第二章 神の七つの霊

T. オースチン-スパークス

朗読:黙示録二二・一~五。

「私は、私に語りかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台を見た。その燭台の間に、人の子のような方がおられた」(黙示録一・十二~十五)。

「御座からは、いなずまと声と雷鳴とが発している。そして七つのともし火が、御座の前で燃えていた。この七つのともし火は、神の七つの霊である」(黙示録四・五)。

「私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た。それには七つの角と七つの目があった。それは神の七つの霊である」(黙示録五・六)。

「小羊がそのともし火である」(黙示録二一・二三)。

黙示録の背景

黙示録が書かれた理由を見ることにします。黙示録が生まれた理由が一つか二つありました。第一に、教会は輝かしい朝を迎えていました。使徒行伝に戻って、この書の最初の数章を見ると、教会の輝かしい朝が見られます。イエスは復活し、昇天し、高く上げられ、王座につき、栄光を受け、栄光と誉れの冠を受けられました!御子は天におられます。それは新しい時代のようです。当時の信者たちにとってそれが何を意味したのかに照らしてみると、すべてが輝いており、その栄光を帯びています。すべてが新時代の光で印づけられています。これらの信者たちは躍動する活力で全く満ちています。御子の栄光が彼らを照らしていました。彼らは、復活して高き所におられる方を実感して喜んでいます。家から家へと集まる彼らの姿は、まさにこの栄光で満ちています。この世に対する彼らの証し、彼ら自身と彼らから出るものはみな、朝の輝きを帯びています。それはあまりにも短い期間でしたが、人々は朽ちることのない命の表れを大いに現実的かつ驚異的に味わいました。命の水の川が見事に流れ出ていました。主は御座におられ、川がその御座の下から流れています。黙示録二二章に記されていることのまさに前味わいです。輝かしい朝です!

しかし、これはあまりにも素晴らしすぎて、敵はこれを看過できません。これは敵の没落を予示するものであり、敵の最後を示すものです!これはこの大敵にとって到底容赦できるものではありません。そのため、敵は反応し、地獄は猛々しく蜂起しました。この証しを損ない、この器を傷つけ、この麗しい処女を堕落させるためです。敵は二つの方面からこれを行うために動きます――外側からと内側からです。

外側からはひどい迫害がありました。敵がこれを仕掛けたのです。ですから、使徒行伝の後の方の章には、迫害や反対が外側からあらゆる線に沿って展開するのが見られます。敵がこの世や宗教界の至る所にいて、パウロやペテロが亡くなるあの恐るべき日々に至るまで進み続けます――この証しを損なうため、この器を壊すためです。しかし、それでは不十分です。

敵はまた、それを堕落させるために、別の方法で、内側から行動します。バラムは外面的な方法を試しましたが、成功しませんでした。内面的な方法を試したところ、成功しました。サタンは、外面的方法ではうまくいかないのを、はっきりと見抜きました。「その日、エルサレムに在る教会に対して大迫害が起こった。そして、彼らはみな、広く散らされた。(中略)こうして、広く散らされた人たちは、行き巡って、御言葉を宣べ伝えた」(使徒八・一、四)。外面的な方法はうまくいかなかったことがわかります。そこで、サタンはバラムの別の方法に向かいました。黙示録では、諸教会の中にバラムが見つかります。バラムが、誤り、偽りの教理、悪行によって、内側を腐敗させようとしています。この世を徐々にもぐりこませて、内側から腐敗させようとしています。

そこで、外側からと内側からの敵の二重の攻撃の結果、これらすべての手紙が書かれました。これらの手紙を使徒たちはこの二つの状況に対処するために書いたのです。いくつかの手紙は特に、試練の中にある聖徒たちを慰め、励まし、世話するために書かれました。ペテロは特にそのために手紙を書きました。「あなたたちの上に臨んでいる火のような試練については」と彼は述べています。使徒たちはいくつかの手紙を、迫害されている人を励ますために書きました。テサロニケ人への手紙は特にそのような目的のために書かれました――素晴らしい励ましの手紙です。主の来臨を原動力とする励ましです。他の手紙は特に、コリントのように、内側の腐敗、誤り、偽りの教え、聖徒たち相互の行動や振る舞いを対処するために書かれました。主は両方の状況に十分に対応しておられ、どちらの場合も十分な助けを与えておられます。励ましと慰めと前進する力を与えておられます。サタンを内側から打ち負かすために、正し、𠮟責し、戒め、教えておられます。二重の必要があることがわかります。

