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「中田重治論説選集」

一九二二年(大正一一年)

中田重治



家庭の祭壇

偶像信者の家庭には、神棚や仏壇がりっぱに設けられていて、彼らは朝夕これに礼拝をしている。キリスト信者の家庭には、もちろんかかるものはない。しかしその代わりに家拝があらねばならぬ。これは家族の祭壇である。この祭壇が設けられず、または崩れていては、その家はとても繁盛しない。ことに子供のある家ではなおさら必要である。「かついとけなきときより聖書を知ることを知ればなり」(二テモテ三・一五)とある。テモテは信仰に富める祖母ロイス、また母ユニケのもとに家拝を守り、聖書を学んだのである。子供たちが大きくなってさまざまの悪風に染んでから家拝を始めてこれを防ごうと思ってももはや遅い。これは彼らががんぜなき時から始めねばならないところのものである。日本の信者には、欧米にあるような母の祈りという、味わいの深いもののあることを知らない人が多い。これはこの教えが伝えられて日が浅いためもあるが、一大欠点は家拝が盛んでないからである。家拝を盛んにするために、左に心得べきことを数か条あげることにする。

一、主人が朝早く起きること
二、台所の整理を手早くすること
三、聖書の友、日課表のごときものを買い、これにて輪読して、司会者は教訓となることを手短に語ること
四、祈りはひとり代祷し、あるいは数名、あるいはひとりも残らず祈ること、それらのことは臨機の処置をとり、けっして形式に流れざること
五、客あらば信者未信者を問わず、ともに列するようにすること
六、祈りの問題を選びおき、祈祷の精神が常に新たになり、少しも単調無味にならざるよう心がくべきこと
七、一家のうちに苦情起こらば、家拝の時に祈って解決するよう努むべきこと
八、夜早く休み、寝所にはいる子供らのために、とくにそこにて彼らのために祈ること
九、母は子供が東西をわきまえぬ幼少の時より、彼のために祈ること
一〇、子供たちにみことばを暗唱せしめること
一一、一家および夫婦間の秘事は、その性質により別に夫婦にて祈ること
一二、時々牧師および恵まれたる信者を招きて、家拝をともにすること

(二月一一日)

他教会に信者を取られぬ法

わが国にはキリスト教とともに、教派なるものがはいって来たために、したがって教派心なるものが漸次盛んになり、他派よりも自派を盛んにしようとする競争が、激しくなってきている。これは実にいやなことである。「われはパウロにつき、われはアポロにつくという者のあるは、これなんじら肉につけるならずや」(一コリント三・四)。そうするところの反動として、「われはキリストに属す」(一・一二)と言って、無教派を標傍する教派が起こる。その結果として信者を取ったの、取られたのと聞くもいまわしきことが起きる。

ウェスレーの言えるごとく、「世界はわが教区なり」。窮屈なる縄ばりを設けることは、福音の進歩を妨げるものである。どうせ、われわれはヨーロッパでは、天主教の縄ばり内で伝道し、アジアでは仏教の縄ばり内で活動するのである。日本のある教役者の決議のごとく、他宗に対して敬意を払っていては手も足も出しうるものではない。予はここで切言したいことは、いかにせば他教会の羊を盗めるかというぶっそうなことではなく、いかにせば他教会に信者を取られぬかということである。その前に心得ておくことは、ずいぶんなさけない話であるが、取られそうな信者は取らしておくがよいという消極的のことである。たとえばいつも不平ばかり言って、苦情を持ちあげる信者がある。羊泥棒はいつも教会内のかかる者に目をつけて、巧みに取り入るのである。かかる人は盗まれるとかえって教会の平和のためによい。かかる人が他教会に行って、それでりっぱな信者になるなら、天国のためにむしろ経済であると感謝すべきである。また他教会の建物や会衆の数や、牧師の説教ぶりや何かにほれたり、うらやましがったりする者は、どうせカルバリー山までのおともができぬやからであるから、のしなり水引きなりつけてくれてやるがよい。これを会員なるがゆえに、義理や人情の綱でひっぱっていても、あまり手数がかかるのみで利益になるものではない。

