夜間の静思黙想で詩篇作者はこの問いを発するよう、そして、人を宇宙の中心に置いてその問いに答えるよう導かれました。この黙想はあらゆる時代を結合しました。それは、世界が造られる前の神の永遠の御計画にまでさかのぼり、来たるべき世界におけるこの御計画の究極的完成と、その彼方にまで及びました。これは、人と呼ばれる特別な被造物に関して神が計画された目標に関する問いです。この思想にはいくつかの段階がありました:「御使いたちよりも、しばらくの間、低いものとされる」段階、「栄光と誉れの」冠を与えられる段階、「御手のわざを治める」段階です。詩篇作者のこの問いを、霊感を受けた一人の使徒が取り上げて拡張します。「彼は来たるべき世界を、御使いたちに従わせることはなさいませんでした」。「あなたは万物を彼の足の下に従わせられました」。
しかし、神の御計画とその究極的実現との間には、人の堕落の悲劇全体と、贖いによる神の恵みの栄光全体とがあります。ここでの私たちの課題は、人間存在に関するこの堕落の性質について述べることであり、したがって、神の御子のかたちへの同形化がこの堕落した状態をどのように克服するのかを見ることです。これは人自身の人格に関する問いであり、神の王国を嗣ぐことができるのはどのような種類の人に限られるのかに関する問いです。
このように崇高で栄光に満ちた目標には、霊的な道徳的状態が必要なだけでなく、あるタイプの存在、ある種の存在が必要です。のろのろと這う毛虫やカイコが新しい状態の中で目を覚まし、美しい蛾や蝶となって新しい世界へ羽ばたくために、マユを造ってその生命形態を放棄しなければならないように、人は今や一つの状態から抜け出して、高次の器官や能力で新しく構成されなければなりません。人は、神の御心によると、また人自身のぼんやりした不可解な感覚によると、普遍的な特徴を帯びており、普遍的な関心を伴っています。しかし、何かが起きました。そのため一方において、今のままの人では神の御旨の実現は不可能です。他方において、人はそれを実現するために空しい努力を続けています。宇宙の中心におけるこの恐ろしい齟齬は、神の側で御子のパースンによって新たに介入する要因です。この介入にはいくつかの特徴があります。第一に、神の御心によると人がいかなる者なのかを示します。第二に、そうではない人を神にしたがって確実に取り去ります。第三に、新創造の力と要素をもたらします。そして第四に、成熟に達するとき人がどのような者になるのかを啓示して保証します。この成熟に達した人は神の御心の中に絶えず目的として存在していたものであり、堕落以前の人の単なる創造状態ではありませんでした。後で見るように、これはすべて人の性質上の異常を正常化することにかかっています。これにより、人間生活と神との完全な関係が刷新されます。これはおもに、プネウマ(pneuma)あるいは霊と呼ばれる人間存在の一部と関係しています。したがって、ここで私たちは光を必要とします。
とても重要な区別
使徒パウロは彼の書の二つの箇所で、一つの句を用いました。この句を私たちの前にある主題に適用することは特に重要です。この句はローマ人への手紙(二章一八節)とピリピ人への手紙(一章一〇節)にあります。欄外の訳では、
「異なる事柄を区別する」
となっています。
もしこの区別が魂と霊の問題に適用されていたら、大きな損失を避けられただろうし、益を受けられただろう、と感じずにはいられません。
