第四章 新創造のかしらである主イエス

T. オースチン-スパークス

朗読:使徒二・三二、ピリピ二・五~十一、ヘブル一・五~九、二・九、十、エペソ一・二二~二五、四・十五、五・二三、コロサイ一・十八、二・十九、一コリント二・五

私たちは、「御霊から生まれたもの」もしくは「キリストにある新創造」に専念してきました。私たちはまず、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の天的性質について考えました――その天的起源と天的命、天的関係、天的資源、そしてその性質と使命の全き天的性質についてです。言い換えると、地的ないっさいのものからの完全かつ絶対的な分離と解放についてです。

次に、私たちはこの新創造、御霊から生まれたこのものの普遍性に専念しました。それは時間の問題ではなく、永遠――永遠の過去から永遠の未来まで――の問題であることを見ました。それは時間と空間を超越しています。つまり、人間生活の通常の制限に縛られていないのです。それには普遍的な使命があります。

今、主イエスの頭首権と主権について考えなければなりません。主イエスは新創造のかしらであり、みからだである教会のかしらであり、あらゆる領域で絶対的な主権を持っておられます。

この新創造は主イエスの完全な頭首権の下に構成されています。これは、キリストに関する神の当初の御旨として、御言葉の中に明確に啓示されています。すなわち、キリストが万物の頭、普遍的な頭となるべきこと、すべてのものがキリストの頭首権と主権に服すべきことです。この頭首権とこの主権は、堕落したアダムの被造物では認められませんでした。キリストにおける神の権利はそこではすべて否定されるか無視されます。しかし、神が当初の御旨を再び取り上げて、すべてのものを新しくし、新創造(肉から生まれたものとは異なる、御霊から生まれたもの)をもたらされる時、神は新創造全体を当初の御旨の下で再構成されます。主イエス・キリストの頭首権と主権の下に再構成されます。それは、万物のうちで彼が第一位となるためです。

私たちはこれまで代表の問題を追ってきましたが、その話の流れについてきておられたなら、私たちが最初に述べたことは主イエスの誕生と関係していたことにお気づきでしょう。その誕生は全く天的なものであり、御霊から生まれたものを真に代表するものでした。私たちは、考察の第一原則の一つとして、主イエスは父なる神によって神の御心に適う人の代表として立てられたのである、と述べました。彼の生涯のどの特徴や面も、人に関する神の御心を霊的に代表しています。そして、彼の誕生(それは全く天的なものです)の中に――その至高の要素は霊的なものであり聖霊によります――私たちは聖霊から生まれたすべての神の子供の性質を見ます。

次に前の章で気づかれたと思いますが、私たちは神に適う人――神の御心に適う人――である主イエスのパースンについて取り扱いました。そして、いかにこの主イエスの人性の中にすべての普遍的要素が組み合わされているのか、いかに彼はすべての領域、分野、すべての部門に手を伸ばして、ご自身の内に包含し、天的命を持つ普遍的な人になられたのかを見ました。おもに見たのは彼の人性であり、人であるキリスト・イエスの人間らしさでした。キリストの人性は神が霊的になそうとしておられることを示しています。すなわち神は、ご自身のすべての子供の中で、聖霊の働きとエネルギーによって、栄化された人類を生み出そうとしておられるのです。この解釈の危険性はよく承知していますが、みなさんもわかっておられるように、私たちは今、主イエスの生涯と御業の代表者的な面を取り扱っています。私たちの認識では、彼の神性と彼の身代わりの贖いの御業というあの面はそれとは全く別の問題であり、私たちがそれに関わるのは受益者としてだけです。私たちは信仰によって贖いと救いの益にあずかりますが、それを自分の存在の一部として受け取るわけではありません。神性は私たちの外側にあり、これからもずっとそうでしょう。これを絶えず強調する必要性を私は常に感じています。それは、私たちが人の神化について述べているという考えが人々の心によぎらないようにするためです。今、私たちは主イエスを人の子として捉えているのであり、神としてではありません。彼は確かに神ですが、すべての人に対する神の御思いを表している人の子として捉えています。人が御霊から生まれて神の御心にしたがって構成される時、人がそうなることが神の御思いです。ですから、私たちの視野にあるのは主イエスの人性であり、それは神にしたがった人を代表しています。今、この同じ代表の原則を主イエスの頭首権と主権の領域に適用することにします。

