朗読:ローマ八・二九、二コリント五・十六~十七、エペソ四・二三、四・十三、コロサイ三・九~十一。
さて、この大きな問題について続けるにあたって、私たちは御霊から生まれたものつまり新創造の普遍性に取り組むことにします。前回のメッセージでは、この新創造の本質的な霊的性質に専念しましたが、天的性質の主な特徴の一つは普遍性です。この言葉の象徴的意味を調べると、天は普遍性を象徴するものであり、またそのように使われていることが常にわかります。まさに海が普遍性と豊かさを表しているのと同じように、天もそれを象徴しています。そして、私たちが話しているこの豊かさには、その主な特徴の一つとして普遍性があります。この普遍性について少しのあいだ考えることにします。
しかし、まず第一に次のことに特に注意しましょう。主は私たちを贖い、再生し、聖別し、私たちの生活の中で主権的かつ摂理的に働かれますが、そうしたいっさいの取り扱いに関する適切な背景知識が絶対的に必要なのです。忍耐し、献身し、主の懲らしめと訓練を受けるのに十分な動機を持つには、事の背景を把握する必要があります。
主は私たちにとても強烈でまっすぐなことを語ってこられました。とても強い力で十字架の言葉をもたらして、古い人、天然の人、肉に適用してこられました。そして、私たちはこの十字架の言葉の凄まじい衝撃力を感じてきました。この十字架の言葉は、私たちがその背景を理解しないなら、私たちを徹底的にほふって、何も残さないように計算されています。私たちは思い出さなければなりません、主の目的は私たちを消滅させることでも、一掃することでも、制限したり、無になるまで縮小させて奪うことでもありません。十字架による主の働きはすべて、拡大と解放がその目的であり動機です。主がご自身の民の生活の中に訪れようと願い、決定される時、その目的は決して彼らの生活を制限し、縮小し、厳しい制約下に置くことではありません。それは常に、制限する諸々の要因を取り除くためであり、彼らを地に縛り付けて閉じ込めているものを滅ぼすためです。それは、彼らが普遍的な彼ご自身のパースンと命と御旨の中へと解放されるためです。これを認識しないかぎり、私たちは主のほふる言葉を、すべてがとても厳しく、恐ろしく、残酷なものに見えるような形で受け取ることになるでしょう。そして、自分に対する主の取り扱いをこう誤解することになるでしょう。すなわち、このような取り扱いをする御手は、自分の利益に反するものであり、自分を困窮させるものであり、自分の願いや期待以下のものに自分を落とそうと真に願ってのものである、と。敵のほのめかしを受け入れることはいとも容易です。敵はこうほのめかします、「この十字架はあなたの生活を、それがなりうる最善以下のものにして、それを削り、絶えず削り続けて、ついにはすべてを最小限にまで切り詰めるでしょう。そして、あなたは箱に入れられた哀れでちっぽけな存在となり、息をすることも、自分を伸ばすことも、広げることもいっさいできなくなるでしょう。大きなものや偉大なものをあえて求めることもなく、常に棺桶の中で生きることになるでしょう」。そんなことは主の御旨ではありません。
主は、あなたが棺桶に頭を突っ込んだまま生きることを望んではおられません。ある時、私は修道院に行ったのですが、そこの修道士はまず修道院の地下室に私を連れて行き、ずらりと並んだ棺桶を私に見せました。彼の話によると、修道士がその修道院に入ると、まず自分の棺桶を与えられて、「あなたは一生この棺桶に縛られることになります。この先、あなたは死んだも同然なのです。この棺桶をあなたに与えるのは、あなたは最後までここにいるようになることをあなたに示すためです」と告げられるとのことでした。私たちには棺桶と共に生きるつもりはありません。しかし、とても多くの人が、十字架の奥義は棺桶の雰囲気を醸し出すので、すでに防腐処理をされたかのようだ!と感じています。主よ、私たちを救いたまえ。敵は十字架の奥義をまさにそう解釈したがります……十字架は常に死であり、死以外の何ものでもないというのです。主は常に解放しようと努めておられるのにです。主は拡大しようと努めておられます。そして、私たちに対する主の活動はすべて、時には厳しく、痛みを伴い、断ち切るもののように見えるかもしれませんが、こうした活動はすべて、普遍性を視野に入れたものなのです。私たちが彼と共に彼の復活の様の中に植えられるとき、この普遍性が実現されます。十字架はこれを、彼の死の中に植えられることと同じくらい強調します。
