朗読: 黙示録五章、七章。
この黙想では、新約聖書の様々な文脈における十字架について見ていくことにします。
使徒時代のクリスチャンについて知ることのできるすべての資料、すなわち、新約聖書の数々の手紙を取り上げると、主に三つの点に出くわすように思われます。
使徒時代後期に関して見られる三つの点
(a)驚くべき特徴
最初に出くわすのは――これはかなり驚くべきことですが――ほぼ至る所に霊的失敗が見られることです。これは驚くべきことだと言えます。この事実は衝撃的です。何らかの間違いを正すために、何らかの問題を取り扱うために書かれたのではない手紙は、新約聖書の中に一つもありません。使徒時代のクリスチャンたちに関して持っている資料から、私たちはまずこの問題に、多面的かつ包括的な欠点に直面します。こんなことを言うとひどいと思われるかもしれませんが、もう一度考えてみてください。考察を終える前に、これはそうであることがわかるでしょう。これらの手紙が書かれなければならなかったのは、状況が悪化したためでした。教理的に間違っていただけではないことに気をつけてください。疑いなく、諸教会の中には、裁きの対象ではない人々、おそらく無関係な人々もいました。しかし、奇妙なことに、そのような人々がいたとしても、彼らについてはあまり述べられていません。主に記されているのは、かなり一般的な記述です。これらの手紙が書かれたのは、誤りに陥った諸教会の一部の人に宛ててではなく、諸教会に宛ててでした。少数の人々ではなく多数の人々がきっかけで、これらの手紙が書かれました。少数の人々については、これらの手紙の最後にしばしば述べられています。さて、これが第一の点です。この点にまた後ほど戻って来ますが、これはとても衝撃的なことです。
(b)警告の言葉
二番目に出くわすのは、霊的に成長して霊的完成という目標に至ることに関する、警告・戒め・勧めの言葉です。警告の中にはとても恐ろしい警告もあります。それらの警告を見ていくつもりはありません。しかし、荒野で滅んだイスラエルといった警告が、二つの手紙の別の場面で使われていることを、あなたは思い出すでしょう。あの素晴らしい使徒時代のクリスチャンたちが警告を受ける必要があったのです。しかも、荒野で倒れて死体となったあのイスラエル人たちの例によってです。このイスラエル人たちに対して、彼らはエジプトから出て来たにもかかわらず、神は「あなたたちは入ることはできない」と言われました。このような警告が見られます。他にも多くの警告があり、これよりもっと厳しい警告もあります。エサウについてはどうでしょう。彼は一食のゆえに生得権を売り、涙ながらに求めましたが、父親に翻意の余地はありませんでした。これがクリスチャンに対する警告として使われています。至る所で警告・戒め・勧めがなされており、この状況は神の御思い・神の御心・神の御旨ではないという事実を明らかにしています。
(c)治療法であり嘆願の根拠である十字架
次に、三番目に出くわすのは十字架です。十字架が嘆願の根拠として用いられており、聖別と勝利の手段として示されています。毎回、このクリスチャンたちは何らかの形で十字架に連れ戻されます。十字架が彼らの前に持ち出され、嘆願の根拠とされ、状況を変えるための手段として示されます。
これらの手紙は使徒時代の信者たちの状況について知らせてくれますが、これらの資料をざっと読むだけでも、この三つの点がとても際立っていることがわかります。それとは異なる信者たちがいたとしても――疑いなくいたでしょうが――彼らについてはあまり述べられていません。この新約聖書のクリスチャンたちに関して受ける一般的印象は、完全とは程遠い信者という印象です。彼らは、至る所で霊的につまずいていました。依然として罪を犯すおそれがあっただけでなく、実際に罪に巻き込まれていました。というのは、これらの手紙はみな、罪、失敗、正される必要のある事柄を取り扱うために書かれたからです。この問題についてはこの状況を甘受しなければならない、と論じる人はだれもいないでしょう。また、主は別の立場を用意されなかった、と断言する人もだれもいないでしょう。罪に賛成して論じる人はだれもいないでしょう。さらに、私たちは次の事実に直面します。すなわち、これらの手紙は罪を対処するために書かれた一方で、これはご自身の民に対する神の御心ではないことを示すためにも書かれたのです。また、別の状態を生じさせられる方法と手段を示すためにも書かれたのです。ここで十字架が登場します。これらの手紙すべてに目を通すことはしませんが、いくつかの手紙を紹介すれば、私の言わんとしてることがわかるようになるでしょう。
ローマ書――十字架とクリスチャンの立場
