第三章 王国と小羊

T. オースチン-スパークス

「また、七つの最後の災害が満ちた七つの鉢を持った七人の御使いのひとりが来て、私に語って言った、『ここに来なさい。あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう』。そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」(黙示録二一・九~十一)。

「また御使いは、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民のいやしのためにある。もはや呪いはない。神と小羊の御座がその中にあり、彼の僕たちは彼に仕える。そして彼らは彼の御顔を見る。また彼の御名が彼らの額にある。夜はもはやない。彼らにはともし火の光も太陽の光も必要がない。主なる神が彼らを照らすからである。そして彼らは永遠にわたって支配する」(黙示録二二・一~五)。

「長老の一人が私に言った、『泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物と七つの封印を開くことができる』。私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た。それには七つの角と七つの目があった。それは全地に遣わされた神の七つの霊である」(黙示録五・五~六)。

神の御旨――朽ちることのない命の統治

前の黙想では、それに向かって神が初めから働いてこられたことを見せている御言葉の箇所を見ました。そこに示されている命と豊かさの状況が、神がこれまで被造物に対して抱いてこられた御旨です。それは彼の宇宙全体を統治する朽ちることのない命です。それこそ、神がご自身のすべての活動の目的としてこられたものです。しかし、罪を通して死と腐敗が入り込んだため、戦いが生じました。神の御旨の実現は、昔も今も、激しい恐るべき戦いと霊的戦争の問題です。そしてその領域の中に、私たちはこの言葉すなわち主イエスのこの御名――小羊――と小羊の血とに関係する一切のものを導入しました。

黙示録五章から読んだ節はすべての基礎です。そこに示されていることは、神が御旨に到達するための基礎です。二一・二二章に示されているあの輝かしい状態に至るための基礎です。その状態とそれが完全に意味するものは、神の小羊を通して実現される神の王国です。その実現は、この世界やこの宇宙がこれまで見たことのないような最大の勝利です。それは小羊の勝利です。しかし私たちは、それが意味するところをもう少し明確にはっきりと見る必要があります。

ご存じのように、マタイによる福音書は王と王国の福音書です。王国の知らせが布告され始めますが、王が紹介されて王国の知らせが発せられるやいなや、別の王国が反対して立ち上がります。王と王国の知らせが紹介された末に、王は十字架につけられ、王国は沈黙させられたかのように見えます。しかし、黙示録はそれとは全く別の面を私たちに見せます。十字架上での王の死と王国の福音に対するこの反対は敗北や災いを意味するものではなかったことを私たちに示します。それは最も栄光ある勝利だったのです。小羊が勝利されました。そして、小羊のこの力強い単独勝利のおかげで、教会が生み出されました。死と地獄、サタン、そしてこの世に勝利するとただちに、小羊は御座に引き上げられて、教会が起こされます。その使命が始まります。その性質と同様に、その使命は小羊の勝利から発します。教会も小羊のおられる所に至ること、小羊の血と証しの言葉のゆえに勝利することを、教会は証しします。

さて、要点はこうです。王国の実現、すなわち確実に到来することになるこの輝かしい状態の実現――なぜならそれは御座におられる小羊によってすでに確保されているからです(彼は御座におられます。御座に着こうとしているのではなく、今そこにおられるのです)――、被造物に対するこの普遍的状態の実現は、あの十字架の意義がすべての領域で適用されることによります。さしあたって、十字架――つまり小羊と小羊の血の意義――が適用される最初の領域は教会であることを見たいと思います。教会は、すでに述べたように、小羊の勝利から発します。教会はその証しと共にその道を進み始めます。小羊は勝利されました。そして、教会は小羊の血による勝利の立場に基づいてこの宇宙のすべての敵対勢力を対処します。しかし、これは教会にとってたんなる客観的なことではありません。つまり、それは外面的なもの、見たり、観察したり、考慮したりする対象ではありませんし、どこかに――おそらくは天に――あるものとして信じて、教会の信条や教会公認の教義声明を形成する対象でもありません。いいえ、これはそのようなものではありません。これは、キリストのからだである彼の教会のすべての肢体の生活のまさに中心に直ちに働くべきものなのです。私たちは新たに基礎に立ち返る必要があると私は感じています。基礎が実際に据えられていない人が、主の民の中に依然として大勢います。私たちは基礎に立ち返る必要があると私は確信しています。なぜなら、それは勝利の秘訣だからです。私が言っているのは、主イエスを信じるあなたの信仰の基礎が据えられていないということではありません。私たちの基礎を成しているものを見なければならないということです。それは平均的なクリスチャンの認識・理解を遥かに超えたことです。

