これから読むのは神の御言葉です。人の言葉ではなく、神が聖霊によって書き記させた神の御言葉です。まず一般的な性質の節を二つ読み、次により具体的な性質の節を一つまたは二つ読みます。最初はローマ八章九節です。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。これは神の御言葉であり、私や他のだれかの言葉ではありません。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。さて、「霊(Spirit)」という言葉は大文字の「S」で綴られていますが、これは主イエスが持っておられた気性を意味しないことを、おそらく指摘する必要があるでしょう。これはそういう意味ではありません。私たちは人々のことを、とても良い気性(spirit)の人々、親切な気性(spirit)の人々、善良な気性(spirit)の人々と評しますが、それは全くそのような意味ではありません。それは聖霊のパースンを意味します。聖霊が内に住んでおられることを意味します。神格の第三格位であり、神の御言葉の中で神の霊として知られているのと同じように、キリストの霊としても知られています。「もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。つまり、その人はキリストに属していないのです。
さて、もう一つの節、この二つのうちの二番目は、エペソ五章十八節にある「御霊に満たされなさい」です。最初の節は私たちを主イエスとの関係に導きます。救われた男女としての、神の子供たちとしての私たちの主イエスとの関係は、聖霊を受けて自分の中に住まわせることに全くかかっています。これは、クリスチャン生活にとって、救いにとって、基本的な必要条件です。二番目の節は、神の御旨にとって同様に不可欠であり、同様に重要であって、命令と要求の性質をかなり帯びています。「御霊に満たされなさい」。
さて、これらは一般的な節です。もう少し具体的な性格の節に向かうことにしましょう。一つは出エジプト記二九章四二、四三節です、「それは入口で常にささげる全焼のささげ物である(中略)天幕はわたしの栄光によって聖別される」。これについては後で再び述べることにします。新約聖書に戻りましょう、第二テサロニケ二章十三、十四節です、「神が初めからあなたたちを選ばれたのは、御霊の聖別と真理信仰によって救いへと至らせるためであるからです。彼は私たちの福音を通して、あなたたちをこのことに召し、私たちの主イエスの栄光を得させてくださるのです」。私は特に「御霊の聖別によって」というささやかな句を強調したいと思います。第一ペテロ「……御霊の聖別によって」。第一コリント六章十一節に戻ります、「あなたたちは私たちの神の霊によって聖別されました」。
さて、御霊に満たされること、という主題を続けることにします。私たちは、すでに述べたように、御霊に満たされることの絶対的な必要性を見てきました――それが私たちに対する神のみこころであることを凄まじく強調してきました。私たちは次のことを見てきました。すなわち、キリスト・イエスにある新創造は聖霊によって内住されている創造であること、神は新創造を実現されたこと、「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、それらは新しくなりました。これらすべてのものは、神から出ています」ということ、そしてそれはすべて聖霊の御業であることをです。さて、御霊に満たされることに関して、そのためには何が本当に基本的なことなのかを知りたいと思います。まず第一に、それに関する包括的なこと、他のすべてを包含することを述べなければなりません。それは、御霊に満たされる包括的な前提条件は聖別である、ということです。
聖別
さて、聖別は聖霊の満たしの前ではなく後に置かれることがとても多いことは私も承知しています。また、聖書の諸々の節を単独でとらえるなら、これを支持しているかのように思われるかもしれません。しかし、聖別を御霊の満たしの後に置くことは、聖別の意味の理解としてはきわめて不完全で不十分です。聖別は、あるとても重要な点において、御霊の満たしの前に来ます。しかし、聖別には次のような三つの段階があります。