第一に、この外からの攻撃がいったいどのように終わるのかについての保証が必要でした。聖徒たちは苦しんでいました。「これはいったいどのように終わるのだろう?自分たちはこのまま沈み込んでしまうのだろうか?いったい何が残るのだろう?」という問いがしばしば彼らの心に生じたことでしょう。これは、ネロ等のような教会に対する災厄を前にして、その結末はどうなるのか、という問いでした。

もう一つの面は、内側の誤りや間違いを対処することでした。この面については、教会を分裂させるサタンからのものを、教会は裁いて排除しなければなりませんでした。サタンは内側に何かを持っていました。物事を導入しました。そこで、教会・諸教会は、サタンを内側から打ち負かすために、それを裁くように要求されました。そして、その裁きが行われた時、諸教会は次のことを見るようになりました。すなわち、サタンの外側の働きに関するかぎり、その最後は徹底的滅びであること、また、サタンと、神の民に対するサタンのこの世の力はみな、アビスに落ちることを、見るようになったのです。しかし、外側で勝利するには、まず内側を裁いて清めなければなりません。これが黙示録が終始一貫して示していることです。こういうわけで主はこの書をお与えになったのです。一方において、内側で勝利する秘訣を教会に示すためであり、他方において、外側の究極的勝利の事実を教会に示すためです。全黙示録はこの二つで満ちています。

さて、私たちはこの書で明らかにされている事実から、必要な励ましと慰めをすべて得ることができます。教会に対するサタンのこの世における働きに関するかぎり、その働きは破滅する運命にありますし、サタンも破滅する運命にあります。黙示録にある絵図ほど、神の民に対するサタンの働きに関する価値ある絵図は、どこにも見当たりません。この書では、サタンが聖徒たちに対して、小羊に対して戦争を仕掛けて、恐ろしい事が起きるのが見られます。大艱難があり、苦しみがあり、敵が一時のあいだ優位に立って優勢になります。聖徒たちは激しい苦難を受けます。それはすべてこの書に記されています。黙示録にある苦難の絵図ほど恐ろしいものはありません。「神の言葉のゆえに、また自分たちが持っていた証しのゆえに、殺された人たちの魂が祭壇の下にいるのを、私は見た」(黙示録六・九)。これがすべてそこに記されていますが、次に輝かしい結果が啓示されます。彼らは栄光の中にいて、御座の周りにいます。礼拝し、喜び、勝利しています。最後まで打ち勝って、小羊の行く所へはどこにでもついて行きます。彼らは彼の栄光の中で彼と共にいます。他のものはみな消し去られ、滅ぼされます。

この言葉は、おそらく今日、世界のいくつかの場所で、主の民の多くが必要としている言葉です。大いに必要としている言葉です。この先、私たちにも必要になるかもしれません。教会は迫害を経過してきましたし、ある場所では今も経過していますが、そうした迫害の形はどうであれ、私たちは悪魔の攻撃を受けています。私たちは悪魔の敵意が意味するところを知っています。自分たちが恐ろしい敵に立ち向かっていることを知っています。私たちに対する敵の姿勢がどのようなものか知っています。ここに記されていることを思い出しましょう。主は私たちに、それをすべて鑑みて、判決、結末、それがどのように終わるのかを示してくださいました。どうか今日、私たちの心がそれによって強められますように!