次に取られぬようにするための積極的態度はこれである。まず信者をして新生の経験に、はっきり入れしめることである。悔い改めも徹底的でなく、新生も不透明である人に、強烈な光をもって臨むと、極端だの、強過ぎるのと苦情を持ち出すものである。隠れた罪に探りの手が触れるから、騒ぎ出すのである。明白なる救いの経験を持っているならば、怪し気な福音に耳を傾けるものではない。また進んでは全ききよめの経験を握って、全き愛の生涯にはいっておるならば、多少意見の衝突があっても、愛によって一致して行けるのである。「これみな一つにならんためなり」(ヨハネ一七・二一)。このことは一七節にあるごとく、きよめられるので起こるものである。聖潔のないところに一致があるものではない。

いったい信者を逃がすということは、多く牧師の責任である。牧師が「まことのことばを正しくわかち教え」(二テモテ一・一五)ておれば、真の信者なれば逃げて行くものではない。自分の生まれた教会であるからといって、豆がらばかり食わせられるところに、いつまでもがまんしておれるものではない。これを防ぐには教役者が、「キリストの福音の満ちたる恵みをもって」(ロマ一五・二九)おればよい。しかるに信者が退会したり、他教会に転ずる理由の多くは信仰ではなく事務上や感情上のことであるようである。人には了解の相違、または感情の行き違いということがあるものである。その場合に、双方がもし真に主の血潮の中におり、聖霊をあがめておる人であるならば、互いに主の前にへりくだり、祈って解決ができるはずである。もしそれが限りなきいのちの問題でもなく、信仰の問題でもないならば、負けてもゆずってもよいではないか。真に神の救いを味わい、聖潔を実験しておるならば、万事円満に解決せられるはずである。

要するに神が自分にゆだねたまえる羊を完全に養って行くには、自己も恵まれ、自己の教会も恵みに満ちあふれておるならば、羊はいつまでもそこにおるのである。それでも逃げるならば逃がすがよい。もし自分と自分の教会よりも、もっと恵みに満ちた教会があって、そこに信者が行かんとするならば、「彼は必ず盛んになり、われは必ず衰うべし」(ヨハネ三・三〇)と言ったヨハネのように、広い心をもっておるがよい。もし教派心に捕われ、しっとを起こすならば、自分のたましいまでも滅びるようなことになる。これ実に慎むべきことである。(三月二日)

教会の変形児

「肉によりて生まるる者は肉なり。霊によりて生まるる者は霊なり」(ヨハネ三・六)

まことのキリスト信者は、聖霊によって新生した者である。生まれ素性がよいとか、修養が積んでいるとかいうこと、まったく違ったものである。教会なるものはかかる新生者からなりたっておるべきものである。もちろんその中には「肉につける者のごとく、またキリストにおる幼な子」(一コリント三・一)のごとき者もあると思う。しかし肉につける者はきよめられるという第二の恵みを受けるならば、聖徒として恥ずかしからぬ者となる。また幼な子ならば断然成長すれば、「よしあしをわきまえうるおとな」(へブル五・一四)となるのである。しかるにここにまったく違った変形見の教会内にあることを見る。彼らは合いの子でもなく、隠し子でもなく、実は奇形児である。彼らは霊によって新生した者として、取り扱うことができないやっかい者である。彼らは社会問題や、労働問題や、国家問題などの関係で、教会に加入したやからである。悔い改めもなく、キリストの贖いも信ぜずに会員となったのであるからまったくなってはいない。いまのキリスト教会の先輩なる者の多くは、治国平天下の方便としてキリスト教を信じたもので、現今多くの青年が思想問題や何かで、教会に出入りするのと格別の差異がないのである。多くの伝道者はいまなお懲りずに、かかる肉的の問題をえさにして、人をひきつけんとしておるのにあきれざるをえない。かかる変形児が教会内にばっこしておるうちは、教会は健全なる発達をするものではない。とても「全き人、すなわち円満なるキリストの身丈のはかりにまで達せしめ」(エペソ四・一三)ることができるものではない。彼らは改良せらるべき者ではなく、改造せらるべき者である。さればどれほど全ききよめを説いて聞かせても、聖潔に対する飢え渇きもなく、主の再臨の望みを説いて聞かせても、対岸の火災視している風である。そもそもかかる人々をキリスト信者として取り扱うのがまちがいである。よろしく根本的に悔い改めて新生すべきことを勧めるべきである。(三月二三日)

