第二章 御霊の油塗り

T. オースチン-スパークス

朗読:出エジプト二九・七、四〇・九、一サムエル十六・十三、一列王十九・十六、二コリント一・二一、一ヨハネ二・二〇、二七。

さて、主が私たちの心に置かれたテーマを追求するにあたって、御霊の油塗りの問題に専念することにします。

旧約聖書のこれらの節からわかるように、ここで述べられている人々や物は、神の命令と戒めにより、公的資格に関して油を塗られました。

第一に、大祭司としての立場にあるアロンがいますが、油が彼の頭の上に注がれました。次に幕屋です――幕屋のどの部分も完全であり、その構想は実際の計画に関するかぎり実現され、主の命令にしたがって完成されましたが、機能できるようになるにはまず、全体に油を塗られる必要がありました。次にダビデについては、統治と王職に関する事柄の面が見られます。ダビデはサムエルによって油を塗られました。その日から彼は、御霊に明け渡して自分の生活を神の中に保っている間は常に、聖霊によって促され、統治されるようになりました。「その日から主の霊がダビデの上に力強く臨んだ」――「力強く」という言葉から察するに、これは油塗りのための象徴的道具である、油の入った角と何らかの関係があるのかもしれません。角は聖書全体にわたって力、強さの型です。これは王職と統治に関わる力の御霊でした。疑いなく、ダビデは神の油塗りの下にある勇者でした。

次に、エリシャの場合は、いささか異常な事例です。なぜなら、預言者たちは通常、油を塗られなかったからです。油塗られたことが記されている預言者はエリシャだけです。預言者たちは決して代々継承されませんでした。その都度、興されました。彼らは、代々継承された王や祭司のようではありませんでした。神はその都度、特別な御旨のために、新たな僕を興されました。預言者は継続的に受け継がれませんでしたし、通常、預言者たちは決して油塗られませんでした。しかし、エリシャはこの通常の流れに割り込むかのように思われます。ここでは彼に関して二つの要素が見られます。すなわち、彼はエリヤの後継者だったことと、油を塗られたことです。私がこれを述べるのはただ、これがいささか独特で並々ならぬことだからです。

エリヤは疑いなく主イエスの型であり、エリシャは教会の型です。教会はヨルダン川を通って、そのかしらと共に復活の立場に連れて行かれ、御霊の二倍の分を受けます。これがエリヤとエリシャとの間の了解事項だったことは覚えておられるでしょう。エリヤは言いました、「もしあなたが私と共にいて、私が引き上げられるのを見るなら……」云々。そこでエリシャは自分の主人にずっと付き従いました。彼らがヨルダン川の向こう側に着くと、エリヤは引き上げられて、エリシャは「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵よ」と叫びました。そして、エリシャは御霊の二倍の分を受け、戻って行って、自分の主人よりも力強い働きをしました。エリシャの奇跡と働きはエリヤの二倍でした。栄光へと引き上げられ……教会は復活の立場に基づいて待ち望み……御霊が二倍臨み、教会は出て行って主の働きを果たします。「これらよりも大きな働きをあなたたちはするようになります。わたしが父のもとに行くからです」。教会は油塗りの下にある預言の道具の継承者です。これは教会を預言の務めよりも高い水準に引き上げます。教会は、昇天されたかしらと一つの油塗りの下で結ばれており、聖霊の力によってこの地上で彼の働きを行うのです。

さて、油塗りとは何を意味するのでしょう?神の御言葉は御霊の油塗りなるものを示しているのでしょうか?先に進む前に、私たちは次のことを認識すべきだと思います。すなわち、油塗りは特に職務と関係している問題であるということです。それは職務の問題です。それはある階級に属している、という意味ではありません。聖職者や宣教士のためのものであって、平信徒はあずかれない、という意味でもありません。神の御言葉の中にそのような区別はありません。それは次のことを意味します。すなわち、教会、神の家、キリストのからだは、油塗りの中で、主との生ける関係以上のものにあずかるのです。油塗りの下で、活発な霊的職務にあずかるのです。油塗りの問題について調べると、それはほとんど常に職務と関係していること、これは旧約聖書同様新約聖書でもそうであることがわかります。キリストがベツレヘムで御霊からお生まれになったことと――疑いなく彼の誕生は聖霊によりました――彼がヨルダン川で御霊によって油塗られたこととの間の違いに注目してください。一方は、御霊による彼の誕生であり、私たちが御霊から生まれることの型です。他方は、彼の務めのための御霊による油塗りであり、私たちがあの霊的務め――私たちはみなこれに召されています――に就くことの型です。ですから、油塗りは誕生以上のものであること、油塗られることは御霊から生まれる以上のことであることがわかります。私がこれを述べるのは、大多数の人々はこれらの用語を明確に理解していないからです。彼らはこれらの用語を区別しそこなっており、それゆえ、物事をごちゃまぜにしています。