復活は解放以外の何だというのでしょう?主イエスの復活は、あらゆる種類の束縛や制限からの完全かつ徹底的な解放でした。御霊が彼を死者の中からよみがえらせて、死の束縛から解放した瞬間から、彼を束縛するものはもはやこの宇宙に何もなくなりました。死は彼に対して何の力もありません。彼は人の罪を負って、自発的に受け入れましたが、もちろん、人の罪はもはや彼の領域のどこにもありません。裁きは永遠に無効化されました。
子たる身分
世の限界はなくなり、彼は限界も寸法もない、絶対的に普遍的なキリストになられました。これが復活の意味です。これが子たる身分の意味です。なぜなら、子たる身分は復活において明らかになるからです。復活の立場に基づいて、この子たる身分は明確な現実となります――「死者の復活により、力の中で神の御子と宣言された」とあるとおりです。復活の力の中で、子たる身分が明らかにされます。子であること、御霊から生まれたものであること、本来普遍的なものであるキリストにある新創造であることが明らかにされます。御子のかたちに同形化されて……新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって今や創造されています。
神の御思いと御旨においては、これは拡大するものであることがわかります。子たる身分は時間を超越しています。使徒パウロに与えられた啓示を通して、聖霊によって、この世界と教会に関する神の至高の御思いとの関係の中に、なんとすぐに入れられるのかに注目してください。いわゆる「永遠の御旨」、「永遠の時の前から御子に関して計画されていたもの」と接触するようになるのです。そして次に、「神はあらかじめ知っておられた者たちを(中略)あらかじめ定められました」という単純な記述があります。私たちはこの世界が造られる前からキリストにあって選ばれていました。ここであなたは、新創造、御霊から生まれたもの、神の子らの永遠性の中に入りました。彼らはもはや時間の子らではありません。そして、無限の忍耐を養うことを要求するこの線に沿った、神の私たちに対する取り扱いを理解するなら、忍耐は一つのことと、すなわち永遠と関係していることがわかるはずです。あなたは今までそれを認識しておられたと思います。神は時間の制約によって縛られてはいませんし、キリストの忍耐は神が自由に使えるすべての時代と関係しています。主は私たちに、主には自由に使える永遠があることを知らせてくださいます。私たちは急ぐ必要はありません。私たちの問題は、人生は一度きりなので急がなければならない、と感じてしまうことです。広大な永遠から取り出された数年は、その中に永遠を秘めているのです。
神は数年の期間ではなく永遠を視野に入れて働いておられます。そして、愛する人よ、神は永遠を数日間に詰め込むことができます。数日、数週間、あるいは数か月の激しい苦難の苦しみの中に、永遠が詰め込まれています。「私たちの受ける束の間の軽い患難は、遥かに卓越した永遠の重い栄光を、私たちにもたらします。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます。なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです」。時間に属するものには、過ぎ行く一瞬のものであっても、その中に永遠の重みがあります。その過ぎ行く一瞬は、もちろん、苦しい一瞬かもしれませんが、その中には永遠があります。私たちは叫びます、「神はこのように私たちを損ない、奪い去り、断ち切っておられますが、これにはどんな意味があるのですか?」。神は永遠を視野に入れておられます。それには神の子らに関する普遍的な意味があります。そして、子たる身分は永遠のものであり、時を超越したものです。それは、この世界がまだなかった永遠の過去にまで遡り、もはや時がなくなる未来の永遠へと進んで行きます。これが子たる身分であり、御霊から生まれたものです。時間を超越しています……そして、時間に言えることは空間にも言えます。理解するのは難しいかもしれませんが、これは真実です。子たる身分は空間を超越しており、その範囲は普遍的です。