誕生と人性について触れたので、今、油塗りに移ることにします。

油塗り

これは主イエスの天的行程の別の段階であり、後で見るように、これには天的対応物があります。

彼の油塗りの場所に進むことにします。彼がヨルダン川から上がられた時、天が開かれ、聖霊が鳩の姿で彼の上に臨み、彼は象徴的・予型的に聖霊によって油塗られました。この油塗りは、神が人の子なる方の生涯に新たな形で関わられたことを意味しました。ある学派が教えているように、神がヨルダン川で主イエスのもとに来て、カルバリで彼から去られた、という意味ではありません。そうではなくここでは、公式な形で、奉仕上の目的のために、職務上の目的のために、彼の偉大な使命・畢生の事業・召命のために、彼はあの境界線――その境界線は、三十年間の彼の秘密の私生活と三年半の職務上の公生活とを分けるものでした――を越えられたのです。彼が代表者として偉大な贖いの御業に着手されたその時、神はその奉仕と代表者としての働きのために新たな形で関わられたのです。

ヨルダン川での聖霊降臨には神が暗示されており、それは神がキリストに対して絶対的な頭首権を持っておられることを表していました。キリストの頭は神です。そして、聖霊が彼の頭上に臨みました。預言者であれ、祭司であれ、王であれ、塗り油が常にその頭に塗られたように、聖霊が彼の頭上に下りました。これは、主イエスが公式に御父の主権的頭首権に服されたことを示すものでした。そしてその瞬間から、主イエスは新たな形で次のことを認識するようになられました。すなわち、今やすべては自分自身からではなく御父から発しなければならないこと、そして、この地上での残りの働きのために、生活のあらゆる点について御父と話し合って相談しなければならないことをです。

それで、御父の頭首権がこの油塗りによって認識されるようになりました。それが彼の上に臨み、その後ずっと、「わたしのこころではなく、あなたのみこころがなされますように」「わたしはあなたのみこころを行うことを喜びます」「おお、神よ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」とあるとおりになりました。これが油塗りの意義でした。すなわち、それは人からのものをすべて排除して、神からのものを人間生活の中にすべて取り込んだのです。それは、神にしたがって聖霊によって構成されたこの人なる方の生活の中で、神が支配的・主権的要素となるためでした。これが彼の上に臨んだ油塗りの第一の主要な要素です。すなわち、御子に対する神の頭首権です。しかしそれは、文字どおり実現されたのは後のことではありましたが、主イエスは新創造に対する頭ともされたことを意味しました。それは主イエスに頭首権を与えました。彼を御父の下に、しかし新創造の上に位置づけて、彼の残りの時の間、彼を権威としました。そして、この権威こそが、彼の肉体の日々の間に、彼の周りのすべての者の意識に霊的に衝撃的な影響を与えたものでした。悪鬼どもはその権威を認識して、「私たちはあなたと何の関わりがあるのですか。私たちから離れて、私たちを苦しめないでください」と叫びました。一般の人々は、「彼は律法学者のようにではなく、権威ある者として話された」と言いました。支配者たちはその権威の隠れた働きに屈服し、ピラトですらこの方の前では自分は取るに足りない存在であることを悟りました。

彼には優位性がありました。それは彼の人間生活の優位性だけではありませんでした。地上の王たちを上回る何かが伴っており、それで地上の王たちは彼の御前では自分のちっぽけさを感じたのです。常に彼は、創造された万物に対する頭としての霊的・道徳的地位に置かれました。それは後に真に成就されるであろうことが、その油塗りよって暗示されました。神が選びの器を油塗られたところではどこでも、その器は他のすべてのものよりも優位に立ちました。神はアブラハムを選ばれたので、アブラハムは王たちを責めました。詩篇作者の偉大な言葉を思い出してください。「彼は彼らのために王たちを責めて言われた、『わたしの油塗られた者に触れてはならない。わたしの預言者たちに害を加えてはならない』」。地上の王たちは主の油塗られた者に服従させられました。ですから、油塗りは霊的に頭首権、優位性、高揚を表します。主イエスの場合、それは昇天の時により大々的に起きました。神が彼を死者の中からよみがえらされた時、ヨルダン川ではほとんど予型だったこのことが文字どおり実現されました。

