第五章 命・聖潔・真理の御霊

T. オースチン-スパークス

朗読:黙示録四~五章、一・四~六、四・五、五・六。

これらの御言葉の一つか二つの特徴に注目していただきたいと思います。そこには、この章について私たちが心に抱いていることの背景を形成するのに必要ないくつかの点があります。

まず、ここで「私は御霊(the Spirit)の中にいた……」と二回述べられていることに注目してください。これは、まず黙示録一・十で、次に黙示録四・二で述べられています。どちらの場合も、御霊(Spirit)は大文字の「S]で綴られており、そう綴られるべきです――「私は御霊(the Spirit)の中にいた」。これは「私は霊化された」という意味ではなく、「私は御霊の中にいた」という意味です。これは覚えておくべき重要なことです。これについてはやがてもう一度言及することにします。

次に、ここには主イエスについての二つの提示があります。一章では、主イエスの素晴らしい特徴が提示されていることに気づきます。「わたしはアルファでありオメガである」。この章のさらに後ろの箇所では、「人の子のような方が、足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯を締めておられた。彼の頭と髪は羊毛のように白く……」云々とあります。次に四章で、主イエスが啓示・提示されます。彼についての二つの提示が、使徒が御霊の中にいる時に臨みます。そして、神の七つの霊に二回言及されています、実際には三回であることがわかります、黙示録一・四「彼の御座の前の七つの霊から」、黙示録四・五「御座の前で燃えている七つのともし火、それは神の七つの霊である」、そしてまた黙示録五・六「ほふられたような小羊が立っていた。それには七つの角と七つの目があった。それは神の七つの霊である」。三回、この句が出てきます。

そして最後に、この前置きとして、二つの異なる期間について言及されていることに注意してください。一章では、そして一章から三章の終わりまでは、主イエスが諸集会を扱われる経綸について描写されています。三章でこの期間が終わり、四章では地上に住む人々に対する主の統治を見せています。二つの異なる期間が、それぞれ別の組の人々を扱っています。さて、神の七つの霊に関連して出てくる偉大な諸々の原理を理解するには、これらのことをおさえておくことが重要です。

まず、聖霊について「私は御霊の中にいた」と言及されていることに気づきます。次に、この三つの章を通して、聖霊について「御霊が諸教会に言われること」と何度も言及されています。次に二番目の期間、新たな状況では、「私は御霊の中にいた」とありますが、聖霊の直接的な活動についてはそれ以上何も述べられていません。しかし、神の七つの霊について二回言及されています。これはとても重要であることがわかります。なぜなら、これは、聖霊は神の御心に関連して働いてこられたことを意味するからです。聖霊は、神の御思い・神の御心・神の御旨を表す状態を生じさせるために働いてこられました。そして、御霊は使徒を、主イエスが即位して統治する活動を開始しようとしておられる御座の前に引き上げます。御霊は使徒を彼処のその所に引き上げて、この統治する活動が始まるのを見せましたが、それはあたかも神の七つの霊はキリストにおける神の御心を示すものとして啓示されているかのようです。そして御霊は、この統治が完全に確立されたキリストにおける神の御心――それが神の七つの霊によって示されています――とどう関係しているのかを示されます。使徒が今見ているのは、聖霊が何に向かって働いてこられたのか、そしてそれがそれ以降の神の統治の基準になっている、ということなのです。

まるで神が基準を定め、聖霊がそれに向かって働いてこられたかのようです。それが彼の機能であり、彼の目的でした。そして今、その基準は彼処にあり、その基準に関する統治が始まります。すべてはその基準にどれだけ近いかによって決定されます。その基準は積極的な統治基準であり、神の七つの霊によって示唆されているキリストにおける神の御心にしたがって検査し、裁き、審問します。神の七つの霊は主イエスに関する神の統治する活動を意味します。

この二つの節、この二つの期間で、主イエスが示されています。一つ目は諸教会に関して示されており、それに関連して七つの御霊がおられます。二つ目は地上に住む者たち、地の住人たちに関して示されています。どちらの場合も主イエスを見せており、どちらの場合も七つの霊が主イエスに関して働いておられます。その働きとはまさに次のようなものです、すなわち、高揚と栄光と統治の地位についておられる主イエスと結ばれているこれらの七つの霊は、主イエスの完整で充ち満ちた完全さを表すのです。

