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「中田重治論説選集」

一九二四年(大正一三年)

中田重治



信に忠なれ

「なんじ学びて信ずるところのことを守るべし」(二テモテ三・一四)

東京市の電気局長の長尾半平氏は、サイベリアから帰還の兵士が自分の家に宿泊した時に、酒を出さなかったゆえに、兵士たちにいたずらをされたということが新聞に出ていた。またその反対に甲府のあるキリスト者が酒をふるまったために、兵士に感謝されたと書いた新聞もある。

予は長尾氏がその主義に忠実なるを見て、実に敬服する。それと同時に甲府の某信者の、ふがいないのを嘆くものである。現にキリスト者の中にもこの二種類がある。後者は交際という名のもとに、不信者同様のことを平気でやっている。酒やたばこを用い、芝居見物や舞踏などを無遠慮にやっている信者がいくらもある。それを牧師が大胆に攻撃でもするなれば、転任を余儀なくされるようなことがままある。でも攻撃する教役者がある間は、幾分かたのもしいところがあるけれども、その教役者も俗化しているからあきれざるをえない。われらは世を相手に信仰しているのではない。神相手に信仰しているのである。「すべての人の偽りとするも、神をまこととすべし」(ロマ三・四)。この覚悟がなくては真の信仰をもちうるものではない。世間がどうのこうの、人が何と言ったかと気をもむようでは、信仰が徹底しない。

日本はまだ野蛮の境を脱しない。偶像の祭礼の時に金も出さず、ちょうちんを出さなければ、みこしを家に打ちつけるとか、祝いごとのある時に酒でも出さなければ、親類交際をせぬとか、いろいろの難題を吹きかけてくる。または種々の宴会の際、酒飲みの割符金を出さなければ、首になるようなこともある。われらは信仰のゆえをもって、あくまでかかることと戦うべきである。信仰のためには最後、いのちまでも捨てる覚悟で進むべきである。ことに全ききよめを信ずるホーリネス人は一歩も退いてはならない。(二月二八日)

キリストの内住

いまの教会において福音的の信仰を有する者は、とにかく歴史上のキリストを説く。その十字架、その復活、その昇天等を説きはする。しかしさらに進んで、現在におけるそのキリストの実在を真に意識し、確信をもってこれを説いている者が、はたして幾千人あるであろうか。千九百年前の昔物語としてのキリストではなく、今日いまここに実在したもうキリストを説いてこそ、その証しに力がある。過去のキリストではその大説教に感銘し、その大人格に模放せんと努める者は起こっても、事実その力に触れて瞬間的に変化する体験をえることはできない。これは現在のキリストに接触して、始めてえられる体験である。むろん福音的信仰を持つ人であれば、かかるキリストの実在を理屈の上では信じもし、知ってもおろう。しかしこれを実験的に知っているのでなければ、その人の生活と奉仕の上に、いささかの変化も起こらない。組合教会の武本氏が、近ごろ異彩を放った伝道ぶりをもって、各所において大いに用いられているのは、このキリストの実在を体験されたためであることは、常に講壇や雑誌において証しせられているごとくである。キリストが「われは世の終わりまで常になんじらともにあるなり」(マタイ二八・二〇)と仰せられたのは、われらが常住坐臥一瞬時といえども、忘れてはならぬ約束である。

キリストはただにともにいましたもうのみならず、またわれらのうちに住みたもうのである(ヨハネ一四・一七)。「われ彼らの中に宿り、また歩まん」(二コリント六・一六)とは、もとイスラエル人に対する約束が、霊的イスラエルたるキリスト者には、現在霊的において成就するごとく、この約束もわれらには個人的に霊的実験として体験されることである。されば「なんじらは生ける神の宮なり」とある。