「神はこのイエスを死者の中から復活させました。彼は神の右に引き上げられ、御父から約束されたものを受けて、これを注ぎ出されたのです」。御父から約束されたものとは何でしょう?聖霊です。彼は父なる神の右に引き上げられ、約束された御霊、御父から約束されたものを受けました。彼が聖霊をこのような完全な形で文字どおり実際に受けたのは、彼が死者の中から実際に――予型的にではなく――よみがえらされて、いと高き方の右に引き上げられた時でした。こうして彼は新創造、みからだである教会、すべての人に対するかしらとして完全に油塗られ、この油塗りによって絶対的な主権と権威の地位に置かれました。この油塗りを彼は復活・昇天・高揚によって御父の御前で受けました。これもまた明白です。こうして、聖霊を受けた主イエスは、神の新創造全体、この創造の全構成員に対する、絶対的に卓越した主権者とされました。これは普遍的なものであるだけでなく、個人の義務でもあります。私たちに対する神の個人的な取り扱いの意味を理解するには、これを理解することが重要です。

キリストは万人の頭であり、万物に対する特別な使命のために教会に与えられています。教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。これらの領域の区別については後で見るかもしれませんが、ここではこの事柄全体の背景を理解するために事実を述べています。さて、これを認識し、心からイエス・キリストは主であると宣言し、約束された御霊――それによって彼は万物に対する油塗られた頭とされました――を御父から受けたので、私たちはこの偉大な真理の実際的適用と意義に取りかかることができます。しかし、次のような危険性が常にあります。すなわち、このような真理を信じて同意していても、試練の日に、「結局のところ主イエスは主なのでしょうか。悪魔はやりたい放題ですし、状況は悪化の一途を辿っています。神に対する私の期待はすべてひっくり返されたかのように思われます」と疑問に思い始める危険性です。結局のところ、主権と権威は主イエスの御手にあるのかどうかについて疑念を抱く危険性です。

私たちはこれを理論から経験に、客観的同意から主観的信仰にしたいのです。それは、これを現実化するためです。これが次に意味するのは、私たちはこの油塗りの意味を分解して、適用するところから始めなければならないということです。すでに述べましたが、この油塗りは、天然にしたがっている人からのものをすべて排除すべきこと、そして、油塗りの瞬間から、すべては御霊からでなければならず、御霊によらなければならないことを意味します。これは単純な真理ですが、非常に多くの内容を伴っています。

この瞬間から、「天然にしたがって」は排除されます。人の知恵、能力、力――天然にしたがっている人からのもの――は、聖霊が来臨して主権を握られる時、みな排除されます。そして、その瞬間から、すべては聖霊のみによって、神から行われなければなりません。古いものは過ぎ去ります。

古いものとは何でしょう?かつて私はそれをやっていましたし、あるいはやろうとしていました。それを計画し、企画し、それに自分の判断を下していました。それを運営していました……古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、そしてすべては神から出ています。これが違いです。すなわち、古いものは自分自身から出ていましたが、今やすべては神から出ている、ということです。新創造がそこにあります。そして、新創造の最大の特徴は、すべてが神から出ており、人からのものは少しもない、ということです。天然の人はその中に全く何の立場もありません。天然の人とその人間的な能力はみな排除されています。神が、ただ神だけが、新創造の中におられます。それは権威と霊的優位性と威厳の中でやって来られる神です。それは最も弱い者、最ももろい者、最も神経質な者にも、人からではなく神からの新たな威厳を与え、そして、キリストにあって霊的優位性と高揚の地位を与えます。

愛する人よ、これはさいわいなことです(これは実際的なことでもあります)。なぜなら、最も弱く、最もつつましい、神経質で、引っ込み思案で、控え目で、自然に委縮してしまう者でも、今や聖霊によって、悪鬼どもが震え、暗闇の力が恐れるような者へと構成されて、神の主権の衝撃力がそこに表れるようになるからです。それは油塗りによってもたらされる威厳です。それは、主イエス・キリストの絶対的頭首権に服したすべての人々の生活に自ら関与される神です。