これは聖書学生のための単なる専門的関心事ではありません。神の民の霊的生活のほぼすべての点を含んでいてそれに触れる問題であり、霊的事柄における生と死の問題全体を支配している問題です。命の豊かさや奉仕の効力に関して、これより重大なものはほとんどありません。これはキリストの十字架による神の贖いの御旨の意義をかなり多く含んでいます。長年にわたって主の民や僕たちの上に重くのしかかってきた最も困難な問題の多くに対する答えがここにあります。その中の一つか二つを述べるだけにします。第一に、旧創造と新創造の間には本質的な基本的相違があります。これは全くかんばしくない回心、大いにかんばしくない回心という胸の張り裂けるような問題と密接に関係しています。大きく変わったように見える回心者たちでも――あまりに早々と――本当に根本的な再生の働きがあったかどうか疑わしい兆候を示すのです。これは多くの人に関する胸を焦がすような次の問いを含んでいます。多くの人は、よく組織されて宣伝もされている福音伝道の特に良い(?)条件と備えの下で信仰を告白しますが、彼らの大部分は伝道が終わるとすぐ元に戻ってしまうか、尋ね出せなくなってしまいます。あるいは、福音的な熱気と熱烈な雰囲気を絶えず送り込むことによって保たれているにすぎなくなってしまいます。英国の一つの都市について、こういう話があります。そこであなたが出会う二人に一人は以前「回心した」ことがあるのですが、もちろん今では、その大多数がもはやそんなこととは関係ありません。これは次に、「福音の働きの領域では、何が神の方法・手段であり、何が人の方法・手段なのか?」という別の問いを確かに生じさせます。
次に、キリストを真に受け入れた人たちの遅々とした霊的成長という困難な問題があります。霊的成熟が一生の問題であることは間違いありません。しかし、ここで考えているのは、幼児期や幼児性の特徴がずっと長く続く、不当に遅い成長のことです。これは新約聖書の手紙の著者たちが深く嘆き悲しんでいる問題であり、まさに新約聖書そのものの大部分が書かれたきっかけでもあります。テサロニケ人への手紙(使徒パウロの最初の手紙)では、なんの議論や説明もなく、魂と霊の区別があっさりと述べられています(テサロニケ人への第一の手紙五章二三節)。コリント人への手紙は同じ問題が中心であると言えます。これは、二章一四節の「生まれながらの」が実際は「魂の」であること、それから、「霊の」「霊のもの」すなわち霊の賜物について多く述べられていることを思い出せばわかります。ヘブル人への手紙においても、「魂と霊を切り離すこと」「私たちの霊の父」という光の中で主題全体を眺めなければなりません。どの場合も、霊的に成長するか、それとも成長を阻まれるかの問題です。
他にも多くの問題があります。たとえば、大量のエネルギーと労力と資力を長期間注ぎ込んでも、少ししか純粋な真の霊的価値が生じないという問題です。それから、根本的に有害な偽りの霊的運動が繁栄して成功しているという、例の領域はどうでしょう?次に、欺きの問題全体に真剣に直面しなければなりません。クリスチャンが欺かれて完全にさまよってしまうこと、あるいは、神の働きに役立たなくなるような状況の中に落ち込んで、しばしば信仰の土台そのものを積極的に否定するような状況の中に落ち込むこと――これはまさに無視できない問題ですし、このような事例のすべてを医学の専門家が完全に扱えるわけではありません。
上記の問題に、さらに多くの霊的困難を付け加えることができるでしょう。先に進むにつれて、その中のいくつかを述べて、取り扱うことにします。諸々の特別な支配的要因のせいで、個々の問題には複数の原因があるかもしれません――「すべての傷に関して、その原因と治療法を発見した」と私たちが主張しているとは、誰も思わないでしょう――しかし私たちは、「魂と霊の問題で識別に失敗したことが、主の民の大多数が考えている以上に、こうした状況の原因である」と信じます。この考察の重要性を指摘したので、実際の問題に取り組むことにしましょう。
この盲目はどこから来たのか?