聖潔派の危険なる傾向

日本にあるホーリネス人は各派を通じてたくさんあるが、まじめに聖潔を信じ、力を尽くしてきよき歩みを続けていることはなんぴとも認めていることである。何か心霊的の集会でもあるとすれば、きよめ派の人々は多少関係している。彼らは確かに日本の教界における潜勢力である。しかし彼らは文化運動だの、社会運動のようなものに関係しないのが普通になっている。これはお互いが別に申し合わしたためでなく、その信仰の種類上かかることには興味をもたぬのである。これがために社会と没交渉のように思われ、ひとりよがりの宗教を信じているように思われている。きよめ派の人々にはここに打ち込まれる点がある。さればとて調子をおとして、俗化せる教会と行動をともにするというわけにはいかないのである。意地で無理にしないのではない。「この世にならうなかれ」(ロマ一二・二)との命令を守るからである。そこにきよめ派の長所もあるが短所もあることを知っておかねばならぬ。きよめ派は伝道的ではない。あまり奥妙なる真理や、高い恵みの経験を高調するために、知らず知らずのうちに一種遁世的になる傾向がある。これは例外であるだろうが、きよめ派の伝道者の中には、未信者に対する伝道説教のへたなことを高言している者もある。「神聖霊をもて印したもうは、その買い受けし者を救い、かつおのれの栄えを現わさんためなり」(エペソ一四・一)。きよめられることは、一つは奉仕のためである。社会奉仕のためではない。神に奉仕するのである。神への奉仕は救霊のために祈り、伝道することである。「われらは常に祈ることと、道を伝うることを努むべし」(使徒六・四)。これが聖徒の奉仕である。しかるに数人相集まり、聖書研究を一種の娯楽となし、また人里離れたところにて、俗離れのしたる修養会を開いて得意がっていることは愉快に相違ないが、かくすれば宗教は一種の道楽となってしまう。もちろん大いに活躍する前には大いに祈り学ばねばならぬ。「神なる父の前にきよくして汚れなく仕うることは、みなし子とやもめをその悩みの中に見舞い、また自ら守りて世に汚れざる、これなり」(ヤコブ一・二七)。ただ自分さえきよければよいとすましておるのは宗教生活の本質ではない。近ごろのきよめ派はこの幣に陥っておりはせぬかと思われるふしがたくさんあるようである。きよめなどを信ずる人は、とかく神秘的になるふうがある。神秘的になるといっさいのものから超越しているために、天のみを眺めて溝に落ちた天文学者のようなふうがある。もしとくに恵まれているきよめ派が伝道的にならぬならば、宝の持ち腐れで何の役にもたたぬ無用の長物、いわゆる聖書虫、ガラス箱入りのでくのホーリネス人になってしまう。かのクレッチャーが福音的神秘を叫んだのはこれがためである。もし滅ぶたましいに対する熱情があるならば、もっともっと未信者間にきり込むべきではないか。ちっぽけな修養会や聖別会を開いて、恵まれたのきよめられたの、教えられたのと楽しんでいるようでは、日本のきよめ派もおしまいだ。「われを信ずる者は聖書にしるししごとく、その腹より生ける水川のごとくに流れいずべし」(ヨハネ七・三八)。流れいでないで、たまってばかりおればそれはため池だ。生ける水は流れ出なければ死に水になる。きよめ派の活路は伝道的になるよりほかにはない。きよめ派はいまのうちに覚醒しなければ、平素祈っている日本のリバイバルはとても起こらない。まずきよめ派自身がリバイブせられなければならぬ。これがために従来の修養会の場所を変える必要がある。修養会のたびごとに伝道会を開いて、来会者総がかりで救霊の任に当たることである。アメリカなどにあるコンベンション(大会)はみなそのようにしている。未信者が修養会に来るとめんどうだ、と思う従来の謬見を打破すべきである。これがために未信者が来たりえるようなところに会を開くべきである。また修養会という名がよろしくない。今後はこの語を用いずに聖書式に聖会とすべきである。「われ彼らを世につかわせり」(ヨハネ一七・一八)。きよめ派は世のまん中にあることを忘れてはならない。きよめ派の人は社交をもって世人をとらうべきではない。どこまでも伝道の一本槍で進み、「信仰によりて国々を服」(へブル一一・三三)せしめるまで奮闘すべきである。寝ても起きても、伝道することを忘れてはならない。(四月二七日)