聖霊の主権的御手の下で配置された手紙の順序は、霊的な年代順です。まずはローマ書から始まります。その冒頭にこう記されています――
「イエス・キリストの僕、召された使徒、神の福音へと選び分けられたパウロ。この福音は、神が彼の預言者たちを通して、聖書の中であらかじめ約束されたものであって、御子に関するものです。この方は、肉によればダビデの子孫より生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活により、力をもって神の御子と宣言された私たちの主イエス・キリストです。この方を通して、私たちは恵みと使徒職を受けました。それは御名のために、すべての諸国民の間で、人を信仰の従順へと至らせるためです。あなたたちも彼らの間にあって、召されてイエス・キリストのものとなっているのです。ローマにいる、神に愛され、召された聖徒たち一同へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたたちにありますように。まず、私はあなたたちすべてのために、イエス・キリストを通して、私の神に感謝します。それは、あなたたちの信仰が、全世界にくまなく宣べ伝えられているからです」(ローマ一・一~八)。
これが序文です。「召された聖徒」「召されてイエス・キリストのものとなっている」。この人々に宛ててこの手紙は書かれています。次に、読み進んで行くと間もなく、この聖徒たち、つまりイエス・キリストに属する者たちの間の問題に出くわします。そして、自分が根本的問題に巻き込まれていることに気づきます。義の大問題が生じるのです。義は根本的な問題です。これは信者たちの間における義の問題であって、義なる実行や、義なる行いの問題ではありません。それよりももっと基本的なこと、つまり義なる性質の問題です。この手紙に導かれて次のことがわかるようになります。主イエスに属するこの人々は、控え目に言っても、この義の問題、根本的義の問題に関して動揺しており、確信していなかったのです。
ローマ書の主題をすべて展開する必要はないでしょうが、この書の主題はクリスチャンの地位と関係しています。これが要点です。最も初歩的なこと、クリスチャンに関するまさに最初の点、他のすべてに優先するものは、神の御前におけるクリスチャンの地位、その立場の問題です。受け入れられているかどうかの問題、拠って立つ立場の問題、神との関係の問題です。この書のクリスチャンたちはこの問題に、この義の問題に直面しています。使徒が言及しているこの問題は、彼らが信じた後に生じたものかもしれませんが、いずれにせよその問題がありました。信者には常にこのような状態に陥るおそれがあることを示す証拠が必要でしょうか?歴史を見ても、現代を見ても、この問題が最終的に解決されたとは到底言えない状態にある信者が依然として見つかるのではないでしょうか?依然として弱さ、不安定さ、挫折、恥、不毛さ、責任を負う能力の欠如があるのではないでしょうか?なぜなら、この問題にまだ決着がついていないからです。愛する人よ、私たちの周りの至る所にこの問題が見られます。しかし、確かに、クリスチャンがそのような状態にあるのは、大問題ではないでしょうか?もちろん、大問題です。しかし、それでもそれは存在します。神の子供ですら、不信仰の根が引き抜かれていないのです。たとえあなたが神の子供であり、召されてイエス・キリストのもの、召された聖徒となっており、再生されていたとしても、依然として不信仰の根があなたの中にあるおそれがあるのです。その不信仰の根はいつでも、たとえ死の間際だったとしても、あなたから救いの確信を奪いかねません。こうして、神への献身の生涯を送った多くの人々が、この問題に関して確信のないまま亡くなったのです。この問題は存在しています。私たちは自分が見たことをありのまま受け取らなければなりません。そして、私たちが見ているのはこのとおりです。
さて、私たちの見るところ状況はこのとおりだから、神はそれを容認される、と言うつもりはありません。神はこの状況を取り扱うためのある手段を用意されました。しかし、もしあなたや私が神の手段を用いなければ、私たちがどれほど真に主のものだったとしても、私たちはこのひどくぐらついた人生を送ることになるでしょう。決して真っすぐ進めないでしょうし、いつまでたっても決して堅固で頼りになる人にはなれないでしょう。ですから使徒は、彼らのことをキリストにある者、召されてイエス・キリストのものとなった者、召された聖徒と述べる一方で、彼ら自身はどのような者なのかに関して、これらのことを彼らについて述べなければなりませんでした。この二つは異なるのです。
