第一章 聖霊に満たされる必要性

T. オースチン-スパークス

「主はモーセに語って言われた、『見よ、わたしは、ユダの部族に属するホルの子であるウリの子ベザレルを名指しで召した。わたしは彼を神の霊で満たして、知恵と理解力と知識とあらゆる種類の技量を持たせ、巧みな設計をさせ、金と銀と青銅の作業をさせ、宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、あらゆる種類の細工をさせる』」(出エジプト三一・一~五)。

「しかし、あなたたちは選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民、特別な民です。それは、あなたたちを暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の美徳を、あなたたちが告げ知らせるためです」(一ペテロ二・九)。

「それは神が、キリスト・イエスを通して、私たちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において示すためでした。なぜなら、あなたたちが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたたち自身から出たものではなく、神の賜物であるからです」(エペソ二・七~八)。

私たちは、主に導かれているように感じるので、聖霊の極度の必要性の問題に専念することにします。また、聖霊と、私たちが生きているこの時代におけるその御業とについての新鮮な知識の極度の必要性の問題に専念することにします。聖霊の御業のさらに独特な特徴に迫ることも必要でしょうが、しばらくの間は、この経綸の教会における聖霊の臨在の目的――包括的なすべてを網羅する目的――について、再び取り上げることにします。それは、もちろん、主の民である私たちに対する試金石ですが、同時に、主から最高・最大・最善のものを期待すべきであるという最大の励ましでもあります。

さて、この出エジプト記三一章三節を読んだのは、幕屋に少し触れるためです。その前の章は、幕屋のあらゆる詳細で占められていることがわかります。二五章で、主はモーセに、「心から喜んでする者はみな」ささげ物を持って来るようにイスラエルの子らに告げること、次に「ささげ物(単数形)を受け取る」ことを命じられました。単数形で述べられているのは、受け取った物は複数のささげ物ではなく一つのささげ物を形成するものだったからです。この一つのささげ物には多くの面、多くの部分がありました。これらのことがこの章で述べられており、示されています。次に、この幕屋を造るための指示が、その後の章で三一章に至るまで与えられています。この章では前に戻って、神の御言葉や動きを振り返っています。この働きを行うには、まず、神に選ばれて、この働きのために特に神の霊で満たされた僕が必要でした。そこで、ベザレルが任命されました。主は、「見よ、わたしは名指しで召した(中略)わたしは彼を神の霊で満たした」と言われました。さて、なぜこれが必要だったのでしょう?理由は単純で、幕屋はキリストの栄光を示すためのものだったからです。幕屋は、細部にわたって、ごく微細な点に至るまで、主イエスとその栄光とを明らかにすべきものでした。すべてが彼を物語り、示し、宣言すべきものでした。聖霊だけがこれをなすことができます。ですから、聖霊の特別な賦与と特別な指導に驚く必要はありません。それは、この幕屋のすべての部分が神の御思いを完全に表現するためでした。なぜなら、ここでは御子に関する神の御思いが具体化されるのであり、「神の霊」と御霊がこれらの御思いを啓示される者「以外に神の御心を知る者はいない」からです。

御霊だけが、主イエスについての、神の御心どおりの正しい適切な理解を持っておられます。ですから、ベザレルは神の霊で満たされなければなりません。それは、幕屋のすべての作業において、主イエスに関する神の御思いが適切に表現されるためです。人間の判断に委ねられているものは何もなく、人の考え・能力・観念・推測・案配・理解・価値基準に委ねられているものは何もありません。この問題では人に任されているものは何もありません。神にとって、この時代の教会についてはなおさらです。神の事柄には、人の考えのための余地は全くありません。神はもともと、教会の中に人のための余地を決して残しておられません。神は、ご自身の御思いを十分かつ完全に啓示するために、ご自身の空間を聖霊によって満たされました。ですから、この神の原型、この神の計画を執行するにあたっては、一人の僕が必要でした。その僕は、外的に聖霊によって動かされたり助けられたりするだけでなく、文字どおりあらゆる点で神の霊に満たされていなければなりませんでした。「あらゆる種類の技量」とあるように、主がこれに関してどれほど明確で綿密であるのかがわかります。その僕の設計は聖霊によるものであり、彼の切断、彫刻、すべての働きは聖霊すなわち神の霊によるものでした。それは、すでに述べましたが、幕屋はキリストの栄光を示すべきものだったからです。