理想のホーリネス伝道者

われらはホーリネスを宣伝すべく選ばれた者である。さればありふれた伝道者と種々の点で異なるところがなければならぬ。ホーリネス人は二十世紀のナザレ人、また末世の清教徒である。されば全然世離れした者でなければならぬ。ホーリネスの伝道者は、異端と俗化の一大教敵に対して戦う戦士である。されば敵に乗ぜられるすきまが少しでもあってはならぬ。されば簡単にするために、この伝道者はかくあってほしいということを、個条書きにしてあげることにする。

一、称義と聖化の経験はもちろんのこと、神癒を堅く信じ、再臨の望みを有し、日々主の来たるのを待ちおること
二、その呼吸までが祈りであるほどに祈り深くあり、聖書に精進すること
三、救霊の熱情に燃え、一日のうちひとり以上の未信者に伝道せずにおられぬというほどに熱心なる者
四、身体強健で、勉強好きで、規律正しく、常識に富み、克己節約し、事を処理するに敏捷なること
五、金銭問題と性欲問題には、極端と言われるまでに清潔であること
六、公私を問わずに神の義と、愛とを釣り合いよく宣伝すること
七、いかにわりの悪いところにいても、常に感謝すること
八、いかなる場合にも謙遜なること
九、その家庭はホーリネス式なること
一〇、すべてのよきことにおいて率先すること。ただし主をあがめざることにはいっさい関係せざること
一一、神のことばを正しくわかち教え、教理的に明確であり、用語は平易で簡明であるべきこと
一二、牧者としてはあくまで親切であり、ことばは常に恵みあること
一三、時は切迫している。されば席暖まるひまもなく、訪問または巡回に多忙であるべきこと
一四、ことばのみならず、筆もて伝道することに努力すること
一五、未信者のみならず信者にも説教しえる、両刀使いであるべきこと
一六、いっさいの社会問題より超越し、福音宣伝の一本槍で進むこと
一七、孤立せず、聖徒の交際のため、同信の者と協力一致すること
一八、直接伝道に献身する者を起こし、後進者の奨励に努むること
一九、自己の属する教会のみならず、他教会の進歩発展にも尽くし、なお進んで外国伝道にも尽力すること
二〇、異端と俗化は悪魔のふた子なれば、教会の内外を問わず見つけ次第打ち破ること
二一、信仰の一致せざる教会または教役者とは、けっして提携せざること
二二、常に聖霊に満たされおること
二三、信者がきよめられ、聖霊に満たされることを勧めるに忠実なること
二四、いかなる時でも必要に応じ、ただちに説教しうるよう心備えすべきこと