そしてこれは、あなたや私が理解して、その中に入り込む必要があることです。なぜなら、私たちは皆、霊的にあまりにも弱いため、強くならなければならないからです。私たちはあまりにもたやすく敵によって退けられてしまいます、敵が主によって私たちを通して退けられなければならないのにです。今日、教会が悪の勢力の洪水に立ち向かうのはとても困難であり、主イエスの絶対的主権に対する証しはありません。そうであってはなりません。主の民の表情には、憂鬱と敗北があまりにも多く刻まれています。クリスチャンとしての存在を示唆することですら、ひどく困難で大変な仕事であり、まるで途方もない重荷を背負って、地上でひどい時を、しかも最悪の時ばかり過ごしている人々のようなのです。しかし、私たちが悲しみを知っていることは事実ですが、それでも「常に喜んで」いるのです。

他方において私たちは、迫害され、追われても、見捨てられないことがどういうことかを知っています。迫害されますが、見捨てられません。投げ倒されますが、滅ぼされません。常に優位であり続けます。それは私たちが楽観的だからではありませんし、陽気な精神が旺盛で自分を明るく奮い立たせられるからでもありません。次のことは、私たちの心の中で聖霊が主イエスの御名の中で優勢であることを示す強力な事実です。すなわち、最悪の時、最も暗い時でも、最終的には乗り越えるであろうことを、私たちは知っているのです。それは不名誉や恥辱で終わりません。「私たちに恥をかかせることのない希望」があります。キリストの優位性は内なる聖霊によります。御霊から生まれたものによります。悪魔が暴れ回っている所でも、私たちは、聖霊が内住しておられるがゆえに、主イエスとその御名の主権的優位性によって、次のことを認識していなければなりません。すなわち、そこに自分たちがいるので、悪魔ではなくイエス・キリストがそこでは主権者なのです。キリストの各肢体が、神はイエス・キリストを主権的かしらとして油塗られたこと、そして、キリストが自分の内におられること、という事実を証ししなければなりません。

私たちは敗北精神によって多くのものを悪魔に譲り渡しています。敵は今日、あまりにもたやすく自分の立場と所有物を維持することができます。キリスト教が私たちを惨めな民にしているからです。私たちはかつては明るかったのに、今では憂鬱で、喜びがなく、常に物事の下敷きになっているようです。彼らのキリスト教こそが、私たちから人生の喜びを奪ったのです――神よ、私たちを救ってください!それが敵に地歩を与え、敵を有利な立場に置いています。知性のある者なら、次のことがわかるはずです。すなわち、私たちの中にはこの世の最高のものをも上回る何かがあるのです。また、私たちには満足と優位性があり、そのおかげで、彼らの最高の喜びよりも優る喜びをもって、彼らのいわゆる喜びとやらから全く徹底的に独立していられるのです。自分を見て、「自分がある所に行かず、ある事をしないのは、そうしてはならないからである」とは言わないでください。「自分はクリスチャンになったので、そうするのが恐ろしいし、そんなことをしたらきわめて悲惨なことになる」とは言わないでください。それは順序が違います。私たちは、この世に満足できない人々、世人が持っているものよりもはるかに優れた何かを持っている人々でなければなりません!そうです、その何かとは主イエスの主権であり、油塗りの優位性であり、権威と威厳の中て臨まれる神です。

私たちは人々の間では無に等しい者であり、つまはじき者であり、人々が大きな仕事をする人を探している時には見向きもされないような存在であり、無価値な存在かもしれませんが、それでも威厳、強さ、力、掌握力、静けさを物語るものを帯びています。優位性という言葉以上にふさわしい言葉はありません。それがこの使徒においてとても輝かしく現れたのでした。