復活した主イエスが他の何よりも表しているものがあるとするなら、それは、肉であるものとは異なるものである、霊であるものの性質であるように思われます。それは空間を超越しています……距離は無意味です。人の尺度には何の地位もありません。彼は天と地を一瞬で渡り、一瞬で境界に触れます。長さ、広さ、高さ、深さは、一瞬のうちにすべてひとりの御方の中に網羅されます。そして、主は私たちを私たちの限界から連れ出してあの領域にもたらそうとしておられます。その領域で、私たちは霊的に機能して、地の果てにまで触れます。その領域で、私たちは教会の主権的かしらである私たちの主イエスの普遍性を受け継ぎます。そこでは、その瞬間から、すべてが普遍的なものになって、たんなる局所的なものではなくなります。これは凄まじく重要なことです。
主はご自身の民の小さな群れ――それは多くの国籍の人々から成っているかもしれません――に何を求めておられるのでしょう?これを私はずっと問い続けてきました。これは何を意味するのでしょうか?確かに、これには一つの説明しかありません。すなわち、主はビジョンと使命の一つ(oneness)を生じさせようとしておられるのです。そこでは、地的な区別は全く消え去り、国籍のない普遍的な務めがすべての国々に構成され、あらゆる種類の地の絆はすべて排除されます。これが主の道具の性質であり、教会の性質です。
あなたたちは新しい人を着ました。そこにはスイス人、フランス人、アルメニア人、ドイツ人、アメリカ人、その他の何人もありません。キリストがすべてであり、すべての中におられます。そこにはユダヤ人もギリシャ人もありえません。「ない」のではなく、「ありえない」のです、地上の割礼や無割礼は。むしろ、そこではすべてが天に属しており、したがって普遍的です。ああ、霊の中でこの解放が必要です!
主イエスの普遍性を真に実現できる唯一の方法は、私たちの心の中で神が霊的に働かれることによります。私たちは様々な国籍や宗派に属する者として諸々の大会に出席し、大会に出席している間、「国籍の違いは忘れて、しばしの間そうしたことはすべて水に流し、共通の関心を持つことにしよう」と言えるかもしれません。この大会を去る時、フランス人、イギリス人、アメリカ人、その他諸々として、戻れるかもしれません。そうすることもできますが、それは茶番であり、キリストのからだの真理の完全なる誤解です。聖霊によって内側でこれを成し遂げていただくこと、この地に属するいっさいのものから絶対的に解放されること、主イエス・キリストの天的普遍性――そこでは他のものはすべてやみます――の中へともたらされることが必要です。それは、あなたを他の人々から分離するためだけでなく、地のものがあなたの心の中に所を得ないようになるためであり、もはやあなたが自分のことを地に属しているとは見なさなくなるためです。あなたは、自分があらゆる種類の地的組織や地的体制の外にいること、今や主と共に天にあること、宇宙が自分の霊的活動の領域であること、そして、自分が関わっていることにはみな、たとえそれが局地的なものだったとしても、普遍的なつながりがあることに気づきます。
新約聖書の中の地域集会もそうでした。彼らは、自分たちの務めはその教区内だけでなく、どこでも主の御名の中で務めがなされているなら、それも自分たちの務めであることを認識していました。ですから、使徒はどこに行っても、必ず人々に霊の中で協力してもらいました。務めは一つであること、一つの場所に位置していても普遍的であることを、彼は認識していたのです。
テサロニケ人はアジア全域に伝道するのに役立ちました。エペソ人も同様の務めをし、彼らを通して御言葉がマケドニヤに伝わりました。この普遍的な原則が地域集会の中でどのように機能したかを見るのは素晴らしいことです。彼らは自分たちを地元の団体ではなく、普遍的な要因と見なしました――これにより、彼らは他の国々に関心を持ったのです。それは霊的なものであり、その中に彼らは上から入りました。彼らにとって国々はもはや国々ではなくなりました。全世界が一つであり、キリストは普遍的キリストでした。そして、神の子供がいる所、主の子供たちの団体がある所ではどこでも、普遍的な主としてのキリストが表され、暗示されたのです。