――いずれの時代もかかる伝道者を要する。ことにわが国のような思想が乱れ、道徳が退廃した国においてはなおさら必要である。キリストが世に現われたもうた時は、成金輩のばっこした時であった。その時主は極度まで清貧に甘んずる人のみを選んで、弟子となしたもうた。いまもそのごとく、主のほか何ものをも頼みとせざる人でなければ、とても救霊の大業にあたることはできない。エリヤは理想のホーリネス伝道者であった。彼は単独で偶像教の僧侶神官八百五十人を相手として大勝利をえた。ギデオンの三百人はえり抜きのホーリネス人であった。彼らはミデアン人を十二万余も打ち滅ぼした。もし日本にかかる決死のホーリネス伝道者が三百人もあらば、日本を霊的に占領することはぞうさのないことである。かかる人々は給料があろうがなかろうが、そんなことには頓着しない。エホバ・エレの信仰、ピリピ四・一九の天国旅行の振出手形で進むから少しも心配がない。土地の遠近、気候の寒暖などは気にかけない。いつでも殉教する覚悟で行くから、「われら生くるも主のために生き、死ぬるも主のために死ぬ」(ロマ一四・八)ので死生に執着しない。またホーリネス伝道者は人種的偏見から救われておるから、内外人の区別を立てて争うようなことはしない。福音の宣伝のために全世界の聖徒とともに提携することを喜ぶ者である。

要するにホーリネスの伝道者は、罪のほか何ものをも恥辱とせず、神のほか何ものをも愛せぬという特種の民である。もし彼に道楽があるとすれば、人のたましいを救い出すことのみである。今日要するものはかかる伝道者である。(五月四日)

真の危険思想

純キリスト教の思想から言えば、危険思想なるものは世人の考えているものとは違う。何よりも恐ろしい思想は無神無霊魂説である。人間に神もなく未来もないならば、人間は禽獣にひとしい。「罪とは律法を犯すことなり」(一ヨハネ三・四)とあるけれども、その律法をつかさどる無上主権者なる神を認めない人は、律法を無視するようになる。聖書ではこれを不法と申している。すなわち制度をも組織をも無視することである。人間を制裁する神がないと思うほど危険な思想はない。いくら罪を犯しても死ぬると空虚になると思うほど恐ろしいことはない。これはみな悪魔の流布した虚言である。かくして彼は社会を乱し、人々を地獄に落とし入れんとしているのである。外国においてもわが日本においても、社会主義やその他危険なる思想を有している者がキリスト教に反対するのはこれがためである。彼らはわがまま放題にふるまいたいのであるから、道徳などやかましく言うキリスト教をいちばんいやがるのである。キリスト信者の中にもキリスト教社会主義というようなものを主張して、万事穏便にやっていこうとしている者もあるが、あれはぬえのようなものできわめてあやしいものである。純キリスト教はどこまでも服従を教えている。服従するためにわりが悪くてもよい。いっさいの審判は神の御手にあると信じているから、この世にあるかぎりはどこまでも平和の主義で行くのである。さればいかなる政体のもとにいても、いかなる内容ができても、少しも神経を痛めず、静かに平和の主なるキリストの来るのを待っているのである。かかるキリスト信者を目して、危険思想でも有しているように言うのは、言う人の盲かまたは悪魔の散布した虚言のためである。(五月二五日)

世界における宗教覚醒

「末の世に至りてわれわが霊をもてすべての人に注がん」(使徒二・一七)。この預言によって見ると、早晩全世界にわたるリバイバルが起こるに相違ない。「このゆえになんじら罪を悔い、心を改めてその罪を消さるることをせよ。そは主の前より安き日の来たり、かつあらかじめ定めたまいしイエス・キリストを送られんがためなり」(使徒三・一九、二〇)。この安き日とあるはりバイバルの日である。主の再臨前にこの大リバイバルがあり、それから主は来たりて聖徒をみもとに集めたもうのである。さればわれらはこの大リバイバルのために祈るべきである。