油塗りを求める時、それは自分の霊的召命の積極面と関係していること、そして、たんなる信者であることを超えて進もうとしていることを、私たちは覚えておかなければなりません。私たちは油塗りによってクリスチャンにされるのではありません。私たちがクリスチャン、神の子供にされるのは、同じ御霊による新生によってです。しかし私たちが、上から生まれた目的・職務的な面・天的召命の積極面の中へと導き出されるのは、油塗りによります。この油塗りは主のすべての民のためです。二コリント一・二一はこれを完全に明らかにしています。使徒がそこで述べているのは使徒の油塗りのことではありません。彼はこのコリントの信者たちを自分と結び付けて、「キリストにあって私たちを油塗ってくださった方」と述べています。この御言葉ではコリントの信者たちは使徒と結び付けられています。彼が言うには、私たちはこの油塗りの中で一つであり、この油塗りの中にある一つ(oneness)はキリスト・イエスの中にある私たちの一つと全く同じです。「私たちがキリスト・イエスの中で一つであるなら、賜物に関するかぎり私(パウロのことです)が使徒であるかどうかは、問題ではありません。兄弟としての私たちに関するかぎり、私たちはみなキリスト・イエスの中で一つなのです」。

コリント人への第二の手紙は霊の務めの手紙です。なぜあの二一節がこの手紙の冒頭にあるのかわかると思います――霊の務めのために団体的に油塗られたからです。油塗りは量の問題であるというよりは――務めごとにその量は異なるので、パウロは他の信者たちよりも多くの油塗りを受けます――むしろ務めの違いの問題です。神は必ずしもキリストの別の肢体をより多く油塗られるわけではありません。もちろん、務めごとに必要な御霊の量は異なります。重要なのは、肢体であること、御霊から生まれることと、霊的召命のために信者として油塗られることとの間の違いです。特に聖霊について扱う時は、自分が何を言っているのかをわきまえることが必要だと感じます。なぜなら、聖霊に関して使われている用語はかなり混乱しているからです。

さて私たちは、油塗りとは何を意味するのか、と問うてきました。その答えは、様々な面に触れつつ、いくつかの異なる形で与えることができますが、御霊の油塗りの第一の意味は、油を塗られる者が油を塗る方に完全に服する立場と状態に置かれる、ということです。ヨルダン川での主イエスの油塗りを例に挙げましょう。彼は御父に絶対的に(生活上も職務上も)服されました。彼は、ヨルダン川で、御父に従う立場を取り、その指示・統治・助言にことごとく従われました。ごく小さな点に至るまで御父のみこころと御旨に従順な立場を取られました。「神はナザレのイエスに油を塗られました」と使徒は言いました。「神は聖霊をもってナザレのイエスに油を塗られました(中略)彼は巡回しながら善を行ない、また悪魔にしいたげられていた人たちを、すべていやされました」。彼は、油塗りの瞬間から、かしらである御父からすべての指示を受けたのです。