第一に、私たちはキリスト・イエスの中で、客観的な存在として、全く自分以外の存在として聖別されます。ヘブル書十章を読めば、それがいかに明確に述べられているかがわかります。ヘブル十章十節にとてもなじみ深い御言葉があります。「そのみこころによって、私たちは聖別されます」。「見よ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と主イエスは言われました、「……イエス・キリストの体が一度限りささげられたことを通して、私たちは聖別されたのです」。次に十四節、「一つのささげ物によって、彼は聖別されつつある者たちを、永遠に完成されたからです」。「そのみこころによって、イエス・キリストの体が一度限りささげられたことを通して、私たちは聖別されたのです」。これは私たちとは全く別に、私たちの外側でなされることです。これはキリストにある聖別です。私たちの聖別は、キリストにあって、彼の十字架の御業によって完成されました。それは完成されており、絶対的であり、十字架における御業のゆえに、主イエスのパースンの中に守られています。そして、私たち信じる者、彼とその御業を信じる者は、その信仰によって、彼の中にある救いを受け継ぎ、そしてキリストにあると称されるようになります。そして、キリストにあって私たちは、自分の行いとは関係なく、彼ご自身の御業によって完全に聖別されます。これは立場による客観的な事柄です。
これについてはさらに述べるでしょうが、それに続く第二の段階は、私たちの側の行為です。それは、私たちが自発的に神へと分離されるようになる行為です。
さて、聖別の性質について考えてみましょう。聖別とは何でしょう?これは重大な言葉であり、これについて非常に多くのことが書かれてきました。そして、聖別の第三段階(これについてはすぐに触れることにします)がしばしば入り込んで、この言葉の真の意味を混乱させています。旧約聖書はこの言葉で満ちています。ヘブル語の翻訳は「奉献された」、また別の言葉は「ささげられた」です。何かを神に聖別し、奉献し、ささげるときには、まさに次のことが行われました。すなわち、それは取られて、あらゆる種類の関わり、すべての古い関係やつながりから切り離され、尊い血の効力によって清められ、その時から全く神に属するものとして認識されたのです。それは神のものでした。神のためのものでした。神がそれに対する権利、それに対する所有権をすべて持っておられました。神以外にだれもそれに対する所有権を持っていませんでした。それゆえ、それは奉献されたもの、聖別されたものと呼ばれました。
さて、これはとても単純です。これが聖別の第二段階です。それは、全く神のための者になること、絶対的に神へと分離されることを、熟慮して選び取る行為です。男子修道院や女子修道院に行って、この世の他の人々や仕事などから離れること、という意味ではありません。今後はただ神のために関心を寄せるようになること、という意味です。家庭に関心を寄せるのはそれが神の関心事だからであり、仕事に関心を寄せるのはそれが神の関心事だからであり、人々に関心を寄せるのはそれが神の関心事だからです。私たちが人生の中で持つあらゆる種類の関心は神のためであり、彼の目的のためであり、彼の御旨のためであり、彼の栄光のためです。ですから、私たちは神へと聖別されており、神のみこころ・神の御旨・神の関心と全く一致しない関わり・つながり・関心・いかなる種類の関係も自発的に持とうとしません。今やすべては神のためであり、私たちの人生は全く神のためにあります。これが行いによる聖別です。私たちはキリストにあって神へと分離される立場を取ります。私たちが自分の大きな特権を理解する時、日、瞬間がやって来ます。その特権とは、私たちは神のものであり、神のみこころのためである、ということです。そして、私たちは自分自身を神にささげます(聖別する、という別の言葉を用いてもいいでしょう)――つまり、自分自身を全く主に与えます。これが行為による聖別であり、第二段階です。