すでに報ぜしごとく、蘇国の漁民間に起こりしリバイバルは、またもウェールスのほうに延焼している。またかの火刑に処せられたジョン・ハッスの出生地なるチエマスロゾークもすなわちボヘミアおよびモラビアの国では宗教的大覚醒が起こり、人々はロマ教の束縛を脱して新教の教会に集まるようになり、教役者が払底のためひっぱり合いであるとのことである。また露国の正教会のある者は目ざめだした。かの監督のうちで過激派のために殺された者は多くあるが、彼らはなおひるまず、露国民の宗教的覚醒のために活動しているとのことである。露国は宗教的に革命が行なわれなければけっして救われない。印度は動揺している。人々は何かを求めている。必ずや宗教的革命が起こって、人々は純福音に走り来るようになるに相違ない。中国は乱脈である。過日上海に開かれた各教会連盟運動は、から騒ぎに終わってしまった。心ある人はそれがために非常に覚醒し、どうしても聖書的福音でなければならぬと叫んでいる。新神学や近世主義(モダーニズム)が流行しだして、教会はひとかたならず撹乱せられている。日本のキリスト教会は全般として眠っている。いまのところなんら覚醒の曙光も見えない。しかし真剣にリバイバルのために祈っている人は、あちこちに見える。必ずや恵みの大雨ははい然として降る時あることと信じている。「万軍のエホバかく言いたもう。いまひとたびしばらくありて、われ天と地と海とくがとを震わん」(ハガイ二・六)。このことはやがて起こるのである。(八月一〇日)

たのもしき信者

いかに教会の建物がりっぱであっても、牧師がいかに学者であって説教が上手であっても、たのもしい信者がなければ教会は持っていけるものではない。しからば教会にとってたのもしい信者とはいかなる信者であるか。左に思い浮かぶままにあげて見たい。

一、明確な救いと聖潔の実験を有し、祈り深い人
二、いくら教会のために献金しても、自己がやったというような自慢顔をせぬ人、別言せば謙遜なる人
三、牧師や教役者を批評せず、むしろ熱心に祈って助けてくれる人
四、教会内の病者や貧しき人をよく訪問する人
五、うわさの問屋とならぬ人
六、集会には十分か五分前に出席し、入り来たる人を歓待する人
七、役員にはなりたがらず、もし選挙せらるる時は自分の家のように、教会のことを思ってくれる人
八、教会員中に永眠者でもある時には、率先して世話してくれる人
九、集会の時には機会あるごとに祈りをなし、証しをし、勧めをしてくれる人
一〇、自分の後継者を自分の家族中より出して、自分の永眠後も教会のために尽くすように準備しておく人
一一、十一の献金はもちろん、分に過ぎて時に献金する人
一二、もし教会内に党派のごときものが起きる時は、それに超越して関せざる人
一三、その家族をあげて主に奉仕する人
一四、教役者および旅人をねんごろにあしらう人
一五、牧師などの不在の時には、代わって説教しうる人
一六、もし教会内に異端と俗化の傾向が見ゆる時は、極力反対してその排斥に努む人
一七、真実かつ親切なるゆえをもって、未信者にも尊敬される人
一八、聖日を厳守して、模範的生涯を送る人
一九、常に人をキリストに紹介する人
二〇、自己の業務に勉励する人

もしかかる信者が数名教会にあるならば、その教会は確かに繁盛する。また牧師も奮発し、教会員もそれにならうようになるものである。(八月一〇日)

まずユダヤ人に

「それ神の道は必ずまずなんじら(ユダヤ人)に告ぐべきなり」(使徒一三・四六)

神の世々の御計画によれば、福音はまずユダヤ人に告げるべきである。今後ともそうあるべきである。「まず子供に飽かしむべし」(マルコ七・二七)。これは主のみこころである。「彼おのれの国に来たりしにその民これを受けざりき」(ヨハネ一・一一)。その結果として「かえって彼らがあやまちにより、救いは異邦人におよべり」(ロマ一一・一一)。しかしユダヤ人を捨てっきりに捨つべきものではない。なんとかして彼らの救いのために、力を尽くすべきは教会の責任である。