キリストの内住。これは実に奥義中の奥義である。「これ神のことば、すなわち世々隠れていま神の聖徒に現われたる奥義を宣べ伝えんとてなり。……異邦人のうちなるこの奥義……この奥義はなんじらのうちにいますキリストにして……われらはこのキリストを伝え」(コロサイ一・二六〜二八)。約束に属するすべての契約にあずかりなき異邦人が、キリストの血によって救われ、生来の罪の性質までもきよめられて、その上にキリストがそのうちに宿りたもうとは、実に驚くべき奥義中の奥義である、世々隠れていたことで、旧約にも啓示していないが、新約の聖徒の体験される大いなる特権である。しかもこれも他のすべての恵みと同じく、信仰によって体験せられることなのである。パウロはエペソの信者のために、「またキリストをして信仰によりてなんじらの心におらしめ」云々と祈った(エペソ三・一七)。しかしこれは「霊をもって内の人を強くすこやかに」せられた者のみが体験することができることである。しかしこれは救われた、きよめられたというような、一度きりの格段的の経験ではなく、常住連続する体験である。きよめを維持するのも、能力の流れ出るのも、また神との交通を持続するのも、要するにこの内住のキリストによってできることである。

願わくば福音の教理をもつすべてのキリスト者が、このキリストの実在を体験し、意識するに至らんことを。(四月三日)

世論と信仰

俗界においては世論ほど力あるものはない。しかし神を信ずる者は、そんなものによって左右されず、万人を敵としても、ただ神のみをたよりとしている。信仰界においては、「人に従うより神に従うはなすべきのことなり」(使徒五・二九)というのが通則である。

主は御在世の時、ある時は五千人余の人に食を与え、またたくさんの人々をいやしたもうた。このほか主イエスの御恵みにあずかったものはたくさんあった。もし主が煽動家であったならば、群衆の勢力をもってユダヤ全国を乗っ取ることは雑作ぞうさなかったであろうと思う。しかし主はそんな人数をあてにしなかった。数をあてにするのが人間の長所で弱点である。いまの世は点数の多少によって勝敗を決することになっている。しかし全能の神をあてにする人は、そんなことに頓着しない。

主は「われすでに世に勝てり」(ヨハネ一六・三三)と仰せたもうたが、しばらくして無惨むざんにも十字架にかかりたもうた。しからば主の御勝利はなんであったか。世論でもない、群衆の勢力でもない、全能の神を信ずる信仰であった。「彼ら激しく声を立てて、彼を十字架につけんと言いつのれり。ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」(ルカ二三・二三)。真理でもなんでもない。声勝ちたりとあることは世論である。信仰はかかる時にはそれに従わず、それを通じてそののちに起こるところのものを見抜いて勝利を叫ぶのである。

主は十字架につけられたもうた時に、普通の場合ならば主の御恩顧を受けた者は一揆騒動を起こすべきである。しかるにおもだった使徒さえも、主の最後を見とどけもせず、はるかに離れて見ていた。これは主の御摂理であったとは言え、なんだかあの当時の人間のいくじなしばかりであるように思われる。

しからば主のよみがえりしのちに、ユダヤ全国におった数千人という人々は集まって、大示威運動を起こしそうなものであったが、わずかに五百人ぐらいの者が集まったのみであった。これは何のためであったろうか。これは福音は群集の力で宣伝せらるべきものでないとの、主のみこころであったろうと思われる。