神の子供が一人、あるいは二人、三人、あるいはそれ以上いる所ではどこでも、キリストが局所的にではなく普遍的に表され、暗示されます。普遍的なキリストがそこで表されます。それは局所的なキリストではなく、普遍的なキリストです。今や万物の主である主イエスです――万物の主であり、すべての人の頭です。ですから、御霊から生まれたもの、キリストにあるこの新創造の中には、もはやギリシャ人、未開人、奴隷、自由人はありません。それはみな過ぎ去って、この新しい人が導入されます。これが子たる身分です。そして、この子たる身分の中に入ることは、この地の体系を支配するサタン的権威の体系全般から自由にされることです。また、これは律法から自由にされることです。つまり、聖霊の性質が私たちの心の中にある今、私たちは何か外側のものや、義務や律法の要求の提示に直面する必要はないのです。内なる力によってすべてに応じることができます。あなたは今や、律法の要求から解放されています。なぜなら、あなたの心の中に律法が書き記されているからです。それはあなたの内におられるキリストです。
前に述べましたが、ユダヤ教では律法の中にとどまることが可能でしたが、それと同じように、キリスト教も律法の中にとどまるおそれがあります。キリスト教は律法を一つの体系としてあなたに課そうとします。また、天然的なクリスチャンは、「あなたはこれをしてもかまいません、あれをしてはなりません云々」と言います。そして、あなたの生活は律法的なものになり、「自分がこのことやあのことをしたら、兄弟たちはどう言うだろう、どう思うだろう」という恐れから、あなたは動くことを恐れるようになります。私たちはそこから抜け出さなければなりません。主の中で自由でなければなりません。子たる身分には生得権として自由があります。御子があなたを自由にされるなら、あなたは自由です。モーセの律法から自由であり、死から自由です。なぜなら、今や死はもはや悪魔の手の中にはないからです。死は今や主イエスの御手の中にあります。彼は死を掌握しておられます。彼は生きておられ、死とハデスの鍵を持っておられます。鍵は権威の象徴です。彼は死とハデスの権威を持っておられます。ですから、死が依然として存在しており、依然としてここで働いている一方で、死に対する主イエスの主権的権威は私たちのために死を働かせて命へと至らせます。肉は死の働きをしますが、信者にとってそれは次のような幸いな形で働きます。すなわち、信者が肉に触れると、主は死を用いて信者にそれを手放させるのです。信者は自分が肉に触れたことを知り、真っ先にそれから抜け出そうと考えます。主は死を用いて彼らを死から追い払われます。死は主の御手の中にあります。
さて、命は死に打ち勝ちます。つまり、死を神の御旨に役立つものにするのです。死はこの死ぬべき体の中に働いていますが、別の力もこの死ぬべき体の中に働いています。それは、それによってイエスが死を征服された命です。パウロを見てください。弱さと虚弱さに満ちた体を持ち、本当に重荷でしたが、途方もない働きをしていました。それは、人の力でなそうとすれば神経衰弱にならずにはすまないことでした。これはどう説明がつくのでしょう?死に打ち勝つ命です。しかし、死が働くことで命はより明らかに、より栄光に満ちたものになります。死は主イエス・キリストの僕であって、今や命を明らかにします。こういうわけで、主は体の贖いを魂の贖いよりも後回しにされたのです。私たちの魂は贖われましたが、私たちはまだ体の贖いという全き嗣業を受けていません。「体の贖いを待ち望んでいます」とあるとおりです。そしてその間、私たちは死を征服した命を持ちます。この命はこの死ぬべき体の中に働いており、主は今やこの線に沿って証ししておられます。もちろん、これは神の知恵です。もし贖われ、復活した、栄光の体を目にするなら、あなたはその群れに加わりたくなるでしょう!もし彼らに加わりたければ、これが道です。苦しみなさい。苦しみにより、あなたは栄光を知るでしょう。人々はこれを受け入れたがりません。ですから、彼はまさにこの方法を用いて、主と共に進もうとしない人々を締め出されるのです。信者はこの世にとって謎であり、その意味では、どんな人間的基準でも説明のつかない何かがあります。それは神聖であり、神に属するものであり、超越しています。子たる身分は死から自由であり、律法から自由であり、暗闇の権威から自由です。御子が自由にしてくださるのです。
