私たちはここのところ御霊から生まれるもの、つまりキリスト・イエスにある新創造に専念しています。
よく知られている二つの節を思い出していただきましょう。一つはご存じのとおりヨハネ三・六です、「肉から生まれるものは肉であり、御霊から生まれるものは霊です」。もう一つは第二コリント五・十七です、「今や、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらすべてのものは神から出ています」。
今ここでの私たちの関心事は、新創造の事実、つまり御霊による誕生の事実ではなく、御霊から生まれるものの性質、この新創造の性質です。ここにいる人はみな、当然、次の事実をご存じでしょう、すなわち、全員が「自分は御霊から生まれたこと、新創造であること、自分に関するかぎり新創造であることを知っている」と心から言える、という事実をです。しかし、みなさんよくご存じと思いますが、再生されたという事実と、生まれたものについて熟知することとの間には大きな違いがあるのです。
体の領域と霊の領域
私たちはみな、天然的に生まれてきました。そうでなければ、ここにいなかったでしょう。しかし、何が生まれたのかを理解するには、専門家やその道のプロが一生を費やす必要があります。それには徹底的で継続的な一連の研究が必要であり、解剖学や生理学が必要です。私たちは自分自身について、つまりこの人間という機械の内外の仕組みについて、結局のところ少しもわかっていないということをますます学びつつあります。結局のところ、私たちはそれについてほとんど何もわかっていないのですが、それについて知ること、自分の存在の性質と諸法則を知ることはとても重要です。人生を充実した健康で楽しいものに保つには、少なくとも体の命に関するより大きな諸法則を知ることがいかに必要かを、私たちは発見しつつあります。その領域における無知は多くの苦しみ、弱さ、損失につながるおそれがあります。
さて、これは体の領域に言えるように、霊の領域にも言えます。私たちは霊の領域の中にいます。私たちは、自分が御霊によって上から新しく生まれたこと、自分はキリスト・イエスにあって新創造であること、という事実を喜んでいるかもしれませんが、他方において、主の民の間には、彼らの霊の命の構成・性質・諸法則に関して、とても多くの無知がはびこっています。私は確信していますが、これがとても多くの弱さや失敗、霊的限界、損失の原因なのです。
私たちは自分自身にではなく主に専念したいのですが、私たちが何であり、どのように構成されているのか、そして私たちの新しい命の諸法則が何なのかを正確に知ることがとても重要です。これにできるだけ完全に、きっぱりと決着をつけるなら、私たちは多くの問題を克服できるでしょう。こういうわけで私たちはその事実にではなく、御霊から生まれるものの性質に専念することにします。そして、主の助けがあれば、御霊から生まれるものの本質的な天的性質と霊性について、最初にしばらく考えることにします。御言葉が「御霊から生まれるものは霊である」と述べているからです。
信者の生活の絶対的に天的な性質
今、その力を十分に実感できるよう願います。神の御言葉が分けている以上、私たちは神の御言葉が分けているものを分けて理解しなければなりません。神の御言葉は霊と魂と体を分けているのですから、私たちはこの違いを認めなければなりませんし、新しく生まれたものは私たちの体ではないことを(これについてはよくご存じでしょう!)再度理解しなければなりません。また、それは私たちの魂でもありません。神の御言葉では魂と霊は同じものではなく、分かれているからです。そして、御霊から生まれるものは霊です。これがこの問題全体の核心であり、御霊から生まれるものの性質の核心、新創造の核心です。しかし、私が特に強調したいのは、その天的性質です。なぜなら、私はこう確信しているからです、すなわち、ほとんどの混乱の原因はここに存するのであり、力と勝利と効力の秘訣に対する理解の欠如の原因はほぼここにあるのである、と。