さて、私たちはこれを一ペテロ二・九と結びつけました。「それは、あなたたち(私たち)を暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の卓越性を、あなたたちが告げ知らせるためです」。ペテロは現在の事柄を取り扱っています――彼が示している真理の面は教会の現在の巡礼です――しかしパウロは地上と現在の巡礼を超えて、天の教会を見ています。そして永遠を包含して、来るべき時代に関して次の御言葉を述べています。「それは神が、私たちに対する彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において展覧するためでした」。ですから、この思想は一貫しています。出エジプト記に示されているこの思想は、ペテロやパウロの思想でもあります。思想は一つです。すなわち、主イエスの栄光と卓越性を示し、啓示し、展覧することです。どの事例もこの一つの真理が根底にあります。すなわち、聖霊がそれをなすことが絶対に必要であり、聖霊がそうできるようになるには、当事者らは御霊に満たされなければならない、という真理です。これがエペソ書に記されています。彼の卓越した豊富と彼の卓越性とを展覧することは聖霊によります。そのために聖霊が来臨されたのです。

今、私たちは自分を見て、彼の卓越性がほとんど表れていないことをきっと嘆いていることでしょう。そして、この要求について、おそらく不安と絶望とをもって、熟考していることでしょう。しかし、元気を出そうではありませんか。たとえ私たちが自分の望まない者であり、自分の望む者ではなくても、聖霊はこの御旨のために来臨されました。聖霊の使命はキリストの栄光を表すことです。しかも、聖徒たちから離れてではなく、聖徒たちにおいてまた聖徒たちを通して、キリストの栄光を表すためです。聖霊が聖徒たちの中に来臨されたのは、聖徒たちが自分たちを暗やみから驚くべき光の中へ召してくださった方の卓越性を展覧するためです。ですから、ここに私たちの希望、保証、確信、力があります。ここに、これは実現可能であることの確証があります。

神はあなたや私に対してどのような御思いを持っておられるのでしょう?それは素晴らしい御思いであり、実に驚くべき事実です。神は私たちをすべての利己主義、罪深さ、憎しみから救い出して、私たちにおいてまた私たちを通して、御子の卓越性を示すことを望んでおられるのです。これを理解できるでしょうか?信じられるでしょうか?これが何を意味するのかはすぐに見ることになります。しかし、これが私たちに関する神の御思いです。そして神は、ご自身の御思いをあなたや私の内で実現するのに必要な備えをすべてしてくださっています。その備えとは聖霊です。あなたが聖霊の御業を妨げないかぎり、主イエスの卓越性があなたや私から発せられる日がやって来ます――主イエスの卓越性が見えるようになります。示されるようになります。それは聖霊の御業の究極的完成であり、キリストのすべての霊的・道徳的卓越性が私たちにおいて宇宙に向かって公然と示されることになります。この御業は、今、醜い足場の背後で進行しており、私たちは何が起きているのかほとんどわかりませんが、それでも進行中なのです。

神が許された誘惑、試練、逆境、痛み、悲しみはみな、聖霊の活動を促して、私たちの魂を精錬し、純化し、円熟させ、力づけ、照らし、豊かにするものです。その目標は主イエスの卓越性を示すことです。あなたも私も自分自身の霊的向上を把握することはできませんが、これは正しい適切なことです。主はそれをお許しになりません。そして往々にして、別の霊的困難をもたらして、私たちが霊的に高ぶるのを阻止されます。しかし、主は私たちの内で働いておられます。悪魔は、「お前はますます悪くなっているぞ」と言います。ある意味で、私たちは自分がいかに悪いのかをますます見るようになるのですが、実は以前より少しも悪くなってはいないのです。私たちはますます悪くなっているのではなく、ますますそれが見えるようになりつつあるのです。しかし、主は何かをなしつつあります。そして往々にして、私たちの霊的成長と発達のためには、自分の悪さをさらに少しばかり見ることが不可欠なのです。時には、罪を意識することが、まさに栄光への道なのです。