神はキリストのかしらであり、キリストは教会のかしらであり、男は女のかしらであると説明することによって、パウロはこの頭首権の原則を明らかにしています。彼は頭首権を神から人間関係に至るまで追っています。そして主イエスは、ご自身の公的な務めのために、御父に絶対的に服する生活に自発的に入られました。さて、この原則は旧約聖書を貫いており、新約聖書を貫いています。つまり、油塗りはかしらに服する立場を常に意味するのです。アロンの場合は、統治・頭首権に服しました。自分が自分の法律ではなく、自分の考え・好み・選択どおりにはできません。アロンはかしらを必要とします。これは全く真実であり、アロンがかしらを認めずに独立して行動した時、神の裁きが彼の上に下りました。油塗られた者と言えども、服従の立場を離れて、自分を自分の法律にしようとしてはならないのです。ですから、アロンも、ダビデも、エリシャも、その立場に置かれました。これはみな、油塗られた者の上には権威・統治が打ち立てられていることを意味します。油塗られた者はこの権威・統治を仰ぎ、それに従わなければなりません。油塗られた者は高次の権威に服する立場を受け入れたのです。

新約聖書に入ると、聖霊の来臨によって教会がキリストに服するようになったことがよくわかります。聖霊の油塗りにより、神の家全体がその頭首権の下に服します。聖霊は私たちに、私たちのかしらを常に覚えるよう要求されます。何らかの個人的な判断・選択・決定・指示によって、あるいは油塗り(聖霊によるかしらのための統治)から離れて独立して行動することによって、外に踏み出すやいなや、私たちは暴露され、暴き出され、たちまち排除されてしまいます。状況は悪化して、私たちは戻って別の行動を取る必要性に気づきます。仔細に及ぶ主の絶対的な主権と統治を悟ります。

油塗りの原則を犯すなら、遅かれ早かれ、必ず欺きがそれに続きます。油塗りは私たちを真理の中に、そして私たちのかしらとの生ける関係の中に保つためのものです。私たちのかしらは、私たちの統治・判断・心です――神に属するあらゆるものです。自分の行動を否み、自分が取った道に立ち返って自分を覆ってくれるものを求めないかぎり、私たちは解放されません。もちろん、その解放は多くの苦しみと困難によります。油塗りは、まず第一に、油塗られる者の油塗る方への服従を表すことがわかります。

聖霊の油塗りは、私たちが主イエスの頭首権に全く服するようになったことを意味します。私たちの実際のクリスチャン生活が、召命・奉仕・いわゆる「職務」といった点で、ことごとくそうなったことを意味します。これは第二に、人間的・天然的な人は油塗りによって全く排除されることを意味します。これは前にベザレルに関して見たとおりです――主が彼を神の霊で満たして幕屋に関するすべての技量を与えられた時、彼の判断や考えに委ねられたものは何もありませんでした。油塗りによってすべては神から臨み、人は排除されました。油塗りは人なるものを脇にやります。さて、これには二つの見方があります。一つは要求の性質を帯びた見方であり、もう一つはさいわいな励ましと慰めの性質を帯びた見方です。

もちろん私たちは、要求の線上にあるより厳しく思われるものを強調しなければなりません。なぜなら、疑いなく、神のものを掌握しようとする傾向ほど大きな傾向は人にはないからです。これは常にそうでした。今日、世界には、人によって運営されているキリスト教という宗教組織があります。人がそれを掌握しています。歴史から明らかなように、神がある事を行われると、遅かれ早かれ、必ず人や人々がそれを掌握し、運営し、組織化し、維持し、発展させようとし始めます。それに付け加え、改善し、神のものに対してあらゆることをしようとし始めます。物事を放っておいて、神に御業をなしていただくことが、人には性質上到底できないように思われます。私たちはいつも、何とかしてこのことに天然的に入り込み、それに対して自分の判断を下し、何とかしてそれを操作したいと願っています。しかし、油塗りは人を排除して、事実上こう言います、「手を放しなさい!これは神のものです。あなたがここにいられるのは、あなたが次のことを自覚しているときだけです。すなわち、生来のあなたは排除されていること、そして、油塗られた者として、神だけがこの中におられるのであり、神だけを覚えるべきことをです」。