ここで七つの霊について異なる象徴が使われていることにお気づきでしょう。一つ目の節には「御座の前の七つの霊から」とあります。二つ目の節、四章には「御座の前で燃えている七つのともし火」とあります。三つ目の節には「小羊には七つの角と七つの目があった。それは七つの霊である」とあります。これが主イエスです。さて、ご存じのように、七という数字は霊的完璧さ・完全さを意味します。この小羊には七つの角があります。これは主イエスの完全な力を意味します、なぜなら角は常に強さや力を象徴するからです――つまり彼の霊的力の完全さを象徴します。七つの目は完全な霊的視力、理解力、識別力、知識を象徴します。七つのともし火は完全な霊的聖さを象徴します。精錬し、浄化し、聖なるものを生み出すために燃える火です。

これらの七つの霊は、そのすべての型において、統治する地位と能力を持つこの御方と関係しています。聖霊は主イエスによって代表されるその基準に向かって働いてこられました。今や、すべてがその基準にしたがって決定されることになります。これが統治です。その基準は主イエスの霊的完全性の総計です、神としての神の霊的完全性ではなく、苦難・検査・試練を通して完成された霊的完全性です。苦難を通して完成されたのもまた代表的な人としてであり、神はこの方を、その霊的な在り方のゆえに、統治するあの地位に就かせたのです。

「この書を受け取って、その封印を解くことができる者は誰か?」という叫びが上がったことがわかります。それができる者は天にはだれもいませんでした。しかし、「私が見ていると、御座の中央にほふられたような小羊を見た。それには七つの角と七つの目があった。彼は来て、その書を受け取って開かれた……」。すると、すべてのものが「あなたはふさわしい」と歌い始めました。主イエスの何が、御座についてその統治の書を受け取るのにふさわしかったのでしょう?彼の在り方、つまり彼ご自身の霊的美徳、苦難を通ってなった彼の在り方です。これが神の基準です。統治は神の基準にしたがってなされるのであり、この基準を主イエスは自ら実現して代表しておられます。この主イエスは彼処で御座についておられ、苦難を通して霊的に完全な特定の状態にもたらされたのです。

さて、これが人に対する神のすべての取り扱いの基礎です。最初は教会(単数形)や諸教会(複数形)に対するものであり、他方は残りの人々に対するものです。簡単に述べると、どんな基礎に基づいて神は裁かれるのか?どんな基礎に基づいて御座は統治するのか?ということです。それは、神の御思いの表現としての主イエスの霊的な在り方という基礎です。神は栄光を受けた人なる方においてある霊的基準に到達して実現されましたが、この神によってすべては検査されることになります。神はこの基準を彼処で御座についているこの御方において実現されました。そして、神はこの人なる方によってすべての人を検査されるでしょう。こうして使徒行伝十七章で使徒が宣言した言葉が実現されます、「神は、その人、すなわちイエス・キリストによって、義の中でこの世界を裁く日を定められました」。しかし、私の念頭にあるのは、神としてこの地位についておられるイエスではなく、黙示録における人の子としてのイエスです。それは人の子です、「わたし、イエスは……」。それは人の子としてのイエスです。人々に対するこの立場に、キリスト・イエスは試練・検査・苦難の火という線に沿って到達されました。彼は苦難を通して完成されました。今や神は、ご自身の御子という基準にしたがって、この人、人なるイエス・キリストという基準にしたがって、すべての人を検査しようとしておられます。何が私たちの裁きの基礎となるのでしょう?主イエスの在り方です。聖霊はこれを目指して来臨しました。聖霊が来臨したのは、あなたや私の中で働いて、私たちをこの基準に導き、この水準に引き上げ、私たちの中に(そうです、苦難を通して、試練を通して)主イエスの霊的完全性を発達させるためです。そして、私たちは立ってキリストの内的要素というこの基準にしたがって裁かれることになります。

私たちはみな不十分であることがわかります――ああ、私たちはまだそこに至っていません。現時点における私たちの問題は、「聖霊は今、この瞬間に行いうることをすべて行うための許可、同意、従順、協力、信仰を私たちから得ておられるでしょうか?」ということです。明日でも、未来でも、過去でもありません。重要なのは、聖霊が今、私たちの中で自由な道を得ることです。私たちは今日のことだけを考えればいいのです。明日のことは明日考えます。私たちは一日一日を大切にして、聖霊が毎時・毎瞬・毎日私たちの中でご自身の道を完全に得られるようにします。すべての瞬間・時・日を使い尽くしても、私たちはまだ到達していないでしょう。しかし、聖霊がご自身の道を得られるなら、一瞬のうちに、彼は御子のかたちに同形化する働きを完成させることができます。