これは一つの過程であることを忘れないでください。この新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。御子のかたちに同形化されるようにあらかじめ定められており、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。これが今起きていることです。私たちはこのかたちにしたがって新しくされつつあるのです。
次に、これは漸進的な解放です。私たちはこの天然の命に属するもの――それらは支配し、制御し、拘束し、緊張させ、制限するものです――をますます脱ぎ捨てて、地に属するいっさいのものからますます解放された民になります(あるいは、そうなるべきです)。これは私たちが言及したことの一つにすぎません。これはだれにも説明することがほとんど不可能なことであり、理解するのが困難なことですが、理解すればわかります。これは現実なのです。
これに関して次のようなとてもありふれた見解があります。すなわち、不満や、不一致や、他のだれともちがう存在になりたいという願望から、私たちは宗派を出たのであり、現在の体制や体系にしたがっているこの地上の諸教会から離れたのである、という見解です。これが、このようなことに対する天然の人の見方です。それは真実ではありません。正確には次のようなことが起きたのです。すなわち、宗派やキリスト教の組織化された体系を離れようとは全く思っていなかった時に、みからだである教会の真の性質が啓示されたのです。主は御言葉を通して、これは御心にしたがった教会ではないこと、教会は伝統的な教会ではないことを啓示してくださいました。教会は主イエスというひとりの主権的かしらの下にある天上にある一つのからだです――委員会や他の何ものによってでもなく、聖霊によって絶対的に統治されています。これは、その統治、観念、使命において本質的に霊的なものであり、人によって運営されるものではありません。それは人に属してはいません。それは主イエスに属しており、人はそれに命令したり、案配したり、組織化したりすることはできません。聖霊はこれらすべてを行うことができます。人はイエス・キリストの僕として、聖霊によってかしらから命令を受け取って、彼の仰せのとおりに行えばいいのです。
まあ、これは、凄まじい力で臨んだことを述べるかなり不完全な述べ方ですが、その結果、他のものはみな落ちていきました。あなたはやめる必要はありませんでした。それはなくなりました。そして、もはや自分はその一部ではないことに気づきました。それから去ろうとしたわけではなく、すでに去っていたのです。その中にいなかったのです。今日人々が陥りかねない危険は、この観念を知的に理解して、行って諸教会や諸宗派に反対して宣べ伝え、人々に出て来るように告げることです。そうしないでください。むしろ主に求めてください、みからだである教会の性質と、ことの天的性質の啓示を与えてください、と。一度それがあなたの上に臨むなら、あなたはすべてが異なる普遍的な領域の中にいることに気づくでしょう。あなたは外に出たのです。私の言っている意味はおわかりでしょう。
これを地上の水準で行うことと、その中に上から入ることとは別の問題です。しかしこれは、みからだである教会の普遍性の偉大な要素です。なぜなら、それはかしらであるイエス・キリストの普遍性の表現だからです。主イエス・キリストのパースンは、彼の教会に対する神の御思いと、みからだである彼の教会のすべての個々の肢体に対する神の御思いを表していますが、座って、この主イエス・キリストのパースンについて黙想し、思慮深く祈り深くそれを見つめてください。そうすれば、このパースンのあらゆる部分に普遍性が宿っていることがわかるでしょう。
それは私たちにとって長い学びになるでしょうが、主イエスの生涯における普遍性について学ぶことは大きな価値があるでしょう。彼の誕生はたんに地上の、局所的なものではありませんでした。聖霊の活動を見てください。肉の意志や人の意志、血によってではなく、聖霊によって生まれたのです。これは普遍性です。地的な誕生の水準からこの誕生を引き上げるものです。天が介入し、天使たちは天を裂いて道を開き、天がその誕生に関与します。諸々の国民がそこにいます。人々が遠い土地からやって来ます―ー羊飼いたち、被造物、彼の周りのあらゆる形態の被造物――羊、雄牛、羊飼い、賢者、貧乏人と金持ち、学識者と文盲、天と地が一堂に会します。この誕生には普遍性があります。御霊から生まれた者もみなそうです。御霊から生まれたものは普遍的です。それは天に由来するので、全被造物に触れ、空間・時間・諸々の時代・永遠をすべて含みます。それは天然的誕生による私たちではなく、霊的誕生による私たちです。それは普遍的です。聖霊がまずそれに関与され、天がそれに関与して同行し、次に全被造物に対してその使命を果たします。その使命は全被造物に対するものです。それは霊的なものです。