私は信じていますが、旧約聖書と新約聖書は、おそらく他の何ものにもまして、この方面における過ちによる悲劇的結果で占められています。これは口にするのも恐ろしいことです。旧約聖書におけるイスラエルの歴史は、成功よりも失敗の歴史であり、征服・勝利・前進よりも失望・弱さ・挫折によって遥かに大きな部分が占められていますが、それはまさにこれで説明がつきます。これはすぐにわかるでしょう。
新約聖書に向かうと、新約聖書の大部分はこの一つのことを視野に入れて書かれています。ローマ書から始めて、コリント書、ガラテヤ書、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、そしてペテロ書、ヤコブ書、ヨハネ書へと進んで行くと、一つのことが視野にあることに気づきます。霊的失敗が実際にあったか、それに陥るおそれがあったのです。いくつかの事例では、酷い形の失敗が存在しており、状況を正すために、失われた霊的優位性と霊的力を回復するために手紙が書かれています。他の事例では、危うい状況にあり、危険な気配が漂っていて渦巻いています。そこで、著者らはこの危険を見て、警告して戒めるために書き送ります。失敗の状況が実際にあったにせよ、あるいはそれに陥るおそれがあったにせよ、このすべての問題の核心に迫るなら、旧約聖書においても新約聖書においても、それは次の一つのことによってすべて説明がつくことに気づくでしょう。すなわち、信者の生活の絶対的に天的な性質という事実が誤解されていたか、理解されていなかったのです。今、あなたはそれを書き留めて、神の御言葉に持ち込み、それによってすべてを試すことができます。そうするなら、それが真実であることがわかるでしょう。
旧約聖書における霊的地位の回復
旧約聖書に戻ると、主がご自分の民をエジプトから徹底的に完全に分離されたことがわかります――ひずめ一つもエジプトに残してはならなかったのです。次に、主はイスラエルをこう呼ばれました、「わたしの子……わたしはわが子をエジプトから呼び出した」。またパロに向かって、「わたしの子、わたしの長子を行かせて、わたしに仕えさせよ」。わたしの子……エジプトから。そして、ネヘミヤ書八・十七に向かうと、覚えておられるでしょうが、仮庵の祭りに関してこうあります、「そして捕囚から帰って来た者たちの全会衆は仮庵を造り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からその日までイスラエルの子たちはそのように行ったことがなかったので、非常に大きな喜びがあった」。さて、これに関連して仮庵の祭りが制定された時に戻ると、レビ記二三・三四にはこうあります、「イスラエルの子たちに語って言いなさい、『第七の月の十五日は、七日間にわたるエホバへの仮庵の祭りである。その第一日には、招集聖会がある。あなたたちは何の労働もしてはならない。七日の間、あなたたちは、火によるささげ物をエホバに献げなければならない。八日目には招集聖会を開き、火によるささげ物をエホバに献げなければならない。これは終わりの祭りである。何の労働もしてはならない』」。
さて、ネヘミヤ記八・十三に戻ると、「そして二日目に、民の父祖の家のかしらたち、祭司たち、そしてレビ人は、学者エズラの所に集まって来た。それは、律法の言葉に注意を払うためであった。彼らは、エホバがモーセによって命じられた律法に、イスラエルの子たちは第七の月の祭りの間、仮庵に住むと書かれているのを見いだした。また、彼らのすべての町々とエルサレムに公表し告げ知らせて、『書かれているとおりに、山に出て行って、オリブの枝、松の枝、ミルトスの枝、しゅろの枝、葉の茂った木の枝を持って来て、仮庵を造りなさい』と書かれているのを見いだした」云々。
さて、興味深いことに、これはあなたをエジプトからの脱出にまで連れ戻します。そしてこの思想を神の御心と命令の中にまで遡っていくなら、仮庵の祭り、つまり仮庵住まいは、エジプトから連れ出された民の性質を証しするものだったことがわかります。エジプトは家々の場所であり、地上に定住する場所であり、そこであなたは地に固定されます。エジプトから連れ出すことは、地から引き抜くこと、地の絆をすべて絶対的に断ち切ること、地上の永続的で安定していたものを破壊し尽くして、超然とした分離の場所へと連れ出すことでした。そこでは、この世に関するかぎり、すべてが非常に暫時的で、ゆるやかで、不確かでした。言うなれば、天然の人の観点から見ると非常に不安定でした。確かな住まいはなく、永続的なものを決して建てられません。
