第三章 力の賦与

T. オースチン-スパークス

朗読:ルカ四・十六~二二、一ヨハネ二・二〇、二七、四・四。

ルカによる福音書とヨハネ第一の手紙のこれらの御言葉は、以下の事柄に関するさらなる側面と強調点に私たちを連れ戻します。すなわち、聖霊の必要性と、御霊で満たされる必要性です。それがなぜ必要なのか、その理由のいくつかを私たちはこれまで見てきました。御霊で満たされること、御霊で油塗られることが何を意味するのか、私たちは見てきました。主は私たちにまだ多くのことを語っておられますが、これらの節から、それに関する主要な点の一つに直ちに触れることができます。ルカ四章のこの節の場合、矢継ぎ早に事が起きていることがわかります。ルカによる福音書のこれらの初期の章から聖霊がどれほど登場されるのかは、きわめて印象的です。主イエスをこの世界にもたらす最初の行動のときから登場されます。御使いがマリヤに告げた時、主イエスの誕生は聖霊の明確な直接的活動の結果であることを、御使いは完全に明らかにしました。いと高き方の霊がその上を覆ったのです。そして誕生されると、彼は聖霊の一連の活動によって包まれたように思われます。

宮には女預言者のアンナと老人のシメオンがいました――彼らは御霊によってやって来て、御霊の統治と支配の下で行動し、御霊によって語りました。次に、エリサベツとザカリヤに関する別の関わりでも、聖霊のもう一つの働きがあります。主イエスの誕生は彼に関わる御霊の動きによって驚くほど取り囲まれていることがわかります。バプテスマのヨハネが生まれて、御霊の力の中で彼の御前を行き、ヨルダン川に行きました。ヨハネは彼を宣べ伝え、宣言し、彼について言いました、「私はあなたたちを水の中にバプテスマする。しかし、私より力のある方が来られる。私はその方のサンダルのひもを解く値打ちもない。彼はあなたたちを、聖霊と火の中にバプテスマされる」。その後、主イエスが直ちにヨルダン川に来て、ヨルダン川の水――ご自身の死と葬りと復活の型――を通られました。天が開かれ、御霊が彼の上に臨みました。続けて直ちにこう述べられています、「それからイエスは御霊によって荒野へと導かれ、四十日間悪魔に試みられた」。次に、「イエスは御霊の力の中で戻られた」と述べられています。彼はナザレに行かれました。

次に、主はご自身について、「主の霊がわたしの上にある。彼がわたしに油を塗られたからである」と述べられました。主イエスのこの世界への来臨に関する最初の動きの時から、聖霊は主イエスのパースンと御業に関係しておられました。それは聖霊の御業でした。聖霊が主イエスを導き入れ、導き続け、導き通し、導き出されました。聖霊の御業によって、主イエスは務めを成就されました。さて、これは私たちに何を語りかけているのでしょう?それは私に対して、他の何ものにもまして重要な一つのことを語りかけています。すなわち、主イエスのこの世界への来臨は、一方において、世の体制をすべて元に戻して終わらせるためであり、他方において、全く新しい体制を導入して確立するためですが、それは神の強力な力によってのみ可能なのです。それを成し遂げるには全能の神が必要です。これを成し遂げ、実現し、確立するには、神が御霊の力によってすべての過程に介入する必要があるのです。

ご存じのように、主イエスは神です。しかし、このルカによる福音書では、人の子として私たちに示されています。これまでたびたび述べてきましたが、この働きを成し遂げるのは神ではありませんし、ありのままの神でもありません。それをなすのは人のための人なる方です――人の中の神、人なるキリスト・イエスです。この人なるキリスト・イエスは、その存在においては神であり、確かに神である一方で、人としての代表者たる身分においては、全く神に依存しておられます。そして、人のためのこの御業を人として成就するにあたっては、神の協力を必要とされます。そしてそれは、人の子である主イエスの生活とパースンと働きのあらゆる段階・動き・展開に聖霊が寄り添うことによって実現されます。

主イエスが対峙しなければならなかったものに対峙するには神が必要です。神はこれを成し遂げるために聖霊の中で介入されました。そして、神が油塗りをもってヨルダン川で介入された時、この宇宙とこの世界に存在する神の敵対者も出現したことが直ちにわかります。彼は御霊で油塗られました。「神はナザレのイエスを聖霊で油塗られました」。そしてまさにその次に、悪の全勢力がこの油塗りに反対し、できるものならその御旨を挫くために、蜂起して出て行くのを目の当たりにします。これを効果的に対処できるのはただ神だけであり、しかも聖霊のパースンにおける神だけです。