初代の伝道者はまずユダヤ人に伝道した。それから異邦人に手を伸ばすという順序であった。これはその時ばかりではない。今日に至るまで成功ある伝道は、みなこの点に着目しなければならぬことになっている。ユダヤ人はいま全世界に千五百万人もおって、世界の各所に散っている。これを足場として伝道するということは、確かに使徒的伝道法である。わが日本にはユダヤ人は少数であるため、大多数の人々はユダヤ人とはいかなる者なるか、いかなるかっこうをしている者なるかわからない。しかしユダヤ人はわれら主を信ずる者に縁遠い人種ではない。聖書はユダヤ人によってわれらに伝わり、救い主イエスはユダヤ人である。この意味から申しても、主と同族なるユダヤ人のために尽くさなければならぬ。「そは異邦人もし霊につくものを受けたらんには、身につくものをもってまた彼らに仕うべきなり」(ロマ一五・二七)。われらは親しくユダヤ人を見ることができなくとも、彼らのために祈り、また彼らに伝道するための費用をいくぶんにても出して、その選民を救いたくおぼしめしていらせられる主イエスのみこころを喜ばすべきである。「エルサレムのために安きを祈れ。エルサレムを愛する者は栄ゆべし」(詩篇一二二・六)。ユダヤ人のために尽くす者のために、この約束が成就せられるのである。この妙味を知っている者は、日本のキリスト信者のうち何人あるだろうか。

まずユダヤ人を救うために尽力することは、他の人種をも救う伝道であることを知っている人は幸いである。これを対岸の火災視している人は、まだ霊の目が開かれていないのである。

いまや欧米のキリスト信者は、このことに非常に注目するようになり、ユダヤ人中にも続々悔い改めて信者になる者が起こっている。「いちじくとすべての木を見よ。すでにめざせばなんじらこれを見て自ら夏ははや近しと知る」(ルカ二一・二九、三〇)。いちじくなるユダヤ人が復興していることはキリストの再臨が近き証拠の一つである。そのユダヤ人に伝道することは、主の再臨が近き証拠の一つである。さればユダヤ人伝道は、等閑に付すべき問題ではない。読者諸兄姉は常に本紙に見られるごとく、われらは、ニューマーク兄の伝道のために一昨年以来わずかなれども送金している。同兄はもっかロンドン本部のユダヤ人部落にはいって盛んに伝道しておられる。われらはまずユダヤ人にと、身自ら伝道することができないけれども、ニューマーク兄はわれらに代わって伝道してくれるので、われらはいくぶんなりとも使徒的伝道を味わうことができて実に感謝である。われらはこれをもって満足しない。八百万人のユダヤ人のおるロシアは、われらの隣国であることを忘れてはならない。主の御許しがあるならば、ひとりのユダヤ人の伝道者をかしこにつかわし、その費用をば日本の聖徒にて分担し、いくぶんにても主のみこころを休めまつり、「兄弟よ、わが心に願うところと神に祈るところはイスラエルの救われんことなり」(ロマ一〇・一)と申されたパウロの志を継ぎたいものである。

読者諸兄姉はそれぞれ教会があるので、負担も重きことであると思う。しかしパウロの「われには借金あり」(ロマ一・一四意訳)と申された借金がなんであるかを知らせていただき、ユダヤ人のためにもでなく、まずユダヤ人のために尽くしていただきたい。しかせば自分も自分の教 会も祝福を受けるのである。予の知れる数個の教会はかくして大いに恵まれている。

もしニューマーク兄のためにいくぶんにても献金せられんとするおかたは、どしどし送っていただきたい。(九月七日)