ですから、仮庵の祭り、つまり仮庵住まいは、神がその民を地から引き抜かれたことを証しするものとして、維持されなければなりませんでした。そして彼らは、時々仮庵に住むことで、自分たちは天の民であること、神と共に外にいて、絶対的に分離されていることを宣言しなければなりませんでした。さて、これはまさにあの原則に立ち返ることです。そして、この法則を破ったり無視したりしたせいで、彼らはあらゆる問題に陥りました。彼らが地と何らかのつながりを持つたびに、何らかの形で接点を形成するたびに、彼らは霊的高みから降りて来て、興味・関心・意図・期待を抱きつつ地上の物事に触れました。あるいは、状況が自分たちを駆り立て、悩ますことを許した結果、何らかの地的な助けと同盟を組むに至りました。それは直ちに彼らが力を失う原因となりました。なぜなら、それによって彼らは自分の地位を失ったからです。主は彼らから身を引かれました。そして、彼らの敵が、彼らが天的な地位を失ったことにつけこみました。そのため、敗北、失敗、弱さ、苦しみが続きました。今、ネヘミヤ記に、「ヨシュアの日からそのように行ったことがなかった」とあることに気づきますが、あなたはネヘミヤ記の中にいるのです!
ヨシュア記は天上の書であり、ヨルダン川を経て上って行って良き地を所有すること、ヨルダン川で全く断ち切られて天上を所有しに行くことに関するものです……ヨシュア記では、あなたは常に天上の仮庵にいます。しかし士師記では、人々が天上から降りて来るのが見られます。彼らは破壊するよう命じられたものを容認しました。そして、それにより屈して地に向かい、地とのつながりが生じました。こうして士師記は、一つの例外であるマラキ書を除いて、旧約聖書の中で最も悲劇的な書になりました。士師記は、最初から最後まで、敗北、失敗、弱さの書です。なぜなら、人々は自分の天的性質を認めなくなったからです。こうしてヨシュア記に士師記が続き、連続的な敗北の経験の末に、一大捕囚、バビロンに至ります――バビロンはこの地に属する宗教組織であり、人が造って構成したものであり、彼らはその中に陥ります。そして彼らは、主が喜ばれるエルサレムの山々の高みにある天的地位を失いました。
しかし、ネヘミヤ記ではレムナントが帰還するのが見られます。十二部族のうち二つが戻って来ます。そして、彼らは仮庵の祭りを復活させ、自分たちはレムナントとして天的な民であることを宣言します。ここで彼らは天上に戻って、仮庵の祭りが再開します。これはあらゆる回復の法則の一つです――霊的地位の回復、つまり霊的力の回復、神の力の回復です――その法則の一つは、第一に、神の子供の本質的な天的性質を認識することです。これはとてもよく知られている教えであることは承知していますが、私はこう確信しています、すなわち、私たち全員にとって、私も含めて、これがすべての鍵であると。これに決着をつけるなら、他のあらゆることにも決着がつきます。なぜなら、ご存じのとおり、その場所が私たちを試すのであり、その場所がすべてを試すからです。もちろん、あなたはこれを理解しておられないでしょう。少し敷衍する必要があります。ご覧のように、私たちは今や天上に属しています。つまり、もはやこの地のものではなく、この地の組織の一部ではありません――宗教的にもその他の意味においてもです。私たちはもはやこの地やこの世の基準によって支配されていません。もはや人の判断や失敗が私たちの行動や行程を制御することはありません――そうするはずはありませんし――そうしてはなりません。そして、すべてはその場所によって試されます。それは天的なものでしょうか?天で始まったものでしょうか?天から発しているでしょうか?天上によって支配されているでしょうか、それとも、人の判断・理屈・基準・価値観によって生じたものでしょうか?