彼のバプテスマは普遍的でした。代表的な行為として、それは全被造物をひとまとめにしてカルバリ――その周囲に人々の大きな群れが集まりました――を予表する死の中へと渡しました。預言者たちはみなバプテスマのヨハネの中に集約され、旧約聖書全体が彼の中に集約されました。それは全く新しい状況を開始しました。天が開いて再び介入しました。彼のバプテスマは死の中に下って行って象徴的に下界の領域に触れるものだったので、それは下界に由来する地獄に触れました。このバプテスマはたんなる執り行われるべき儀式や経るべき慣行だったのではなく、天と地と地獄に触れるものでした。なぜなら、そのまさに背後には普遍性があったからです。バプテスマの普遍性を理解するなら、証しする動機が得られます。このことの巨大ささえ理解できれば。人々は言います、「命令されているのでバプテスマを受けたいと思います……」「主の模範に従いたいと思います」「主の命令なので、そうするのが正しいのです」。これでは不十分です。これに対する地獄の反応を見てください。地獄はこの種の証しを嫌います。天がそれに関与しており、聖霊がそれに関与しており、すべての時代がそれに関与しており、子たる身分があの証しと関与しています――その証しとは、死と葬りと復活によりあなたは主イエスと一つにされた、という証しです。
彼の油塗りは普遍的でした。主イエスの誘惑の普遍性を見てください。それがいかに二つの創造に触れるものであるのかを見てください。それはアダムにある旧体制に触れます。堕落が起きたのは、アダムが神のみこころを選ぶよりも自分の意志を用いたからです。さて、もし最後のアダムがそのような理由で捕らえられていたなら、第二の創造は悪魔によって滅ぼされていたでしょう。ですから、二つの創造があの誘惑に関与していたのです。「この世のすべての王国をあなたに差し上げましょう、私の主権を一瞬でも認めさえするなら」。これは普遍的です。主イエスが来られたのはこの世のすべての国々のためでした。しかし彼は、悪魔の手から、悪魔に従うことによって、それらを手に入れようとはせずに、ご自身の権威という根拠に基づいてそれらを手に入れようとされました。彼はそれらを獲得されます。あの誘惑は国々に対する普遍的な所有権と関係していました。
すでに見ましたが、新しい人は、それを造った方のかたちに、御子の人性のかたちにしたがって新しくされつつあります――あなたは主イエスを人類のどこか孤立した界隈に留めることができるでしょうか?彼の人性にはあらゆるものが溶け込んでいました。これは約二千年の間に証明されてきたのではないでしょうか?主イエスをインド、アフリカ、中国、この世界のどこでも好きな所に連れて行くなら、彼の中に普遍的な接点となるものが見つかることがわかるでしょう。彼はこの地上のどこにいても――そこに霊的に連れて行かれるなら――よそ者ではありません。彼はどんな型にもはまってはおられません。イギリス人の救い主とする型や、他の何らかの国民の救い主とする型に、はまってはおられません。むしろ、受肉において彼を普遍的な存在にするものが彼の中にあるのです。彼はすべてをご自身のパースンの中に溶け込ませておられます。
気質、芸術的気質を例に挙げましょう。所与の状況の中で芸術的気質の人がどう振舞うかはよくご存じでしょう。もう一つは粘液質的な気質で、その人から何が期待できるのかもよくご存じでしょう。彼に何かすることを与えるなら、粘液質的な人はそれに飛びついたりせずに、ゆっくりと取り組むことがわかります。しかし、いったん始めさせるなら、彼はそれを続けて、たとえ永遠にかかったとしても、黙ってそれを続けます。別の人がやって来て、あなたが彼に何かをするように頼むなら、彼はあなたの望みどおりの速さでそれに取りかかりますが、中途半端なままにします。こういう気質が何かはご存じでしょう。扱うべき気質は六つか七つあり、だれもが自分の気質に支配されています。これらのどれか一つに主イエスを当てはめることはできません。