パウロはこの問題にどう対処したのでしょう?彼はカルバリに至るまでこの義の問題全体を着々と進めていきます。六章に来ると、彼は次のような高嶺に至ります。すなわち、クリスチャンはユダヤ人や異教徒と全く同じ所に行かなければならない、ということです。どこへでしょう?十字架です!彼は世界中を、異教徒の世界とユダヤ人の宗教的世界の両方を調べましたが、内在的な義は見つかりませんでした。そして、彼は私たちが前にしているこの問題に直面して、「私たちはクリスチャンである自分自身の内にも内在的な義を見つけられませんでした」と言いました。自分自身に関するかぎり、私たちクリスチャンは、内在的な義の問題に関して、異教徒やユダヤ人と何ら変わりはありません。私たち全員が十字架に行かなければなりません。クリスチャンとしても、信者としても、自分自身は道から排除されていることを認めなければなりません。ローマ六章は信者のためのものです。これを忘れないでください。それは信者以外のすべての人のためであるのと同じように、信者のためのものでもあります。使徒は、ユダヤ人や異邦人をカルバリに連れて行くのと同じように、このクリスチャンたちもカルバリに連れて行きます。彼は全員をそこに連れて行って言います、「さあ、私たちは皆、自分自身の内に内在的な義はないことを認識しなければなりません。ローマにいるあなたたち信者が自分自身の内に内在的な義を見つけようとしても、異教徒と同じく決して見つかりません。ですから、あなたたちは自分自身を放棄しなければなりません。死ななければなりません。主イエスの十字架で死ななければなりません」。ローマ六章がどう始まるのかはご存じでしょう。「それでは、私たちは何と言いましょうか?恵みが満ちあふれるために、私たちは罪の中にとどまっているべきでしょうか?絶対に違います!罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていることができるでしょうか?」。
「死んだ私たち」!私たちはいつ死んだのでしょう?あなたはいつ死んだのでしょう?自分自身の中では決して死ねず、キリストの中でのみ死ねる、という感覚があります。あの時、あなたは死んだのです。キリストの死はあなたの死なのです。
さて、ここできわめて馴染み深い御言葉が思い出されます。というのは、十字架がここで導入されているのは、いま私たちを確立するためだからです。私たちが神の子供になるためではなく、神の子供として十字架によって確立されるためなのです。十字架によってでなければ決して神の子供になれないことは承知していますが、それはここでの論点ではありません。このローマ人への手紙は、未信者に宛てて彼らを救うために送られたのではありません。クリスチャンたちを確立するために送られたのです。十字架は彼らを確立する手段であり、私たちの地位、神の御前における私たちの地位、神の御前における私たちの立場、神が私たちを受け入れる条件と関係しています。これはみな、私たちのものではない義に基づきます。私たちは、自分の中に何らかの義があるという考えを否んで、この義の中に一度かぎり永遠に入ります。「私の中には、すなわち私の肉の中には、何の良いものも住んでいません」と、救われた人である使徒は宣言しました。自分自身の中に何か良いものを探すのは、カルバリに反することであり、私たちの立場の根幹を揺るがすものです。私たちの立場は彼の義のみに基づきます。この義は神に属するものであり、イエス・キリストを信じる信仰によります。
さて、重要なのは、ここで私たちは罪の問題に直面しているということです。このローマの信者たちに関するかぎり、罪の問題とは何でしょう?彼らが関わっていた罪の問題とは、依然として義をキリストの外に、自分自身の中に、働きによって求めていることでした。これが罪の問題です。それは彼らを誤った立場に導きました。カルバリを無効化しました。私たちがカルバリの意義――カルバリは別の方の義であり、この代表者たる方の中で私たちも死んだことに基づいて与えられるものであること――を真に認識する時、私たちにとって罪の問題はなくなります。罪の問題は、カルバリの意義に対する私たちの姿勢の問題です。私たちの責任は、自分の状態に対してではなく、神が私たちの罪のための宥めとされた方に対する自分の姿勢に対してです。これが罪の問題です。最終的に、裁きはすべてこの点に帰着します。神はいかなる人も、その人の罪に基づいて裁いたりはされません。罪を担ってくださる方に対する姿勢に基づいて、すべての人を裁かれます。問われるのは、神の小羊とあなたとの関係はどうか?ということです。これがすべての基礎です。神の小羊を自分の身代わりまた代表として信じる信仰が、罪の問題をすべて対処します。