聖別の第三段階は、ほとんどの人が他のどの段階よりも優先している段階です。それは漸進的な面です。キリストにあって私たちの立場であるもの、そして神への献身という私たちが熟慮して行った行為と選択の結果が、今や、聖霊の働きによって、私たちの中に漸進的に伝達されるのです。つまり、キリストに似た者にされるという意味で私たちは日毎に聖別されつつあり、私たちの代表者である彼が分離されたいっさいのものから日毎に分離されつつあるのです――悪しきものであるこの世から、神の御心に反するいっさいのものからです。彼はご自身の十字架によってそれらすべてのものから分離され、神へとささげ尽くされました。しかし、それは代表者としてであり、私たちのためだったのです。十字架上で神に対してささげ尽くされたキリストは、神のみこころによると、すべての信者の型であり代表なのです。
ですから、彼は私たちと同じように聖別されています。次に、私たちは彼に結びつけられ、絶対的・徹底的に神にささげきっておられる彼に結合されます。すると、聖霊はそれを経験的な方法で内側に造り込み、それを立場的・状態的なものに、客観的・主観的なものにしてくださいます。
さて、主は明らかに私たちの土台に関心を持っておられます。そこには聖別の三つの面があり、特に一番目と二番目の面が聖霊の満たしの絶対的基礎です。次のことを見ないかぎり、私たちは決して御霊に満たされることはできません。第一に、主イエスは絶対的に神にささげられた生活を神の御前で代表しておられること。次に、私たちはその立場に基づいて熟慮したうえで明確な一歩を踏み出して、こう述べたことです、「彼が神のためであられるように、私も神のためです。私は神に全く献身しておられるキリストに結合されることを選びます。彼が神にささげきっておられたのと同じ程度にまで、私は神にささげきって、神に反するいっさいのものから切り離されることを選びます」。この根拠だけが、私たちが最初に御霊に満たされるための唯一の希望なのです。
主イエスの御業が聖霊の御業の基礎であることがわかります。これが出エジプト記二九章のあの素晴らしい節を読んだ理由です。この御言葉には本当に大きな感銘を受けてしかるべきです。それはこう述べています、「それは入口で常にささげる全焼のささげ物である」。入口は中に入る所であり、通路でした。そしてあの幕屋はキリストの表現、型でした。キリストの中に入るのは、入口で常にささげられている全焼のささげ物によってです。この全焼のささげ物は神へと焼き尽くされました。この入口と、常にささげられている全焼のささげ物を通り抜け、まっすぐに進み、マナを通り過ぎ、聖所を通って至聖所に入ります。すると、何が見つかるでしょう?それを満たしているシェキナの栄光です。どんな理由でシェキナの栄光が幕屋を満たしているのでしょう?何が神の栄光を中にもたらすのでしょう?常にささげる全焼のささげ物です。あの常にささげる全焼のささげ物は十字架における主イエスの御業を表しています。十字架の御業のゆえに栄光がもたらされますが、栄光とは何でしょう?それは、「栄光の御霊」とはっきりと呼ばれている神の御霊の臨在です。聖霊は聖別者です。「それはわたしの栄光によって聖別される」とこの御言葉は述べています。言い換えると、聖霊の臨在によって聖別されるのです。聖霊がご自身の臨在によって天幕を聖別されます。聖霊は栄光の御霊ですが、彼が来て聖別されるのは、入口で常にささげられているあの全焼のささげもののゆえなのです。
二つのものが一緒にされます、最初のものと最後のもの、すなわち、いけにえである全焼のささげ物と聖別の栄光です。この二つが一緒にされて、一つになります。これはまさに、聖霊による聖別にはカルバリの基本的な御業が必要である、ということの言い換えです。カルバリで神へと絶対的に分離されます。私たちが十字架におけるキリストの御業を受け入れるときはじめて、聖霊は御業を行えるようになります。そして、十字架におけるあの御業により、ご存じのように、私たちは古いアダムから、肉から、そして神が捨てて排除されたあの旧創造に属するいっさいのものから分離されます。これはあの十字架によります。キリスト・イエスにある新創造へと分離されるのです。聖霊はカルバリ、十字架の御業に基づいて働かれます、そのようにのみ働かれます。「常にささげる全焼のささげ物」と「わたしの栄光による聖別」、御霊の聖別。新約聖書には「御霊の聖別」という言葉が何度も出てきます。これは聖霊による聖別ですが、聖霊の聖別は十字架における主イエスの御業に基づきます。そもそも私たちはこうして聖別に至るのです。