すべてを試すのはこの場所です。これは述べて伝えるのが難しいことですが、主に「その意味を自分に示してください」と求めてください。しかし、これは生活と奉仕の全体にわたって真実です。すべてを試す試金石は次のようなものです。これは天に属するものでしょうか?それとも、人に属するものでしょうか?上から来ているでしょうか、それとも下からでしょうか?主から来たものでしょうか、それとも地の水準に沿って来たものでしょうか?私たちは人の考え、話、判断、行動によって、宗教的に受け入れられている人の伝統によって、支配されているのでしょうか?この地上に設立された組織によって支配されているのでしょうか。そして、そうするよう期待されているがゆえに、クリスチャンの伝統や受容されているクリスチャンの体制に全くしたがって行動することは正当な正しいことである、という考えによって支配されているのでしょうか?私たちはそういう理由でそうしているのでしょうか、それとも、それを天から直接得ているのでしょうか?試すのはこの場所なのです。
新約聖書における霊的地位の回復
私たちの場所は天にあります。ヨルダン川以降の主イエスは、神の御心にしたがった新しい人、新創造すなわち御霊から生まれたものの模範でした。これに関連して、主イエスのこの地上生涯には、この地上にある何かによって影響されたり支配されたりすることは一瞬一刻たりともなかったことに気づきます。彼が人のある種の要求に応じられたとしても、それは一時の間のことにすぎず、この世の体系の支配権を受け取るよう道徳的に関与しておられた場合に限られていたのであり、それには道徳的な意味も霊的な意味もなかったからそうされたのでした。彼は税金を支払われました。信者は皆、料金や税金を支払わなければなりません。これに道徳的真理は何の関係もありませんが、彼は保留されたことに気づきます。この問題に対する彼の取り組み方から、彼が留保付きでそうされたことがわかります。「彼らの正当な権利に異議を唱えていると思われないように、海へ行きなさい。そうすれば魚が見つかるでしょう」。今や彼はそのすべてに超自然的な要素を持っておられます。彼が税金を支払われたのは、留保付きでした。この世の政府が至高の政府だとは私たちは認めません。
これは、十二人と七十人の派遣にはっきりと表れています。彼はまず、契約外の家や場所に入ることを彼らに禁じました。「イスラエルの家の失われた羊以外のところに行ってはならない」。なぜでしょう?歴史的にご自身の家であるものの内側で、彼はご自身の権利を執行しようとしておられたからです。彼は事実上こう言われました、「あなたたちはわたしが権利を有している所に行きます。わたしには認められ、受け入れられ、尊重される権利があります。あなたたちは行きなさい、そうすればわたしの名の中で、あなたたちの存在はわたしの権利を告げ知らせるものとなります。さあ、もし彼らがあなたたちを受け入れないなら、ちりを払い落としなさい……」云々。彼には権利があります、天的な権利があります。この地上における歩みでは、彼は常にそれを保留されましたが、私が特に考えているのはその面についてではありません。主イエスはこの下界の物事によって支配されず、人が正しいと考えていることによって自分の進路や行動が支配されることを決して許しませんでした。この世が何らかの形で自分に影響を及ぼすことを決して許しませんでした。
地上に組織として存在しているものは、彼の行動に影響を及ぼしませんでした。彼の弟たちが、ある日、仮庵の祭りに関して彼に言いました、「祭りに上って行って、公にあなたの働きをしなさい。事を公にではなく密かに行う者はだれもいないからです」――彼の弟たちも彼を信じていなかったのです。彼の態度は、「わたしはこの祭りに上って行きません――あなたたちは上って行きなさい――わたしの時はまだ来ていません」というものでした。彼らは人間的なやり方や、とても耳障りのいい理屈で、彼に影響を与えようとしました。「片隅で密かに事を行ってはいけません。公の場に姿を現しなさい!何らかの主張があるなら、なぜ姿を現さないのですか?密かに行うのではなく、自分に恥じることは何もないことを証明して、世に見せなさい」。これはみなとてももっともらしい理屈であり、天然の理性からするといくらかの説得力があるかもしれませんが、彼はそれらを脇にやられました。「あなたたちにはできますが、わたしにはできません。わたしの時はまだ来ていません」。彼らが上って行った後、彼は上って行かれました。その間、彼は御父との交わり、天との交わりによって、行くべき時が来たことを悟られました。彼が上って行かれたのは、地の支配ではなく天の支配の下でのことだったのです。
