「また、七つの最後の災害が満ちた七つの鉢を持った七人の御使いのひとりが来て、私に語って言った、『ここに来なさい。あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう』。そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」(黙示録二一・九~十一)。
前回の黙想では、小羊に関する王国について考えました。つまり、被造物における完全な勝利の命によって表される主の勝利についてです。この勝利は「小羊」という名称が意味するところのものによります。この黙想では、教会と小羊について一言述べる必要があります。「私はあなたに小羊の妻を見せよう」。再び基礎的で単純ではあるものの、きわめて重要な点は、この教会の問題です。教会はここでは花嫁、小羊の妻、聖なる都エルサレムと呼ばれています。
これまで繰り返し強調してきましたが、この黙示録二一・二二章が見せているのは、あの御旨・御目的です。それは神が常に取り組んでこられたものであり、これまでも、そして今も、それに向かって働いてこられたものです。私たちが、真理としてではなく、客観的な関心事としてでもなく、自分に対する神の御旨・神のみこころと非常に深い関係にあるものとして、心の目で真に見るべきものは――それは、神が御旨に到達される時、神が代々の時代にわたってずっとそのために働いてこられたものを真に獲得される時のことであり、それが象徴的な言葉で示されています――つまり、聖なる都、新しいエルサレム、花嫁、小羊の妻です。それについて多くの言葉を費やすまでもなく、つまりは、神が目指しておられるのは彼の民の団体生活なのです。それが一つの言葉・一つの呼称によって示されています。この団体生活はとても親密であり、その一体性においても、それ自身においても、妻・花嫁としての彼との関係においても、いたって完全です。これはクリスチャンの数以上の問題であり、多くの人が救われること以上の問題です。これは多くの救われた人が会衆として共に集まること以上の問題です。それよりも遥かに奥深い問題なのです。
時計の鎖を例に挙げることができます。ある意味で、それは一まとまりのものです。それはとても良いものかもしれませんし、金でできていて、真に価値のあるものかもしれません。しかし、それは別々の輪が互いにつながったものであり、その一つの輪を取り出して、その場所に別の輪を挿入しても、鎖は少しも損なわれません。しかし、教会はそうではありません。生きた花の茎を取ってその一部を切り出すことは、鎖の中から輪を一つ取り出す以上のことです。命を断ち切って、その有機体の動脈を切断してしまいます。切り出された部分があった所に別の何かを戻しても、再び全体を生き返らせることはできません。教会、花嫁、小羊の妻は、鎖のようなものではありません――多くのクリスチャンが共につながったものではありません。花嫁が小羊の妻であるのは、彼女がまさに小羊の命にあずかる者だからです。エバがアダムから取られたように、彼女はまさに彼の存在によって構成されています。
神はご自身の法則や原則にとても忠実です。アダムを造ったように他の別の存在を造って、その別の存在をアダムに手渡して、「これがあなたのための連れ合いです!」と言うことも、神にとってはいとも容易なことだったでしょう。しかし、そうではありませんでした。神聖な真理の提示によると、妻であるエバはアダムの一部でなければなりませんでした。アダムから取られて、人としてまさに彼の命と実体を共有しなければならなかったのです。
この御旨に向かって神は働いてこられました。そして、前回の黙想で王国について述べたことは教会にも言えます。王国は強力な勝利です。それは命の統治であり、死に対する小羊の力強い勝利の結果です。この黙示録に見られるように、敵の不法の勢力・サタンの勢力は一斉に蜂起して、あの新創造を妨げようとしますが、これは教会にも言えます。なぜならこの都は、結局のところ、全体の代表にすぎないからです。それは全体に対する神の御旨を代表します。教会は神の御旨全体を代表します。そして教会に対して、ハデスの門は打ち勝とうとします。新約聖書で主が教会に初めて言及された御言葉は戦いを示唆します。「わたしはわたしの教会を建てます。ハデスの門がそれに打ち勝つことはありません」。神はほむべきかな、これはそのとおりであることが小羊において実証されました。というのは、教会のかしらとして、彼は黙示録の冒頭で教会に臨んで、「わたしは生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている。そして、死とハデスの鍵を持っている」と述べておられるからです。彼は教会の大敵である死の要塞を襲撃し、悪魔から権威を、権威の象徴である鍵を奪われたのです。
