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「中田重治論説選集」

一九二五年(大正一四年)

中田重治



聖徒の覚悟

「いまの世はあしし」(ルカ一一・二九)

これは聖徒の社会観である。この状態は主が再臨なしたもう時まで続くのである。われらは決して世はますます改善しているという説に賛成すべきものではない。されどわれらは油断すべきではない。いかなることが今後起こるかも知れないような、恐ろしい時代にいるのであるから、平素より十分覚悟しておるべきである。例によって、左に個条書きをのせる。

一、「義人は信仰によりて生くべし」(ロマ一・一七)。何よりも信仰第一にすること。
二、「さまざまの教えの風に動かされず」(エペソ四・一四)、聖書を土台として、流行の思想にかぶれざること。
三、使徒一一・二八〜二九にあるような出来事は、近きうちに起こるに相違ない。されば昔の聖徒がしたように、心のしたくをすべきである。
四、「それ衣食あらばこれをもて足れりとすべし」(一テモテ六・八)。富める者もこの程度に引き下がり、貧しき者は主が信ずる者をその満足するまで引き上げると心得、それ以上の要求をすべきではない。
五、克己倹約は、未信者でも心ある者は努めている。まして主の民はどうしてぜいたくができようか。極度の節約をして、神と人とのために尽くすべきである。
六、われは「地にありては自ら旅人なり、宿れる者なり」(へブル一一・一三)。さればイザという時には、いつでもどこでも行けるように身軽くしておくべきである。
七、かの不法の霊を押えるところの聖霊(二テモテ二・六、七)に満たされて、悪魔に一歩もゆずらぬようにするために、不法と戦い、「悪と争い防ぎて、血を流すに至る」(へブル一二・四)べきである。さればいっさいのストライキに加担すべきではない。

付言

予は大いに感ずるところあり、平重盛の書いた「敬神勤王」の四字をコロタイプにし、それにこれに関した聖句を印刷したはがきをたくさんこしらえている。そして大いに同感の兄姉らに分かたんとしている。かくてホーリネス人は、世間にある左傾的なクリスチャンと類を異にした者なることを明らかにし、悪化せる思想、いなその陰にひそみいるサタンと戦わんとするものである。

主はやがて再臨したもう。何もかもその時までである。されば聖徒はよろしくエペソ書六章にある武器をおびて、戦闘的教会の特色を発揮して、多くの人を救いに導びくべきである。(一月一日)

教会のばけもの鑑定法

「愛する者よ、すべての霊を信ずるなかれ。その霊神よりいずるやいなやを試むべし。多くの偽預言者いでて世に入れり。おおよそイエス・キリストを言い表わさざる霊は神よりいずるにあらず。すなわちキリストに敵する者の霊なり。この者のまさに来たらんとすることはなんじらが聞けるところなり。いますでに世におれり」(一ヨハネ四・一、三)

われらは年来異端と俗化を教会より排斥することについて奮闘してきた。しかしいくら戦っても全世界をあげて全くきよくなるということは主の再臨までは不可能のことであると思う。「多くの者きよめられ、いさぎよくせられ、試みられん。されど悪しき者は悪しきことを行なわん。悪しき者はひとりも悟ることなかるべし。されどさとき者は悟るべし」(ダニエル一二・一〇)。願うところは、主に選ばれたる民はひとりも偽キリストの手に陥らぬようになることである。悪魔は六千年の経験を有している。されば「選ばれたる者をも欺くことをえば、これを欺くべけん」(マタイ二四・二四)としている。彼は聖書神言を信じまたは純福音を信ずる者をも、うまいぐあいに欺かんとして、あたかも同信の徒のごとく見せかけ、彼は霊界のカムフラージュをやって、巧みに変装するのである。これよりそのばけものの正体を暴露してごらんにいれよう。