さて、御霊による聖別に関連して、他に一つか二つのことを見てみましょう。この件では信仰の明確な行為が必要です。キリストと十字架における彼の御業とを、信仰によって把握することと証しすることが必要なのです。これを二つの部分に分けることにしましょう。
キリストと十字架における彼の御業とを信仰によって把握する必要があります。「キリストを把握する」とは、イエス・キリストは歴史上実在した人物であり、とても素晴らしい仕方でこの世に来て、とても善良な生活を送り、行き巡って善を行い、とても素晴らしいことを語り、残酷な死を遂げ、復活されたと記してあることを、信じることだけではありません。次のこともはっきりと見なければならないのです。すなわち、主イエスはこの人類の中に来て私たちの代表者となられたこと、彼は罪なきご自身の上に人として全人類の罪を負い、人類とその罪と罪深い性質をご自身のパースンにおいて十字架に渡されたこと、十字架で神の裁きは人類の代表である彼の上にすべて注ぎ出されたこと、そして彼は私たちの代わりに、私たちの代理として、神の裁きの下で死なれたことです。私たちはこれを見なければなりません。彼は私たちとして神の裁きの下で死に、断ち切られました、それゆえ、彼はすべてを包括する罪人として、自らの自発的な行為と選択によって、神による対処を引き受けてくださったことがわかります。神に関するかぎり、もはや罪の裁きは全く必要ありません。神が彼を死人の中からよみがえらせたとき、神は彼が引き受けた罪を全く取り除いて彼をよみがえらされました。その罪はもともと彼の中にはなかったのですが、彼が引き受けたものだったのです。彼は全くの新創造であり、罪がなく、裁きの必要性や力を超越しておられました。神は彼を、ご自身が生み出そうとしている新しい人類の代表として、ご自身の右に連れて行かれました。そして、罪と死と裁きという点で私たちの代表だった彼は彼処におられます。今や彼は、罪がないこと・咎めがないこと・永遠の命・栄光という点で私たちの代表です。これがキリストのパースンであり、私たちは彼を代表者また身代わりとして見なければなりません。神の御心においては彼は私たち自身です、ですから私たちは彼をそのように受け入れます。
さて、これは単純な福音であり、そのようにキリストについて新たに思い巡らすことは、わたしたちのだれにも何の害も及ぼさないでしょう。信仰によって私たちはキリストを自分の救い主と認めます、もしそうしないなら、キリストによる解放を私たちが受け入れなかったがゆえに、神が私たちのために彼に下した裁きが私たちに下ることになります。キリストを私たちの罪を担う方として受け入れないなら、私たちはキリストが自ら負われた罪の責任を負わなければなりません。「キリストにある」ことは私たちが罪の刑罰と裁き、そして神の怒りから逃れたことを意味します。キリストにあって受け入れられるには、神の解放と救いの道を受け入れなければなりません。
さて、私たちは信仰を行為によって思慮深く行使して、キリストと十字架における彼の御業とを把握し、彼と彼の御業を自分のために受け入れなければなりません。なぜなら、それは私たち一人一人のためだったからです。十字架上のあの御業はみな、全世界のためであるのと同じように個人のためでもあります。私たち一人一人のためでもあります。御霊に満たされよという神の偉大な命令を、それが意味するいっさいのところと共に果たすうえで大事なことの一つは、キリストのパースンと十字架による彼の御業とを把握する神聖な信仰の行為です。しかし次に、それには第二の部分があります。それに対する証しを担うことです。御言葉によると、クリスチャン信者たちの初期の時代、彼らがキリストに関するこの偉大な真理、すなわち彼が何者なのかを見て、信仰によって彼を受け入れ、彼と自分たちのための彼の御業とを把握するやいなや、彼らが次にしたのは、自分たちの信仰と自分たちがキリストを受け入れたことを証しすることでした。彼らはそれを公に証ししました。自分たちの立場を宣言し、この件に関して自分たちがどこにいるのかを、見ることができるすべての人に見せました。そして、これは不可欠な部分です。神の御言葉から、「自分の心で信じ、自分の口で主イエスを告白するなら、あなたは救われます」と告げるだけでは十分ではありません――この問題に関して自分たちがどこに立っているのかを公に宣言しなければならないのです。
