、私たちはどうしようもありません。今日の状況を考えると、愕然とするばかりです。これに照らして見るとき、もしこれが真実なら、私たちは外を見て絶望するかもしれません。それにもかかわらず、愛する人よ、遅かれ早かれ、すべての人の人生が試されることになります。遅かれ早かれ、キリスト教圏全体が試されることになります。その試みはまさにこの根拠に基づいて臨むでしょう。疑問が至る所で生じるでしょう。結局のところ、私たちの霊的有効性と実り豊かさはどれくらいあったのでしょう?結局のところ、何がすべての試みに耐えるのでしょう?神の働きと信者の持つ知識の真正性と現実性について、あらゆる方面で疑問が生じるでしょう。教会が大患難に入るにせよ入らないにせよ――これについては論じません――神の案配により、神の民の諸々の土台、神を知る彼らの知識の土台が試される事態が起きなければなりません。こうして、主を知る彼らの知識の性質に関して、その知識は真に個人的・経験的な知識なのか、それとも情報にすぎないのかが、重要な問題になります。彼らが従事してきた働きは、どのようなものだったのでしょう?本当に神がその働きをしておられたのでしょうか、それとも主の御名によってなされた無数の自己増殖的なものだったのでしょうか?それが試されることになります。試されなければなりません。すべての人の働きが試されることになります。そう神の御言葉は宣言しています――「その火が(中略)各人の働きがどんなものであるかを証明します」。

私たちの高い召命に対する積極的姿勢の必要性

さて、もしこれが真実なら、私たちはとても広い範囲にわたって、むしろ恐るべき結果を想定できると思います。私はあなたにこう述べたいと思います。私たちは、これらの事柄に関する、不吉で、邪悪で、中途半端な選択肢を、すべて排除しなければなりません。積極的な立場を取らなければなりません。主イエスは常に弟子たちを積極的立場に導こうとされました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしの戒めを守ります」――「だれでもわたしを愛する人は……」。こう述べることにより、彼は次のことを別の言葉で言われたにすぎません。「わたしを真に愛していない人は、第二の道を探し回るでしょう。わたしを真に愛していない人は、『それは本当に必要なのでしょうか?』と言うでしょう。わたしを真に愛している人は、『それは必要なのでしょうか?』とは言わず、『主はそう言われたのでしょうか?それが主の御心なのでしょうか?それがご自身の願いであることを主は示唆されたのでしょうか?』と言うでしょう」。愛する人は常に積極的な道を取ることがわかります。「そうしなければならないのでしょうか?それは必要なのでしょうか?それなしで切り抜けられないのでしょうか?」とは言わないのです。

さて、これが試金石です。そして、私たちにとって重要なのはこの点です。「まあ、それを受け入れない善良なクリスチャンがかなり大勢います。彼らは主を知っており、祝福されており、用いられています」云々と言う人々のようであってはなりません。そのような立場を取ってはなりません。愛する人よ、それでは不十分です。イスラエルの二部族半がヨルダン川を渡るのを拒絶して、「私たちをこのヨルダン川の向こうに連れて行かないでください」と言いました。全イスラエルがヨルダン川を渡らなければならない、という主の御心が完全に明らかにされていたにもかかわらずです。彼らは祝福を受け、ヨルダン川のもう一方の側に牧草地を得ました。確かに、彼らはかなり良好な地位を得ました。誤解しないでください。啓示された神の御旨に従わないなら神は厳しくなられる、とは思わないでください。神はそのような方ではありません。いいえ、神はあなたに良い時を与えてくださいます。しかし、この二部族半は最後に敗北しました。彼らは最初に捕囚になりました。神の全きみこころから外れました。これは由々しきことです。私たちは積極的な立場を取らなければなりません。「だれでもわたしを愛する人は……」。これが神の全き御旨であるなら、主ご自身への愛により、それ以下のものを私は受け入れることができません。私はその道を進み通します。愛する方に対する私の姿勢は、「自分にはどれくらいのことができるのか?この方が表明された御旨に自分はどれくらい従えるのか?」というものです。これが愛の反応であり、積極的な立場です。私はあなたに言います、お望みなら、あなたはこれ以下のものを得つつ、なおも祝福を受けることができます。しかし、重要なのは究極的に最上位を占めるものではないでしょうか?