カナでの彼の肉身の母親の事例では、「ぶどう酒がなくなりました……」「女よ、わたしはあなたと何の共通点があるのですか」という会話がありました。これは、私たちの欽定訳が伝えるとても厳しい「女よ、わたしはあなたと何の関わりがあるのですか」という意味ではなく、次のような意味でした、「女よ、あなたの考え方とわたしの考え方は二つの別の領域にあります。あなたが考えていることは、わたしの考えではありません。あなたはこの下界の地上の領域で、これはわたしが自分を誇示する出番である、と考えています……わたしが住んでいるのはその領域ではありません。わたしの視野にあるのは、それよりも大きなことです」。それで、彼はそれを辞退されました。なぜなら、おそらくこの上なく優しい人間的愛情という経路を通って来たものだとしても、彼はご自身の母親の訴えによって動かされようとはされなかったからです。疑いなく母親に大きな愛着と愛情を抱いておられたにもかかわらずです。しかし、彼は天との交わりの中におられました。そして、母親からではなく天から示しを受けて、「水がめに水を満たしなさい」と仰せられたのです。
ベタニヤの二人の姉妹が、自分たちの兄弟のことで彼に、「あなたの愛しておられる者が病気です。どうか来てください」と熱烈に懇願したことは覚えておられるでしょう。彼は留まられました。彼らは影響を及ぼして説得しようとしました。この状況を救うために急ぐべきあらゆる人間的理由があったにもかかわらず、彼は留まられました。そしてついには、人の出る幕や出番はすっかりなくなり、とうとう人間的な希望の根拠は全くなくなりました。その時、彼はこの二人の姉妹に近づかれました。彼は祈ってこられましたが、祈り――それは記録されていません――がかなえられたことに対する感謝しか記されていません。その祈りはおそらく無言の祈りだったでしょうが、その祈りがかなえられたことに対する感謝は耳に聞こえる形でなされました。「父よ、あなたがわたしの願いを聞いてくださったことを、あなたに感謝します。あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださいます」(ヨハネ十一・四一、四二)。そして、彼は「ラザロよ、出て来なさい」(ヨハネ十一・四三)と叫ばれました。地上にいる愛する者たちの説得や影響力、人の必要、人の叫び、絶望的な状況は、かの領域におられる彼に触れることは全くありませんでした。彼はそうしたことをいっさい考慮しようとせず、このことのために地からの分離を保たれました。彼は神の時と神の御言葉を待ったのです。
「子は自分からは何も行うことができません、言葉を語ることも、わざをすることもできません。しかし、父が言葉を語っておられるのであり、父がわざを行っておられるのです」――「父が行われるのを子が見ることは何であれ、子も同じように行います」云々と彼は宣言されました。これはみな、彼の生活においては天が絶対的に支配していたこと、彼はこの地には属していなかったことを示しています。今、彼は新創造、新しい人、御霊から生まれるものを代表しておられます。神の御思いによると、すべての信者は御霊から生まれたものです――この世から絶対的に切り離されていて、その本質的性質においてこの地から絶対的に断ち切られているものです。あなたは私が述べていることを、この原則の誤った適用から守らなければなりません。地上での自分の道徳的義務を無視したり、自分を切り離して男子修道院や女子修道院に入ったりしてはなりません。私が述べているのは、信者の生活の内なる現実に関してです。つまり、すべての信者の内側には真の新創造があるのです。この新創造はこの地に属するものではなく、この地とは何の関係もありません。それは天から下って来て、上から生まれ、天に属しており、そして常に天に引き寄せられています。それで私たちは、自分は地上では旅人であることをますます自覚するようになります。信者はこの世では謎であり、旅人です。私たちはこれを受け入れなければなりません。「あなたたちが世のものであるなら、世は自分のものを愛したでしょう」。世は私たちを知りません。それは、世が彼を知らなかったからです。私たちは地上の謎であり、この地から切り離された存在なのです。