このような悲しい状況――もっと多くの悲しい状況があります――の大部分が、決定的な違いを認識することに失敗したためだとするなら、「この失敗がこんなにも広まっているのはなぜか?」と私たちは問わなければなりません。もちろん、霊的逸脱を辿るなら、私たちはただちにその源に辿り着きます。サタンは神の働きを損なうこと、神の御旨を挫折させることを常に願っています。ですからこれを隠すこと、そして、これほど重要な真理に関して神の民を無知な状態にとどめておくことは、サタンにとって大いに好都合なのです。これを確かに彼は行ってきました。そこでパウロは、「あなたたちの心の目が照らされますように」と祈ったのです。しかし、サタンには方法と手段があります。悪からだけでなく悪しき者からも解放されるために、私たちはそれを認識しなければなりません。そこで、私たちは末端から始めることにします。
一般的に受け入れられている立場
人の成り立ちに関してほぼ普遍的とも言える立場は、「人は精神と物質、魂と体である」というものです。「霊、魂、体」という聖書の表現をクリスチャンたちが受け入れているところでも、この三つの名称と密接に関係している重大な問題を認識できないために、あるいは致命的な不注意さのために、まるで違いがないかのように進み続ける結果になっています。しかし、考慮すべきもっと明白な他の要因があります。
神の民の教師たちが間違いを犯してきたのです!どうして彼らは間違いを犯してきたのでしょう?それはおもに、彼らが神の御言葉を取らず、聖霊の直接的な照らしと教えをきちんと求めなかったからです。あるいは多くの場合、教師である聖霊の内住が現実のものではなかったのでしょうか?
三番目の理由があるかもしれません。これほど広く受け入れられている立場とは逆の方向に進むことで、一般人ではない異常な変わり者に見られることを恐れているためでしょうか?それではお尋ねしますが、「その立場はどこからでしょう?それは天からでしょうか、それとも人からでしょうか?」。聖書的な選択をして下さい。
現在の状態と受容には二つの原因があります。意識的にせよ無意識的にせよ、ある異教の哲学者たちと「クリスチャン教父たち」が、この解釈の行程全体に影響を及ぼしてきたのです。心理学者たちに関する限り、彼らの基本的結論は異教的です。その基礎を据えた二人の人はプラトンとアリストテレスでした。私たちは彼らの教えを述べているのではありません。アリストテレスは比較的容易に聖書的立場と調和させられることはわかりますが(とはいえ、かなり巧妙な措置が必要です)、それでも私たちが特に指摘したいのは、「二人とも聖書を手にしていたわけではないし、基本的な経験――この経験により聖霊を通して内なる人が更新され、照らされます――について何も知らなかった」ということです。彼らが持っていたのは天然的な理性の光、この世の知恵だけであり、その種の領域でしか通用しません。
次に、アウグスチヌスなどの「クリスチャン教父たち」についてです。彼らは先に述べた異教の哲学者たちの教えを交互にもてあそび、彼らの影響を受けるようになりました。他のもっとはっきりとした事柄に関して、この「教父たち」の無謬性を受け入れることができたなら、あまりはっきりとしないこの問題についても、私たちは彼らの立場に合わせて自分の姿勢を修正することができたでしょう。しかし、それはできません!最初プラトン主義には益があるように見えましたが、それから離れている方が教会「教父たち」にとって賢明だったことでしょう。今では、「神の民の教師になるには、人についてある程度理解する必要があり、特に人が何者なのか、人の目的は何か、理解する必要がある」という有り様です。そのような知識を得るために、学校や個人の学びの中で、心理学者たちの著作が取り上げられてきました。これはみな、先に述べた異教の基礎の上に建てられています。もちろん、プラトンの時代から長い変遷がありましたし、この先駆者たちとは別に研究や実験の分野があります。しかしやはり、基本的な公式は変わっていません。「人は精神と物質、魂と体の二部分から成っている」と言われています。もっと聖書的な解釈が教えられている聖書学校があるかもしれませんが、それが単なる学課としてではなく啓示として臨むことがどれほど必要でしょう。この問題がその広範に及ぶ極度の重要性にしたがって認識されてこなかったことは、ひどい恥のように思われます。霊的に最高の水準の大会に出席したとしても、また、神のための何か特別な努力を見いだしたとしても、神の御言葉からではない心理学の影響が――まったく無意識のうちに――行き渡っているのを感じずにいることは困難です。感化が魂的なものではなく霊的なものだったら――おそらく目には見えないでしょうが(その方がずっと安全です)――どれほど凄いことが起きていたことでしょう!