神の働きにおける傷心、失望、悲劇はみな、強引な人、意欲的な人のせいです。物事を掌握して、「自分は油塗られている、事実、神は自分を召してくださった」と思い込んでいる人々のせいです。自分たちが中心であり、全体の枢軸である、と彼らは思っていますが、それは欺きです。そのような所では、間もなく神の臨在が(ごく控え目に言って)本来あるべきものよりも希薄になり、人の存在があまりにも際立つようになることがわかります。これは人の弱さであり、神の御旨が阻まれて遅延させられるという点で失敗を意味します。強烈な打撃と徹底的懲らしめによってのみ、人は神に絶対的に依存していることを自覚するようになります。そして、神の霊によって促されないかぎり、あえて動こうとはしなくなります。それは、神の働きが安全なものになって、神の栄光が表されるためです。

しかし、この事実にはもう一つの慰めの面があります。人の積極面は排除されており、人の肉は神の御前に出て神のものに手を触れてはならない、ということが真実であるように、人の消極面も排除されている、ということも真実です。つまり、私たちは自分の弱さ・無能さ・無知・生来の無価値さに影響されて、「自分には、機能する有用な者となるのに必要だと思われる、多くの資質や多くのものに欠けています。そのせいで、自分には全く居場所がありません」と感じるかもしれませんが、次の事実を悟って自分の心を慰めるべきなのです。すなわち、学識やそういった類のものは、そもそも神にとっては重要ではないのです。それらは重要ではありません。それらのものを通して主が働く余地もあるかもしれませんが、主が何の危険もなくそうできるようになるには、天然の人は徹底的に服従しなければなりませんし、「神の事柄に関して自分には本質的価値がある」と一瞬たりとも天然的に同意するようなことがあってはなりません。しかし、原則として、主がそれらを用いられるようになるには、まずとても多くのことがなされなければなりません。油塗りは人の欠点や欠け目をことごとく補って、私たち全員を同一の水準にならします。訓練や学問といった天然的強みの全くない人でも、人が獲得しうる最高の知識を遥かに超えた知識――つまり神の霊の事柄に関する知識――を、油塗りによって持つことができるのです。あなたも私も、きわめて聡明な学者が書物から得たことについて話すのを聞くよりも、生来無知ではあるけれども主を知っている人が、主について語り、自分の心に示された主の事柄について話すのを聞きたいと切に思うことでしょう。

油塗りが大事です。油塗りは生来自分に欠けているものをすべて補えるということから、私たちは励ましを受けるべきです。さて、多くの人々は無知を重視しているように思われます。あなたは溝を掘らなければなりません、掘るなら主は溝を満たしてくださいますが、主はあなたが溝を掘ることを要求されます。霊的にずさんになって、油塗りに甘えて、「主は私の欠け目をすべて補ってくださいます。私は何もする必要はありません」と言わないようにしましょう。それではだめです、私が言っているのはこういうことです。すなわち、天然の人が積極面や消極面でどうだろうと、大物だろうと無名だろうと、油塗りは生来の人とは無関係なのです。また、油塗りは高い者を低くし、低い者を高くするのです。油塗りは次の原則に基づいてすべての人をならします。すなわち、生来の人はこの霊の事柄においては価値がなく、それにあずかることもできず、排除されている、という原則です。さて、この油塗りがあるなら、生来の欠点がどうであれ、あなたは新契約の有能な奉仕者になれます。もし油塗りがあるなら、あなたは次のことを認識しなければなりません。すなわち、天然の能力はすべて完全に油塗りに服さなければなりませんし、決してそれらを用いたり、それ自体を当てにしてはならないのです。

さて、これと同行する次の点は、油塗りはこの世界への神の介入を表すという事実です。油塗りは、神がご自身の権利という根拠に基づいてこの世界に介入されることです。神はこの宇宙に関する権利を持っておられます。神の権利は至高ですが、人はこの宇宙における神の権利を否定するか無視するかしました。そして、神を脇にやって排除しました。これはおそらく、主イエスを拒絶したことに最も顕著に見られます。世は彼を知りませんでした。それは肉において現れた神、キリストの中におられる神でした。人々は「これは跡取りだ。さあ、彼を殺して、その嗣業を手に入れよう」と言い、「彼を追い出し」ました。そして、これがこの世の知者、賢人たちや強者たちがしたことである、とパウロは述べています。彼らは神を彼の宇宙から追い出したのです。神はご自身の権利を持っておられ、存在するものに対して当然権利を持っておられます。誰が神以上にこの宇宙を統治・支配する権利を持っているでしょう?ですから、神がそうやすやすと追い出されることはありえません。そして、聖霊の来臨によって、神はご自身が権利を持っているこの世界に介入されたのです。