さて、先に進むことにします。これから述べることは繰り返しのように見えますが、そうではありません。御霊に満たされるための次の条件はこう言えるでしょう。すなわち、神への絶対的な明け渡しです。
神への絶対的な明け渡し
前の章では、別の言葉「服従」を使いました。さて、それが好きかどうかは別として、それは正しいです。「服従」と「明け渡し」のどちらを好むにせよ、それは真実です。新約聖書では「服従」よりも「明け渡し」の方が多く使われているように思われます。
ローマ六・十六、十九、「あなたたちは知らないのですか?だれかに自分を僕としてささげて従順になるなら、あなたたちは自分が従っている者の僕であって、死に至る罪の僕となるか、あるいは義に至る従順の僕となるかです。私はあなたたちの肉の弱さのゆえに、人間的な話し方をします。あなたたちは、自分の肢体を僕として不潔と不法にささげて不法に至ったように、今や自分の肢体を僕として義にささげて、聖別に至りなさい」。聖別、聖別に至る明け渡しに注目してください。
さて、この明け渡しや服従にはどんな意味があるのでしょう?ローマ十二・一「あなたたちの体をささげ、明け渡しなさい」、ここに最初の接点があります。一コリント六・十九、二〇「あなたたちの体が聖霊の宮であることを知らないのですか?」。二コリント五・十五「彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が(中略)彼らのために死んで復活した方に生きるためです」。今、私がこれを強調しているのは、これが常に強調されているわけでも、十分に強調されているわけでもないからです。
私たちはおそらく、いわゆる自分の「心」や自分の霊を主に服従させることや明け渡すことについては、とてもよく受け入れます。献身や聖別(あるいは服従や明け渡し)を内面的なものと思っています。それは正しいことです。しかし、神は全存在を要求されます。霊・魂・体を要求されます――これが全き献身の意味です――全き聖別とは、男であれ女であれ全存在、つまり霊・魂・体が主にささげられることです。神が「あなたたちの体は聖霊の宮なのです」と仰せられるとは素晴らしいことです。これが意味するのは、聖霊は私たちの心の中に住んでおられ、私たちの心は私たちの体の中にあるのだから、こうして論理的に私たちの体は聖霊の宮となる、ということだけではありません。そうです、もっと直接的・即時的な形で、これらの体が聖霊の支配・統治・麗しい聖化に全く服すべきことを神は要求されます。私たちは自分の体と自分の魂や霊で別のことはできませんし、内側だけあるいは外側だけクリスチャンでいることもできません――全存在が神のものなのです。
「あなたたちの体が聖霊の宮であることを知らないのですか?」「あなたたちは代価をもって買い取られたことを知らないのですか?」「あなたたちは自分自身のものではないことを知らないのですか?」。この三つの問いかけは何を意味するのでしょう?なんと、あらゆる点で私たちのあらゆる部分を神は要求されるのです。それはみな神に属するものとして認識されるべきであり、私たちは霊・魂・体を全く神のものとして明け渡さなければなりません。
「あなたたちは自分自身のものではありません」。人は自分で進路を決め、自分で道を選び、自分で手配し、自分で判断する自由を好みます。しかし神は、人の生活のあらゆる部分を統治することを要求されます。これが聖別であり、神の権利が私たちの存在のあらゆる部分において認められるようになることです。これは厳しい面、要求の面であり、諸々の権利が絡んできます。神の権利が絡んできます。ああ、言語を絶する特権と栄誉よ、人の全存在が神に属するものになるとは……人の全存在――霊・魂・体――の中に神がご自身の道と喜びを持たれるとは。神に自分をささげたら何かを失うことになる、とでもあなたは思っているのでしょうか?神に献身することで人生はより卑しく、小さく、狭いものになる、とでも思っているのでしょうか?完全に神のものになるなら、あらゆるものを手放さなければならず、人生から楽しみや喜びが奪われる、とでも思っているのでしょうか?宇宙にこれほど大きな嘘はありません!神のためにこの世を捨てた人に尋ねてみなさい、彼らは言うでしょう、「それには計り知れない益がある」と。