これは、映画やダンス等に行くのをやめて、この世のものではなくなること以上のことです。それは律法的なことにすぎないかもしれません。クリスチャンなのだから、あれやこれをしてはいけない、といった具合にです。物事のその面はかなり律法的で辛いものになるおそれがあります。自分の存在の中核はこの世のものではなく、この世のものとは何の楽しみも交わりも持てないということを自覚することは、また別の問題です。これは信者の生活の中で、次のような点にまで立ち至るでしょう。すなわち、全く途方に暮れてしまって、地的な物事に触れるのがますます苦痛になる、という点です。これは霊的苦痛です。地的なものに触れると、凄まじい反動があって、「死が入り込んだ、束縛された」と感じるのです。そして、主のもとに戻って、自分の地位を取り戻さなければなりません。これが御霊から生まれたものの性質であり、主の御言葉はこれを完全に明らかにしています。
さて、実際に主の証しの中にある私たちにとって凄まじく重要だと私が感じていることを、一つお話ししたいと思います。それは、私たちの性質と構成は本質的に天的なので、神に属するものの中に入る時は上から入らなければならない、ということです。これもまた他の人に伝えるのがとても難しいことであり、主から理解力を賜ることが真に必要な問題です。私を信じてください、今あなたに理解できるかどうかはともかくとして、私が述べていることは、信者や神の僕が認識すべき最も重要で決定的なことの一つであると、私は信じています。それは、神に属するものの中に入る時は必ず、上から入らなければならない、ということです。神に属するものの中に水平的に入ることは不可能です。とても良いもの、神に属するもの、とても真実でその上に神の祝福が宿っているものが地上にあるのを見て、あなたはそれが欲しくなり、その中に入りたくなって、「さあ、その中に入ろう、それに加わろう」と言うのですが……無理です。そうすることはできません。それは不可能です。あなたに申し上げたいのですが、あなたは神の教会に加わることはできません。多くの人が「教会に加わるつもりです」と言うのを私たちは耳にしてきました。それは不可能です。神に属するものに加わることはできません。この方法で神に属するものの中に入ることはできません。水平線から離れてください。真理であれ、奉仕であれ、交わりであれ、あるいは神に属するもののその他のどんな面であれ、それを見て、それに加わろうとしたり、入り込もうとしても、その中に入ることはできません。
この概念全般を表す表現体系があります。クリスチャンの働きを「引き受け」、これこれの交わりの「メンバーになり」、その「中に入」ろうという表現です。しかし、それは不可能だと言わせていただきます。その真理を手に入れ、その真理の中に入ろうとしても、無理です。そのような思考の流れでは不可能です。私たちはどのようにして神に属するものの中に入るのでしょう?まず第一に、地に属するいっさいのものから抜け出すことによってです。これはどのようになされるのでしょう?十字架によってです。十字架は、新しい人を古い人から絶対的に切り離すナイフとして働きます。そこには分離があります。私たちはコロサイ二・十一~十二を読んで、そこではバプテスマと割礼が一つの同じものとして一緒にされていることを再び見ました――キリストの割礼は、肉の体を全く脱ぎ捨てることであり、十字架の言葉の直後に続きます。そして、十字架は切断するナイフであり、それによって肉の体、つまり古い人は全く切り離されます。十字架によって取り囲まれ、割礼され、古い人は全く切り離されます。「彼と共にバプテスマの中で葬られました」。バプテスマは次の事実に対する宣言であり証しです。すなわち、古い人は完全な切除によって除き去られたこと、古い人はこの王国の中に全く入れないこと、この新創造の中に古い人の居場所はないこと、古い人が入る道はないこと、という事実です。古い人は切り離されています。そのため、あなたは新創造に属するものに加わることも入ることもできません。古い人はそのような方法では入れないのです。