さればわれら純福音を宣伝する者は、人数で勝負をつけると思ってはならない。どこまでも信仰をもって行かねばならない。かのパンの奇跡後に、人々は主をたずねだした。その時主は「まことにまことになんじらに告げん。なんじらのわれをたずぬるは、しるしを見しゆえにあらず。ただパンを食して飽きたるがゆえなり」(ヨハネ六・二六)とのたもうた。世のいわゆる社会事業的なるものは、からだを満足させるためのみのものである。かかることで主を求める者は、どこまでも主にお供するものではない。またよししるしや奇跡を見て感心しても、それはその当座だけで、まことの救いに入りえざるものである。「もしモーセと預言者に聞かずば、たとい死よりよみがえる者ありとも、その勧めを受けざるべし」(ルカ一六・三一)とあるごとくである。まして評判や宣伝ぶりに動かされて集まるようなものは、あまりたのもしきものではない。どうしても神のみことばを土台として、真の信仰にはいるものでなければ、徹底せる救いに到達しえるものではない。「信仰は聞くよりいで聞くところは神のことばによるなり」(ロマ一〇・一七)とあるから、われらは大いにプロパガンダもやらねばならぬ。しかしどこまでも、神のみことば以外に出てはならぬ。世の策士のごとく群衆心理を利用しようとして、大げさのことを言うような罪に陥ってはならない。怪しげなプロパガンダに釣られておる者は、後日必ず災いをするもので、ついにそれらによってあだ返しせられるようなことになる。されば福音宣伝はどこまでも地道で行かねばならぬ。へたと思われてもよい。堅実に行かねばならぬ。これがためには、多くの同志をなくしてもよい。派手はでな仕事よりも、主を喜ばしたてまつる仕事をするには、枯れ草を燃やすようなことをせず、長持ちのするようなことをなすべきである。主は近し。主のごらんにいれて、主を喜ばしたてまつるようなことをしなくては、長年働いても何の役にもたたない。

同労者諸君よ、諸君は世間に動かされているか。聖霊に動かされているか。世の歓心を買わんとしているか。神を喜ばさんとしているか。いまや大いに省みるべきである。(五月二二日)

ホーリネス教会繁盛の秘訣

ホーリネス教会はとても世間に吹聴するような隆盛をきわめていない。まだまだきわめて幼稚なものである。教会組織にしてからようやく七年になったのみで、満で言えば学齢にも達しない年である。

しかるに近来あちこちから、どうしてホーリネス教会は、短日月の間に著しく発達したかと、たずねて来る人がたくさんある。なるほど教会の数がますますふえ、献金額もふえて、去年も全員ひとりあて一年間の献金が二十円余になって、第一位を占めているから、何か秘訣があるように思うのも無理からぬことであると思われる。

秘密と申すものがあるとすれば、これは公然の秘密である。何も隠すほどのものではない。予は左にそれを個条書きにして、公開することにする。

一、われらは聖書そのままを神のことばとして信じている。
二、ことに四重の福音、すなわち新生、聖化、神癒、再臨を特色としている。
三、これを宣伝する教役者の信仰は、統一されているから足並みがそろっている。
四、これを信ぜざる信者は、とうていついていられぬほど教理と実行を力説する。
五、いっさい社会事業のごとき間接の仕事に手出しをせず、一意専心に伝道する。
六、大いに祈祷と伝道に力こぶを入れる。
七、恵みの体験は過分の献金として現われる。これは試金石である。
八、信徒は熱心に証しをなし、また伝道するように訓練されている。
九、教会政治は監督政治で、団体的に活動するように努めている。
一〇、この教会の教役者は、いちばん手当が少ない。生活のためには伝道会社をあてにせず、兵糧は敵地にあると信ずる。

ざっと記せばかかるものである。しからば何教会でも右の十か条のとおりにすれば繁盛するかというに、そうとは限らない。要するに伝道の秘訣としては、教理も組織もやりかたも大切であるが、恵まれた人にあるのである。わが教役者および信者は、まだ幼稚である。しかし真剣であることだけは事実である。これも比較的にいう言葉であるが、もっと真剣になればなるほど神は祝福したもうことと信ずる。われらは人にはほめられて恐縮している。自らはいまのままではだめである、こんなことで満足してはいられぬと、ひたすらもっと主の霊に満たされんことを祈り求めている。(五月二九日)

神の声と神のことば

聖書は書き記された神のことばを聞く本であって、宇宙は書き記されざる神の声を聞く本である。

世人は聖書の中にある神のことばさえも聞きわけえない。どうして天地間に響きおる神の美妙なる声を聞きわけえようか。

神の声の中には、文章となしえるものもあり、またならぬものもある。同じく神のことばであっても、言(レマ)と道(ロゴス)があるようなものである(ヨハネ一七・八、一四)。