しかし次に、このもう一つの面があります。私たちが真に関心を持つべきはこの面です。この面とは内側の面、すなわち、その中でサタンが打倒される状態です。サタンを打倒するのは神の主権的行為のみではないことを、私たちは覚えておかなければなりません。サタンを打倒するのは神の主権的行為のみであると証明するものは、御言葉の中に何もありません。主が自ら来臨して敵を打って投げ落とされるということだけではありません。神の御言葉のすべてが次の事実を指し示します。すなわち、サタンの最終的打倒は教会がキリストの勝利の上に立つことによる、という事実です。キリストのこの勝利は客観的に取得すべきものであるだけでなく、内側に造り込まれるべきものでもあります。私たちの内側に造り込まれるべきものなのです。小羊の勝利!小羊について述べる時、私たちはひとりの御方について述べているだけでなく、小羊なるこの御方の御業、性質、力についても述べているのです。

「神の七つの霊」

要点は、サタンを内側から打ち倒すものは何か?ということです。その答えは、事が神にしたがったものになることです。しかし、それはどういうことでしょう?それは、七つのともし火、七つの目、七つの角という、この高度に象徴的な言葉が示唆しているものであるように、私には思われます。それはみな神の七つの霊です。その意味を理解するとき、私たちはサタンの力を無にする内側の状況というこの問題全体への鍵を手に入れます。

神がここで行っておられること、神が終末の教会や諸国民に行っておられることは、ご自身の契約にしたがって反応しておられるのです。神は契約を結ばれました。その契約には特定の項目があり、神はその契約の項目にしたがってこの地上に見られるものに反応しておられるのです。「七」という言葉が誓いや契約を意味することはご存じでしょうか?ヘブル語の動詞の「シャバー(Shabar)」は「誓うこと」を意味します。名詞の「シバ(Sheba)」は七であり、神の御言葉の中で様々な形で使われています。

創世記二一章にベエル・シバ(Beer-sheba)が登場するのを思い出してください。七匹のいけにえで契約または誓いが立てられた所です。ベエル・シバは、七の誓い、七で立てられた契約です。ノアと結ばれた契約は虹――七つの色彩――をその象徴としていました。この契約が黙示録に登場します――御座の周りに虹があります。アブラハムと結ばれた契約の印は割礼でしたが、それは七日の完了時に行われなければなりませんでした。モーセと結ばれた契約の印は七日目の安息日でした。主イエスはそれをすべてご自身の内に集約されました。彼はメシヤ、「油塗られた」方です――七つの手紙はすべてを彼ご自身の内に集約します。契約全体、彼の血による新契約を、彼ご自身の内に集約します。それは聖霊によって証印を押されています。

私たちは契約の霊である御霊によって証印を押されています。この御霊の表れは七重です。七つの御霊は、血による契約に基づいて、霊的豊かさ・完全さの中で働く一つの聖霊の象徴にすぎません。これは全く専門的なことで、興味深いだけかもしれませんが、要点を理解するのに有用です。神はご自身の契約に基づいて反応しておられます。そこで、七という数字が登場します。七つの燭台、七つの教会、御座の前の七つのともし火、七つの目、七つの角というように。黙示録全体にわたって七という数字を見ていくと、神は霊的状態の完全性に基づいて働いておられることがわかります。

しかし、もう一度「七」という数字を見てみましょう。七は四たす三です。四は被造物の数であり、この書全体を貫いています。四つの生き物、四人と二十人の長老というように。四つの生き物、すなわちケルビムは、ご存じのように、被造物の象徴です。四は被造物を表し、三は神を表します。ですから、七は契約関係にある神と被造物を表します。被造物との神の契約は今や小羊の血によります。これはみな予型論としてはいたって単純明快ですが、すべてを支配しているのは、神の御心にしたがった物事の性質のこの七重性、すなわち七つの御霊なのです。

さて、四章では万物を創造したのは神です。賛美が、御座に座している、万物を創造された方にささげられています。「あなたは万物を創造され、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、創造されたからです」。御座に座している方の御座の前に、創造者の七つの燃えるともし火があります。ともし火は常に証しを表すことを思い出してください。ですからここでは、みこころのゆえに万物を創造された方の御座の前にあるこれらの七つのともし火は、御思いと御心と被造物とについての七重の証しを表しています。