日本伝道振興策

日本に伝道が開始せられてから六十年余になるが、あまり進歩していない。中国、インドに比べては年月の割り合いに進歩しているとうぬぼれてはならぬ。われらの標準はなんでも使徒時代である。「この日弟子に加われる者おおよそ三千人」(使徒二・四一)、「神の道いよいよ広まりて、弟子たちの数エルサレムにはなはだしくまさり、祭司も多く信仰の道に従えり」(使徒六・七)。聖霊に満たされて伝道するならばいつの時代でも何の国においてもかくあるべきはずである。しかるにわが国の形勢いかん。どこも行き詰まった状態ではないか。この退勢を破るのは、縦にも横にも大改革が起こらねばならぬ。第一、信仰の内容が充実しなければならぬ。信仰の点についてはわが国は乱脈である。ある大教会の青年伝道者のある者は結束して、来たる総会に、処女の懐胎などという時代遅れの思想を信条より除くことを決議せんとしているうわさがある。またある教会の総会では、金森氏を招いて特別伝道を試みんとの決議が出たところが、氏が創世記より黙示録までを神のことばである、と信ずるゆえをもって否決したとのうわさもある。われらはホーリネスの信仰だの、主の再臨の信仰だのと言わない一般の教会は、信仰の初歩だも否定するような傾向である。予は過日あるところで数名の教役者と語った。われらの教会にて新神学や高等批評があまり入り込んでいるために、とても防ぎきれない。よく戦ってみてものれんに腕押しするようなものであると。いまは新神学攻撃では手答えがない。むしろ純福音の伝道者は結束して新地の開拓に全力を注ぐべきである。かの異端者説破に時間を費やしている間に多くのたましいが滅んで行く。予の言う新地とは、地理的に言うのではない。いずこでもよいから新規巻き直しのつもりで伝道することである。そして信者は、新生の実験と聖潔の恩恵を握りさえすれば、いかに異端の風に吹かれても動かなくなる。この新年をもって日本を教化するよりほかに道がない。いまさらぼろ屋修繕するようなことをするよりも、別に新しく建てるほうが早道である。これがために伝道者はもちろん、同信の士に所属の教会または団体を脱しても一致結合して、日本の教化にあたることをあえて勧めるものである。これが一日遅れれば一日だけ損になる。もし情実上これができぬとあれば、その態度または口ぶりにおいて少しも妥協的の風がなく、大胆に信ずることを教会内に発表すべきである。いつまでもおとなしくしていても待ち望むリバイバルが教会内に起こらない。結果がどうなるか、一つ大いに証しすべきである。それができぬとあれば、その人々も腐敗せる教会とともに自滅する人々である。次は、従来の型を打破すべきである。諸教会のやりくちを見ると、何もかも従来の型にとらわれてしまい、少しも新しいところがない。その型は使徒的でなく欧米風で直訳的である。信仰は欧米風でも日本風でもいかん。聖書的でなければならぬ。しかし伝道法や教会の組織等はその国情に適したようにすべきである。従来のようではキリスト教は、ある思想を述べる宗教、それを講義するところとしか思えない。教会はよろしく人々の実生活に触れる祈祷所であらねばならぬ。できるならば伝道会社なるものをやめ、雇い伝道者をやめ、伝道の精神のある者のみが神のみを生活のあてにして伝道するようになればよい。牧師などの名称はよろしく廃止すべきである。いまの牧師はみな福音使と名称を変えるがよい。牧師という名があるために、いつのまにやら住職然とかまえこみ、信者も牧師を番人のごとく思う風がある。牧師は羊の番人であるから、よろしく信者の中より選挙すべきである。福音使はその上にありて教えを施すことをすればよい。信者各自は、教会なり伝道所なりをつくる責任あることを自覚すべきである。真に新生したる信者をかく養成することは、日本教化のためにもっともたいせつなことである。二、三十人の信者があれば、すぐさま牧師を送ってもらうという考えを取り去らねばならぬ。これまでのような天降りの伝道法では急速の教化はおぼつかない。どうしても救われた信者各自の自覚に基づく伝道でなければならぬ。

要するにいまの時代は破壊もやり、建設もやるという、ずぬけたことをしなければならぬ時代である。(一二月一四日)