次に、「もしあなたたちがキリストと共に死んだのなら、上にあるものを求めなさい」とあります。あなたたちはそこで天の生活を送ります。私たちの国籍は天にあるからです。十字架の天の側にあるものにはみな、天的な価値があります。古い人はその中に入れません。その中にあるものは上から来ています。古い人、旧創造から切り離す十字架の働き――キリストの割礼――が、すべて認識され、受け入れられ、信仰によって取得されました。そして、私たちは信仰により自分の地位に立って主イエスの死の中に入り、神の御前に立てない者として完全かつ永遠に取り除かれました。私たちは葬られ、視界から除かれ、覆われました。そして永遠にわたってこれが天然の人に対するあなたの姿勢でなければなりません。この姿勢が維持されなければなりません。このように否むことを日々実践しなければなりません。これは、古い人を消滅させる、という意味ではありません。霊的に、人の目や神の判断から見て、古い人を排除する、という意味です。私たちは神が置かれた所に古い人を置かなければなりません。古い人の判断、関心、物事の見方、議論を否まなければなりません。すべてを上から得なければなりません。主は物事をこのように見ておられるでしょうか?宗教的な古い人の最善の理屈といえども、これには及びません。古い人が一つの行為によって全く視界から排除される時、永遠に維持されるべき姿勢が次にやって来ます。聖霊による復活の行為です。そして、復活と昇天は神による一つの行為の継続です。神はキリストを死者の中からよみがえらせて、ご自身の右に座らされました。これは復活と昇天です――一つの行為です。復活して天上に至ります。地上に永久に存在するように意図されているものは何もありません。
主イエスの復活後、彼の地上における所在は定かではありません。来ては去って行かれます。全く地上には属しておられません。マリヤが彼を抱きしめようとしたとき、彼は「わたしはもはや地上に縛られるべきではありません」と言われました。マリヤは事実上「決して二度と行かないでください」と言おうとしました――だめです!復活は、新しい領域つまり天の領域への復活を意味します。私たちは今や、定住した形で地に属してはいません。私たちが神に属するものの中に降りて来るとき、それは天上からの者としてです。主イエスが聖霊のパースンの中で降臨したのは、地上に永久に住むためではなく、地上にあるものをご自身の天的な臨在によって天的なものにするためでした。教会が天的な団体となったのは、天の主がその中に来臨してそれを天上の一部とされたからでした。教会は霊的に天上にあり、彼と共に天上に座しています。要点はこうです。神に属するものの中に入るには、今や、死と葬り、復活、昇天を通って、上からの者として入らなければならないのです。それはあなたがどの真理に関してもこう言えるようになるためです、「私がこの真理の中に入ったのは、人の理解力や知的評価という線に沿ってではありません。私がこの中に入ったのは聖霊の啓示によってです。神が私にこれを示してくださったのです。私がこれを得たのは人や人々の団体からではありません。交わりからでも、この解釈を代表するだれかからでもありません。これを私は上から得たのです」。このような形で得るとき、あなたはそれを持ちます。それは命です。私を信じてください、何か恐ろしいことをくぐり抜けなければ、それを得ることは少しもできません。私たちは人々がこう言うのを見聞きしてきました、「そうです、私はそれを見ましたし、信じています」。しかし、天然の人がずっと見ていたにすぎません。彼らはその中にいないことがわかります。これは説明するのが難しいのですが、主にこれについて尋ねてください。立ち去って、「あの人は今朝、浮世離れしたことを話していました」と言わないでください。主に尋ねてこう言ってください、「私にはわかりませんが、そこには何かがあるように思われます。もしあるなら、それを私に示してください」。主に尋ねてください。頭で理解できないからといって、それを捨てないでください。御子を知る知識を得させる知恵と啓示の霊を求めてください。主イエスという真理の中に入るには、その中に上から入らなければなりません。神の働きは、神の真理と全く同じです。