パウロは、困難な人生の終わりに、傷ついた体で、何度もひどく苦しみ、死にかけましたが、海が荒れ狂い、熟練した船乗りたちが途方に暮れ、絶望し、ただ立ちすくんで事態の成り行きを見守る以外になすすべがない時に、やって来て船を指揮し、すべてをやり遂げ、乗組員全員の士気を回復しました。これは人間の個性の力ではなく、人における神の優位性です。「今夜、神の御使いが私のそばに立って、『パウロよ。恐れるな』と言いました」。神が彼の心に語りかけられたのであり、それは他のすべてに対する神の勝利でした。そして、それは主にとって秘密のことです。他の人々が途方に暮れている時でも、神の子供は自然のあらゆる力を超えたものによって支配されており、平静です。これに主はご自身の子供たちを導こうとしておられます。これはまさに聖霊の油塗りの力であり、美徳であり、嗣業なのです。

緊急時に指揮を執るのは、常に神に油塗られた者たちでした。彼らは、脅威的な災難の日に権威ある地位にありました。ですから、油塗りは霊的威厳を意味するものでなければなりません――それは私たちを自分の目から見て重要な人物にするためや、私たちに天然的な重要性を帯びさせるためではありません――それは「自分はまさに無である」と私たちに感じさせるのです。これが大いに必要です。それは霊的威厳を与えます。それは常にこれを目的としていました。油塗りはアダムが創造される前から存在していました。聖書には、油塗られた覆うケルブについて記されています。このケルブは堕落していない状態のルシファーのことであり、彼は、この世界が造られる前に、栄光の中で高い地位についていました。どうしてあなたは堕落したのか。この油塗りは彼を、この世界が造られる前に、天の栄光の中で高位者としました。油塗りは常に霊的・道徳的優位性と関係しています。私たちは、心の中における聖霊の働きを知る必要があります。それは公式のものではなく、形式的なものでも、教会組織的なものでもありません。霊的、道徳的なものです。道徳的というのは、この言葉の最も高度な意味においてです。聖霊の働きにより、最高の天然的能力や最高の天然的威厳を超えて高くされるのです。この世で強く、権力がある、重要な人物といえども、統治と行政を司る主イエスのこの主権の高みまで昇りつめることはできません。遅かれ早かれ、それに屈服せざるをえないのです。

キリストのからだ――キリストの頭首権を示す媒体

さて、次の点はこれです。すなわち、キリストのからだ(そして、キリストのからだのすべての肢体)はキリストの頭首権を示す媒体であるべきである、ということです。キリストは、「万物に対するかしらとされて教会に与えられました。この教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。ですから、このからだとそのすべての肢体は、かしらの栄光を示すべきものです。エステル記の霊的解釈は大部分この点に帰着することは覚えておられるでしょう。

ワシテは王妃の地位を追われました。なぜでしょうか?王の栄光を示すために王の意のままになることを拒んだからです。彼女は王の栄光を示すために王の宴会に行くよりも、自分の私的な集いを開いて自分の仲間内で君臨することを選びました。この物語を東洋史の一端として読むと、あさましい物語に思えるかもしれませんが、神は、どんなにあさましくても、これらのことを取り上げて、偉大な霊的現実を示そうとしておられるのです。

同じことが預言者ホセアとその妻の物語にも言えます。一人の女が逃げ出して、自分を売り、道徳的に最も卑しい道に、つまり不道徳な最も卑しい道に自分を渡しました。それでこの預言者は去らなければなりませんでした。そして、人々にとって彼女が用済みになると、この預言者は公の市場から彼女を買い取らなければなりませんでした。彼女は買い手のためにせりにかけられるほど落ちぶれました。それで、この預言者は行って彼女を買い戻し、最高の愛情と深い尊敬を受ける地位に回復し、彼女が罪を犯したことがないかのように振舞わなければなりませんでした。神はこのイスラエルの民を愛しておられます。それは私でありあなたですが、神はこう仰せられます、「わたしはあなたのことを、罪を犯したことがない者であるかのように、愛しています。わたしはあなたを、何事もなかったかのように、ある地位に回復します」。この物語を神は取り上げて、高く上げ、新約聖書の啓示の最高の栄光へと至る霊的意義をこれに与えておられます。ワシテは去ります。彼女は、女王として自分で君臨できる私的な宴会を選びました。彼女は退位させられます。そして、王は自分と自分の栄光のために無私の生活を送る人を求めます。そして、エステルが登場してその地位につきます。彼女こそ求められている人物です。すべては王が栄光、王権、主権を示すためであり、エステルはこの目的のために宮殿に連れて来られます。エステルは教会、花嫁です――教会はかしらの栄光を示すための道具となるべきものです。彼女の栄光はすべて彼の栄光であり、他のだれのものでもありません。