てっとりばやい鑑定法は、彼はその事業によってキリストをあがめないことである。その主導者の手腕、熱心、または人格ばかりが人々に認められ、慕われているけれども、当然あがめうるべきキリストがあがめられていない。かえって彼は無意識にキリストを覆い隠している。これ実に恐るべきことである。その中にはそれに気がついても、自己に人を結びつけることをもって得意がっている者もある。人気のある宗教家というものはたいていかかるやからである。キリスト教界にかかるばけものが横行するからうかつに人間をあてにするわけにはいかない。しかしかかる人の事業はたいていその人一代で消えてしまうようである。かかる場合、ばかを見るは、その人をあてにして寄り集まった連中である。万一のことがあると、ちりぢりバラバラになってしまう。

ばけものの正体は、その取り巻き連によって知ることができる。多くの場合において、婦人を宣伝に使っているのは、たいてい怪しいものである。また権門富豪をバックにしているのも怪しいものである。ばけものを大げさに吹聴するものは病的な婦人どもである。また少し気ちがいじみた目じりの釣り上がった連中の宣伝にかかる宗教運動は魔物である。

またみことばによらず、明確なる教理を土台とせず、感情いっぺんのものは病的のものである。かかる人々は、とかくしるしをあてにする。火が見えたの、声が聞こえたのと、とほうもないことをしゃべりたてる。はなはだしきにいたっては、はねたり、飛んだり、ころげたりすることをもって神のわざとなし、ただ異常な現象にのみ重きを置くのである。もちろん純宗教運動にもかかることはある。しかしそれのみを力説するところに魔物の働きがあるのである。聖書にある異火とはかかることを言うのである。

金銭問題または異性問題について、不透明なところには、必ずこのばけものが棲息している。キリスト教界にも隠し田の神様のようなものがある。そんなばけものには一族の魔力がある。そんなばけものにかぎって、イヤにもったいぶったり、たくさんのお供を連れたり、堂々たる家に住んだり、豪華ぶりを見せている。

それと反対に昔の聖者のごとく、身にボロをまとい、頭の毛を長くしたりして、俗人を驚かしているばけものもある。近来にせフランシスがたくさん現われてきた。そんな人をかつぎ上げる者もあって、その人の影にキリストの御姿が映っているなどと危険なことを言い出すようになる。かかる場合にはかつぐ者もかつがれる者も同罪である。かかるばけものは自分はばけものであると知らずにいるから、療治しにくいものである。まれにはわざと世人の崇拝を買わんとて、身を卑下している狡猾人もある。

調べて見れば宗教界は百鬼夜行である。そして相応に信者を有しているから、世の中は奇妙なものである。しかし御名を借しみたもう主は、いつまでも彼らのばっこを許したまわない。(一月二九日)

次に知るべきことは悪魔は神秘の衣に隠れて、幽玄不可思議なることを言いだすことである。たとえば死せる霊魂と交通ができるというようなスピリテズム(幽霊教)類似のことを説き、または聖書に明文がありもしないのに、死後にも救わるる道があるなどと言おうとし、あるいは祈った時に火が見えたとか、光があったとか、一種の声が聞こえたとか、いろいろなことを言って多くの人々を惑わしている。ヒステリー性の婦人や感情に走りやすい男などは、よくかかる説にひっかかる。予は霊界に不思議なる現象あることを信ずる。しかしそれがはたして神よりのものであるかいなやは静かに吟味する必要がある。数年前起こった方言騒ぎは、どれだけ多くの聖徒を混乱せしめたかしれない。彼らは聖霊のバプテスマを受けたる者は必ずそのしるしとして方言を語るべきものと説くのである。予は方言の賜物があることを信ずる。しかし現今の方言派の運動なるものは、一種の悪霊の働きである。日本にもこのばけものがそろそろねじり込んで来ている。しかもそれにひっかかる人の多くはまじめな信者であるから注意せねばならない。