これは考慮すべき問題です。これが統治の基準であることがわかります。諸教会は言わばその基準の前に連れてこられます。主イエスのこれらの象徴された霊的完全性が表されます。御霊はその基準に関して、キリストにおける神の御心の啓示に関して、諸教会に語られます。そして、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」という訴えが常になされます。なぜなら、御霊が言われることは神の基準と関係しているからです。もし私たちが御霊の働きを自ら妨げて神の基準に達しないなら、私たちの燭台は除き去られ、証しは不明瞭になり、神の御前に受け入れられる立場は陰り、主は裁かざるをえなくなります。「悔い改めなさい」「あなたはどこから落ちたかを考えなさい」「初めのわざを行いなさい」。これが燭台のただ中におられる方の統治です。彼はご自身の霊的在り方に関して、御霊によって働いておられます。その次の経綸は、「現在のこと」の経綸にいるヨハネにとっては新しい経綸でした。四章一節には「これから後のこと」とありますが、基準は依然として同じです。なぜなら神は、この世界のすべての男女が御子のかたちに同形化されることができるようにされたからです。

神が御霊を遣わされたのは、少数の人のためではなく、すべての人のためです。「わたしはすべての肉の上にわたしの霊を注ぎ出す」とあるように、聖霊の活動は普遍的です。あなたには行けないこの世の果てでも、聖霊はそこで働いておられます。彼が来臨したのは、すべての人が御子、イエス・キリストに同形化されることができるようになるためです。そして、最終的にはすべての人が裁かれることになります、善悪の程度によってではなく、他の人々よりも多くの罪を犯したかどうかによってではなく、他の人々よりもましだったかどうかによってではなく、イエス・キリストという神の基準にしたがってです。この基準に向かって聖霊は働いておられます。今や、この基準は、すでに述べたように、七つの霊による活発な霊的力つまり要素によって表されます。七つの霊は、御座に、その地位についておられる主イエスと関係しておられます。七つの霊は主イエスの特定の霊的要素・特徴を表されるのです。

第一に、命の霊です。

命の霊

ともし火、火、角(力)、目(視覚)という言葉を取り上げて、神の御言葉を辿って行くと、命はこれらの特徴を帯びていることがわかります。命は火によって表され、力は復活の命の力(角)です。視覚、理解力は命のしるしです。同じことが他のすべての特徴にも当てはまりますが、ここではまず、七つの霊は命の霊である、という真理のとても単純な声明に話を絞ることにします。

黙示録では、主イエスの積極的な力は、まず第一にどのように示されているのでしょう?「わたしは生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている」「わたしは生きている者である」。黙示録は、御座とそこから流れ出る命の水の川で終わります。命が、高く上げられた栄光の地位についておられるキリストの最初の特徴です。「わたしが来たのは彼らが命を得、しかも豊かに得るためである」。「わたしは命である」。主イエスに関する命から、私たちはなんと多く汲み取れることか!私たちは違反と罪の中で死んでいました。神との関係、神の事柄との関係、天との関係に関するかぎり、死んでいました。私たちは死んでいました……二重に死んでいました、死を内包する罪のゆえに、そして主イエスの十字架によってです。後者により神は、キリストの死において、全人類を法的に死に渡されました。死にました。御霊から生まれないかぎり、私たちに命、キリストにある命の霊はありません。そして、私たちはまず第一に、御座の統治する活動によって取り扱われることになります。それは、私たちが命を、この命を持っているかどうかに基づいてであり、次に、この命が私たちの中にどれだけあるのかに基づいてです。なぜなら、神聖な命の量は信者によって大きく異なることを私たちは認識しなければならないからです。

ある人々は救われており、それは否定できません。彼らは主と取引をしました。しかし、命はどこにあるのでしょう?私が言っているのは、ある種の行動のことではなく、彼らの中にあるあの輝かしい神聖な命の表れのことです。命は自ずと表れるからです。あなたが命を得る時、自分は命を得たことがわかりますし、他の人々にもそれがわかります。聖徒たちが最初にキリストにあって命の霊を受けた時、だれもがそれを知りました。それらの信者のだれかに、「あなたのあの習慣を、あなたは捨てなければなりません」と、一瞬たりとも言う必要はなかったでしょう。それらの習慣は落ちていき、消え去り、離れていきました。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。古いものを排したのは命でした。今日、とても多くの信者がいますが、ああ、彼らは古い習慣、道楽、興味に執着しています。命は古いものを全く排していません。そうするのに十分な命がないのです。第一に、問題は私たちが命を持っているかどうかです。