さて、ナザレに来て、主イエスがこの油塗りに言及された時、彼の油塗りの目的・目標は悪魔のすべての働きを対処して滅ぼすことだったことを、彼は完全に明らかにされました。油塗りはそのためでした。主イエスはそれを御霊の力の中で効果的に行われました。しかし、その結果が彼個人によって決定的に確保され、その御業が実際に成し遂げられた一方で、あの悪の勢力、霊的敵意のあの体系は宇宙からすっかり排除されたわけではなく、キリストのからだである教会のために残されています。それは教会が彼の御業、彼の達成にあずかって、それを自ら究極的に完成するためです。ですから、私たちは主イエスの上にあったのと同じ油塗りの下に来て、パウロが二コリント一・二一で「キリストと共に油塗られました」と述べているように油塗られたのです。この油塗りの直後、私たちは彼が直面されたのと同じものに直面していることに気づきます。油塗りの意味と力にあずかるときはじめて、それがあの領域で何を意味するのかがわかります。上にとどまられる聖霊、内側に住まわれる聖霊を知るようになるとき、あなたは必ず、自分がきわめて凶暴な敵意を持つ霊の体系・体制に直面していることを直ちに意識するようになります。

さて、要点はこうです。私たちは、自分がここにいるのは、たんに働きをしたり、話をしたり、教理を教えたり、真理を伝えたりするためではない、ということを、はっきりと認識しなければならないのです。私たちがここにいるのは、主イエスの道具となって、あの御業を完成させ、究極的に成就するためです。あの御業は、主イエスが彼の十字架によって、霊的な悪と敵意のあの体系をすべて打ち倒すために取り組まれたものです。愛する人よ、私たちはこれに立ち向かっています。悪魔の働きに立ち向かっています。この世にいる者――この者にヨハネは言及しています――に立ち向かっています。それには、神との連合以外の何ものも適切ではありません。言い換えると、聖霊の力強い油塗り以外の何ものも不十分です。しかし、神はほむべきかな、その備えはなされています。キリストにある私たちへの聖霊の油塗りは、次のことを保証します、すなわち、キリストがなさったことは、教会によって、教会を通して、繰り返すことができますし、完全に再現できるのです。だから、弟子たちはとどまる必要、待つ必要があったのだと思います。「あなたたちは高い所から力を賦与されるまでとどまっていなさい」と主は言われました。今回、私たちが特に考えているのは、力と真理にまつわる聖霊についてです。

さて、主は、ご自身の教会の行く手に何が待ち受けているのか、ご自身の使徒たちが何に直面することになるのか、よくご存じでした。そして、彼ら自身ではそれに対処できないことをよくご存じでした。ご自身が直面したものに彼らも直面せねばならないことをよくご存じでした。もちろん、彼らがその真実に気づくまでそう長くはかかりませんでした。ですから主は、高き所から力を着せられて賦与されるまで待つべきことを明らかにされました。私たちは、自分を遥かに超えていて到底手に負えない勢力に直面していることを、ますます意識するようになっているのではないでしょうか?これはますますそうなりつつありますし、終わりの時の最後に向けて、敵のこれらの活動は激化し、龍は非常に凶暴になるでしょう。龍は、もし可能ならば、御座に引き上げられるであろうその道具を飲み込むでしょう。その道具が御座に引き上げられる時、天では大きな叫びがあります、「今、私たちの神とそのキリストの救いと王国と権威とが来た。兄弟たちを訴える者は投げ落とされた。天にはもはや彼の居場所はない」。さて、私は敵があなたや私と同じように聖書を読むことができると思っています。敵は荒野で主と対峙するために聖書を研究していました。そして、敵は黙示録十二章を読むことができるので、それを知っていて、それに対抗しようとするでしょう。

終わりの時に向かって進むにつれて、私たちは次のような時に向かって進むことになります。すなわち、敵が何があっても立ち止まろうとせずに、苦々しさ、悪意、憎しみ、怒り、狡猾さ、その他あらゆる手段のかぎりを尽くして、黙示録十二章の成就を妨害しようとする時にです。なぜなら、それが成就される時、天上における彼の王国は終わりを迎え、それが彼の王国全体の終わりの始まりとなるからです。