アダムとエバがエデンの園にて聞いたところの神の声(創世記三・八)は、文章となしていなかったけれども彼らは恐れて身を隠した。パウロはダマスコ行きの途上で聞いた神の声には意味があった(使徒九・四)。しかしそばにいた者にはわからなかった。ヨハネ伝一二・二八にある天よりの声もそうである。かたわらに立てる人々にはただ雷としか思われなかった。この種の声はいまでも聞こえるということを知る人は幾人あるか。「かくて三日の朝に至りて、いかずちといなびかり、および厚き雲山の上にあり、またラッパの声ありてはなはだ高かり、営にある民みな震う。……モーセことばをいだすに神声をもて答えたもう」(出エジプト一九・一六、一九)。これは旧約時代のことであったが、新約時代においても耳にすることができるのである。「昔はその声地を震えり。いまは彼告げて言わく、われまた一たび地のみならず天をも震わん」(へブル一二・二六)とある。これ大地震である。地震をば単に地震と心得、雷をば単に雷と心得ている人には、これらのことは何の意味もない。しかし神を信ずる者には、これらはことごとく意味をなして聞こえるのである。「エホバは天にいかずちをとどろかせたまえり。いと高き者の声いでて、雷と燃えたる炭と降りきたり」(詩篇一八・一三)とあるは、すなわちこれである。「神の声のひびき、およびその口よりいずるとどろきをよく聞け。……彼威光の声を放ちて鳴り渡りたもう」(ヨブ三七・二、四)。

神の声は必ずしも大いなるものではない。エリヤの時のごとく静かなる細き声のようなものである。無線電信家が言うには、空中には絶えずどこかで雷が鳴っていると。われわれの耳に聞こえるような雷のみが雷であるのではない。われわれの耳に聞こえざる雷でも、特種の装置さえすれば確かに聞こゆるのである。かくのごとく霊界においても、信仰を確実になし、超自然界の声を聞く耳を鋭敏にするならば、神の声を聞くことができるのである。雷また地震、大雨または大風、波の音、川の音または松風のようなものまでも、神の声となって聞こえるものである。これは主観的のものではない。そう思うからそう聞こえるのではない。神は生きていたもう。ゆえに語りたもうのである。しかしその御声は聖書の明文と矛盾するものではいけない。悪魔でも超自然的に語る。さればその声は神のものなるやいなやを試みなければならない。

ペンテコステの日にエルサレムに起こった「この音」なるものは神の声であった。それから聖霊に満たされた弟子たちは語り始めたのである。もし現代の伝道者がかかる御声を直接に聞くことができるならば、権威をもって人々に神のことばを語ることができると信ずる。

いかにせばこの声を聞くことができるか。これは祈祷の結果である。モーセのごとく神と親しく交わることによって聞きえるものである。また祈祷の結果として、大リバイバルが起こる時に、まま起こるところの現象である。しかる時には議論でなく、神の声に扱われて悔い改める者が起こるものである。われらには神のみことばなる聖書がある。これさえあれば大丈夫である。しかし同時に神の声なるものがあることを知っておかねばならぬ。

「末の世に至りて、われわが御霊をもてすべての人に注がん。なんじらの息子娘も預言すべし」(使徒二・一七)。この種の預言は神の声を聞いた人でなければできぬものである。どうかかかることが一日も早く行なわれんことをひたすら祈るものである。しかる時には証人は学者のごとくならず、権威を持てる者のごとくなって、福音を伝えるようになるのである。(七月二四日)

健全なる信仰

「その証しはまことなり。さればなんじきびしく彼らを責めよ。なんじらがユダヤ人の昔話と真理を捨てる人の戒めとに心を寄することなく、信仰を健全にせんためなり」(テトス一・一三、一四)