信者に何が可能なのかがわかります。また信者は、クリスチャン生活のまさに土台について、この問題――義はもともと自分の中には決して見つからないこと――に完全かつ最終的に決着をつけなければならないことがわかります。義は、信者の内におられるキリストの中にのみ見いだされます。聖霊は常に大いに注意して、最後に至るまで、私たちと私たちの内におられるキリストとを区別されます。罪と聖さと聖別について多くのことを述べているヨハネは、非常に注意深く、「神は私たちに永遠の命を与えてくださいました。そして、この命は御子の中にあります」(一ヨハネ五・十一)と述べています。私たちがいかなる者なのかと、キリストがいかなる方なのかとを、常に区別しています。神はほむべきかな、私たちは自分の内にキリストを持っているので、罪のない完全な方が私たちの内に住んでおられます。しかし、私たちはこの御方ではありません。私たちがキリストの中にとどまっている時だけ、私たちは罪を犯しません。しかし、あなたも私も、キリストの中にとどまることに失敗するおそれが常にあります。つまり、私の理解が正しければ、私たちは自分自身の中に落ち込むおそれがあるのです。
一コリント――十字架とクリスチャンの歩み
コリント人への第一の手紙に移って、別の文脈における十字架を見ることにします。しかし、もう一度序文に注目してください。
「神のみこころを通して召されたキリスト・イエスの使徒パウロ(中略)コリントに在る神の教会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別され、召された聖徒たち、それと共に、私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人へ。彼は彼らのもの、また私たちのものです。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたたちにありますように。私は、キリスト・イエスの中であなたたちに与えられた神の恵みのゆえに、あなたたちについて、いつも私の神に感謝しています。それは、あなたたちがあらゆることで、すなわち、すべての言とすべての知識において、キリストの中で豊かにされており、キリストの証しが、あなたたちの中で確かに堅くされているからです。こうして、あなたたちはどんな賜物にも欠けることがなく、私たちの主イエス・キリストの出現を待ち望んでいます」(一コリント一・一~七)。
素晴らしい人々です!今、私たちは確かに聖徒を目の当たりにしています。この先を読まねばならないのは、なんと残念なことでしょう。あまり読み進まぬうちに、恐ろしく肉的な光景に出くわします。肉が、赤面するような様々な形で現れます。状況のこの側面を熟考したいとは思いません。しかし、召された聖徒であり、あらゆることで豊かにされており、どんな霊の賜物にも欠けることのない人々の中で、このような状況に出くわす、という事実について考慮する必要があります。この状況をどう対処すればいいのでしょう?何がここの問題なのでしょう?
私たちは前進したのです。これはローマ書よりも霊的に進んでいるのです。私が言わんとしているのは、状況がよくなったということではなく、局面がさらに進んだということです。ローマ書では、地位、立場が問題です。コリント書では、歩み、行動、霊的ふるまいが問題であり、それらはみな間違っていました。間違っていたというのは弱い言葉です。なんと悲劇的であり、恐ろしいことであり、そんなことがありうると知っていなければ、なんと信じがたいことでしょう、この手紙の中に出てくる事柄をクリスチャンにあてはまることとして読まねばならないとは。しかし、文面どおりに受け取らなければなりません。しかも、これはコリント教会だけの問題ではないのです。それ以来、他の多くの場所でも起きてきたことなのです。この問題が確かに存在します。こんなことをする人々は再生されていない、御子を信じる信仰によって神に受け入れられていない、と言ってはなりません。そう言ってはなりません。コリント人への第一の手紙は特にクリスチャンに宛てて書かれたものではない、と言う権威が誰にあるでしょう?そうです、いま私たちは信者の歩みという問題に直面しているのです。