しかし、見えないもののために見えるものを、永遠のもののために現在のものを、天のもののために地のものを、実際のもののために「成功」を手放すには、なんという価値観の変化が必要でしょう!
神の御言葉に記されている立場
一つの比較
「隠れた人」という句は、この主題に関連して使われている一つの表現に他なりません。しかし、聖書から離れた意味とは違う意味で「内なる」人と「外なる」人を区別するために、ただちにこの句を見ることにしましょう。これは古代人であろうと現代人であろうと、また異教徒であろうとクリスチャンであろうと、心理学者たちや哲学者たちによる区別とは違います。彼らにとって「内なる人」は魂であり、「外なる人」は体です。神の御言葉ではそうではありません。神の御言葉では「内なる」人や「隠れた」人は霊であり、「外なる」人は魂か体かあるいはその両方です。この二つの用語・名称は、それぞれ「霊の人」と「生まれながらの人」と同義語であり、この二者は御霊の剣――神の御言葉――によって切り離すことができます。神が一つにしておられるものを切り離すことが危険なように、神が「二つのものである」と言っておられるものを一つにすることも危険です。この三者――霊、魂、体――の一体性は、それらが一人の人を組織・構成している点にのみあります。テサロニケ人への第一の手紙五章二三節の逐語訳は、「あなたの全人格」「あなたの人となりすべて」「あなたのすべて、霊と魂と体」です。他の箇所と同じように、三つの異なるギリシャ語が用いられています。神の霊は、変化をつけるために言葉をでたらめに用いることはありません。神が用いる言葉には、基本的な霊的原則が含まれています。人に対して用いられている「生まれながらの」という言葉は、ご存じのようにギリシャ語のプスキコス(psukikos)であり、その英語形はサイキカル(psychical)です。「霊的(spiritual)」は「霊(spirit)」の形容詞形であり、「魂の(soulish)」や「魂的(soulical)」は「魂(soul)」の形容詞形です。ヤコブの手紙三章一五節では「感覚的な(sensual)」が用いられていますが、「魂的な(soulical)」がより正確です。ついでに言うと、興味深く意義深いことに、この書には知恵に関する二つの記述があります。
独特な被造物である人
被造物の全領域にわたって人が独特なのは、人が魂だからではありませんし、人が魂を持っているからでもありません。人が霊と魂を持っているからです。もしかすると、一人の人の中で魂と霊が結合するなら、その人は全宇宙のこの被造物を超えて独特な者となるのかもしれません。神は霊です。天使たちは霊です。聖書の中には、霊である内なる「私」と魂である外なる「私」の違いを示す多くの節があります。たとえばパウロは言います、「私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません」(コリント人への手紙一四章一四節)。次に、コリント人への第一の手紙二章一四節で彼は言います、「生まれながらの(魂の)人は、神の霊の事柄を受け入れません(中略)また、それを知ることができません。それは霊的に識別されるものだからです」。あるいは、「霊(霊の者)によって識別されるものだからです」。特別な啓示を受けたことに関するパウロの話の中で、この区別がとてもはっきりとなされています。
「私は主の啓示を話しましょう。私(外なる人)はキリストの中にある一人の人(内なる人)を知っています。十四年前(肉体の中であるのか、私[外なる人]は知りません……神はご存じです)そのような人(内なる人)が第三の天に引き上げられました。そして、私(外なる人)はそのような人(内なる人)が(肉体の中でか、それとも肉体を離れてか、私[外なる人]は知りません。神はご存じです)パラダイスの中へと引き上げられ、語ることのできない言葉、人(外なる人)の語ることが許されていない言葉を聞いたのを知っています。そのような人(内なる人)について私(外なる人)は誇ります。しかし、私自身については、私(外なる人)は誇りません。」(コリント人への第二の手紙一二章一〜五節)。
ここでついでに注意しておくと、主が言葉の賜物を与えて下さらなければ、霊に啓示される事柄を外なる人は表現できません。別の箇所で使徒は、奥義を話す「言葉」が与えられるよう、主の民の祈りを求めました。