私たちの中にはこれについて多少は知っている人もいますが、私たちは救われていない人と代わりたいと思うことすら嫌です。それは彼らが知っているものを私たちが知らないからではありませんし、彼らが味わっているものを私たちが味わったことがないからでもありません。むしろその逆です。彼らの心の中にはせいぜい空しさがあるだけで、それを何とかするのにすべての時間を費やしています。楽しみが少しでも尽きようものなら、彼らは急いでもっとましなものを見つけなければならず、さもなければ人生は空費され、惨めなものになります。しかし、私たちの心の中には永遠の満足があり、そんなこととは全く無縁です。世人は言います、「あなたたちはあれもこれもしないし、あちこちへ行くこともしない、それでもたいして気にしていないようだ」と。確かに、そのとおりです。これが証しです。これは事実です。
全き献身は人生を狭めるものではありません。人生を豊かにし、人生の秘訣に導き、存在理由を知らせてくれます。それはあなたをこの世界が創造される前の神の御思いの中に導きます、「私たちは世の基が置かれる前からキリストにあって選ばれていたのです」。そして、神は世界が存在するようになる前から御子にあって御旨を定められました。しかし、キリストを受け入れないかぎり、あなたはこれに決して気づきません。その時、若い回心者がまさに最初に知ることは、自分には何か生きる目的があるということです。なぜだかはわかりませんが、「今、なぜ自分がこの世に生まれてきたのかがわかりました」と感じます。目的が生まれます。全く神のものになることは失うことではなく得ることです。すべてが拡大されることです。
このおなじみの繰り返しを忍んでください。全く主のものになることは決して損失を被ることではなく、むしろ、自分に対する主の御心と御旨の中に完全に入ることです。これを私たちが知ることを主は望んでおられます。「あなたたちの体をささげなさい」。これは私たちへの課題ではないでしょうか?私たちはこれらのことを切り離し、聖別を内なる人に属するもの、霊的なものと考えてきましたが、自分の体を聖別の対象にはしていなかったのではないでしょうか?私たちは自分の体をどうしているでしょう?それらは神のものです、聖霊の宮です。これはコリント人たちに対して述べられました。しかも、このコリント人たちがこの偉大な事実を認識していなかった時に、彼らの振る舞いを正すために述べられたのです。彼らは主の子供たちであり、再生されていましたが、本来あるべき状況にはありませんでした。彼らは宗教の領域でキリストを告白し、キリスト教の儀式や規則を実行していましたが、体の領域では依然として深刻な過失を犯しており、この二つを分けていませんでした。「あなたたちはこれらの体が聖霊の宮であることを知らないのですか?あなたたちは自分自身のものではないことを知らないのですか?あなたたちは代価をもって買い取られたことを知らないのですか?ですから、あなたたちの体において、神の栄光を現しなさい」。これが聖霊による聖別であり、十字架の働きであり、栄光へと至る霊の聖別への道を敷くのです。
従順と祈りと御言葉の必要性
御霊に満たされるために、そして御霊に満たされ続けるために必要な三つのことについて、あまり掘り下げずに述べることにします。次は、従順です。つまり、神を信じ、神への信仰に基づいて行動し、神が指摘されるいっさいのことで神に従うことです。これは、議論したり、質問したり、疑ったりせずに、神に何かを指摘されたら、疑わしきは神に譲ることを意味します。これが従順です。暗黙の従順に通じる神への信頼を少しでも差し控えるなら、聖霊を直ちに悲しませ、制限することになります。忘れないでください、「悲しませる」という言葉は愛の言葉なのです。あなたは自分を愛していない人を悲しませることはできません。彼らを傷つけること、ある意味で損なうことはできますが、悲しませることはできません。「聖霊を悲しませてはならない」とあるのは、御霊の愛に逆らってはならない、自分に対する御霊の愛を侵してはならない、ということを意味します。つまり事実上、御霊が反対しておられるものは何であれ、一瞬たりとも容赦してはならないのです。もし容赦するなら、あなたは御霊を悲しませ、直ちに御霊は制限されます。御霊に対する従順は神の愛に対する従順です。これが御霊に満たされることと、御霊に満たされ続けることの基本です。