リベカが遠国からイサクのもとに連れてこられた時のことです。彼らが近づくと、彼女は目を上げて、「この人は誰ですか?」と言いました。「私の主人の息子、あなたの夫となるイサクです」。すると、彼女は直ちにベールを取って、それで顔を覆ったと記されています。彼女の美しさは他のだれのためでもなく、彼のために取っておかれました。そうです。教会は彼の栄光のためにあるのです。

「花嫁の目は見つめる、自分の衣ではなく、
自分の愛する花婿の顔を。
私は見つめる、栄光ではなく、
私の恵みの王を。」

教会は主のためです。彼の栄光を示すものです。ですから、このからだのすべての肢体は、かしらである主イエスの主権、栄光、至高性を示さなければなりません。なんという召し、なんという使命、なんという誉れでしょう!

しかし、これは使命であることがわかります。私たちは往々にしてこの角度から、「あなたの主権的力を示してください」と懇願します――まさにこのために主は私たちをご自身と結びつけてくださいました。私たちは主にそうしてくださるよう懇願する必要はありません。しかし、私たちは主にそうしていただける立場と状態になければなりません。主はそのために私たちをご自身と結び合わせてくださったのです。私たちがかしらなる方をしっかりとつかむ時、かしらの主権が示されます。ペンテコステのとき、これが起きました。聖霊が彼らを高く上げられたかしらとの正しい関係の中にもたらされると、彼の主権が直ちに示されました。困難は、主権をもって力強く行動するよう主を説得することにあるのではなく、栄光を全く自分に帰さない無私の境地に至ることにあります。主は私たちの堕落した性質によって縛られているのです。主が私たちを用い始められると、私たちは思い上がって、農場のバンタム鶏のようにふんぞりかえって歩き回り始めます――神の栄光、名声、評判を奪って、それを人に与えてしまいます。神が今日人々を用いることができないのは、このせいです。彼がご自身の主権を示すには、そうできるように私たちを砕き、空にしなければなりません。彼がご自身をもって私たちを油塗られたのはまさにこのためです。ご自身の頭首権を示すためです。

私たちが彼にあって油塗りを受けたのは、彼がかしらとして油塗られたその目的が私たちを通して表わされるためでした。彼が油塗りを受けたのは、かしらであるご自身にそれをとどめておくためではありません。彼は至高のかしらであり続ける一方で、彼はこれを注ぎ出されました。そして、この油塗りの油が御霊から生まれた者である私たちの上を流れ下りました。それは、この主権が流れ下って、みからだである教会を通して執行されるためです。このことから、頭首権の問題は服従の問題でもあると言えます。そのことを示す節は次のとおりです。「あなたたちに知っていただきたいのですが」と使徒は述べています。「キリストが教会のかしらであるように、すべての女の頭は男です」。すべての女の頭は男です。女の力と安全は、男の頭首権に正しく従うことにあります。これをたんに形式的・律法的なものとして捉えてはいけません。その霊的・道徳的意味を考慮しなければなりません。神がご自身の被造物を構成したとき、男が女の保護と力となるようにされました。また、女が男の庇護の下で保護と安全を見いだすようにされました。しかし、この思想は天の法則を例示するために神が意図されたものだったのです。その天の法則とは、教会は主イエス・キリストに従うことの中に力と安全を見いだすということです。

頭首権は律法的、形式的、教会組織的なものではありません。頭首権は霊的・道徳的なものです。この頭首権は女に与えられることも時々あります。だれかが家族に対して頭首の地位につかなければならず、男が失敗して、女が霊的・道徳的にそうするのにふさわしい場合は、女がそうしなければなりません。しかし、それは正しい秩序ではなく、それが続く間は弱さが残るでしょう。たんに男がそこにいるからという理由で頭首になるわけではありません。霊的・道徳的に頭首にふさわしいから頭首になるのです。