不健全なる信仰は病的のものである。それは信仰と名づくることができぬもので、一種の推測、感情または思想にすぎない。これは人間の手製のものであり、時代や境遇や事件によって種々に変化するものである。ある人は自分の主義を信仰と言っている。しかしかかるものはわれらのいわゆる信仰なるものとは全く異なったものである。健全なる信仰とは神のたまものである。「なんじらの信ずるは神の大いなる力の働きによるなり」(エペソ一・一九)。かかる信仰は人間の意志によって信ずるというよりも、神に信じさせていただくところのものである。自作的のものでなくて、天作的なものであるから、その信仰の性質は超自然のものである。その結果として、「神の力のきわめて大いなることを知る」ことができるのである。

次にこの信仰は、「なんじキリスト・イエスにある信仰と愛とをもて、われより聞きしことばの模範を保ち」(二テモテ一・一三)とあるごとく、健全なることばが土台となっておらねばならぬ。「しかれば信仰は聞くよりいで、聞くところは神のことばによれるなり」(ロマ一〇・一七)。これは天地はうせるともうせざるいのちのことばである。これにさえ根拠を据えておりさえすれば堅固なものである。多くの人の信仰がぐらつくのは、神のみことばの知識がないからである。聖書にかく記されてあると、常にそれに頼む人の信仰は確かに健全である。

次にこの信仰にとってたいせつなものは健全なる教理である。「されどなんじは健全なる教えにかなうことを語れ」(テトス二・一)。ある人は恵まれておりさえすれば、教理などはどうでもよいと言うが、教理は背骨のようなものである。かかる人は肉さえあれば骨がなくてもよいと言うのと同じである。この末の世においては、悪魔は種々美しきことばをもって多くの人々を欺かんとしている。彼はみことばをオブラートとして毒薬を包み、多くの信者に飲ましめんとしている。さればゆだんしてはならぬ。救いの教理でも、聖潔でも、神癒でも、再臨でも、よほどしっかりした教理に立っておらぬとごまかされてしまう。されば教理をいやしめてはならぬ。大いに尊重せねばならぬ。「また恥ずるところなき働く者となりて、真のことばを正しく分かち教えんことを務むべし」(二テモテ二・一五)。伝道者の責任はここにあるのである。信者が岐路に迷うのは、これを教える教役者が徹底的に教理を教えないからである。

次に健全なる信仰とは、確固不抜の信仰である。「さまざまの教えの風に動かされず」(エペソ四・一四)とはかかる信仰である。ある人の信仰はうわ気である。珍しものずきであるために、いつも浮き草のように新説に動かされている。科学だ、哲学だ、時代思潮だなどと、いろいろなものにかぶれている。あたかも皮膚の弱い人がいつも時候の変わり目に風邪にかかるようなものである。かかる信仰ではとても霊界の難関を突破することができない。わずか一寸か五分しかない小さな魚でも、生命があるから激流にさかのぼって行けるように、健全なる信仰の持ち主はどしどしと進んで行けるものである。さればかかる人は進行いっぽうの信仰家である。かかる人は少しも退却しない。「神の義はこれに現われて、信仰より信仰に至れり」(ロマ一・一七)。信仰そのものは健康体であるから疲れることを知らない。ただ進み行くいっぽうである。さればいよいよ神の栄光を拝することができるのである。かかる人には憂色がない。いつも喜色満面である。かかる人はすなわち、「神の子を信じこれを知れり。全き人すなわちキリストの満ち足れるほどとなるまでに至り」(エペソ四・一三)とあるごとく、聖徒としての十分なる寸法に達するのである。この種の信仰に欠けておる人は、いわゆる霊界の一寸法師で、くじはずれ、落選の仲間になるのである。

愛する兄姉らよ、かかる信仰におるやいなや、自ら省み、自ら試みる必要があるのではないか。主はこれを明らかになしたもうのである。(九月一一日)