この問題はどのような方法で対処されるのでしょう。そう、まさに同じ手段によってです。十字架が導入されます。この手紙の基礎となる大きな基調は、「イエス・キリスト、十字架につけられた方」です。十字架につけられたキリスト、これがこの状況を対処するための基調であり、基礎であり、手段です。これは常に同じです。信者たちは依然としてこうしたことをしでかす可能性があります。しかし、真に十字架を理解するとき、たとえこうしたことをしでかす可能性が残っていたとしても、もはやそうする必要はなくなります。自分自身の中では何でもしでかす可能性があります――そうです。しかし、十字架が真に理解されているなら、そうした可能性に従うことはありません。十字架は私たちの地位を確立する手段であるだけでなく、私たちの歩みを正し、支配する手段でもあります。あなたと私が、主イエスが死なれた時、自分も死んだという事実――これは、私たちはいわゆる罪に対してだけでなく、自己に対しても死んだことを意味します――を真に理解するとき、そのようなものは終わります。私たちは自己に対して死にました。もし自己に対して死んだなら、誰が自分の権利を認めさせるために、クリスチャンの兄弟に対して法に訴えようとするでしょうか?もし自己に対して死んでいるなら、誰がクリスチャンの兄弟に対抗して打ち勝とうとするでしょうか?もし自己に対して死んでいるなら、誰が他の仲間のクリスチャンを辱めたり批判したりするでしょうか?もし自己に対して死んでいるなら、誰がふさわしくない態度で主の食卓に着くでしょうか?パウロは十字架のこの面を行動や人間関係に適用しています。ああ、確かに、あなたは依然としてこうしたことをしでかす可能性がありますが、キリストと共なる自己の死を真に理解しているなら、そんなことはしないでしょう。
ですから、使徒は天然の人すなわち肉の人について述べて、「ここからこうしたものがみな湧き出しているのです。あなたたちは依然として天然の立場に基づいて生きており、だからこんな有様なのです。十字架によって自分の肉の命から解放してもらいなさい。そうすれば、こんな振る舞いはしなくなるでしょう」と言います。十字架は常に矯正します。愛する人よ、言わせてください、十字架は聖霊の御手の中で力強く活動する強力なものなのです。それは私たちがつくたんなる地位ではありません。私たちが受け入れるたんなる教えや教理ではありません。もしあなたと私が、十字架の光の中で、キリストと共なる・キリストにおける自己の死の光の中で、自分自身を聖霊に明け渡して、「主よ、あなたが死なれた時、私も死にました。私は自己の死を受け入れます。今、これを有効化してください」と言うなら、聖霊がやって来て、私たちの行動、振る舞い、態度、関係、会話、批判について、私たちを検査してくださいます。そうです、私たちの生活や歩みすべてを検査してくださるのです。聖霊はそれを対処し、その上に十字架の死を適用してくださいます。十字架の死は、その当座は、私たちを大いに恥じ入らせるものです。自分があんなことを言ったこと、口にしたこと、あんなことをしでかしたことで、私たちは恥じ入ります。神の御前でひれ伏さなければならなくなります。だれも私たちをそのことで責めたわけではありません。神の霊が私たちを打たれたのです。十字架が自分の上に置かれて、私たちは自分が打たれたことを自覚します。そして、その問題を神の御前で対処するまで、私たちは死んだも同然です。主イエスの死こそ、私たちの天然の命、肉性に対して聖霊が用いられる手段なのです。それによって私たちは何かを教わります。十字架は訓練・鍛錬のための神の杖です。それは子たる身分を得させるためです。私たちを子とするためではなく、子たる身分へと至らせるためです。神の御思いにしたがって私たちを成長させるためです。さて、これは歩みに関してです。
二コリント――十字架と務め
コリント人への第二の手紙に移ることにします。この第二の手紙で私たちは新しい局面を迎えます。この手紙を読み始めると、私たちはまだ第一の手紙から抜け出したわけではなく、むしろ第一の手紙から生じた苦悩、苦しみ、悲しみ、痛みの中にあることがすぐにわかります。敬虔な慰めを私たちにもたらす敬虔な悲しみのゆえに、神に感謝します。十字架が歩みを対処し、振る舞いを対処し、肉性を対処する時、務めの問題が生じます。
この第二の手紙は、ご存じのように、奉仕者の手紙です!この手紙は、十字架がその働きをなした奉仕者が、神の観点から見てどのような者なのかを告げます。神の奉仕者であるモーセを大いに見せます。モーセは旧契約の中で奉仕し、神の御思いを告げ、神の御心を啓示しました。これが奉仕者というものです。奉仕者(minister)とは――この言葉が告げるところによると――神の御思いを示す者、神の御心を現わす者です。モーセが律法を読んだ時、彼の顔は輝き、神の栄光が神の僕、神の奉仕者である彼を通して表されました。これは旧契約の下でのことだったことに注目してください。しるしの契約、象徴、予型の契約の下でのことだったのです。そうです、しかも死と罪定めの契約だったのです。使徒は言います、私たちは別の務めを持っているのである、と。務めとは、イエス・キリストの御顔に輝く神が私たちの心の中で輝きを放たれることです。これが奉仕者というものです。これを単純に、平易に述べることにしましょう。