被造物に関する神の御心は何でしょう?次の章の五章に移ると、創造主ではなく贖い主が礼拝されています。七つの目と七つの角を持つ小羊すなわち贖い主が礼拝されています。角は力の象徴です。また、ここには七つの目があります。これらは何でしょう?これらは御座の前の七つのともし火と符合します。というのは、どちらの箇所でも、それらは神の七つの霊だからです。実質的に同じものである、この七つの目と、この七つのともし火は何でしょう?神の御心にしたがっているものです。角が力を表している以上、小羊が、神の霊的に完全な御心にしたがっているものに照らして、すべてを対処されることになります。小羊の力が働くことになります。それはなんという力でしょう!小羊の怒りを前にして、王たちや諸国民はまもなく逃げることになります。小羊の血により聖徒たちは自分の衣を洗って白くします。彼らは勝利します。これが小羊の血にある力です!しかし、この力は全く神の御心にしたがっているものと共に働きます。裁きが臨んで、すべてを量って試すことになりますが、この裁きは、御座の前のこの七つのともし火とどの程度一致しているのかによります。

諸教会が七つの燭台として示されているのはとても興味深いです。どの燭台にも七つの枝があり、七つのあかり、すなわち豊かな霊的証しがあります――何に対する証しでしょう?教会は燭台であり、金は神の御心であるものを表しています。神聖な性質、神聖な基準を表しています。それは純金です。これは旧約聖書からわかります。

命の御霊

聖霊によって証しされる神の七重の性質は、まず第一に、命の御霊です。神の霊の最も最初の表われは命です。創世記の初めから黙示録の終わりまで、神の御言葉のどこを見ても、神の霊の最初の表われは命であることがわかります。御霊は死と暗闇と混沌の上を覆われました。御霊の最初の行動は、死の状態から脱け出させることでした。これは天然の被造物に言えますし、新創造にも言えます。新創造への最初の動きは、尊い血による小羊からの命でした。すなわち、命の御霊です。

これらの目は御座の前で何をしているのでしょう?まず第一に、神は完全な霊の命の源である事実を証ししています。神に属するすべてのもの、あの御座を中心とするすべてのもの、神の全き御旨は、朽ちることのない命です。それからすべてが始まります。それが聖書全体を貫いており、この黙示録で完全な形で現れます――命です!御座の前の燃えるともし火は豊かな命を証しします。小羊は神の御前から出て来て、「わたしが来たのは、彼らが命を得るため、しかも豊かに得るためです」と仰せられます――豊かに得るためです。神の全き証しは、第一に、その性質において神の命そのものであるところの命です。

彼はまず七つの教会の中にそれを探されます。彼はエペソに言われます、「そうです、わたしはあなたの働き、忍耐、労苦を知っています。多くのことを知っています。しかし、あるべきなのにない要素があります」。それは命です。御霊のこの法則を適用してください。これが見られる所はどこでも、それらの目が探しているもの、この七つの目が取り扱っているのは――命の問題です。教会あるいは諸教会については、その存在そのものが、諸教会は死に打ち勝った命の証しの器たるべきことを意味します。それらの炎は御座の前のともし火に対応していなければなりませんし、この地上で次の事実を生き生きと証しするものでなければなりません。すなわち、今や死は、イエスが死を征服されて以来、普遍的なものではない、という事実です。死の力を持つ者は対処されて、その力は打ち砕かれました。ここにその証拠があります。