十字架は、罪人としての人に適用されなければならないだけでなく、説教者・クリスチャン活動の組織者・諸教会の運営者としての人にも適用されなければなりません。これは真実です。あなたが霊的生活に入ったのは上からでしょうか?何年もの間、良い良心と良い信仰の中で主に仕えてきた神の子供といえども、あるべき形でその中にいないおそれがあります。そのような形でその中にいないので、あなたは救われていない、ということを言っているのではありません。生まれることと、自分の新しい命の性質と諸法則を理解することとは別のことなのです。主はご自身の民を導いて次のことを見せなければなりません。すなわち、彼らは再生されただけでなく、全く新しい構成、天的な体系が存在の中にもたらされたのであり、そして、私たちは天から支配され、天的な統治によって統治されなければならないのです。私たちは暗闇の権威から移し出されて、地から、この世の霊から分離され、罪人である自分からだけでなく宗教的な自分からも分離されたのです。
私たちはこの世の神が支配している領域から離れなければなりません。私たちはその外にいます。これが四十年の終わりのヨルダン川の意味です。正常な正しい道は約十一日で良き地に入ることだったでしょう。それが神の命令であり、神の考えでした。神の考えは、決して荒野で四十年過ごすことではありませんでした。それが必要だったのは、彼らが肉的なクリスチャンだったからでした。神の意図は、彼らが天的な場所に入って行くことでした。そこでは、すべてが彼ご自身のものでした。彼が天から彼らを養い、上からすべてを与え、すべてを天的なものにされます。しかし、彼らはすべてを感覚の線に沿って得ることを望みました。ですから、神のみこころにそぐわない(この言葉を使ってもかまわなければ)肉的なキリスト教が四十年続いたのです。そして、ヨルダン川が登場して次の事実を二重に強調しなければなりませんでした。すなわち、エジプトから出て来た人々が天上に生きることが神の考えであった、という事実です。その群衆のうち、良き地に入ってそれを所有したのは何人だったでしょうか?二人です。この割合は今日危険なほど真に迫っているのではないかと、私は恐れています。
救われる人は大勢いますが、天的な生活をしていない肉的なクリスチャンの割合はとても大きいのです。良き地の中に、嗣業の中に入って、神からの生活を送り、天のあらゆる資源に基づいて生活している人々の割合は、実にとても少ないのです。
親愛なる友よ、自分がその中にいるもの、神に属するものについて、自分はその中に真にいるのであって思い込みではないかどうか、よくよく確かめてください。なぜなら、上からその中に入らないかぎり、実際にその中にいることはできないからです。あなたは真の意味でこう言えなければなりません、「私は天から下って来ました。これは私が採用したものでも、引き受けたものでもありません。ちがいます!それはまさに私の命であり、私の存在そのものなのです」。あなたはそれを放棄できません。それはあなたであり、あなたはそれです。主は私たちをそこに置かなければなりません。彼は間違った仕方でそれを利用したりはされませんが、他方において、それは彼に、御子のかたちにさらに十分に同形化する御業のために必要な正当な根拠を与えます。私が言わんとしていることはおわかりでしょう。あなたがあることに加わるなら、あなたは問題や困難に遭遇し、それを放棄することになります。しかし、それがあなたのまさに命である場合、あなたはそれを放棄することはできません。なぜなら、「それは私なのです」とあなたは言うだろうからです。