あわれなバラクが上って来て主の軍勢の指揮を執ることを拒んだ時、デボラがそうしなければなりませんでした。しかし、主はその原則を確認するために、ヘブル書十一章でデボラではなくバラクに言及されました。しかし、バラクがそれをしないなら、霊的・道徳的頭首権はデボラに委ねられるでしょう。彼女は独立して行動するのではなく、彼を促して「立ち上がれ、バラクよ」と言い、彼をその地位につかせようとします。しかし、この原則は、頭首権は形式的、律法的、教会組織的な任命によるものではなく、霊的であり、道徳的なものであるということです。主イエスに対する服従は、律法的・形式的根拠に基づく服従ではありません。彼はかしらとなる霊的・道徳的権利を絶対的に有しておられることを認識することに基づきます。そして、その中に教会は安全と力を見いだします。ピリピ二・九「それゆえに、神は彼を高く上げられました」。彼は高く上げられて、あらゆる名にまさる名――その名の中ですべてのひざがかがむことになります――を与えられましたが、これは何事かによります――形式的なものでも、たんに律法的なものでもありません――これは彼が霊的に成し遂げられた途方もない偉業、偉大な勝利によります。まず彼は御父のみこころに服従し、次に高き所におられる威光ある方の右に上げられました。彼は神のみこころに服従されました。あなたも私も、キリストへの絶対的服従の何たるかを知らないかぎり、決して救いを知ることはないでしょう。これは私たちを十字架に連れ戻すことに注目してください――キリストの十字架と頭首権、十字架と霊的優位性に連れ戻すのです。

私たちはこれらのメッセージで十字架を自分たちに凄まじく適用してきました。そのため、私たちの多くはその衝撃力に動揺し、この古い人に適用される十字架の恐るべき力を感じてきました。なぜそれが必要なのでしょう?なぜ十字架がこの旧創造の上にこんなにも破壊的な力で臨むことが不可欠なのでしょうか?二つの理由がありますが、それは一つの事柄の二つの面です。それは旧創造が、霊的・道徳的な意味で、暗闇の権威の下にあって、キリストの権威の下にないからです。旧創造の中では、主イエスの絶対的主権は人の生活の中に確立されません。彼は言わば宇宙に対する主権を持っておられ、御座から万物を統治しておられますが、それについて私は考えているのではありません。主イエスの栄光がご自身の民の中で、またご自身の民を通して示されることについて考えているのです。旧創造の上には暗闇の権威があります。「空中の権を持つ君」と「不従順の子らの中に今も働いている霊」がいますが、その権威を打ち砕き、破壊する唯一の道、そして、私たちが暗闇の権威から解放される唯一の道は、十字架におけるキリストの御業によります。十字架で彼はその権威と対峙してそれを打ち砕き、新創造を生み出されました。この新創造に対して、あの暗闇の権威には何の支配権も力もありません。

十字架は私たちにとって、私たちが暗闇の権威から解放されたことを表しています。しかし、この暗闇の権威は生来、私たちのまさに性質中に確立されており、打ち破られなければなりません。悪魔が被造物全体を握っています――「全世界は悪しきものの中に横たわっています」「不従順の子らの中に働いている霊」「この時代の神が信じない者たちの目を盲目にしました」。悪魔はその領域で権威を持っており、その権威はあらゆる存在の中に、彼らのまさに最善の者の中にも働いています。そして、この事実に気づかないでいることが、おそらく、悪魔の存在の最大の証拠です。なぜなら、人の目に触れずに働き、その働きの痕跡をいっさい残さないことが、悪魔を最も利するものである、と常に言えるからです。私たちはすっかり欺かれて、このような悪魔の存在を信じない立場に陥っています。これこそ悪魔の働きの最高の証拠です。悪魔は悪魔として自らを示すことを望みません。できれば、自分は存在しないと思わせたいのです。「この世の神が盲目にしました」。