諸教会は、サタンもこの世も「自分の状態は普遍的なものである」と当然視できないことの証拠です。時として、この世はそう見なすように思われます。あなたが人々の間に行くと、人々は直ちに、あなたのことを同類視し始めます。普段と同じようにあなたに話しかけます。私たちがこの世にいるのは、皆が同じではないことを人々に知らしめるためです。「私たちはみな同じではありません。私たちの考えはあなたたちの考えとは異なります。私たちはあなたたちが話すようには話しません。私たちの思いを占めているのは、あなたたちの思いを占めているものとは異なります。私たちの水準はあなたたちの人生の水準とは異なります。これは私たちの方が優れているということではなく、違いがあるということです」。ああ、これにどんな形で直面するのか、あなたはご存じでしょう。私たちが旅をしていると、この世の人が、彼らなりの仕方で――時として、不快な仕方、不潔な仕方で――、彼ら流の生活を当然すべて知っているものと思って、私たちに話しかけ始めます。彼らと私たちの間には大きな違いがあり、衝突が起きます。隔たりを感じるようになります。それは人為的なものでも、見せかけのものでもなく、事実です。サタンは、教会の存在によって、そのような隔たりを感じずにはいられません。そして、常にこの溝を橋渡ししようとします。これがアジアの諸教会に起きたことです。ほとんどの場合、サタンはこの溝を橋渡しして、命と死との間の明確な境界線は見えなくなりました。小羊は死に打ち勝たれました。小羊は次の事実の体現者です。すなわち、アダムにおける死の普遍的支配はもはや普遍的なものではなく、別の方が戦って征服してくださった、という事実です。諸教会はそのためにここにあります。聖徒たちはそのためにここにいます。諸教会や聖徒たちにできることや、働きや、労苦や、主のために取り組めるあらゆることを、たくさん行うためではありません。サタンと死の力に対するあの復活した命の力強い衝撃力のためなのです――これが重要なことです。第一に、神の霊の表われは命です。

主イエスは黙示録の中で、その目が火の炎のような方として紹介されています。次に、その少し後で、七つの目を持つ小羊として示されます。最後に、新しい聖所のともし火として、すなわち天のエルサレムのともし火として示されます。七つの目!これらのともし火が神の御座の前で常に燃えています!神の霊はその力の中で来臨して、ここにあるすべてのものを顧みてくださいます。それが意味するところに私たちは印象付けられる必要があります。それは、主すなわち御霊は何一つ見過ごさないという事実を意味します。彼が見落とすものは何もありません。ヘブル書の著者はこう述べています、「すべての事は、私たちが言い開きをすべき方の目に、裸であらわにされているのです」(ヘブル四・十三)。「私たちが言い開きをすべき方」――すべての事は、この方の目に、裸であらわにされているのです。

今、主はご自身の教会に完全な啓示を与えておられます。この啓示に何も加えてはなりません。これに何も加える必要はありませんし、加えることは不可能です。そして主の目は、御旨について教会に啓示したことに関して裁く目です、あなたも私も、そして主のすべての民は、主が啓示されたことに対して責任があります。それがこれの意味することです。彼は臨んだ啓示に対して反応しておられます。彼の目は覗き込み、至るところを見渡して、啓示された神の御心にしたがっているものと、それに反しているものとをご覧になります。主は私たちを知り尽くしておられます。

これは、一方において、大きな慰めです。他方において、検査の意味で、おそらくは矯正の意味で、心に留めるべきことです。私たちは互いに欺き合うかもしれませんし、他の人々を欺くかもしれません。あれこれとやり過ごすかもしれません。乗り切って、ばれていないと思うかもしれません。しかし、自分を欺かないようにしましょう。愚かにならないようにしましょう。私たちが考慮すべきは、お互いのことではありません。自分の教会の長老たちですらありません。私たちが言い開きをすべき方の目なのです。主はご存じです。主は見ておられます。ここに完全な視力があります――七つの目があります。完全な視力、これを伴って彼はまず初めにご自身の民に近づかれます。