私たちはどうやってこれに立ち向かい、切り抜ければいいのでしょう?聖霊の強力な力による以外にありません。したがって、次のことを新たに強調する必要があります。すなわち、終末の時には、主の民が聖霊の内住と満たしと油塗りの意義に関する新しい新鮮な知識を持つことが必要であり不可欠なのです。聖霊の力によらなければ、切り抜けられません。神の力によらなければ、勝利できません。敵の猛威に立ち向かえるのは、私たちの「内なる人が御霊によって力をもって強められ」る時だけなのです。

今、私たちのほとんどは、自分が終わりの時にいるという真実を意識しています。また、世界中の神の民が、反対に立ち向かうために、前進の道を妨げ邪魔し阻止している勢力に打ち勝つために、聖霊の強力な助けの必要性をますます意識しつつあるように感じます。今や、魂が解放されることはめったにありません。今や、盲目の目が開かれることはめったにありません。「主の霊がわたしの上にある。主はわたしを油塗られたからである。それはわたしが縛られている人を自由にし、捕らわれ人を解放し、盲人の目を開くためである」。霊の領域でこれらの同じ結果を得るには、油塗りが新たな方法で必要です。主イエスの地上における絶対的な至高性と主権を終わりの時に証しするには、これまでと同じように、聖霊の力によるしかありません。そして今日、新たな力づけが必要だという感覚が高まり、増し加わり、深まって行く中で、きっと主はご自身の民を聖霊の新たな経験の中へと導いてくださるでしょう。私が述べているのは世界大のリバイバルについてではありません。私の念頭にあるのはそれではありません。私が述べているのは、一般的に受け入れられ理解されているようなペンテコステの再来についてではありません。そうではなく、私が述べているのは、最後の戦いに向けた聖霊の力のこの再活性化についてです。そしてそれは、あなたが主に求めても全く問題ないことであり、間もなく主に求めざるをえなくなるであろうものです。

さて、私たちは皆、主に召された生活と働きのために、上からの助けが必要であることを自覚しています。そして、主がこの重荷を私たちの心に負わされたからには、これは自分に対する主の願いであると受け止めてもいいのではないでしょうか?主が私たちにこのような重荷を負わせて、ある必要を自覚させたということは、まさに次のことを意味します。すなわち、主のみこころはご自身の教会、ご自身の民が力を実際に知るようになることなのです。その力によって、彼らは最初に打ち勝ったように、最後も打ち勝つことができますし、打ち勝つでしょう。

ですから御霊の油塗りと満たしの問題は、神の御旨に対する敵意という背景全体を対処する力の問題です。そして、ああ、聖霊の力の中で神の御言葉を宣べ伝えるとき、囚人たちは直ちに解放されるような油塗りを、私たちが知ることができれば。私はこう信じています、神の御言葉が聖霊の力の中で宣べ伝えられる時、奴隷にされている囚人たちが解放を受け入れて主に信頼するなら、聖霊の力によるまさにその言葉によってこの解放を見いだすはずであると。彼らの投獄の性質がいかなるものであれ、彼らは理解するでしょう、自分を解放するその御言葉によって自由にされ、牢屋を出て鎖から抜け出せるのだと。同様に、聖霊の力の中で語られた神の御言葉は、霊的に盲目な人の霊の目を直ちに開きます。それで彼らは見えるようになって、「ああ、今や、それがわかります。これではっきりしました」と言います――これが「盲人の目を開」くことです。これが油塗りの働きであり、油塗りの力であり、油塗りの下での宣べ伝えです。そしてこれを目指して、今回、私たちは新たな方法で主を求めなければなりません。

世にいる者を見てください、その力、悪意、憎しみ、その活動のあらゆる結果を見てください……敵の働き、力について知りうることを知り尽くしたうえで、神の御言葉が文字どおり述べている「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいからです」という言葉に戻ってください。なんと、これは素晴らしい言葉です!その真価を理解されたでしょうか?聖霊によって内住されるようになるとき、あなたは内に住んでいる敵のあらゆる力よりも大きな力を持つのです。さて、これは私の言葉ではありません、神の御言葉です。それは私たちに希望を与えてくれます。もちろん、その力はどうやって解き放たれるのか、その力が働く法則を理解しなければなりませんが、私たちはたんに事実を述べているだけです。私たちの役目は次の問いに対する答えを直ちに見つけることです。そうです、この事実はあります、しかしそれは事実なのですが機能しておらず、敵はとても私たちの手に負えません、この事実はどうすれば経験でき、実際化され、実現されるのでしょう?その法則はいかなるものでしょう?これを私たちは主の御前で問わなければなりませんが、ここに「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいのです」という事実があります。