彼はご自身を聖霊によって教会の内に具現化されました。教会はキリストのからだの様々な肢体から構成されています。教会すなわちキリストのからだは、神の統治権に対する生ける証しとして、この世界に立っています。彼は、信者にあって、そして教会にあって、信者がいる所ではどこでも、この真理を突き付けます。彼はなおも支配されますが、彼らは人を通して、教会の中から、また信者の中から、彼を再び追い出そうとします。彼ご自身を追い出したようにです。しかし、私たちはここで神の支配権を具現化しています。教会が油塗りの力を知るならば、教会は、この世界のどこでも、キリストの支配――天と地のすべての権威がキリストに与えられています――を確立して維持することができます。油塗りの真の力は、主権を持つ神の権利をどんな場所でも確立して維持できることを意味します。油塗り抜きでこの世に出て行くことや、聖霊の力の中にいないのに神の権利や要求をどこかで示すことは、危険なことです。ですから私たちは、主権を持つ神の権利を確立する力である油塗りに立ち返ります。神は、聖霊により、油塗りの中で、この世界に介入されました。神はこの世界から追い出されましたが、この世界にとどまるために来臨されました。しかし、彼の主権に対するこの証しを確立するにはこの油塗りが必要です。神はこの世界に入って来られました。彼はご自身の強大な力をすべて帯びてここにおられます。彼は、その力の中で、油塗られた者たちと共に、あらゆる反抗・あらゆる争い・あらゆる反対を乗り越えて、この主権を確立しようとしておられるのです。

さて、これに続いて直ちにもう一言述べるべきは、神が介入された以上――神がご自身をある対象に、すなわちご自身の証しのためのある器に委ねられた以上――彼は油塗られたものを限りなくねたむほど慕っておられる、ということです。油塗られたものは、個人であれ、群れであれ、教会全体であれ、主にとって大いに尊いものです。それを神は限りなくねたむほど慕っておられます。教会は、聖霊に油塗られて、イエス・キリストの主権に対する証しを携えて出て行きました。タルソのサウロはその数々の権利に挑み、この油塗られた器に逆らって、神が油塗られたものを損なおうとしました。そこで、神が割って入って、彼を地に打ち倒されました。もしサウロが悔い改めていなければ、その結果どうなっていたかは、あまり考えたくありません。また、アナニヤとサッピラは手を伸ばしてこの油塗られたものに触れ、ペテロに嘘をついて、偽って教会に与えずにいた時、聖霊に対して罪を犯しました。神はご自身の油塗られた器を大いにねたむほど慕っておられます。アナニヤとサッピラに何が起きたのかを私たちは知っています。

ヘロデは傲り高ぶって、教会を傷つけようと手を伸ばしました。私たちは彼の末路を知っています。神は彼をひどく打たれました。「彼は虫に食われた」と述べられています。彼は死にました。神が彼を打たれたのです。詩篇が述べているように神はねたみ深い方です。「彼は彼らのために王たちを責めて言われる、『わたしの油塗られた者たちに触れてはならない、わたしの預言者たちを害してはならない』」。神は油塗られたものをねたむほど慕っておられます。神はそれと固く結び付けられているからです。

これはきつい言葉に聞こえますが、必要なことであり、私たちはみなこのような言葉を必要としています。なぜなら、主の民の群れの中でさえ、私たちはあまりにも安易に批判を交わしているからです。個々の信者について批判し、主の民の群れを非難して裁いているのです。私たちは彼らをけなし、こきおろし、その間違いや欠点や短所や悪行を暴露します。比較して、優劣をつけます。務めについても、他の部門についてもです。あるいは、こう言えるでしょう、私たちはキリストのからだを大事にすることに十分な注意を払っていなかったのである、と。私たちは神の真の子供たちをキリストのからだから切り離すことはできません――まるで彼らがキリストの肢体ではないかのように、別の何かであるかのように、彼らを扱うことはできないのです。