ですから、王国と、私たちが受け継ぐことになる王国の到来とについて話すのは素晴らしいことですし、「あなたの王国が来ますように」と祈ること、王国と王国の到来する日についての偉大な知的観念を持つことも素晴らしいことなのですが――他方において、主イエスは「王国はあなたたちの内にあります」とも言われました。王国はそこから始まります。まもなく王国を継ぐことになると確信するには、私たちは自分の内にある王国が何を意味するのかを知らなければなりません。私たちの内にある王国は、力強い勝利の確立を意味します。あなたはこの書のよく知られている十二章の次の御言葉の意味を理解しているでしょうか?「そして、天では戦いがあった。ミカエルとその御使いたちが、龍と戦ったのである。龍とその使いたちは戦った。しかし、彼らは勝てなかった。そして、天にはもはや、彼らの場所はなくなった。こうして、その大きな龍、あの古い蛇、『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれる者、全地を欺く者は、投げ落とされた。彼は地に落とされ、その使いたちも彼と共に投げ落とされた。また私は、天で大きな声がこう言うのを聞いた、『今、私たちの神の救いと力と王国と、彼のキリストの権威とが来た。私たちの兄弟たちを訴える者、昼も夜も私たちの神の御前に彼らを訴える者が、投げ落とされたからである』」(黙示録十二・七~十)。

今、王国が来ました。今、神のキリストの権威が来ました。王国の福音書であるマタイ書は、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている、だからあなたたちは行って……」という御言葉と共に閉じます。「今、神のキリストの権威が来ました。今、王国が来ました」。いつでしょう?教会があの勝利の中に入る時、小羊が浴しておられる益の中に主の民が入る時です。この黙示録十二章では、あの団体的な群れである男の子が御座に引き上げられるのを目にします。今、王国が来ます!王国は小羊が御座におられるだけでは実現されません。教会も御座に着くことによって王国が実現されるのです。その時、王国が完全に到来します。これが、王国の福音が教会に委ねられた理由です。しかし、王国の福音は、すでに見たように、直ちに恐るべき戦いを引き起こします。

朽ちることのない命の王国に対する戦い

しかし、この戦いの性質はどのようなものでしょう?それは一般的な霊的圧力や戦いかもしれませんが、私たちはそれについてよく知っています。それは外側からの迫害や苦難かもしれません(教会はこれをよく知っています)。しかし黙示録を開くと、復活した主がこの地上で表現されている教会を対処しておられるのを見いだします。教会(ここでは七つの教会に代表されています)への主の来臨は、教会の敗北とサタンの勝利を意味するものに立ち向かうためでした。勝利を覆すものは何か、勝利する力をサタンに与えるものは何か、主の民である教会のだれか一人あるいは複数人が敗北することは何を意味するのか、といった問いを発するときは、外側ではなく内側を見なければなりません。

サタンが神の民に対して力を持つのは、神の民がサタンに力を与える範囲に限られることを思い出してください。つまり、彼らの中にサタン自身からのものがある場合に限られるのです。まさにそこに十字架が適用されなければなりません。一言で言うと、こういうことです。ある基本的なこと、ある基礎的なことがなされないかぎり、私たちは今もこれからも、神の全き御旨の完全な実現に向かってたいして進めないでしょうし、力・勝利・命・栄光の地位につくことも、効力や霊的豊かさを持つこともないでしょう。主イエスの十字架が、私たちの古い性質・旧創造・それが意味する一切のもののまさに中心に、植え付けられなければなりません。それが何を意味するのかを見いだすには一生かかるでしょう。

あなたも私も、旧創造が何を意味するのか、いくつかのことでしか知りません。しかし人生の最後に至るまで、燃える炎のような目の下で、私たちは旧創造が何かをさらに発見することになるでしょう。しかし、それを一度にすべて知ることはできませんし、それを見いだすには一生かかるとはいえ、明確な転機、すなわち十字架の転機を実際に迎える必要があります。その転機では、十字架について自分が信じていることや十字架について教わっていることを教えとして受け入れるだけでなく、自分の内に何かがなされます。旧創造のまさに背骨を折って真っ二つにするようなことがなされるのです。