これがそもそも問題です。まず第一に、あなたは命を得たでしょうか?黙示録は、「だれでも小羊の命の書に書かれていないことが判明した者は……」という問題と共に閉じます。自分は命の書に、生ける者の書に書かれていると、あなたは確信しているでしょうか?次に、命の量についてはどうでしょう?あなたの中で命はますます豊かになっているでしょうか?勝利の命はあるでしょうか、それは力の角であり、視覚と知覚の目である復活の命でしょうか?ご存じのように、聖霊によって主イエスから神聖な命を受ければ受けるほど、識別力は増していきます。霊の命が弱まると、霊の目は曇ります。命が増すにつれて、霊的識別力と理解力は鋭くなります。それは七つの霊の目です。ああ、熱意と情熱の火、七つの霊の燃えるともし火のように燃える火――命――が必要です!私たちが裁かれるのは、たんなる法的な規定によってではなく、自分の現実の霊的状態にしたがってです。七つの霊はキリストが何であられるのかに関して働く積極的な法則であり、七つの霊のこの積極的な法則はまずキリストにある命の霊の法則を要求します。

さて、もちろん、この話題で今晩、そしてこの大会全体を費やすべきですが、ここで述べておきます。今、御座の前で自己吟味しましょう。ひょっとして教会は今、主の法廷に立っており、主は「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と言わざるをえず、「あなたたちには命がない、持つべき量の命を持っていない」という裁きを下さざるをえないのではないでしょうか。これについて個人的に吟味しようではありませんか。

まず第一に、私たちは新生によって、再生によって、聖霊の御業によって、神との取引によって、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命という神の賜物を受けたでしょうか?もし得ているなら、あなたにはそれがわかります。もしあなたが命である方を得ているなら、あなたにはそれがわかります。もしわからないなら、あなたは非常に深刻な不安のうちに主のもとに行き、これについて主に尋ねるべきです、「私はこれまで散々宗教告白や教会通いをしてきましたが、自分の内に命なる方を住まわせている確信がありません」。この問題に決着をつけなさい。次に、自分が主のものだと確信しているなら、命の量についてはどうでしょう?神の命はますます増し加わっていくものであり、主は命の霊で私たちを満たすことを望んでおられるからです。

次に、主イエスに関する七つの霊について、聖潔の霊があります。

聖潔の霊

これは、栄光を受けた人の子であるイエス・キリストのパースンの中にある積極的な原則、積極的な美徳、特徴です。聖霊は、この基準に向かって働くために、ここに聖潔の霊としておられます。今、私たちは、聖潔の霊とどれだけ一致しているかに応じて裁かれることになります。神は主イエスにおいて、人に対する聖潔の基準に到達されました。聖霊が来臨したのは、他のすべての信者において、主イエスにおけるその基準に到達するためです。あの御座の統治する活動は、神がキリストの中に持っておられるものと、聖霊が実際的聖潔に関して私たちの中で行われることと関係しています。

前の章では、御霊による私たちの聖別、つまり霊・魂・体が全く主のものになることについてかなり述べました。覚えておこうではありませんか、私たちは主イエスという神の基準の前に立たなければならないのです。また、聖霊の来臨によって神が可能にしてくださった法則以外のいかなる法則によっても裁かれることはないのです。神はご自身が要求することを実行可能なものにしてくださいます。彼は義であり、公正です。神が要求を課される時は、それが何人に対するものでも、その要求を果たして達成するのに必要なものを必ず備えてくださいます。神が「わたしが聖であるから、あなたたちも聖となるべきである」と仰せられる時、神は聖霊を求める者たちに聖霊を与え、彼らが聖となってご自身の要求を満たせるようにしてくださいます。

問題は、私たちが聖潔のうちを歩んでいるかどうかです。聖霊は自由に私たちの中に聖潔を造り込めるでしょうか、それとも私たちがそれを妨げているでしょうか?それは私たちがどの程度の位置に到達したのかという問題ではなく、聖霊が今この聖潔の問題に関してご自身の道を得ておられるのかという問題です。聖霊は一瞬で聖別を完成させることができますが、それは私たちの関心事ではありません。私たちの関心事は、私たちは今日、聖潔の霊に明け渡されているかどうかです。聖潔の霊が私たちの良心に触れて、何かが間違っていた、あるいは間違っていて、主を喜ばせていないこと、何かがこの命と調和していないことを知らせてくださったときは毎回、私たちは主のもとに行ってその問題を解決したでしょうか?私は罪なき完全について述べているのではありません。「だれでも自分には罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いています。しかし、もし私たちが罪を犯すなら、私たちには御父と共にある弁護者、義なるイエス・キリストがあります。もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます」。神は、信者が犯す罪を即座に処理するための場所と方法を備えてくださいました。それは聖霊に明け渡すことです。これにつけこんで罪を軽く考える人はだれもいないでしょう。