さて、まさにその油塗りの力によって、主イエスは首尾よく勝利のうちに悪魔自身と対峙することができました。悪鬼どもにではなく、悪魔的階層組織全体の頭領である悪鬼どもの支配者に対峙して、勝利することができたのです。「イエスは御霊の力の中で戻って来られた」。これは油塗りによります。

さて、私は必要性を強調したにすぎず、この力の必要性という問題に対する備えがあるという事実を強調したにすぎません。もちろん、この力はあらゆる方面に及びます、霊の勢力との直接的かつ即時的接触だけでなく、敵のあらゆる間接的な活動にも及びます。たとえば、道徳の線に沿った敵の間接的な活動です。神の子供たちは道徳の領域で悩まされています。私はこの言葉を限定するつもりはありません。それは広い意味を持つ言葉であり、多くの内容があります。敵は主の子供たちの道徳生活を絶えず攻撃します。なぜなら、主イエスの道徳的特質が示されるのはそこにおいてだからです。

私たちは主の子供たちの道徳的な側面を忘れているように思います。多くのとき、私たちは霊的生活を何かたいそうなものと思っています。霊的生活を日常生活を超えたもの、超然としたもの、地上を超えた大気中にあるもの、霊的なものと思っています。そして、それにかかりっきりになっています。そして、往々にして、霊的なことに最もかかりっきりになっている人々が最もひどい道徳上の過失を犯します。私はそれを是とはしませんし、そうだとも言いませんが、一見、最も霊的な人々が往々にして道徳上の過失を犯しますし、しかも非常に深刻な過失を犯します。たとえば、義と正義を示すという問題を多くの霊的な人々はおろそかにしています。他人の権利、正しい権利、公正な権利の問題はなおざりにされています。誠実さと律儀さ、実直なこと・公平なこと・正しいこと・寛大なことを行うこと、あらゆる種類の道徳的問題を、より霊的であるとされている人々は非常に疑わしい状態に放置しています。他の人々との関係の問題、道徳上の問題全般、そしてより深刻な形の道徳生活に関して、敵は主イエスの道徳的使信の啓示を往々にして損ないます。

主イエスは地上で霊的生活を送られましたが、それは道徳的生活から切り離されてはいませんでした。彼はご自身の義務と他者の権利を認識し、それを果たそうとされました。そしてあなたも私も、自分の生活の道徳的側面をないがしろにするような類の霊性によって、証しを損なう危険にしばしば陥ります。そしてそれにより、敵や世人は、私たちのキリスト教を拒絶し、悲しいことに、私たちのキリストを拒絶する、多くの根拠を得ます。世人はしばしばこう言いますが、そう言うのも至極当然ではないでしょうか、「クリスチャンたちは未信者のビジネスマンよりも道徳的に低い水準にある」と。私たちはこれを耳にしてきましたし、多くの場合これが真実であることを知っています。それにしても、世の中には多くのクリスチャンを恥じ入らせるような高潔さの基準があります。

私は主の子供たちを中傷しているわけではありません。そうではなく、私たちは次のことを見なければならないと述べているのです。すなわち、敵は常に、イエス・キリストの卓越性の道徳的表現をないがしろにする一種の霊性に私たちを専念させようとするのです。そして、敵は間接的な方法の一つであるその方法でやって来ます。そして、私がここで指摘しているのはこういうことです。すなわち、聖霊の油塗りは、主イエスの道徳的卓越性を反映する道徳的生活を送る力を与えるものであり、その領域で敵を打ち負かすものなのです。敵がこの証しと主の民に反対して働く間接的な方法は他にもたくさんありますが、油塗りはそれらすべてに対して十分です。敵は、時として身体的な手段を取って、身体的な弱さや不自由さによって神の御旨を果たせなくさせますが、素晴らしく幸いなことに次のことは真実です。すなわち、油塗りが臨んでこれに対抗するとき、そうでなければ不自由だった人は活力を与えられ、神の御業は成し遂げられ、油塗りの力なしには不可能だったことが永遠に確立されるのです。あらゆる領域における敵の反対はみな、油塗りの聖霊によって対処されます。油塗りには、万事につけ敵を対処して征服する力があります。