これを思い出すのはとても厳粛なことです。私たちは主に、自分自身の自己欺瞞と盲目さから救ってください、と求めなければならないと思います。御座の周りの虹によって示されている恵みにより、小羊の血によって示されているあわれみにより、彼に求めようではありませんか。主から見て御旨に反することに対して、注意して目を覚ましていられますように、と。たとえ本当に主を愛し、神のためにすべてをささげたいと感じ、心の中で「そうです、主にすべてを得ていただきたいですし、すべてとなっていただきたいのです。自分自身のためには何もいりません。すべてを主にささげたいのです」と言っていたとしても、それと同時に、もし自分自身の動機と自分自身の心を知りさえするなら、これらの目の光に耐えられないものがたくさん見つかるかもしれません。これらの目が実際に自分の上に注がれるとき、私たちは地に打ち倒されて死人のようになるでしょう。そして、私たちは理解します。主がご覧になるのは、私たちの誠実さではなく、純粋な良い動機だと思い込んでいることや、献身だと信じ込んでいることでもないことを。そうです、エペソは立ち上がって、主への献身、主への愛を最も熱烈に宣言したでしょうが、主は欠け目をご覧になりました。問題は私たちが自分自身について見ていること、考えたり信じたりしていることではなく、これらの目が見ていることなのです。私たちは、主の恵みとあわれみの中で、主に求めなければなりません、恵みによる主ご自身の契約にしたがって、私たちに対して忠実かつ真実であってください、と。主は忠実で真実な者として紹介されています。そのような者として、彼は諸教会を取り扱われます。これにひるまないようにしましょう。内側を見てください、と主に求めましょう。私たちが盲目的に、あるいは無知のまま進んで、主の全き御旨に達しないのを許さないでください、と主に求めましょう。いいえ、やがてこれらの目が私たちの上に注がれることになります。そして、私たちは主がご覧になっているように見ることになるのです。

今、私たちの証しに関するかぎり、彼が求めておられるのは、朽ちることのない命の表われです。この命の力によって生きるよう、彼は私たちに求めておられます。この命は、罪を征服し、死を征服した命です。死ぬことのない命です。朽ちることのない命だからです。

燃える御霊

次に、私があえて話さない他の諸々の点がありますが、この神の霊の七重の表われがいかなるものなのかということだけ述べることにします。第一に命の御霊、次に燃える御霊です。というのは、これらはともし火であり、神の御前で火のようだからです。ともし火としての御霊、燃えるような御霊です。火のような御霊は常に霊的熱意を物語ります。主が少なくともいくつかの教会を対処されたのは、この点に関するものだったことは、覚えておられるでしょう。ラオデキヤではこれが問題でした。「あなたは冷たくもなく熱くもない。わたしは、あなたが冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたはなまぬるくて、熱くも冷たくもないので、わたしはあなたをわたしの口から吐き出そうとしている」。ローマ人に書き送って使徒は言いました、「働きに怠けることなく、霊の中で燃えなさい」。霊の中で燃えなさい!主は、ご自身の命と霊がご自身の聖徒たちの中で燃えることを求めておられます。私たちは霊の中で燃えているでしょうか?この「燃える」という言葉とその同義語を調べてください――勤勉、献身、エネルギーです。私たちはこの特徴を帯びているでしょうか?初めの愛は失われてしまったのでしょうか?その目は見ています。知っています。今、これらの目の光の中に立とうではありませんか。主が私たちをご覧になるとき、主は真の霊的熱意というこの問題で私たちに不足を見いだされるかもしれない、と感じるようなら、御前でこの熱意の不足を裁こうではありませんか。それを裁き、対処して、そのともし火がますます燃えるようにしようではありませんか。

燃えること――これがともし火に関する神の御旨です。聖所ではともし火を消すことは決して許されませんでした。それは朝夕、手入れされました。その炎は、常に弱まることなく燃えていなければなりませんでした。これが御霊であり、御霊の実です。これが、私たちの器の中にある油である御霊の効力です。最後まで絶えず燃え続けます。五人の処女にはこれが欠けていたので、勝利者になれませんでした。勝利者とは、ですから、次のような人です。まず第一に、その人の内で命の御霊が勝利している人、第二に、神聖なエネルギーである燃える御霊が神のために燃えている人です。

真理の御霊

最後に来ると、そこには神の完全な御旨を表す器が見られます(二二章が今の箇所から始まるのは残念です。その前から始まるべきです)。この五つの節を理解するには、その少し前に戻ることが大いに必要であることに気づきます。それに至るのは小羊の妻、教会、新しいエルサレムです。小羊の妻であるこの新しいエルサレムは、神の完全な御旨が最後に実現される時、その器、その化身となります。そして、この器の特徴の一つは、その光は碧玉のようであることです。透き通っていて透明なのです。これが真理の御霊です。絶対的に透明です。淀み、曇り、濁り、二枚舌、不正直さは何もありません――真理です!「あなたは内なる各部分にある真実を望まれます」。彼は真理の御霊です。聖霊が人生をとらえる時、彼は絶えず働いて、すべての陰り、すべてのあやふやなもの、絶えざるまやかしを取り除かれます。聖霊は私たちを透明にしてくださいます。

