朗読:エペソ四・二四、二五、コロサイ三・十、ローマ六・四~六、七・六、十二・二、四~六、一コリント十二・十二~十四、二〇、二七。
主が私たちの一連のメッセージに加えることを望んでおられるのは、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の本質的な団体的性質についての言葉であると、私は感じています。そこにこそ、私たちが述べてきたことの最大の意味が集約されているのです。
1.新創造の天的性質
私たちはまず、御霊から生まれたもの、キリスト・イエスにある新創造の性質・命・資源・使命の天的性質について述べました。そしてこれは、個人にあてはまり、個人について言える一方で、特にキリストのからだである教会にも言えます。この事実は、もちろん、聖霊の啓示によってはじめて理解・認識できるようになりますが、事実として述べる必要があります。私たちは諸々の事実を主のもとに持って行って、「これらの事実を生ける現実としてください」と主に求めなければなりません。
ですから、神の御言葉によると、教会の性質・資源・命・使命は本質的に天的なものであるという事実を、私たちは認識しなければなりません。逆の言い方をすると、教会は地上のものではなく、その命は地のものではなく、その資源は地のものではありません。このことをとても重く受け止めてください。神によると、教会の資源は地のものではないのです。
教会の使命は天的使命です。私たちは常に覚えておかなければなりませんが、神の民の使命には人に対する面もありますが、最も重要な面は神に対するものなのです。これは旧約聖書の幕屋と宮における礼拝によってとても明確に実証されていることがわかります。というのは、幕屋――そこに神の御心が見られます――に取り組み始めるときは、常に内側から始めることになるからです。神は内側から開始されます。神は至聖所とその中にあるものから開始されました。そして、神がそこから開始されたことは、神の住まいを表すものの使命の真の最高の性質を示しています。つまり、その使命は人に対するものである前に神に対するものなのです。そして、私たちは地的なものよりも天的なものに関連した務めを果たすように召されているのです。しばらくこれについて考えることにしたいと思います。なぜなら、次のことを認識することがとても重要だからです。すなわち、私たちは地上に縛られて、地上に制限されるあまり、地上での年月や活動範囲を他の何よりも重視しがちであり、地上の生活や奉仕が制限されようものなら、「それは仕方がない、失敗だ」と感じがちなのです。しかし、必ずしもそうではありません。主は教会を通して、時間・空間・この地上を遥かに超えた天的務めと使命を果たしておられます。これによりかなりのことに説明がつきます――それについては、また後ほど触れることにします。
「それは今、支配たちや権威たちに、教会によって、神の顕された知恵を知らせるためです」。教会には天的使命があります。そして、この時代の教会は、この地上に関するかぎり、せいぜいごく一部に触れるにすぎません。教会はこの地上の住人のごくわずかな割合から成るでしょう。これは神が残りの人々を破滅に定められたからではなく、神は諸国民の中から御名のために一つの民を取り出そうとしておられるからです。ご存じのように、教会は地上にいる膨大な群衆と比べると比較的小さなものですし、これからもずっとそうでしょう。そして、教会が撤退して、教会の中にいない人々や教会に属していない人々の大きな余白を目にする時、「それで、これがすべてなのでしょうか?教会はこれだけのためにあったのでしょうか?」と言い、そのような尺度で判断し始めて、「それは失敗だった」と感じてしまいます。しかし、永遠を考慮に入れなければなりません。これを考慮に入れなければなりませんし、目に見えるものを超えた教会の使命を考慮に入れなければなりません。神は知恵により教会を通して、人類の限界やこの地上の制約を超えた何かをしておられます。それは天的使命であり、神に対するものです。教会は天的な方法で奉仕するよう召されています。
2.普遍性