他にも多くの例をあげることができるでしょう。たとえば、「私の内なる人は神の律法を喜びます」や、ローマ人への手紙七章全体のように。
それから、次の御言葉にも注意しましょう。
「私は、ステパナとポルトナトとアカイコが来てくれたのを喜んでいます。(中略)彼らは私の霊を新鮮にしてくれたからです。」(コリント人への第一の手紙一六章一七〜一八節)
「御霊ご自身が、私たちの霊と共に、証しして下さいます。」(ローマ人への手紙八章一六節)
「そのような者をサタンに渡しました。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊がイエス・キリストの日に救われるためです。」(コリント人への第一の手紙五章五節)
「彼女は体においても霊においても聖くなるため」(コリント人への第一の手紙五章五節)
新約聖書には「魂」と「霊」が両方ともたくさん出てきます。私たちの今の第一の目的はこの二つを区別すること、この二つが神の御言葉によって区別されることに注目することです。ですから、私たちはこの二つを分けるための一般的規則を定めなければなりません。この一般的区別は次のように行うことができます。魂(しばしば「命」と訳されます)は、第一に、この世界で自己意識の命の中にある人と関係があります。第二に、その人の善や悪と関係があります。第三に、その人の物事を行う力、達成する力、楽しむ力、利益を得る力、この世界のものを経験・修得する力、責任ある自覚的存在として生きる力と関係があります。人は自分自身と自分の人生のために神に応答することにより、神に定められた目標と御旨――これは自分のためだけに生きることや、この短い人生のためだけに生きることより崇高です――を実現するよう、自分の人生に対して責任を負っています。魂は高次のものによって影響を受けることができますし、それに応答することもできます。しかし、魂は直接的に神と関係しているわけではありません。神との関係は間接的であり二次的です。
霊は――必要な「更新」がなされるなら――それによって人が直接的に神の事柄と関わる器官です。人はそれによって霊の者たちや霊の事柄と関わることができるように構成されます。これは広範に及ぶ一般的規則です。ある節がこれと反するように思われる場合、次の条件を思い出せば、その困難はたいてい解消します。一方において、神は人に責任を負わせておられます。人は知的な自覚的存在であり、少なくとも選択し、求めることができます。他方において、霊が更新されて神と生ける接触を持つようになる時、それによって魂が影響を受けます。そして、両者とも霊によって神から受け、神に与えるようになります。先に進むにつれて、これをさらによく取り扱うことにします。ここでコリント人へのパウロの手紙の一節を引用することは有益であり、適切でしょう。
「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自分を愛する者たちのために備えて下さいました。神は私たちに、御霊を通してそれらを啓示して下さいました。御霊はすべての事柄、神の深みさえも探られるからです。いったい人の事柄は、人の内にある人の霊の他に、人の間で誰が知っているでしょう?同じように、神の事柄も、神の霊の他には誰も知りません。しかし私たちは(中略)神からの霊を受けました。それは、私たちが神からの(中略)事柄を知るためです。」(コリント人への第一の手紙二章九〜一二節)
個々の王国は、それ自身の性質によって支配され、制限されます。獣と人は互いに深い交わりを持つことはできません。ヘンデルのオラトリオは犬にとって何でしょう?
これまで私たちは私たちの真の主題のために準備してきたにすぎません。今、私たちは直ちにそれに取りかからなければなりません。しかし、新しい章を始める前に繰り返し言いますが、私たちの仕事は学問的なものでも専門的なものでもありません。私たちにはそうする力も興味もありません。私たちは、「今日の霊的状況が本当に変わるのを見たい」という大きな願いを持っています。私たちの主題はまったく霊的なものであり、神の民の間における神の喜びと満足のためなのです。
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