初期ケズイックのメッセージ

死と復活によるキリストとの合一

著者不明

勝利者誌 一九二六年 七巻 七月号 掲載。

編集者が宝のように大切にしている本の一つに、「力に至るキリスト者の小径」という一冊の合本があります。それは一八九一年にエバン・ホプキンス夫人から編集者に贈られたものであり、ケズイック運動に関連して出版された月刊誌の第二巻でした。後に、この雑誌の表題は「信仰生活」に変わりました――それは今では週刊誌になっており、幸いなことに活況で発行部数も好調です。ここに掲載する抜粋から、ローマ六章の十字架のメッセージが、いかにケズイック運動のまさに根幹をなしているのかがわかります。――編集者。

私たちの義認は、私たちのためのキリストの死の結果です。しかし、私たちの聖化は、私たち自身がキリストにあって、キリストと共に死んだ結果です。「イエス・キリストの中へとバプテスマされた私たちは彼の死の中へとバプテスマされたことを、あなたたちは知らないのですか?」。それゆえ、「私たちは、死の中へのバプテスマによって、彼と共に葬られました」。「私たちは彼の死の様の中へと共に植えられています……」。

……イエスの死には異なるいくつかの面があります。その一つの面は、彼の教会を生み出すために必要な事を、私たちの前に示します。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます」。主イエスは死んで復活されました。そして彼から、彼の命と性質にあずかる、素晴らしい魂の収穫が生じました。義とされた信者は、言わば、キリストの死の中へと死ななければなりません。それは、彼の命の中で生きるためです。信者はキリストの葬りの中へと葬られなければなりません。それは、彼と共によみがえらされるためです。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえらされたように、私たちも命の新しさの中を歩むためです。なぜなら、もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられているなら、私たちは彼の復活の様の中にもあるようになるからです。私たちは次のことを知っています。私たちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪に仕えることがないためです……」。

ここで私たちは新創造、つまり再生を得ます。バプテスマはそれについて神が定められたしるしです。これは罪に対する死、義への新生であり、これをバプテスマされた人はみな認めなければなりません。それは、彼の死と復活によるイエスとの合一から生じた結果である、特別な祝福です。それは義認の祝福とは全く別のものです。義認の祝福は、イエスの死と復活を信じる信仰の結果です。この方は私たちの名において、そして私たちのために、死んで復活されました。義認の祝福を発展させて聖化の祝福に至らせることは決してできません。なぜなら、この二者の性格と起源は異なるからです。信者のためのキリストの死は、信者を罪過と刑罰から救います。しかし、信者自身のキリストにおける死は、信者を罪から救います。……しかし、義とされた信者は、自分もキリストと共に死んでよみがえらされたことを、教理として信奉するだけでなく、事実として認めないかぎり、罪に対して死んでいないのです……。

十一節で聖パウロは、「自分は罪に対して全く死んでいると見なしなさい」と述べています。自分は弱いと見なすのではなく、死んでいると見なしなさい。自分は昔の使役者である罪から解かれたにすぎない、と見なしてはなりません。それから断ち切られた、と見なしなさい。しかし、ほとんどのクリスチャンは実際のところ、自分は罪に対して弱いと見なしています。それで、彼らに対する罪の力はかなり弱められて緩んでいるものの、彼らは罪から解放されていないのです。なぜなら、自分は罪に対して依然として少しばかり生きている、と見なしているからです。また、自分の魂が地上の幕屋から分離されないかぎり、罪に対して死ぬのは無理である、と言っているからです……。

「ですから、罪にあなたたちの死すべき体を支配させてはなりません」。「ですから」というのは、あなたたちは罪に対して死んでいるからです。しかし、全く死んでいると見なす代わりに、弱いと見なすなら、罪が自分の中で支配するのを信者は許すことになります。信者は言います、「いいえ、罪は支配していません。抵抗するには手ごわすぎること、罪が私を打ち負かすことが時々あるだけです」。罪が支配権を握って、肢体の中にある罪の法則の力と権威に魂が服するとは、いったいどういうことでしょう?「ああ、しかし、それは私がそうさせているわけではありません。私はそれを願っていませんし、そうならずにすむなら何でもします。けれども、自分にはどうしようもないのです。自分のしたいことができない時、自分がしたくない悪を行ってしまう時があるのです。それに気づく前に、ついしてしまうのです」。これは確かに、その信者に対して罪が依然として主権を握っていることの告白です。信者は罪に対して死んでおらず、「今生では罪に対して死ぬのは無理である」と言っているのです。

このように、罪に対して死ぬのを拒否することにより、そして、自分は罪に対して死んだと見なすのを拒否することにより、信者は罪を生かし、罪が支配するのを許します――なぜなら、罪は仕えることに決して同意しないからです。罪を全く拒否するか、罪に支配・統治を許すかの、いずれかでなければなりません。罪からの解放は不可能である、と私たちが言っているかぎり、罪には私たちに従順を要求する権利があります……聖パウロは私たちの口から、「今生で罪から解放されるのは不可能です」という流行りの議論を封じて、「あなたたちの死すべき体を罪に支配させてはなりません」と述べています。彼が言わんとしているのはこういうことです。あなたが自分の死すべき体の中にある間に、死後ではなく――自然死を遂げる前に、地上に生きている間に、その束縛を断ち切り、略奪者を退位させ、ただ主だけにあなたの心の王座とあなたの生涯の奉仕をささげなさい。「自分は罪に対して全く死んでおり、私たちの主イエス・キリストを通して神に対して生きている、と見なしなさい」。罪に対して完全に死なないかぎり、神に対して完全に生きることはできません。罪から完全に解放されないかぎり、神に対して完全に生きることはできません。