この幕屋を見て、そのあらゆる部分がキリストの栄光を示すべきものであることを認識するとき、もちろん、あなたはその各部を取り出して眺め、キリストのどのような栄光がその中に示されているのかを見たくなるでしょう。出エジプト記二五章に戻って、挙げるささげ物と呼ばれているこの包括的ささげ物について考えてみましょう。注目すべきことに、この言葉は幕屋に適用されています。この言葉がいけにえの一つに適用される場合は理解できますが、印象的なことに、幕屋のすべての材料が主への一つの挙げるささげ物を構成することがわかります。それは、主の前に高く上げられ、主の前に掲げられるべきものであることを意味します。もちろん、これは主の前に示される全きキリストであり、主だけがそれに満足できるものであり、その中に私たちが喜びと楽しみを見いだすべきものです。次に、この挙げるささげ物全体を、つまり、キリストの完全かつ徹底的な表現である幕屋を、言わば分解すると、自分が喜ぶべきものが何かわかります。御父が喜ばれるものが何かわかります。そして、御父の喜びであり私たちの喜びであるキリストの何が自分の内に啓示されなければならないのかがわかります。二五章と初期の面から移ると、この一つの挙げるささげ物のこれらの様々な面や部分がわかります。

最初の三つの材料について思い出してみましょう。青銅、銀、金です。各々の関連を見ると、その意義がわかります。たとえば、青銅の祭壇がありますが、それは神の火が保たれている場所です。そして、青銅は裁きについて私たちに告げます。この幕屋の庭に入る時、真っ先に出会うのがこれです。裁きの問題、罪の裁きと罪人の裁きの問題に直面しないかぎり、あなたはどこにも行けません。そこで神の火が解き放たれ、その働きをなします。この青銅の祭壇において、主イエスの諸々の予型が火の中で、まさに神の裁きの火の中でささげられます。そして、神の裁きの火はそのささげ物の上で燃え尽きて、もはや神の怒りの下で罪人や罪が裁かれることはありません。

さて、これは偉大な教理に関する短い言葉です。しかしこれは、あなたと私において示されるべきキリストの卓越性の一部です。ああ、今日、主の民のなんと多くが、頭上に神の裁きが吊り下がっているかのようにすごしていることでしょう!彼らは、大きな裁きとは言わないまでも、何らかの裁きを依然として恐れています。逆に言うと、キリストによる罪定めからの絶対的解放を、私たち全員が歓喜しているわけではないのです。私たちは歓喜していません。私たちを恐れさせる律法主義の下で縛られています。私たちは告発者の働きを許しています。告発者は、主イエスの血が永遠に処理したものを拾い上げて、それらを用いて私たちを再び罪定めの下に陥らせ、私たちから証しとキリストの栄光の表れを奪い、彼の卓越性を私たちから取り去っています。敵がいかに絶えず神のものを掌握して、自分の用や自分の益に転じようとしているのかは、実に印象的です。

これらの章からわかるように、モーセが山へ登り、神がこの型を彼に与えて、金・銀・青銅・亜麻布・その他すべてのものについて語られた時、モーセが遠くにいたために(あまりにも長いと民が感じたために)、民は反乱を起こしました。実際に、悪魔が入り込んで、神とその僕から独立して一連の行動を起こすように民を挑発したのです。何が起きたのかがわかります。民が最初にしたのは、金・耳飾り・その類のすべてのものを、金の像を造るためにアロンのもとに持って行くことでした。これはまるで悪魔が「神がこの金を得ることはない。自分が手に入れよう」と言ったかのように思われます。神はモーセに、「行って、金の挙げるささげ物をわたしのもとに持って来なさい」と言われました。すると悪魔は「自分がその金を手に入れてやろう」と言い、真っ先に割り込んで神を邪魔しようとしました。この神聖な事柄に関して先手を打って金のささげ物を適切にささげられなくするために、自らそれを奪おうとしたのです。