普遍性について二番目に黙想しました。御霊から生まれたもの、新しい人である教会の普遍性についてです。先ほど読んだ節がそう述べていることに注目してください。教会は新しい人――一人の新しい人――であり、その範囲、影響、務めは普遍的です。それは普遍的です。地元の諸々の群れの間に局所的な表現があるかもしれませんが、局所的ではありません。それは国家的ではありません。国際的ではありません。残念ながら、多くの人がそこで勘違いして、教会は国際的であり、すべての諸国民から成っていると考えてしまいました。いいえ!教会は諸国民から成っているわけではまったくありません。御言葉は「そこにはユダヤ人も異邦人もありえません」と述べています。「そこではユダヤ人と異邦人が組み合わさっています」ではなく「そこにはユダヤ人も異邦人もありえません。奴隷も自由人もありえません」と述べています。こうしたものは全く関係ありません。それは国際的な教会ではありません。超国家的な教会、新創造、新しい人であって、そこでは地上のすべての区別は完全になくなっています。
そしてパウロは、そこに至るよう、キリストのからだである教会の最高の啓示を与えられて、彼に託された教えと務めの個人的な代表者となりました。神はそれをこの人のまさに命の中に造り込まれました。そして私にとって、最も印象的なことの一つは、すべての使徒の中でも権威あるユダヤ人であるパウロが、ユダヤ教にとって脅威であったために、教会を大混乱に陥れ、男女を投獄し、脅迫し、殺害したことが紹介されている点です。この人がここで神の霊によって取り扱われて、その結果、異邦人は最終的に彼にとってユダヤ人と同じものになります。これが素晴らしい形で現れたのが、まさにこの問題に関して彼がペテロにさえ面と向かって抗議した事例です。ガラテヤ書がどう始まっているのかを思い出してください。ペテロと他の何人かについて、「……私は彼に面と向かって抗議しました。なぜなら、人々が下って来るまでは、彼は中に入って異邦人と食を共にしていたのに、彼らが来ると、身を引いたからです――私は彼の欺瞞のゆえに彼に抗議しました」。それは今のパウロには我慢できない偽善でした――かつては異邦人を迫害し、受け入れようとしなかったこの人が、今では、ペテロに面と向かって、「あなたが異邦人から身を引いたのは、この兄弟たちのゆえであり、自分が異邦人と食を共にしているのを見られたら、彼らになんと言われるかを気にしてのことなのです」と抗議しています。新約聖書の歴史における奇跡の一つとして、パウロのこの変化を挙げられると思います。この変化によって彼は新しい人の真理の体現者になりました。この新しい人にはユダヤ人もギリシャ人もありません。そこでは、この区別は全く見られません。それは国際的な運動の問題ではなく、一人の新しい人です。かりに一人の新しい人の型が存在するとしたら、それはまさにこの点におけるパウロ自身です。これが教会、キリストのからだであり、その性質は普遍的です。
3.主イエスの主権的頭首権
次に、私たちは主権、主イエスの主権的頭首権、新創造の主権に進みました。新約聖書が主権に関する福音で始まるのはとても印象的です。マタイは主権の線に沿って福音を紹介しています。それは王です。マタイ――主権。印象的なことに、マタイは主権の線に沿って福音を紹介した後、福音書の終わりに辿り着く前に、教会をこの主権の道具として紹介しています。マタイ十六章:主権が教会に与えられているので、ハデスの門もそれには打ち勝てません。まさにそのとおりです。みからだである教会は主イエスの主権を司る道具です。主イエスは万物の上にかしらとしてみからだである教会に与えられました。これが教会の力の性質です。すなわち、神の御心にしたがった権威と影響力です。そして今日、教会の威信を回復し、世におけるその影響力を取り戻し、世において注目されるべきもの、考慮されるべきものとして教会を復帰させようとする大きな探求がなされています。また、大きな国際的危機に教会は何の影響も与えていない――それがいかなる意味であるにせよ――という事実を嘆く声が多く聞かれます。彼らは教会を地上の一つの勢力だと思っています。教会は政治的・道徳的・社会的な地位・影響力・力を持ち、倫理や公衆道徳といった問題で権威の声を上げるべきだと思っています。彼らが言わんとしているのは、教会を通して、そして教会によって、世界情勢の背後にいる悪の勢力と対峙するイエス・キリストの霊的主権のことではありません。それは全く別の問題なのです。