新約聖書の中に職業的務めなるものはありません。神は、この経綸において、職員を任命して奉仕者にしたことは一度もありません。務めは、イエス・キリストの御顔にある神の啓示が心の中で輝きを放つ問題です。ある人を他の人よりも奉仕者にふさわしくするものは、生活の中に啓示されるキリストの度量です。私たちはみな、それに場所を譲る覚悟をしていなければなりません。あなたの心の中に、私の心の中に啓示される神の啓示が、私たちを神の奉仕者とするのです。
務めを構成し奉仕者を建て上げるのは十字架である、と使徒は述べていることが、今、わかります。
「キリストの愛がわたしたちを縛っています。なぜなら私たちはこう判断するからです。一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。ですから私たちは、今から後、だれをも肉にしたがって知ろうとはしません。たとえキリストを肉にしたがって知っていたとしても、今はもはや彼を、そのように知ろうとはしません。ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました。見よ、それらは新しくなりました。しかし、すべてのものは神から出ています」(二コリント五・十四~十八)。
どのような文脈で使徒はこう述べているのでしょう?この箇所は通常、福音メッセージのためのテキストとされてきました。それはとても良いことかもしれませんが、使徒はそのような文脈で述べているわけではありません。この手紙の冒頭を見てください。これらの初期の章を貫いている緊張感を見てください。この人々は、彼の使徒職、務め、権利、地位に疑問を投げかけていました。彼らは彼を見下してあらゆることを言い、彼を無価値な者、他の使徒よりも劣る者にしようとしました。彼はそのようなことをいくつか述べています。彼は言います、「私たちによって、すなわち、私とシルワノとテモテとによって、あなたがたの間で宣べ伝えられた福音は、『しかり』であると同時に『否』でもあるようなものではありません」。なぜ彼はこう述べているのでしょう?彼らがこう言っていたからです、「彼は『しかり』でもあり『否』でもある人だから、頼りになりません。彼は言うだけ言って、実行しないのです」。このように、彼らは彼を無価値なものと見なしました。ここには、彼らが彼の務め、使徒職、信頼性に疑問を抱いていたことを示す、多くの小さな証拠があります。そこで彼は言います、「私たちはみな死んだのですから、互いに肉にしたがって知ろうとしてはいけません。あなたたちは全く誤った根拠に基づいて裁いています。務めで重要なのは、あなたたちが私の中に人間的な欠点を見いだすかどうかではありません。務めで重要なのは、神が私の心の中を照らしてくださったのか、私からキリストが供給されているのか、あなたたちの目が欠点だらけの私自身に注がれているのか、それともキリストを求めているのか、ということなのです。あなたたちがそのような低い立場を取るなら、あなたたちは私を肉にしたがって知ることになります」。そのような立場に立つなら、私たちは十字架を否定することになります。私たちはみな、神の僕たちに対して、このような姿勢や立場のいずれかを取ることができます。彼らの人間的・天然的な姿に焦点を当てて、彼らの天然的欠点や過ちを絶えず批判することもできます。もし私たちが――彼らを肉にしたがって知って――そうするなら、神からのものに機会を与えないことになります。あるいは、別の立場を取ることもできます。「確かに、彼がとてもか弱く、間違いやすい、不完全な人であることは事実です。しかし私はむしろ十字架に、彼の天然のすがたと霊のすがたとの間に立ってもらうことを選びます。そして、主からのものが彼にあるのかどうかを見ることにします。もし彼にそれがあるなら、それに私は焦点を当てます」。これが第二コリントでの立場です。十字架が介入して、務めの問題を対処するのです。
第一に、コリント人に関するかぎり、十字架はキリストからのものが啓示されるための道を拓かなければなりませんでした。また、パウロに関するかぎり、十字架はキリストの栄光に満ちた内なる輝きを意味するものでした。
私たちは天的立場に立っており、この天的立場に基づいて開かれた天を持っています。務めのための資格は、イエス・キリストの御顔にある神の栄光が心の中に輝いていることです。これを持っている人はだれでも奉仕者になれます。これを持っていない人に、奉仕者を名乗る権利はありません。たんなる職業的務めや、霊的ではない務めといった、務めに関するいっさいの観念の根元を、十字架は打たなければなりません。霊的賜物、霊的啓示、霊的知識、霊的能力、霊的富、これらだけが私たちを奉仕者とするのです。