もっと宗教的なれ

予はいつも汽車や汽船にて旅行する時に、好んで三等に乗ることにしている。これは予にとって、人間学を学ぶに何よりもよい機会であると思うからである。三等客は二等や一等の客と違い、ありのままであって、気どったり、てれ隠しのようなところが少ない。商人は商人、職人は職人とその立場を明らかにして話している。予はそれを見るたびごとに、宗教家はもっと宗教家らしくありうべきであると感ぜしめられる。

「なんじらはキリストのふみなり」(二コリント三・三)。しかも公開された書である。それゆえなんぴとに読まれても恥ずかしくないものでなければならない。これについては、教役者または信者の区別なくどこにおいても、神第一の信仰を発表すべきである。

しかるに近来諸教会の講壇は、いわゆる講壇で哲学者まがいのことをしゃべっている風がある。そこは教壇ではなく、もちろん聖壇と申すことはできない。教会は労働問題や社会問題について論議するところではない。キリストの福音を宣伝するところである。したがって伝道者や牧師は、昔の儒者か社会運動家のようになっている。伝道者の職責は、「彼キリストによりわれらをしておのれと和らがしめ、また和らがしむる務めをわれらにゆだねたまえり」(二コリント五・一八)とあるごとく、人の永遠の救いに関するものである。この職を忘却している者は、よろしく伝道界より退くべきである。伝道者自身が伝道者としての本領を没却しているから、その下に教養せられている信者までが、きわめて俗臭に染んで、聖徒としての価値がなくなっている。これ実に悲しむべきことである。

彼らには敬虔な態度が薄く祈りの霊がない。キリスト教の伝道者でありながら、祈りを怠るような者は何の取りえもないものである。彼らがそうであるから、教会の中にも祈りの火が燃えていない。「わが家は祈りの家ととなえらるべし」(マタイ二一・一三)。

一言にて評すれば、現今の伝道者は宗教家らしくなく、現今の教会は神を祭る家のごとくでないというに帰する。

しからば教会の建物を殿堂のごとくに、伝道者の一見宗教家らしい服装をすればよいかというに、そんな外形のことで定まるものではない。これは心情の問題である。心中に聖霊を宿しておるならば、その人がよし労働服をまとっていても、神を敬う民なることが自然と現われる。要は生ける神を体験することにあるのである。かかる人は機会あるごとに、機会がなければ自らつくってでも主の福音の証しをするのである。かかる人にとっては祈祷は呼吸である。かかる人はどこへ行っても、「キリストを知るのにおい」(二コリント二・一五)をいださずにいられないのである。

かかる光を与えられた者は、力を尽くしていっさいのものをもっと宗教的にすることのみ努力すべきである。神をあがめざるようなこと、またはその傾向のあるものは、ことごとく排除するという消極的なことにも力を尽くし、また積極的にもっと神を敬うことを修行すべきである。「神を敬うことを自ら修行すべし」(一テモテ四・八)とはこのことである。もし伝道者と教会がもっと宗教的になるならば、教会の門前に悲しめる者、病める者が群れをなして、祈りを乞うようになるに相違ない。

世間を見よ。「飼う者なき羊のごとく、人々悩み、またちりぢりに」(マタイ九・三六)なっている。神の恵みを本式に伝えさえすれば、人々は必ず来たりつどうのである。しかるに諸教会は品切れのていである。彼らはパンを求めているのに石を与えている。なんたる惨事であるか。

読者諸兄姉よ。われらの恵まれるといなとは、人々の救いに大関係があるのである。われらは立てられて主の証人にせられた。さればのっぴきならぬ立場におるのである。どうしてもよいかげんの信仰をもっておられない。もっと恵まれて「聖書に記ししごとく、その腹より生ける水川のように流れいずる」(ヨハネ七・三八)ようにならねばならない。主はわれらにこのことを期待しておられる。信ずればここに達しえられるとは感謝である。(一一月二七日)