バニヤンの「聖戦」でいつも思い出すのは、アポリュオンが人魂の都を占領しようとした時のことです。アポリュオンが真っ先にしようとしたのは、市長の理解力氏を捕らえて、何が起きているのか見えない暗い地下牢に入れることでした。「理解力を暗くされて、神の命から遠ざかっていました」。これは粉砕されなければならない束縛です。十字架で主イエスはすべての子らのためにそれをなしてくださいました。彼はすべての子らを栄光へと導いてくださいます。そして、それに関して、十字架が私たちの古い人の上に強く強力に臨まなければなりません。

しかし、別の側面があります。肉の意志です。肉の意志は悪魔の意志です。これは、「私は自分の王座を高く上げよう、私はいと高き者と等しくなろう」と言った者の意志です。この意思が神の意志と対立し、アダムの意志を捕らえ、アダムの種族の中に定着しました。神の意志とは別の意志であり、神の義を知らず、自分自身の義を確立しようとしています――神に服さない別の意志です。よくご存じのように、霊的に優位な澄み渡った場所に入り、霊的勝利について何事かを知り、神の意志についての明確な知識を得るには、まず自分の意志が絶対的に脇にやられて、そのことに関する自分の意志が全くなくならなければなりません。そうなるまでは、私たちはあちこち翻弄されて、堂々巡りを繰り返し、混乱したままでしょう。まずは、この意志を取り除かれて、神の意志のために整えられる必要があります。そのときはじめて、主は私たちを高く上げて、私たちを――かつては事物の下にあったのですが――事物を超越した所に置けるようになります。十字架が入って来て、肉の意志、つまり自己の意志、神の意志以外の意志を打ち砕かなければなりません。ですから十字架は、私たちを主イエスの絶対的な主権と至高性の場所に導くために、この性質を打ち砕かなければなりません。

高ぶり

そしてもちろん、自己意志の最も強力な特徴の一つは高ぶりです。ルシファーは、「私はいと高き者と等しくなろう」と言いましたが、預言者は「あなたの中に高ぶりが見いだされた」と言うよう促されました。高ぶりは多くの形を取ります。高ぶりはきわめてへりくだった姿勢を取ることもあります。高ぶりは自分のことをとても残念に思うこともあります。高ぶりはとても痛ましいものであることもありますが、それは依然として高ぶりです。とても傷ついたように感じていたとしても、傷ついているのは自分ではなく、自分のプライドなのかもしれません。神の民の間におけるあらゆる交わりの断絶の歴史、神の事柄の中に入り込んだあらゆる相違の歴史、悪魔が得たあらゆる利益の歴史を知るなら、何らかの形の高ぶりが見つかるはずだと私は信じています――だれかに個人的な関心、個人的な懸念、好き嫌い、欲しいか欲しくないか、えり好みがあったのです――何らかの形で「私」を通して高ぶりが入り込んだのです。これこそ滅ぼすために悪魔が常に使うものです。それは打ち砕かれなければなりません。カルバリで自己が何も残らないほど徹底的に空にされ、その後、上げられて、主イエスの主権の中へと高められるのです。

主は高める前に打ち砕かなければならず、満たす前に空にしなければなりません。私たちは十字架の適用を受けて、主イエスの絶対的至高性へと導かれなければなりません。私たちに必要なのは、イエス・キリストは主であるという全き確信です。統治は彼の御手の中にあるという全き確信がなければ、私たちは福音に仕えることはできません。そのことに少しでも疑いを持つなら、私たちは奉仕においても生活においても麻痺し、不自由になります。天においても地においてもすべての権威は主イエスの御手の中にあり、サタンの手の中にはないという事実を、私たちはしっかりと把握しなければなりません。これに安んじなければ、私たちはすっかり損なわれて、切り抜けられなくなります。これは事実です。ああ、この事実を霊的に享受できますように。私たちは今やその道を見たのです。

どうか主が私たちの心にはっきりと実感させてくださいますように。新創造、御霊から生まれたものが、今、主イエス・キリストの全き至高性と主権的頭首権の下で構成されつつあることを。彼があらゆる点で私たちの主とならなければなりません。彼は御父によって定められた主です。そして、私たちがキリストに服する時、不可能なことは何もありません。彼の主権が働きます。キリストの御名のために、どうか私たちがそれをさらに知ることができますように。