この世の勢力やこの世の策略の潮流を食い止めようと公に声を上げることと、主権者たち、権威者たち、この暗闇の世の支配者たち、人々の霊的束縛の背後にいる悪の霊の軍勢と対峙することは、全く別のことです。人々の思いは暗くされており、人々は空中の権を持つ君によって支配されています。その領域では主イエスの主権が重要です。そして、この領域で教会は麻痺しているのです。地上の地位や力は、主イエスがご自身の教会に望んでいるものではありません。新しい人は、そのかしらである主イエス・キリストの主権の中に立っています。
4.苦難、懲らしめ、訓練による成就
私たちは続けて、苦難、懲らしめ、訓練による成就について述べましたが、これは個人に関係するだけでなく、団体的なものでもあることを、今、認識していただきたいと思います。それは教会を成就することなのです。
5.新創造の団体的性質
皆さんは認識しておられるでしょうが、今や信者の生活の中にあるものはみな個人的な個別のものであるだけではありません。他のすべての信者と関係しており、団体的であり、全体の一部なのです。ですから、私たちは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かなければなりません。私があの節を読んだ時、それに続く節に注意を喚起したことに気づいておられるでしょう。「あなたたちは新しい人を着たのですから、おのおのその隣人と共に真理を語りなさい」――新しい人、団体的な新しい人です――そしてそれは今や、他のすべての信者との関係の問題です。
苦しみは一つの苦しみです。苦しみは個別の苦しみではなく、みからだである教会のための苦しみです。パウロは「欠けているものを補う」という原則を理解していました。パウロの苦しみは団体的苦しみでした。私たちは自分の苦しみの恩恵に他の人々があずかることを認識しなければなりません。それはからだのためです。祝福も同じです。務めも同じです。ここで次のことがわかります。すなわち、何事も個人的適用がある一方で(私たちはそれぞれキリストの肢体なので)この上なく団体的な意味があるのです。それは相対的なものであり、それらすべてはみからだである教会の中で様々な形で集約されます。
さて、なぜこの言葉が使われているのでしょう?それは、まさに「からだ」という用語、まさに「からだ」という呼称(教会に与えられた最高の呼称)は、団体的な領域では最高のものだからです。関係性や一体性の領域について考えるとき、一体性の原理に最も迫るもの、そしてこれ以上に迫るのは不可能に思われるものは、体です。宮(「あなたたちは石として宮へと建造されていきます」)の思想について考えてみると、かなり近くまで迫れますが、上記の点はわかりません。依然として個々の石にとどまって、分かれたり、分離したりできますし、一つ以上の石が欠けても全体の統一性は損なわれません。教会の他の呼称について考えると、それは教会の特定の面を表すものであることがわかります。例えば妻や花嫁という呼称の場合、強調点は愛情関係にあります。
体について述べると、この呼称は最終的に一つであるものを示すためのものです。体は一つです。肉体を例に取ると、肉体は互いに絡み合っているので、この体の一点に触れるなら全体に触れることになります。鋲を踏むと、鋲はつま先の先端に触れるだけですが、体全体に影響を及ぼします。よくご存じのように、悪い歯があると、それは体全体を巻き込みます。この一体性はとても完全なので、一点に触れるなら全体がそれに巻き込まれます。小さな部分を一つでも損なうなら、生命力のあるもの、生きているものを損なうことになります。それは死んでいるものではありません。麻痺で苦しんでいるのでないかぎり、この体に死んでいる所はいっさいありません。末端に至るまで命があります。何千本もの髪の毛の一本をつまむだけで、全身に影響が及びます。