信者に触れるとき、私たちはキリストに触れます。「あなたたちに触れる者は、わたしの瞳に触れるのです」――その瞳を神は大いにねたむほど大事にしておられます。神の瞳という句には、素晴らしい絵画的意味があります。私たちの肉体がどれほど熱心に目を守っているのか考えてみてください。なぜ眉毛があるのでしょう?(流行にならって眉毛を剃り落としてはなりません。自分の肉体だけでなく、神の御言葉が描写しているものをも損なうことになります)。なぜ大きな骨の部分があって、そこから毛細血管が伸びているのでしょう?なぜまつ毛や頬骨があるのでしょう?これらはみなあなたの瞳を守るためのものです。瞳に何も届かないようにするためのものです。暑い日に、汗をかいて額に埃がついても、埃が目に入るのを眉毛が防いでくれます。空中の浮遊物が目の方にやって来ても、まつ毛が守ってくれます。神は瞳のために素晴らしい保護器官の集合を造られました。あなたに触れる者は、神が大いにねたむほど大事にしておられるものに、すなわち彼の瞳に触れるのです。したがって、あなたが主の子供たちや教会に触れる時――それが個人であれ、群れであれ、全体であれ――あなたは神が定めて熱心に設けられた保護機構を侵犯しているのです。口やその他の方法で、あなたは主に触れているのです。これがサウロがダマスコに行った時に学んだことです。「なぜあなたはわたしを迫害するのですか?」――それは主だったのです。

神の子供たちや神の僕たちをたんに個々のものであるかのように扱うことに対して、もう少し警戒しようではありませんか。彼らが主によって油塗られた者である場合、もし彼らに触れるなら、私たちは霊的にまずいことになることを覚えようではありませんか。私たちは彼らに対して霊的に罪を犯すことになります。そしてそうし続けるなら、私たちは別の意味でもまずいことになるでしょう――主は私たちにとても厳しい教訓を教えなければならないかもしれません。もし私たちが物事の内的歴史を知っていれば、主が特定の事に取り組めない制限の大部分は、人々がみからだの中におられるキリストを認めそこなったことに、パウロの言葉を借りると「からだをわきまえ」そこなったことに起因することが、おそらくわかったでしょう。それは、おそらく、主の油塗りの下にある聖なる事柄を、あまりにも軽薄かつ安易に取り扱っているためなのです。この言葉を忍んでください。しかし、この言葉は必要です。あなたに必要であるように私にも必要です。主よ、この言葉を心に刻む恵みを私たちに与えてください。

主がある群れにご自身を全く委ねられるとき、主はその群れをねたむほど慕われます。そして遅かれ早かれ、それに触れるなら、私たちは主に出会うことになります――それは個人や務めかもしれませんが、依然として主なのです。「わたしの油塗られた者たちに触れてはならない、わたしの預言者たちを害してはならない」。

油塗りについては以上ですが、もっと多くの点があります。コリント人への手紙からざっと説明して、終えることにします。よくご存じのように、コリント人への第一の手紙は、神の権利がコリントで侵害されていたことを見せています。これが第一の手紙で明示されています。次に、何が起きたでしょう?使徒が明確に示しているように、神の権利を侵害して油塗りに逆らっていた人々はとても厳しいこらしめに遭いました。主は彼らを対処されました。第二の手紙はそのこらしめの結果を見せています。この二つの手紙の口調の変化はなんと素晴らしいのでしょう!神の権利を侵害したことに関する懲らしめは、御心に適う神への奉仕という結果になったのです。第一コリントでは、神への奉仕は御心に適っていませんでした。すべてが不正常でした。第二の手紙では、奉仕は神の御心に適ったものになっています。三章と四章を読んでください。今や奉仕できるようになりましたが、それはこらしめによってのみ可能でした。第二の手紙は、「私たちを油塗ってくださいました」という節の引用から始まっていることがわかります。

油塗りの意味を認識して、それと調和しようではありませんか。そして、奉仕の中で油塗りの力を表すことによって、神の御思いと御心に適う奉仕をしようではありませんか。どうか主が私たちを主の油塗られた者たちとしてくださいますように。