それから、ヨハネのこの別の一節について一言述べることにします。「あなたたちは聖なる方から油塗りを受けており、その受けた油塗りがあなたたちの中に住んでいるので、だれにも教えてもらう必要はありません」。さて、必要であれば、あなたの思いに訂正を加えたいと思います。これは一瞬たりともクリスチャンの教えを意味するものではありません。これは、あなたたちは御霊の油塗りを受けており、御霊があなたたちにすべてのことを教えてくださるのだから、あなたたちはクリスチャンの教師から教わる必要はない、という意味ではありません。決してそういう意味ではありません。これにきっぱりと方をつけておいた方がいいでしょう。なぜなら、人々がクリスチャン教師から離れつつあることを私たちは知っているからです。彼らは、「自分は御霊を持っており、教わる必要はない」と言っており、この御言葉に力づけられてそうしていますが、これは聖書に対する無知を示しています。

さて、この章は何を述べているのでしょう?十八節と二六節を読んでください。この章の背景が何かわかるでしょう。反キリストと欺きです。最後の時の欺きと、反キリストの霊によって主の民を惑わそうとする者どもです。そして主の民が惑わされるのは、偽りの教理や誤謬によってではありません。反キリストとは、悪魔を悪魔として明確に表現したものではありません。反キリストとは、キリストの立場を取り、キリストであると主張し、キリストの言葉遣いを用いる者のことです。彼は聖書を使い、偽りの奇跡で自らを演出します。彼は天から火を呼び下し、像に命を与えます。どう見てもキリストのように見えます――これが反キリストです――聖徒たちを惑わせるよう計算されています。ヨハネは述べています、「私はあなたたちを惑わせる者たちについて、これらのことをあなたたちに書き送ったのです」。彼らはあなたたちのところに来て、「私たちはあることに関する、素晴らしい教え、新しい真理、新しい光を見いだしました」と言います。それがキリストなのか反キリストなのか、真理なのか誤謬なのか、どうすればわかるのでしょう?そのようなことが今日たくさんあるからです。

すでに述べたように、聖霊の御業の偽物があります。それは新生を模倣します、そうです、人生に素晴らしい変化を生じさせます。忘れないでください、心理学は人生に素晴らしい変化を生じさせられるのです。聖霊である必要はありません。よく知られているように、心理学は特定の雰囲気の中で変化を生じさせます。暗示、影響や他の力によって、人々の中に特定の魂の力を生み出して促進することができます。その魂の力により、人々は以前意識していなかった力を感じるようになり、当面の間、その力で事をなし、自分の人生の行程や体制を変えます。そのようなことがたくさんあります。しかし、聖書の御言葉と福音の言い回しで、しかも主イエスの御業にとてもよく似ているように見える外的なしるしを伴って事が起きたら、どうやって見分ければいいのでしょう?「あなたたちが受けている油塗りが、あなたたちにすべてのことを教えます」。あなたは言います、「どうして知っているのかはわかりませんが、知っています。内側におられる聖霊が私に教えてくださるのです。たとえそれが私の思い、私の心にとって知的に印象深いものでも、私の霊は『危険、用心せよ、それは神ではない』と告げているのです」。こうして、あなたは知ります……これが二七節の意味です。この節はクリスチャンの教えとは全く関係ありません。クリスチャンの教師たちをお払い箱にして、立ち去って、「自分たちには聖霊がおられるので、だれからも教えてもらう必要はない」と言ってよい、ということでは断じてありません。そんなことは聖書と矛盾するでしょう。なぜなら、神はキリストにあって教会にご自身の賜物をお与えになったからです――牧者たちと教師たちをお与えになったからです。聖霊は道具たちを通して教会の中で教える働きをしておられます。ですから、教会は教師たちをお払い箱にはできません。これは次の別の問題に、すなわち反キリストの日にもあてはまります。その日、強い惑わしがあるため、もし可能なら、選民ですら欺かれます。どうすればわかるのでしょう?「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいのです」。私たちの内に住んでいる油塗りは、聖霊が私たちの中で全き地位を得る必要性を私たちに知らせ、見せてくれます。なぜなら、今は欺きの日、霊的な人々ですら惑わされる誤謬の日だからです。私たちの中におられる主の霊は、これについて私たちにすべて教えてくださいます。