敵は常に、神の栄光のためであるべきものを奪って自分のものにしようとします。そして神の御怒りの罪定めからの解放というこの問題について、敵は常にこの青銅を、この証しを奪おうとしています。そして私たちを罪定めの下に連れ戻して、礼拝を神ではなく自分自身に向けさせようとしています。覚えておいてください、悪魔の訴えに屈することは降伏することであり、悪魔を礼拝することであり、主から礼拝を奪うことなのです。

主の御前で間違いを正すべきときもあります。私は、罪を無視したり、容認したり、悪行を軽んじたりするべきだ、と言っているのではありません。神のみこころにかなっていないことについて聖霊によって触れられる時、「それは問題ではない」と言うべきである、と言っているのでもありません。それを直ちに正して罪定めから解放されるべきである、と言っているのです。御霊が私たちに誤りを確信させられたら、私たちは直ちにその道を行かなければなりません。その誤りを正し、尊い血の価値を活用して、それを取り除かなければなりません――そうしなければ、敵が私たちを罪定めの霊の下に陥らせる権利を得ることになります。そしてそうしたうえで、敵の権利を拒否しようではありませんか。そして、自分自身を罪定めの下に置いて、そうして神に帰すべき礼拝を神から奪うことによって、告白・悔い改め・調整といった行為を一々することのないようにしようではありませんか。あまりにも多くのとき、私たちは赦された罪の重荷や全く不必要な罪定めを背負って、行き巡っています。ああ、どうか主が私たちをキリストのあの卓越性の中に導いてくださいますように。あの卓越性とは、キリストは私たちの罪を担い、罪人である私たちに対する神の義憤をすべて受け、私たちに対する神の怒りを担ってくださった、ということです。ですから、この意味で、私たちは神を全く恐れる必要はないのです。

これは初歩的な言葉ですが、今日の主の民の中には、罪定めからの絶対的解放の素晴らしさを示していないとても多くの人々がいます。今日のキリスト教の最大の問題の一つは、罪定めによって雲の下にある神の子供たちです。彼らはこの問題のために自分のことで頭がいっぱいで、敵から受けているこの訴えから自由になれません。そもそも私たちは裁きから解放されているのですから、それを喜ぶべきなのです。

銀は私たちが神へと贖われたことを意味します。次の御言葉の真ん中の部分を忘れないでください。なぜなら、私にとってその部分は全体の中でとても価値のある箇所だからです。「そして私たちを神へと(unto God)贖ってくださいました」。私たちは贖われただけでなく、神へと(unto God)贖われたのです。「あなたたちは代価をもって買い取られたのです」「あなたたちは自分のものではなく、傷もしみもない小羊の血のような、キリストの尊い血をもって買い取られたのです」「あなたたちが贖われたのは、銀や金などの朽ちるものによるのではなく、キリストの尊い血によります」――「神へと贖われた」。「ご自身の血をもって買い取られた」。私たちは主のものであり、主はご自分のものを世話することができます。このことの強みは次の点にあります。すなわち、大きな代価を払って買い取られた主の所有物なので、主はご自身の所有物を見守り、世話をしてくださるのです。主のものであることはさいわいなことであり、ある人々が思うような恐ろしいことではありません。これを示される多くの人は、「主のものになったら、すべてを失うことになる」と考えます。それは主に「明け渡す」場合です。しかし、私たちはその別の面を確かに知っています。主を私たちの所有者とすることはとてもさいわいなことです。銀によって示されている贖いは神のものにすることなのです。