私はこれを強調したいと思います。それは一体性の性質であり、その中には命が宿っています。それは命の一体性であり、複雑なエネルギーシステムの一体性であって、すべてが一つにまとめられ、記録され、頭に送られます。これが最も高度な一体性を表している教会の呼称です。これは今日、いわゆる教会の中にあるでしょうか?これは今日のいわゆる教会の支配的原理ではありません。考慮すべきさらなる要素があります。私たちはそれを辿ってきませんでしたが、暗黙のうちに了解しています。それは知能の一体性です。これらの点の一つに触れると、それがわかります。これは機械的一体性の事実ではなく、意識の一体性であり、知能です。もちろん、この霊的からだの知能は聖霊です――私たちはみな一つ御霊の中へとバプテスマされています――そして聖霊はかしらであるキリストから全体を知覚する知能であり、このかしらであるキリストの中にすべての肢体が集約されています。聖霊はからだ全体の知能的命、意識的命として、その中を行き巡っておられます。愛する人よ、主はこれを認識・理解させようと願っておられます。また、このことのゆえに使徒は信者たちのために祈る必要性を感じたのです。すなわち、私たちの心の目が照らされますように、と祈る必要性です――理性の目ではありません――繊細な愛情器官がこの偉大な真理に対して生かされるためであり、あなたがすべての肢体の一体性に対する共感的な知能・知識・理解を得るためです。ですから、「からだ」という用語が与えられているのは、キリストとその肢体たち、そしてキリストの中に共にあるすべての肢体たちの一体性を示すためなのです。
それは相互依存の問題です。この本質的な問題において、私たちはキリストのからだをそっちのけで何をしているのでしょう?私は真実を誇張しているとは思いません。ただ真実を明らかにしようとしているだけです。私たちは委員会、評議会、人々の団体を集めて、教会の諸事を組織し、案配し、操作し、指導しています。しかも大部分この世の商売の線に沿ってであり、神の働きを継続させるためにこの世の資源をあらゆる手段で引き出そうとしています。この体系はすべてご存じでしょう。人々がこの地上で商売を営むようにそれを運営しており、人々が主の財産を管理しています。人々が神の教会を管理していますが、教会は人々のものではなく主のものです。からだは主のためのものであり、主のものです。聖霊がここに来臨されたのは、主の働きをするためであり、みからだに関する主の御旨を遂行するためです。私たちがこれに戻れさえすれば、私たちの状況は一変するでしょう。
からだを建て上げ、成就することは、私たちの仕事ではありません。教会の発展や表出を見守ることは、私たちの仕事では全くありません。それは聖霊の仕事です。私たちの分は聖霊の僕となって、聖霊の仰せのままに行うことです。聖霊から賜る言葉を与え、聖霊が私たちに取るべきと命じられる手段を取ることです。座って計画し、企画し、命令し、物事を統制し、自分の判断を下すことではありません。主はそれについて何と仰っているでしょう?私たちは今日、神の教会を運営しようとしている人々の計画が混乱しているのを見ています。それは最善の場合でも不適切です。完璧に調整された機械が稼働している所では、決して霊的な結果は得られません。その霊的結果は新約聖書に見られるものではありません。なぜなら、人が聖霊の代わりをしているからであり、思いを新しくされることによって造り変えられる代わりに、この時代に同形化されているからです。新しい人は全く別のものです。
すべての肢体の相互依存を、私たちは強調したいと思います。それには途方もない解放が必要です。私たちは長年続いてきた体系という恐ろしい遺産を受け継いでいます。使徒たちが去る前の頃のことですが、人は教会を天上から引き下ろして、地上に植え、それを地上のものとしました。そして、人を設計者として導入し、教会を世の大衆運動にしようとしました。人々に感銘を与え、人々を引き寄せるものによってです。人々を教会に引き寄せることを聖霊に委ねなかったのです。こうしたことがこの何百年にもわたって発達し、私たちはその遺産を受け継いでいます。主は反キリスト教的体系から解放するのと同じくらい、キリスト教の体系からも解放しなければなりません。これは、暗闇の力から解放するのと同じくらいたいへんなことです。