旧創造は十字架によって滅ぼされる

手足が折れるとどうなるかはご存じでしょう。実際に手足が折れたら、何ができるでしょう?それを支配する力もなければ、制御することもできません。それで何かをしたくてもできません。それに指示する力、それを支配する力、使用する力をすっかり失います。力はなくなりました。さて、これを背骨に、脊柱に当てはめてみてください。脊柱は、あなたの骨格全体、体格全体を支えているものです――背骨が折れたらどうなるでしょう!そんな状態では、体のどの部分もどうしようもありません。折れているのです。あなたの骨がすべて折れているわけではありません。依然として無事な骨がたくさんあることがわかります。しかし、屋台骨が折れています。主要な力が対処されています。自分の存在のまさに中心で何かが起きたことがわかります。なおも折られるべき多くの骨があるかもしれませんが(主は私たちの骨をすべて折ろうとしておられます。あの旧創造のすべての骨を折って、無力で機能できないようにしようとしておられます)。神は、私たちの旧創造の命の中心的力の上に指を置いて、それに触れられました。

主がこれを行われたことがわかる一つの証拠は、自分が動けない領域、あえて触れようとしない領域、あえて用いようとしない能力があることです。あえて取ろうとしない道がありますし、仮に可能だとしてもあえて送ろうとしない生活があります。これはヤコブのもものようです。主は、ヤコブに力がある時、彼に自信があった時に、ヤコブのももの筋に触れられました。触れたのは神の指だけであり、神の強大な力ではありませんでした。一度触れただけでしたが、それで十分でした。ユダヤ人は、その日から今日に至るまで、正統派なら、決してその部分を食べません。それは神の禁忌の下にあります。そのももは力、天然の力、旧創造の力の象徴です。神はその上に指を置かれました。そしてヤコブは、その日から亡くなる日まで、杖に寄りかかって歩きました。そして、亡くなる日に彼が息子たちを祝福した時、彼は杖の上にもたれて祝福したと言われています。ここに、神が彼の力であるももに触れられたがゆえに、死の床まで足が不自由だった人がいます。

そして、これが旧創造です――これがヤコブです。もともと、私たちはみなヤコブです。十字架は、私たちの天然の命の力が接触を受けたことを意味します。ああ、私は罪の力のことを言っているのではありません!私が言わんとしているのはそういうことなのですが、もし私がそう言おうものなら、あなたは罪のことを考え始めるでしょう。ああ、確かに、それは罪(単数形)であり、罪々(複数形)なのですが、もっぱら、ひとえに、それは私たちのことであり、私たち自身のことなのです。それは、神聖なことに自分自身の天然の力を用いることです。

この基礎となる節を見ると、これが象徴によって鮮明に示されていることがわかります。ここに裁き、すべての諸国民の裁きの巻物があって、七つの封印で封印されています。この巻物は開かれなければなりません。諸国民は裁かれなければなりません。しかし、誰がこの巻物を開くのにふさわしいでしょう?誰にその権利があるでしょう、誰が諸国民を裁くのに道徳的にふさわしいでしょう?先見者は言います、その巻物を開いて、宇宙のこの状況全体、この腐敗、この不法、この罪、この悪を対処するのにふさわしい者がだれも見つからなかったので、彼は激しく泣いた、と。ああ、その衝撃力を理解してください!神が物事を対処されるのは、彼が主権を持つ神だからではありません。いいえ、罪と不法を対処するには、ある道徳的状態が必要なのです。そしてそれは、誰がそうするのにふさわしいのかという問題です。誰が、被造物の中のすべての人に向かって、「さあ、裁きに来なさい!」と言う立場に道徳的にあるのでしょう。「その巻物を開き、その中を見るのにふさわしい者が一人もいなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老の一人が私に言った、『泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物と七つの封印を開くことができる』」(黙示録五・四、五)。

先見者は「ユダ族の獅子!」という言葉を聞きました。これは権能です!大能です!力です!偉大さです!威厳です!六節「私は振り返って見た……」――自分の目が信じられません。ユダ族の獅子ですって?「私はまた(中略)ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た」!