彼はそれらすべての気質の最高のものを持っておられます。最高の芸術的気質を持っておられます。彼が自然や花に触れるのを見てください。粘液質的な気質についてはどうでしょう、彼が走るのを決して耳にすることはありません、彼は静かに進んで、顔を火打ち石のようにされますが、それでも決して取りかかるのに遅れることはなく、状況を理解するのに遅れることもありません。彼は敏感であって鈍感ではありません。皮相的ではなく奥まで見抜きます。これは別の気質の最良の部分です。性別に関して言うと、彼は男性ですが、男性的な面しかないとは言えません。彼には母なる心があります、「ああ、エルサレムよ、わたしは何度あなたを集めようとしたことか……」等々とあるようにです。情け容赦ない面も出て来ます。主イエスにあっては、すべてがその良い面にあります。聖霊が私たちにしようとしておられるのは、御子のかたちに同形化することです。そこでは最良のものが引き出されます。すなわち、神の御心にしたがった人である主イエスの諸々の特徴です。これらの特徴が私たちの中で発達させられなければなりません。それに反するものは十字架につけられて、断ち切られます。
私たちは、自分の気質の圏内で活動する必要はありません。むしろ、すべての気質の圏内で活動して、役立つ存在でなければなりません。自分が深く引き寄せられる所で活動して、そこで単純な人々との交わりの中に入るのです……彼らと手を切ったりはしません。普遍的な務めがあり、それは唯一の聖霊によってすべての人に奉仕するものです。新しい人を造られた方のかたちにしたがって新しくされるのです。
もちろん、述べるべきことがまだまだたくさんあります――変容、復活、昇天、ペンテコステにおける御霊の来臨、御名――これはみな普遍的です。この御名はあらゆる名の上にあり、それに対してすべての膝がかがみます。これは普遍性です。それは主イエスの中にあります。その御名で私たちは呼ばれます。私たちはイエスの御名の中にもたらされましたが、それはこの御名の普遍性と権威を通してであり、彼にあってよみがえらされた者としてです。御霊のあのバプテスマ、ペンテコステにおける御霊のあの来臨は私たちのためです。聖霊は宇宙的な霊であるという意味で、御霊は普遍的です。御霊はすべての領域、すべての被造物と関係しておられます。主イエスが御手に権威を握られて以来、御霊は信者の中で働いておられるだけでなく、未信者の上で、そしてこの世の物事の背後で働いておられます。御霊の主権がそこにあります。事の偉大な背景を見てください。
主はかしらであり、地上でかしらであられます。だとすると、この肉についてはどうなのでしょう?十字架は、この古い人、天然の人、肉の人を断ち切り、排除するために必要です。なぜ主はそうされるのでしょう?なぜ古い人は出て行く必要があるのでしょう?これを達成するためです。それは一つの解放の過程です。主が求めておられるのは拡大です。私たちを局所的なものから普遍的なものへ、現在のことから主イエスの広大さへと連れ出すことです。彼が十字架を適用されるのは制限を取り除くためであって、制限を造り出すためではありません。
私たちの霊が解放されるためには、私たちの肉はほふられなければなりません。それに尽きます。しかし、十字架・旧創造・肉・自己の命・キリストのからだである教会という偉大な真理を心に刻むには、それが大いに必要であると感じます。これらのことを、たんに聞いた話として機械的に受け入れ、何か恐ろしい義務のように引き受けるべきものとは見なさないでください。むしろ、そのすべてに対する理由や動機として広大な永遠の背景があることを理解してください。すなわち、神の観点では、そこにはあなたや私が十字架につけられる以上の何かがあるのです。主がそうされるのは、私たちを十字架につけるためだけではありません。主は常に永遠の御旨を視野に入れておられます。主は広大なものを目指して働いておられ、その中に入るには、私たちはそれ以下のものから解放されなければなりません。
どうか主が御霊によって、私たちに対するこのような取り扱いの目的を見せてくださいますように。そして、この地上における切断の御業は、制限のように見えますが、実は私たちを時間と空間を超越したものの中へと連れ出す主の方法であることを見せてくださいますように――私たちが神の子としての天的使命を果たせるようにしてくださいますように。