これを強調することをお許しください。しかし、これは重要なことであり、主が御心に定めたものを獲得されるには、このようなことを言わなければならないのです。新しい人は天のものであり、地のものではありません。その命は上からであり、その資源は天からです。新しい人が荒野にいたとしても、神は荒野に食卓を設けることができますし、それを何度も証明してこられました。霊的にも人間的にも、この資源は天的なものです。これは、神はこの下界の資源を使われないとか、聖徒たちの心に彼らの資金を御用のために役立てるよう促したりされない、という意味ではありません。問題はそれがどのような方法で来るのかです。それは聖霊の御業によるのであって、私たちが訴えたり、人々の所に行って、「多額の寄付をしてくれなければ神の働きは続けられない」と言うことにはよりません。それは続けられます。人々が財布の紐を締めても、神はご自身の働きを世話することができます。要は事の方向性です。つまり、資源は天的であって、地的ではないのです。一つの流れが干上がっても、主には別の流れがあります。エリヤの場合、小川が干上がった時、主は彼にザレパテに行くよう仰せられました。「わたしは、あなたを養うよう、あるやもめに命じた」。主は物事を行う素晴らしい方法をお持ちです。主にはそれができます。これが教会の天的資源であり、天的命であり、天的性質です。
前に述べたように、敵は人を通して、教会を地上に引きずり下ろし、大衆運動にしようと絶えず努めてきました。そして、毎回そうすることで教会を破滅させてきました。そうする方法は――イスラエルに姦淫を犯すよう教えたバラムの教えによります。姦淫とは、地と、契約外のものとつながることであり、そのため彼らは神に呪われました。そして、呪いは常に不毛さという結果を招きます。教会はそのような関わり、関係、体系から出なければなりません。今、これが真実である以上、私たちはそれが意味するところを認識しなければなりません。
私たちは「相互依存」という言葉を使いました。「足は手に向かって、目は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません」。相互に依存しあっています。これは、主がこの素晴らしい命の中にもたらしてくださったことを意味します。すべての肢体が他の肢体の力と命の恩恵を受け、彼らに養われ、支えてもらえるのです。そして、各肢体は全体のために、全体は各肢体のために生きなければならないのです。そして、これを代表するものを部分的にでも得られるなら、神のために素晴らしいことが起きるのを目にするでしょう。一人または二人が神の命令にしたがって、神がまだ代表を得ておられない場所に出て行くなら、たとえその場所に養い、支え、助け、強めてくれる人がだれもいなくても、問題ありません。地球の反対側から来た聖徒たちがそこにいたとしても、近さは重要ではなく、キリストのからだにとって必要な要素ではありません。
私があなたの足を突き、次にあなたの手を突いたとしましょう。どちらを感じるのが早かったか、どちらが早くあなたの脳に届いたか、教えてください。どちらが早かったか、あなたは決して告げらないでしょう。手の方が頭に近いからといって、足よりも早く感じることはありません。近さはここでは問題ではありません。瞬時に伝わります。体の最も遠い末端に触れても、脳に近い部分と同じ速さでそれを感じます。ここの群れの中にいるあなたは、三千マイルか四千マイル離れた二人または三人の群れの中にいるのと同じくらい、主イエスに近いのです。御霊のこの素晴らしい一体性により、地理的状況がどうであれ、数千マイル離れた聖徒たちと非常に迅速に協力することができます――電報を送る必要すらありません!何某さんは祈りを必要としている、という感覚を聖霊はあなたの中に与えてくださいます。あなたが祈ると、それは彼らに必要な瞬間に同期し、事がなされます。これには効果があります。普遍的で、時間を超越しており、主権的です。今もそうです。これこそ秩序です。パウロはこれを享受しましたし、知っていました。「あなたたちの祈りを通して」と彼は言いました。彼は常に、自分のための聖徒たちの祈りに言及していました。