他に二つのことを述べなければなりません。一つ目は祈りです。祈りの生活を無視しないでください。もし無視するなら、聖霊は再び妨げられて、御霊に満たされた生活という喜ばしい経験はなくなってしまうでしょう。祈りの生活に注意してください。敵は常に御霊に満ちた生活の強力な結果に対抗しようとしています。敵の攻撃の主な狙いは、個人的な祈りの生活を縮小すること、短縮すること、邪魔すること、あなたの祈りの生活に密かに陣取るために手を尽くすことです。これは聖霊と、聖霊があなたの祈りの生活の中で生み出される結果とに反対する働きです。
二つ目は御言葉です。神の御言葉の中にある豊かな命が、御霊に満たされた生活には不可欠です。御言葉の中にしっかりととどまらなければなりません。聖霊が神の御言葉の代わりになってくださる、とは思わないでください。多くの人は、聖霊が働いて自分たちに話すメッセージを与えてくださると考えて、神の御言葉に関して何もしません。これは悪質な罠です。「キリストの言葉をあなたたちの内に豊かに住まわせなさい」と御言葉は述べています。聖霊は、私たちの中で働くための道具や手段として、内住の御言葉を要求されます。聖書を知的に把握するだけでは不十分です。私たちは主に関する理論的知識を持ちたいとは思いません。聖霊が御言葉を照らし、浮かび上がらせ、御言葉によって私たちを導かれるよう、私たちは神の御言葉の中に生きたいのです。
覚えておられると思いますが、ヨシヤの偉大な復興の時代にはすべてが「神の御言葉にしたがって」行われました。「ダビデの言葉にしたがって」「ソロモンの言葉にしたがって」と、なんと繰り返されていることでしょう。すべては「御言葉にしたがって」行われました。つまり、彼らは御言葉に行ったのであり、彼らの行動は聖書によって治められていたのです。そして、聖霊は私たちの生活を神の御言葉によって統治しなければなりません。自分の生活を御言葉の中に浸すように注意してください。そして、敵も同じように私たちの時間を独占しようとしていること、しかし私たちは神の御言葉に浸されたこの生活を送らなければならないことを、忘れないでください。真に御霊に満たされた生活は、神の御言葉を豊かに賜る生活であり、御言葉の中におられる神と共に常に歩む生活であることに、あなたは気づくでしょう。これらは単純で、初歩的で、基本的なことですが、とても必要なことです。
さて、私たちは御霊に満たされるための根拠を見てきました。私たちは自問しなければなりません、「私は神の御言葉に浸された生活を送っているでしょうか?それがなおざりになっていないでしょうか?それは貧弱で縮んだ状態にあるのではないでしょうか?」。今、これを正すつもりはあるでしょうか?私たちの祈りの生活についてはどうでしょう、そうあるべきだと自覚しているよりも低い水準に、主が望んでおられるよりも遥かに低い水準にあるのではないでしょうか?私たちの従順についてはどうでしょう?主が私たちにお告げになったこと、私たちの内に示されたこと、おそらく私たちを叱責されたこと、私たちにしてほしいことやしてほしくないことはあるでしょうか?主に対して従順になるべき点がどこにあるのかは、おそらく私たち自身が一番よくわかっています。私たちの内にある聖霊の命についてはどうでしょう――従順を差し控えているせいで妨げられてはいないでしょうか?全存在を主に明け渡すことについてはどうでしょう?魂だけでなく体をもささげることについてはどうでしょう?体の領域のどこかで御霊を侵害しているのではないでしょうか?私たちは体に関する問題で、「これは神の御心に適っているでしょうか?自分の体の使い方、扱い方、取り扱い方、放置する場は、全く神に栄光を帰すものでしょうか?私の道楽は全く神に栄光を帰すものでしょうか、私がそうするのは神のためでしょうか?「あなたたちの体をささげなさい……あなたたちの体は聖霊の宮であることを知らないのですか?」。そこで最初の話に戻りますが、聖霊をまだ宿していない人たちについては、「あなたたちの体は聖霊の宮である」とは言えません。あなたは主イエスの十字架の御業を自分の救いのためにすべて受け入れたでしょうか?どうかこの取引があなたと主の間でなされますように。