教会における小羊の性質
しかし今、教会のかしらである方、花婿に言えることが、その肢体たち・その花嫁・その妻にも言えなければなりません。教会は小羊のあの力強い勝利にあずからなければなりません。そして、あの勝利は特に団体生活と関係しています――これを覚えておいてください!花嫁、小羊の妻、天のエルサレム、最後に神の栄光を持つことになる、これらすべての神聖な特質によって特徴づけられている都の存在は、力強い勝利です。何に対する勝利でしょう?主の民を分裂させようとする敵の力、悪意、絶え間ない企てに対する勝利です。もし敵が神の民の団体生活を覆して損なうことができれば、教会に関する神の御旨を打ち破ったことになります。だから、敵はこの狙いのために働くことをやめないのです。今、神は、ご自身の民が団体的・有機的生活の法則を理解してそれにしたがって生き、一つ命を表すようになるよう、心を尽くして働いておられます。この命の最高の表れは愛です。
小羊の妻であるこの都では、この二つは同行していることに注目してください。その象徴はとても美しいです。黙示録二一章では、都の大通りは純金だったと述べています。新しいエルサレムには、一つの通り、一つの道、一つの大通りがあるのみです。二二章には、「大通りの中央には命の水の川があった」とあります。金とは何でしょう?ああ、それは神の愛です。神の性質です。神は愛です。それは私たちの内で成就された神の愛です。この比喩をパウロは変えています。彼は、愛の中で自らを建て上げるからだについて述べています。ヨハネは都の絵図を用いています。絵図は異なりますが、原則は同じです――愛によって構成されているものです。そしてその中央に、命の水の川があって、その両側には命の木があります。命と愛――花嫁、小羊の妻、都、教会の中心的な基本的特徴です。
神はこれを目指しておられます――多くの救われた人を、何らかの外面的方法で互いにつないで一つの鎖のようにすることを、目指しておられるわけではありません。クリスチャンたちを外面的に一緒に結び合わせるものがたくさんあります。いわゆる「交わり」があります!外面的なものにすぎず、外面的なものや場所や教えと関係しているにすぎないすべての「交わり」を、主があわれんでくださいますように。クリスチャンたちを集めて、一種の鎖へと形成するものがたくさんありますが、それは違います。適切ではありません。そうではなく、大事なのは内側であり、有機的な命です。神は、多くの個々のクリスチャン、救われた人々を得ることでは、たとえ彼らがこの地上にあるものによって互いにつながれていたとしても、満足されません。主はご自身の民の間に、愛と真の交わりの中で働く一つの命の表れを見ることを願っておられます。それが神の御旨であり、神の御目的です。しかし覚えておいてください、これこそ龍・蛇・サタン・悪魔が常に損なおうと焦点を合わせているものなのです。
さて、「花嫁」、小羊の妻という言葉の意味を見てみましょう。ほふられた小羊、戦う小羊、勝利する小羊、御座で勝利している小羊を目の当たりにします。小羊のこの働きはすべて何のためでしょう?なぜほふられたのでしょう?なぜ戦うのでしょう?なぜ勝利するのでしょう?この一つ(oneness)を得るためです。サタンの大きな働きは分裂、分派、争い、戦争、戦い、諸々の要素を相争わせること、混乱、無秩序、混沌、不和です。これらはみなサタンの働きです。戦争は彼から来ます、争いは彼から来ます。地上の教会の歴史は痛ましい物語です――その方面におけるサタンの働きの歴史です。
教会における合一
小羊はカルバリが象徴するところをすべて意味します。彼がご自身をいけにえとしてささげて死なれたことが意味するところをすべて意味します。そうです、ほふられて血を流された小羊に見られるものはみな、次の目的のためです。すなわち、花嫁、小羊の妻、キリストの団体的存在のためです。それはキリストが孤独な存在ではなく、団体的存在を持つためです。この絵図はアダムにも当てはまります。「人が一人でいるのは良くない」と主は言われました。アダムは来るべき方の絵図だった、という御言葉を覚えておられるでしょう。その本体であるキリストを見ると、まるで御父は「人が一人でいるのはよくない」「彼に妻、花嫁を造ろう。彼が団体的存在を持つために」と言われたかのようです。天が歌で満たされて、「私たちは喜び歓喜しよう(大いに喜ぼう)(中略)小羊の婚姻の時が来たからである」と述べたその日ほど、天が歓喜に包まれる様子はありません。ちなみに、黙示録を時系列で読めないのはこのためです。というのは、まだ結婚していない小羊の妻がこの書の最後の方に出てきますが、そのずっと前に小羊の婚姻について記されているからです。これはついでの話ですが、要点は、この一つ(oneness)を得るにはカルバリが意味するすべての代価を要したということです。カルバリはこの団体生活の代価であり、この団体生活は十字架のあの力強い働きと、そこで小羊によって成就されたあの力強い勝利の結果なのです。