御霊に満たされた神の子供の中には、名状しがたいものがあります。それによって、あることが正しいか間違っているかを彼らは知ります。それを紙に書き下して、「これは聖書に反することだ」とは言えなくても、自分の中にある油塗りによって、そこには主ではない何か、別の何かがあることがわかります。そして、私たちは今日、油塗りの意義についてのこの知識を必要としています。

もちろん、私たちは自分の偏見を聖霊の警告と取り違えないように細心の注意を払わなければなりません。この肉が十字架につけられないかぎり、聖霊の明確な導きと教えは受けられないことを覚えておくことが大いに必要です。偏見は肉の一部です。私たちの天然的な偏見、好き嫌いは捨てなければなりません。「私はそれが好きではない……」ので「それは危険だと聖霊は言っておられるのである」と考えるのは無益です。古い人はそのえり好みと共に去らなければなりません。聖霊は確立されたカルバリの御業という立場以外では決して機能されません。肉の要素が残っているかぎり、御霊の明確な啓示は決して得られません――私たちは彼の十字架における主イエスとの真の一体化を知る必要があります。それは物事を先取りして、意図していなかった領域に触れることですが、指摘する必要があります。

私たちは、恐れることなく、すべてのみこころに喜んで従わなければなりません。私はあなたたちに告白しますが、私は、人生のある時期に、ある事柄、ある一連の事柄、ある教えを恐れていました。そして、その恐れのせいで、閉じ込められて束縛状態に陥りました。私は主の御前に行ってこう述べる必要がありました、「もしそれが正しくてあなたからのものなら、自分がどれほどそれを恐れ、それを好んでいなくても、私は自分をあなたに開きます。そしてもしそれがあなたからのものなら、証しして私にそれを知らせてください」。それが神からであることが立証された事例もありました。また、別の事例では、私が偏見を捨て去らないかぎり、それを私に理解させられないことを、主は明らかにされました。その後、主は、それを受け入れる必要はなく、むしろその逆であることを示されたのでした。ですから、私たちはその事柄から抜け出して、御霊のために道を開かなければなりません。そうすれば、御霊は真理を証しして、その事柄が神からかそうでないかがわかるでしょう。

しかし、本題に戻ることにします。敵は力と惑わしにより、勢力と誤謬によって、主の民を損ない、神の事柄に疑問を呈し、神の御旨に反対しようとしています。これらの両方の線に沿って私たちは敵に対抗します。その両方の線とは、敵の勢力・力・強さ・抵抗・圧力と、敵の欺き・誤謬・嘘です。どのようにしてこの両方の線で敵に首尾よく対抗すればいいのでしょう?「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいのです」。このように、この両方の線で敵の活動が増しつつある今日、私たちが聖なる油塗りの力を知り、御霊に満たされ・支配され・導かれる生活を明確に主に求めることが絶対に必要です。これは、この現在の必要を私たちに認識させる一つの方法にすぎませんが、現在の必要に応じて主の備えも利用できるようになります。そして主は、ご自身の栄光のために、またご自身の証しを完全かつ明確に勝利のうちに維持するために、聖霊の照らしの力をご自身の民に知らせてくださるでしょう。それにより、終わりの時、敵の反対する力はすべて対処されるのです。

さて、このような集会で進行中の反対について、おそらく理解できるでしょう。なぜなら、神の御言葉を広めるためにかつて戦いがあったからには、今晩も戦いがあるからです。しかしそれは、主には求めているものが何かあったこと、そして敵はそれに反対していることを意味します。もしあなたが神の御言葉を握って、それを主に持って行き、その上に立ち、主にそれを有効化してくださるように求めるなら、きっとそれは私たちだけでなく、彼にとっても大きな意味を持つでしょう。それは比較的小さなことかもしれませんが、今日、キリストのからだはこれを知る必要があります。これを切実に必要としています。主はおそらく私たちを、その必要を満たすための道具としてくださるでしょう。それはとりなしによって、務めによって、今日の聖徒たちを勝利と安全の中に保つ様々な方法によってです。主よ、真摯な祈りの中で、私たちをご自身との接触の中にもたらしてください、それは私たちの聖なる油塗りの力が主イエスにあって新たに表されるためです(それをバプテスマとは呼ばないことにします)。主が永遠の御霊の力の中で切り抜けられたように、私たちも切り抜けられます――ただそれによってのみ切り抜けられるでしょう。

主よ、この聖なる油塗りの力を求めるより深い探求に私たちを導き、反キリストの日に私たちを救い、御名のために、直立した龍の日に私たちに勝利を与えてくださいますように。