「彼はご自身の血によって私たちを神へと贖ってくださいました」。これは喜ぶべきことです。示されるべきキリストの卓越性です。それは次のような結果にならなければなりません。すなわち、他の人々の前で、主のものであることの卓越性が示されなければならないのです。ああ、自分が主のものであることを他の人々に知らせるのをためらうようなら、私たちは心から恥じ入らなければなりません。次に、私たちはあの卓越性を自分たちの間で示していません。「私たちを暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の卓越性を展覧するためです」。これは単純な福音ですが、その卓越性を十分に示している人は私たちの中に一人もいません。これは私たちを次の点に導きます。すなわち、聖霊がこのために私たちを満たさなければならない、という点です。私たちは御霊で満たされなければなりません。なぜなら、御霊こそがこの卓越性を示すべき方であり、主イエスのこの顕現に向けて活力を与える方だからです。御霊はまさにこのためにここにおられます。私たちにはできません。「御霊に満たされなさい」。それは裁きからの解放の栄光を展覧するためであり、キリストのものであることの卓越性を示すためです。私たちは贖われ、買い取られたのであり、自分自身のものではありません。人々は自分の持ち物、自己管理、自分の支配力や実行力を誇ります。自分にできることを誇ります。しかし、私たちが誇るべきは自分自身ではなく、自分が主のものであること、主にできることなのです。

金は神聖な性質を表します。ここでは人性がアカシアの木で表されていますが、アカシアの木は純金で覆われています。「それにより、際立って偉大な尊い約束を、私たちに与えてくださいました。それは、私たちが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです」。ここに展覧されるべき一つの卓越性が示されています。聖霊がここにおられるのは、私たちを神聖な性質にあずかる者とするためであり、そして神聖な性質が展覧されるためです。これについては昨晩少しお話ししました。神聖な性質、神聖な知性、心、意志が、新生のときに聖霊によって私たちの内にもたらされ、その後、発展し、成長して増し加わります。これが金です――すなわち主のようであるものです。聖霊はこの卓越性を示すためにここにおられるのであり、私たちはそれを示すために御霊で満たされなければなりません。

私は、この二つの面をあなたたちの前に絶えず置いておきたいと思います。一つの面は偉大でさいわいな真理であり、聖霊が与えられたのはまさに――聖徒たちの中にキリストの諸々の栄光を啓示するためである、ということです。もう一つの面は、私たちは御霊で満たされる必要がある、ということです。後でおそらく主は、御霊で満たされるとはどういうことか私たちに示してくださるかもしれませんが、私たちはその必要性を強調することにします。私たちはその必要性に印象づけられて、主のもとに行き、こう言いさえすればいいのです、「主よ、もし私たちが一つのことのために、すなわち主イエス・キリストを示すために召されており、それは御霊で満たされることによってのみ可能なら、主よ、御霊に満たされないかぎり、しかも絶えず満たされないかぎり、私は満足できません」。これこそ、この一連のメッセージで私が心に留めている姿勢です。私たちがそのような姿勢に達して、こう言うようになりますように、「示されたこのすべてのことのゆえに、私は、御霊の中に生き、御霊の中を歩み、御霊で満たされるようにならないかぎり――御霊で満たされ、御霊に導かれる生活の何たるかを知るまでは――決して休むことはできません」。

二五章の残りの部分をすべて読み進んで行くと、亜麻布は分与された義を、青色は天を、紫色は王権を物語っており、緋色は苦難を、明かりは証しを、香は主イエスの功績を、宝石は信じる私たちに対する彼の尊さを物語っています。というのは、「信じるあなたたちにとっては彼は尊い方」であり、宝石やその他のすべてのものだからです。祭司の務めや、祭壇・机・燭台・あわれみの座の機能はみな、主イエスの神聖な卓越性の異なる面を表しています。これはみな私たちにおいて表されるべきものであり、あなたは主イエスの中にあるこれらすべての事柄の霊的意義にあずかれるのである、と言えます。しかし、つまるところ、これは一語で要約できます。すなわち、主イエスの卓越性を示すことは「神の恵み」を示すことである、と。すべては恵みの驚くべき物語なのです。処理された裁きは恵みの物語ではないでしょうか?彼ご自身の血によって神へと贖われたことは恵みの物語ではないでしょうか?神聖な性質のあの分与は一つの大きな恵みの御業ではないでしょうか?全体を通してすべては恵みなのです。