聖潔というこの事柄は神の基準です。神は私たちが認罪に服することを要求されます。そうするなら、聖霊は常に私たちを十字架と罪を清める血に導いてくださいます。しかし、自分には神と共にある弁護者があるという理由で、私たちが罪を軽く扱い始めるやいなや、彼は私たちに辛い時を与え、恐ろしい苦難の期間をすごさせます。私たちは簡単には切り抜けられないでしょう。しかし、魂の苦しみの中で、私たちが悲しみと改悛のうちに御前に出て、へりくだるなら、聖霊はその血を適用して私たちに平安を与えてくださいます。そして、私たちはそう簡単には同じことをしようとしないでしょう。私たちは聖潔の霊に明け渡しました。そして、神は主イエスというご自身の基準に向かって働いておられます。私たちは皆、この基準によって検査されなければなりません。

七つの霊についてのもう一つの点は真理の霊です。

真理の霊

この二重の提示では、主イエスがこれらの特徴をすべて帯びて登場されることに気づきます。彼は彼処に命、生きている者としておられます。彼処に聖潔としておられます、その髪は白い羊毛のように白く、聖潔と清さという冠をかぶっておられ、人を代表する清められた御方です。次に、彼は三番目に忠信で信実な証人として示されていること、そして七つの霊の三番目は真理の霊であることに気づきます。七つの霊に関連して個人的に働かれる聖霊は真理の霊であることに気づきます。

七つの霊は統治の代行者であり、聖霊は七つの霊の統治基準に向かって働く御方です。真理の霊は、主イエスという基準に向かって働く聖霊です。主イエスは真理です、「わたしは真理です」。この黙示録は真理について多くのことを述べています。この書は小羊の命の書という命の問題で閉じると同時に、聖潔の問題で閉じます、「聖なる者にはなおも聖であらせなさい、汚れた者にはなおも汚れたままであらせなさい」。聖潔の問題が黙示録の究極的問題として出てきます。次に、真理の問題とこの書の最後の問題は、この書の最初の基準・問題と同じままです、つまり、キリスト、真実な証人です。この書の最後には、「嘘をつくものはすべて」とあります。最後の基準は真理であるキリストです。

私はたんに、真実な事柄や真実であるとされている事柄について述べているわけではありません、もっともそうしたことも含まれているかもしれませんが。私はたんに、事の真相について、つまり事実として、その意味で真実なものとして信頼可能な事柄について考えているわけではありません。霊の事柄について考えているのです。たんに明言された教理や、真実であるがゆえに確立された事柄ではなく、霊的な性質についてです。黙示録の最後を飾る命の水の川は水晶のように澄んでいます。この書のすべては碧玉です、澄んでいて透明です。主イエスはそのような方です。彼に二枚舌、疑惑、偽善、疑わしさ、欺瞞の影はありません。虚構や不誠実さの痕跡は微塵もありません。彼は真実です、澄んでいます、透明です、碧玉です。彼は神の御前に立つことができます。神の探る目が彼を透視しても、彼の中に絶対的に透明・真実・純粋でないものは何も見つけられません。

昔の祭司たちはいけにえを受け取ると、それをほふり、その内側をくまなく調べて、何らかの欠陥がないかどうか、絶対的に傷のないものかどうかを、可能なかぎり見極めようとしました。そして、一つでもしみや傷が見つかろうものなら、そのいけにえを丸ごと捨てて拒絶しなければなりませんでした。なぜなら、そのいけにえは神にささげられた主イエスを表すべきものだったからです。祭司職が清らかなものだった時は、きわめて注意深い欠陥検査に合格したいけにえしかユダヤ教の祭壇上にささげられませんでした。絶対的に清くないものが何か見つかったなら、そのいけにえは丸ごと拒まれなければなりませんでした。それはキリストを視野に入れてのことでした。キリストは神にささげられて、神に受け入れられました。この基準に向かって聖霊は信者のうちで働くために来られたのであり、この基準にしたがって私たちは測られるのです。