これは霊の領域における関連性、神にしたがった関係性、新約聖書的観念です。この時代に今日普遍的にこのようなことを期待するのは望むべくもなく絶望的なことに思われるかもしれませんが、すべての信者をその中に導くのは絶望的だと感じているからといって、これをすっかり放棄してはいけません。思い出してください、終末の時は常に、レムナントによって、核となる者たちによって、神は当初の御旨を回復されたのです。捕囚に遡ると……誰が捕囚から戻って来て、神にしたがって諸事を再構成したでしょう?十二部族のうちの二部族です。旧約聖書の最後には何が記されているでしょう?民全体が呪いの下にあったことです。ただしそれには例外がありました。「その時、主を畏れる者たちは互いに語り合った」。これは神の御心にかなうレムナントです。これが今日、神の方法です。
大部分の聖徒たちは教会についての新約聖書の啓示を失っており、それより劣るものの中にあります。主は地上に、おそらく比較するととても小さいけれども、それでもとても尊いものを得ようとしておられます。その尊さは、それが主の御心に全くしたがっている点、聖霊によるこの啓示を持っている点にあります。主は私たちにこの原則を理解させて、それについてご自身と協力させ、私たちに関するかぎり、私たちをその中に立たせることを望んでおられます。地的なもの、部門的なもの、分裂的なものを排除して、その結果として、私たちを普遍的な霊的使命の中に入らせることを望んでおられるのです。すべてが神の御心にしたがっていなければなりません。
ですから、これまで私たちはこれらすべての事柄を個人に適用してきましたが、その最高の表現は集団的、団体的であることがわかります。その理由は、一個人では入れないからです!このため、キリストの豊満の中に、キリストの主権の中に入るには、すべての肢体が必要です。そのすべてを一つの肢体に与えるのは不可能です。そのすべての栄光を一つの肢体に与えるのは不可能です。私たちは究極的なビジョンを得なければなりません。究極的に、このからだの目的は何でしょう?なぜ私たちは体を持っているのでしょう?自分を表現するためにほかなりません。それに尽きます。それは自分自身、自分の心、思い、願いを知らせる媒体です。キリストのからだはまさにそのためにあります。それは彼ご自身を示すため、彼ご自身を現すためです。そして究極的に、全宇宙が教会であるからだを通してキリストの豊満を見ることになります。そうするにはからだ全体が必要です。キリストは偉大であり、その栄光は素晴らしいものなので、それには、あらゆる国民云々の中からの、だれも数えることのできない大群衆が必要です。これが、彼がそれをなさる方法です。彼は多くの子らを栄光の中へと導いてご自身の栄光を示し、諸国民はその光の中を歩みます。私たちが相互に依存しあっているのは、この一つの理由によるのです。
私たちにはすべての肢体の中におられるキリストが必要であり、すべての肢体には私たちの中におられるキリストが必要です。これはぎこちない述べ方です。主は他の人々を通して私たちに与えることによって私たちの手を強めてくださいます。そして主は、独立した自由契約者的なもの、神の真理に全く反するものに、ことごとく反対されます。そのため、服従の必要性を強調する必要があります。「互いに服従しあいなさい」。神の家における服従です……そこに独立はありません。服従の反対は独立、高ぶり、個人的活動です。服従とは、他のすべてと同調することであり、協力と交わりと秩序の中で働くことです。このような相互依存、関連性、団体性が、この時代と来るべき諸々の時代における神の働きの原則です。私たちはこれを認識しなければなりません。それは霊的なものであり、機械的なものではありません。霊的で、生きており、活発です――聖霊によってです。主よ、私たちの目を開いて、これを理解させてください。これらのメッセージで主が語ってこられたことを信じる必要があります。
私たちは、ご自身の地位についておられる主イエスから始めましたが、これに戻って終えることにします。私たちは一瞬たりとも、からだをかしらの地位に置いたりはしません。