愛の御霊

「エペソよ、あなたは初めの愛を離れてしまいました!フィラデルフィアよ、あなたはその愛を持っており、人々はわたしがあなたを愛していることを知るでしょう!」。これは愛の御霊です。

これ以上先には進みませんが、神には完全な御旨があること、そして私たちの中でこの御旨が実現可能になるのは小羊によることを、理解していただきたいと思います。小羊が行われたすべてのこと、その尊い血のすべての功績により、私たちは永遠の光の中に住み、御座の前の七つのともし火の前に立てるようになりました。この血の強力な効力のゆえに神を賛美します!私たちはその永遠の光の中に住むことができます。しかし神は私たちの中に、ご自身の教会の中に、完全な備えのゆえに完全な御旨に応じるものを求めておられます。

血によるこの契約には、その項目として、神の全き御旨が含まれます。神が着手されたのは、この血を信じる私たちの信仰を通して、私たちを御子のかたちに同形化することです。つまり、被造物に対するご自身の御旨と私たちを完全に一致させることです。神はこれに着手されました。この血はその証印です。しかし、私たちの何が問題なのでしょう?なぜ私たちはこんなにかけ離れているのでしょう?それを主は私たちに示すことを願っておられます。主はそれを私たちに啓示してくださるでしょう。私は信じていますが、どの人生でも、また主の民のどの団体でも、一つからだの肢体として、御霊が真に人生をとらえられる時、私たちが真に自分自身を聖霊の御手に委ねて、神の御旨という問題について聖霊により明確な理解を持つ時、神の霊は神のみこころに反するあらゆる問題に関して私たちを検査して明確に対処されるでしょう。彼はそうしてくださると私は信じています。もしそうしてくださらないなら、それは彼が望んでおられないからではありません。彼の道に立ちはだかる、明け渡そうとしないものがあるのです。私たちの高ぶりという問題があるのです。私たちが高ぶっているなら、神は私たちを対処できません。私たちの自己意志、私たちの意見、私たちの理屈、私たちの判断があるのです。私たちの愛情、願望があるのです。

神の御旨は十字架によってのみ実現されることを覚えておいてください。こういうわけで、小羊が常に現存しておられるのです。神の御旨は十字架によります。しかし、十字架は適用されなければなりません。私たちの高ぶりに、私たちの意志、私たちの心、私たちの願望、私たちの愛情に適用されなければなりません。十字架は適用されなければなりません。十字架が私たちを倒し、空にして、神の霊がずっと私たちを検査して対処されるとき、神は御旨を達成されるのです。

ああ、クリスチャン生活は現実的です!私たちが最も強く確信していることの一つは、それはこのように現実的なものであるということです。私たちがどこに行こうと関係ありません。この地上の遠く離れた無人の場所に行ったとしても、神の霊はそこにおられます。彼から逃れることはできません。彼は私たちを対処されます。私たちは知っています、一人だろうと群衆の中だろうと、神の霊の前では、私たちはまるで神の宇宙で唯一の被造物であるかのようなのです。まるで私たちだけであるかのようであり――他には何もいないかのようです。この霊的生活、このクリスチャン生活は、大いに現実的なものであり、主はこれをそのようにされます。それはそのようにならなければなりません。私たちは神と共に歩まなければならず、神は私たちを対処しなければなりません。七つの目!完全な知識、完全な知性、神聖な御旨の完全な基準です。私たちに対する神の取り扱いはすべてこれに基づきます。そうでないものは欲しくないのではないでしょうか?では主の御前で求めようではありませんか、一方において、十字架が私たちのために開けた道を造りますように、そして他方において、御霊が御業を進めてくださいますように、と。