幕屋には五本の柱があり、すべてがそれにかかっていました。恵みがすべてを支えていることがわかります。恵みです!神は、人々に対するこの証しを、両手両足に、あなたの五感中に書き記されました。右手にも左手にも恵みがあり、右足にも左足にも恵みがあります。それが恵みです。神は恵みの中で人を創造し、恵みの中で人を贖い、恵みの中で人を聖別されます。私たちがどれくらい使命的責任に召され、使命的な意味で苦難・忍耐・労苦に召されるのかは、問題ではありません。それすらも神の恵みによります。そして、神の恵みの卓越性は、「私たちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において示す」ためです。ああ、私たちが神の恵みをもっと示せますように!

主はこれに関して私の心に大いに語りかけておられます。こういうわけで、結局のところすべては恵みによることを私たちにわからせるために、主はしばしば私たちをこのように取り扱われるのだと、私は信じています。「あなたは自分の働き、自分の忍耐、自分の苦難が何かの役に立つ、と思っているのですか?何の役にも立ちません。あなたの中には何の美点もありません。すべてはわたしの恵みによるのです」。あなたが、「主よ、結局のところ、生活においても務めにおいても、あなたは絶対的恵みの中で私を取り扱ってくださらなければなりません」と言う時、主は事を成してくださるのです。

そして第二に聖さです。すなわち、主の卓越性を示すことです。これについては多くのことを述べる必要があります。彼の聖さの卓越性がここでは幕屋において示されます。すべては「主に対して聖」です。主が願っておられるのは、聖霊によって、主イエスの聖さの卓越性が示されることです。「聖なる美しさの中で主を礼拝せよ」。

そして第三は栄光です。幕屋の中にあるすべてのものが主の栄光を物語ります。栄光を受けた人の子に代表される贖われた人類と関係しているとき、栄光とは何でしょう?神格の内在的栄光が宿る所のことではありません。私たちは決して神格すなわち神位の栄光を持つことはありませんが、それでも栄化されることになります。栄光とはまさにこれです、すなわち、キリストにおける神の贖いのすべての御業の結果の表れです。あなたが罪と、堕落によって生じたいっさいのものとから解放される時、栄光を隠していたものが取り除かれたことにあなたは気づきます。そして、救われるとはどういうことかが明らかになります。つまり、救われるとは聖なる者、清い者、神の御心に適う者となることなのです――これが栄光です。栄光は、何らかの方法で掴めるようなものではありませんし、定義すらできないものですが、あなたが知っているものなのです。

主との豊かな、祝福された、深い交わりの中に生きていて、主を知り、主の中で喜んでいる、ある兄弟や姉妹を見ると、あなたは、「あの人の生活には主の栄光が宿っている」と言います。しかし、ああ、衰えゆく肉がすべてなくなる時、贖いが究極的に完成される時、栄光が満ちます!幕屋で主の栄光が示されます。主の栄光がそれを満たしました。それは神の御心に全く適ったものであり、罪は取り除かれ、神との完全な交わりが確立されて、栄光に至りました。あなたも私もこの栄光を、御霊にあって歩む程度に応じて持つことができます。

以下のすべての点に注目してください――恵み、聖さ、栄光です――聖霊はこのために来臨されました。ベザレルが神の霊に満たされたのは、この目的のために、すなわち、卓越したイエス・キリストを示すために、すべてを行うためでした。聖霊が今や来臨しておられるのは、私たちを満たして主イエスの卓越性を示すためです。ただ御霊を受けるだけでなく、全き明け渡しによって御霊で満たされなければなりません。これが御霊で満たされることの意味です。彼は満たしうるものをすべて満たしてくださいますが、私たちは彼を妨げるものが何もないようにしなければなりません。