主イエス――勝利者

神の御霊によるこの意図的な形象の変化は、一つの目的、一つの狙いのためです。力の秘訣は何でしょう、力の性質は何でしょう、打ち勝つための能力は何でしょう?私たちの命、打ち勝つ命、勝利の命、栄光と豊かさの命となるべきものは何でしょう?獅子たる自覚、獅子のようにすべてに処することでしょうか?いいえ、天然の力と能力をすべて滅ぼす十字架の意味を知ることです。私たちの内におられる主イエスご自身が勝利者であることを知ることです。主イエスだけが勝利者です。それ以外の人はみな、勝利者である方が自分の内におられるがゆえに、勝利するのです。

これは次のことを意味します。すなわち、主イエスが私たちの中で、また教会の中で、真にここに示されているような存在になるには、同じことが私たちの中にも起きなければならないのです。彼はご自身を空しくして、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました。あなたも私も彼がそうなさったほどに自分を空しくすることは決してないでしょうが、それにもかかわらず、自己の力、自己の意志、自己の評価、自己の利益、自己の願望、自己の理屈を、実際にすべて捨てなければならないのです。

旧創造の総計である自己はサタンの力であり、サタンがあなたや私の内にこの自己を見いだすとき、彼は勝利者になります。サタンが打ち負かされて投げ落とされ、内側に王国が到来するには、自己は折られなければなりません――自己のまさに背中を折られなければなりません。ああ、この先、自己の多くの他の肢体も触れられることになるでしょうが、自己の背骨を折られることが必要です。私があなたに尋ねたいのは、「あなたは救われていますか?」ということではありませんし、「あなたは主イエスを信じていますか?自分の罪が赦されたことを知っていますか?自分は神に受け入れられていることを知っていますか?」ということでもありません。そうではありません。私たちは皆、それを享受しているかもしれませんが、神の御旨の中には、たんに私たちを罪と地獄から救って私たちの罪を赦すことを無限に上回る、偉大な目的があるのです。それは王国です。あなたも私もそれが意味するもの――王国――についてまだ学んでいません。「彼らは永遠に支配する」。

王国とは何でしょう?ちょっと立ち止まって考えてみましょう。エペソ人への手紙が私たちにはっきりと明示しているように、この現在の地上やその周囲、地上と天上の間の空間には、悪の霊の勢力が住んでおり、この世界全体が彼らによって国々や区画に分けられています。それらの国々や区画は、ひとりの悪の君によって支配されており、その下には副王たちと、それから無数の悪の霊の軍勢がいます。パウロはそれを、「主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる悪の霊の軍勢」と呼んでいます。これはこの世界を取り巻くサタンの王国です。この世界で起きていることから見て、この現実を疑う人はだれもいないでしょう。ああ、それは大いに現実的なものです。地上の出来事の霊的背景です。たんに邪悪な悪人たちが好き勝手にやっているだけではありません。その背後にはある勢力がいるのです。

特定の人々が権力の座に登って、その言葉によって世界を支配することは、たんなる天然的な理由では説明がつきません。それは驚くべき超自然的なことです。それは反キリストの霊と力です。神の御言葉によると、それは北から連合して押し寄せていることがわかります。それはサタンが促し、生み出し、維持しているものであり、きわめて驚異的な、思いもよらない、意外なことが起きます。世界のあらゆる政治家の機知や知恵は、すべて無に等しいです。そうです、この背後には、地獄そのものに由来する奸計や不法が潜んでいます。それはサタンの王国です。それが旧創造の世界の不敬虔な人々の王国の中で支配しています。王国とは支配であって、たんに救われることや、たんに主に属する者となることではありません。王国を持つことであり、統治の地位を持つことであり、王座に着くことです。これを霊的に解釈すると、それが霊的主権であり王国なのです。