ガラテヤ書――十字架と霊的豊かさ
思い出していただきたいのですが、これらの手紙を読み進んで行くと、次にガラテヤ書に、それからエペソ書、ピリピ書、コロサイ書に至りますが、そこであなたは十字架を物事の様々な面に関して取り上げて、物事を正し、あるべき領域の中に入れることになります。あなたは常に前進することになります。第一に立場が対処され、次に歩みが、その後で務めが対処されます。その後、ガラテヤ書に来ると、どうやって霊的豊かさに達するのか?という問題に直面します。ガラテヤ人たちの問題は、彼らが途中で止まってしまったことでした。「あなたたちはよく走っていました。誰があなたたちを妨げたのですか……?」。彼らは途中で止まって、最後まで進み通しませんでした。それは豊かさの問題です。ガラテヤ書における十字架の地位についてはご存じでしょう。ああ、章ごとに十字架が登場するのです。「私はキリストと共に十字架につけられました」。なぜ私は進み続けるのをやめたのでしょう?どういうわけか私が死者の中からよみがえったせいです。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私ではなくキリストです」。その大きな目的はキリストです。
「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません。その方を通して、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられてしまったのです」(ガラテヤ六・十四)。なぜ私は進み続けなかったのでしょうか?十字架がこの世の問題で無効化されていたためです。ですから、十字架が常に登場して、豊かさに向かって、最終的なものに向かって進み続けるための道を開くのです。これがガラテヤ書です――神が意図されたことは何であれ、その途中で止まるようなことがあってはならないのです。
エペソ書――十字架と永遠の御旨
エペソ書は、あなたを神の偉大な永遠の御旨に導きますが、今やそれは団体生活の問題です。永遠の過去の神の熟慮から発する、世の基が据えられる前から神が抱いてこられた、この偉大な集合的・団体的御旨を、どうすれば知ることができるのでしょう?どのようにしてでしょう?それは十字架によります。知恵と啓示の御霊を通して私たちの心の目を照らされることによります。
ピリピ書――十字架と聖徒たちの交わり
ピリピ書:――そうです、今や私たちは教会の中にあります。ローマ書やコリント書のようにもはやたんなる個々の個人的問題ではありません。今や集団的問題です。あなたが教会の中に入る時、交わりの問題が生じます。間もなく、クリスチャンたちの間に交わりの問題が生じます。ユウオデヤとスントケの間に目的の不一致が生じます。どうやって交わりを顧みて、同じ会衆のクリスチャンたちの間の不調和を正せばいいのでしょう?
「キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたたちの内側でも思いとしなさい。この方は、神の形の中に存在されますが、神と等しくあるのを固守すべきこととは見なさず、かえってご自身をむなしくし、奴隷の形を取り、人の姿になられて、人としての有り様で見いだされ、ご自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられました」(ピリピ二・五~八)。
何らかの形で現れてこの交わりを邪魔して損なうこの思いの問題を、十字架に対処してもらいなさい。あなたの「心構え」が対処されなければなりません。この同じ原則はずっと有効です。ですから、コロサイ書はそれを別の形で取り上げます。
これまで十分に述べて指摘してきましたが、クリスチャン生活、歩み、奉仕・務めで、十字架の常在が必要でない点は一つもありません。一つの局面もありません。クリスチャンの経歴や経験の中に生じて神の御思い・御旨を損ないかねないものを、十字架はすべて対処します。ああ、私たちは「イエスよ、私たちを十字架のそばに保ってください」と言う必要がなんとあることでしょう!こうしたもの、未熟さのあらゆる痕跡が、クリスチャンたちの間に依然として生じていることを、私たちは痛いほど知っています。自分たちや物事の中にこのようなものが見られるとき、この問題をどう対処すればいいのでしょう?一つの手段しかありません。つまり、十字架の主観的働きです。私たちはその客観的面にきっぱりと決着をつけて、聖霊に十字架を道具として日々統治してもらわなければなりません。