私は、これが主からのメッセージとして、あなたたちの心に真に臨むように願います。わずかばかりのさらなる教えとしてではなく、真のメッセージとして臨むように願います。ああ、常に覚えておこうではありませんか、分裂、分派、争い、不和、孤立を生じさせるものはみな、カルバリに反し、小羊に反し、神の御目的に反するものなのです。これを覚えておきましょう。私たちは孤立することはできません。キリストのからだの法則を無視したり、見過ごしたりすることはできません。神とキリストに逆らって働くことなく、団体的存在の原則に従うことを拒むことはできません。
もしあなたや私が、キリストのからだの団体的法則のすべての表現形態に従う以外のことをするなら、私たちは神の御旨に逆らって働いて、小羊の血を無に帰すことになります。それを無効化することになります。これにあなたを支配させてください、これをあなたの心に実際に問うてみてください。「何らかの形で私は、団体生活・キリストのからだという真理・現実を認識していないのではないでしょうか?自分が自分の法律になっていないでしょうか?自分の道を取っていないでしょうか?自分自身の判断にしたがっていないでしょうか?聖徒たちの判断を無に帰していないでしょうか?主がご自身の教会に語っておられるということを認めようとしていないのではないでしょうか?」と。ああ、団体生活はなんと様々な形で働くことか!その数はなんと多いことか!しかしもし、何らかの形で、あなたや私がこの法則に違反するなら、この御旨――それに向かって神は働いておられますし、それに神は御心を据えておられます――に逆らって私たちは働くことになります。そして、カルバリの成果であり、小羊が大事にしておられるこのことが、その程度に応じて無に帰されることになります。
これはとても厳粛な言葉ですが、とても重要で、とても大事な言葉です。主は私たちにこれを認識してほしいと願っておられるように感じます。これはとてもとらえがたいものだからです。団体生活の諸法則を常にはっきりと意図的に破っているとはかぎりません。時としてそれは変装して潜り込みます――ああ!「良い」ように思われるあらゆる種類の事柄を装って潜り込むのです。その効果に目を向けて、その効果によってすべてを検証しようではありませんか。それは命の一つ(oneness)や私たちの愛に逆らって働いているでしょうか?もしそうなら、「ここに光の天使を装ったサタンがいます!」というラベルをそれに貼ろうではありませんか。
按手は、からだは一つであるという偉大な輝かしい事実に対する私たちの証しです。この一つは十字架の成果です。バプテスマとバプテスマの水は、カルバリ、死、葬り、復活の型です。それに続くものは何でしょう?常に、必ず、教会がその次に来ます。ですから、死、葬り、復活、崩壊と腐敗の中にある全旧創造に対する主イエスの勝利に対する証しの後に、新創造が現れます。キリストのからだである教会が現れます。それはあの旧創造の正反対です。ここに混乱や不和はありません。争い、混沌、無秩序、不法はありません。
それは歴史に反する、とあなたは言うかもしれません。しかし、霊の領域では真実です!からだは霊の領域では一つです。キリストご自身は分けられていません。私たちは一つです、キリスト・イエスにあってみな一つです。私たちはその証しのために立っています。からだの一つを証しする時、私たちはカルバリの勝利を証しすることになるのです。
これを小羊による新たな要請としてあなたの心に刻み込んでください。「キリストは教会を愛して、彼女のためにご自身をお捨てになりました(中略)それは、しみやしわや、そのようなものが何もない、(神の栄光を持つ)栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです」(エペソ五・二五~二七)。これが教会です。どうか主が、この花嫁のために、この地上でも表されるこの団体的・有機的生活のために、立って戦う恵みを私たちに与えてくださいますように。そうなりますように!