小羊の性質

さて、神のみこころ・御旨に至るのは小羊の道によります。小羊は、あらゆる天然の力の正反対です。さて獅子についてですが――獅子と言えば何が思い浮かぶでしょう?何か恐ろしいもの、獰猛なもの、強大なもの、力を誇示するものが思い浮かびます。ああ、そうです、それが自然な見方です。しかし、神の考えはこうです。すなわち、神の獅子は小羊であり、しかもほふられたばかりのような小羊なのです。それは主イエスの死と復活による勝利です。そして、彼の死は私たちの死でもありました。彼の死はあなたの死でもありました。イエスはあなたのために、また私のために死なれた、ということだけではありません。御言葉は私たちに次のことを大いにはっきりと教えていることを思い出してください。すなわち、彼は私たちのために、私たちに代わって死なれただけでなく、私たちとして死なれたのです。彼が死なれた時、神の考えによると、私たちも死んだのです。どれほどこれをよく知っていたとしても、決してこれから離れたり、当然視したりしてはなりません。

私たちの中に十字架のこの御業がなされなければなりません。私たちの天然の命の力を実際にすべて打ち砕く御業です。それは、霊の事柄で自分の天然の力が使えなくなるためです。私たちはこれを知っています。そうしようとしても、御霊がそれを拒まれることがわかります。それは死であることがわかります。私たちは惨めな時を過ごして、遅かれ早かれ、「これを赦して、清めてください」と主に求めなければなりません。私たちは十字架の背後にある旧創造に触れたのであり、神は「だめです!」と仰せられます。

あなたの存在の中心はこのように折られたでしょうか、真に折られたでしょうか?私が何を言っているのかわかるでしょうか?もしわからないなら、この問題について主と交渉してください。これがなされないかぎり、敵は事態を混乱させ続けるでしょうし、どこまでも自分の力を誇示し続けるでしょう。私たち一人一人が、主イエスの十字架が示す神の禁忌を知らなければなりません。十字架は天然の命に向かって、「絶対にだめです!」と告げます。

私たちが自分自身の考えにしたがって議論しだすたびに、また、自分自身の願いにしたがって、自分の思いどおりに物事を操作しようとするたびに、神の御霊は十字架を持ち出されます。私たちは自分の意志にしたがって、物を手に入れ、持ち、指示し、支配しようとします。それは死であり、私たちはそれを自覚します。ああ、これらのことは大いに現実的です!死が霊的にどのようなものか、私たちは知っています。神の禁忌の下にあるものを内的な方法で知るよう、神の民は教育される必要があります。

この転機により、私たちの天然の命のまさに中心を砕かれて折られることにより、主は私たちを全くみこころに適う者にすることができます。その時から、私たちは開かれた天の意味を知るようになります。天が開かれたのは、神の小羊がヨルダン川とバプテスマの水に下って行かれた時でした。そこで彼は、ご自身が十字架に行って死んで復活することを、予型的に宣言されました。その時、天が開かれ、御霊が彼を照らし、神の王国に関することがすべて始まったのです。彼はすでに御霊の中で天上とつながっていたのです。

バプテスマを受ける時、私たちはこう言います、「神の観点から見た主イエスの十字架の意義を、私は自分に関するかぎり、すべて受け入れます。『私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私ではなく』ということをそれは意味することを私は理解しています。もはや私の望み、私の好き嫌いではありません。今やキリストです。私の姿勢、精神、態度は小羊です……神に明け渡されています」。「彼は小羊のようにほふり場に引かれて行った」。しかし、彼を小羊にしたのは人々だったのでしょうか?彼はサタンに対して小羊だったのでしょうか?いいえ、決してそうではありませんでした。彼は神の小羊でした。これは何を意味するのでしょう?神のみこころに対する明け渡しです。ああ、ハンマーも釘もローマの兵士も、彼を十字架につけるには力不足でした。彼を十字架につけたのは神のみこころでした。ローマの軍団ではキリストを十字架につけられなかったでしょう。決してできなかったでしょう!「わたしがわたしの父にお願いして、御使いたちの十二軍団以上を、直ちにわたしに送っていただくことができないとでも思うのか?」。ひとりの御使いがセナケリブの軍隊に何をしたのかを思い出すなら、十二軍団で何かできるのかは想像がつくでしょう。イエス・キリストを十字架につけられるものは、神のみこころをおいて他に、この宇宙に何もありません。これが小羊です――神のみこころに明け渡されているのです。

主が私たちの心に新たな方法で御言葉を伝えてくださいますように。すぐにそこに戻って、すべての基礎を認識してください。御座と王国の基礎は小羊なのです。