このばけものの特徴は、分かつ霊を働かすことである。彼らは自ら区別をなす者、また肉につける者にして霊のなき者なり(ユダ一九)。これがためにあるいは無教会主義を主張し、あるいは組織や制度を否定し、教えを施すところの主のしもべらを罵倒することをもって痛快がっている。そんなら自分らは何の群れにも属していないかというに、同志の者が相集まって一種の教会をつくり、他を排斥して自らをよしとしているのである。彼らはその矛盾に気づかずにいるから気の毒なものである。所属の教会に不平のある者は、このばけものの配下になって理想に達したかのごとく思っている。

また預言の神癒を看板にして、しるしを求める者を引きつけているばけものもある。キリスト教界にも隠田の行者や浜口熊獄のごとき者が現われている。彼らは傲慢で人のどぎもを抜くような気合いじみた祈りをしたり、人を眼下に見くだして自己を高くしている。主御自身よりも主の賜物をもっと高調する者は、はじめは正真のものであっても、しまいには、ばけものにばけてしまうのである。かつてアメリカのシカゴにて、神癒のため驚くべく用いられたダウエーのごときはすなわちそれである。いったい自分は特に選ばれた器であり、他人よりもすぐれているように思うのがそもそも脱線の始まりである。いかなる場合においても謙遜はホーリネスの美である。これさえあれば、ばけものにばかされもせず、またばけものにもならない。

ばけものの正体はキリストをあがめないことでわかると前述したが、また彼は性と金の問題については必ず不純であることを知っておかねばならぬ。これらのことについて純潔が保たれているところは必ず主の御霊のあるところである。

左の条々はばけものを鑑定するのに参考となるべきものである。

一、彼はコケおどかしに偉い建物を建てたがること。
二、その金を集めるにあらゆる俗的手段をとること。
三、彼は常にいっぷう変わったことをして、人々を驚かそうと腐心していること。
四、彼は未信者に伝道することに努力せず、ただ他教会の信者を引き出すことにばかり努めている。
五、彼はキリスト教の根本義を力説せずに、枝葉のことや部分的のことを力説して、片輪なキリスト教を伝えている。
六、彼は神の導きという名のもとに、自家撞着のことを平気でやっている。
七、彼はばけものであるから、変幻出没きわまりなく、その働きには少しもまとまったことがなく、ただ印象によって動き、その印象が神からか悪魔からか少しも調べることをしない。

世は実に末であるから、「人を惑わす霊と悪鬼の教えとに心を寄せん」(一テモテ四・一)とすることが事実となっている。これはいよいよ激しくなることと思われる。かかることは、既設キリスト教会に対する不満のため起こるところの一種の現象であるが、しかし末の世には当然起こりくる病的宗教である。されば遠からずして雲散してしまうだろうと放棄しておくべき事柄ではない。これが対策としては説破と建設の二方面がある。

説破としては健全なる教理と熱烈なる信仰をもって、その誤謬をただすことである。これは聖霊によって学ぶべきものである。建設の方面として、もっと生活の標準を高め、教理をば各自が徹底的に知ることと、明確なる霊的経験に深められることである。たいていばけものになったりばけものにひっかかる者は、教理においても経験においても不徹底な人々である。されば指導の任に当たっている人は、主より託せられし羊を教養するに非常の努力を要するのである。

ああ純福音派も多事なるかな。外にある異教を破り、異端と俗化を防ぎ、しかして内から現われいでんとするばけものを駆逐せねばならぬ。ただ頼るは聖書と聖霊のみである。(二月五日)

聖徒と政治問題

われらは聖書の預言により政教一致する時代が来ることを信じている。「この第一のよみがえりにあずかる者は幸いなり。これよき者なり。このともがらの上に第二の死は権をとることあたわず。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストと共に千年の間王たるべし」(黙示録二〇・六)。早晩この時代が来る。しかしこれは幾年後であるか知らないけれども、これはキリストの再臨後であることは確かである。

今は聖徒は世を支配する時代ではない。今は教会時代である。聖霊はサタンが一方において働いている時に救われる者、きよめられる者を集めいたもう時代である。今のこの時代に政教一致の理想を見いだそうとするならば、大いなる失望陥るのみである。「いまの世は悪し」。されば完全なる組織や制度を見いだすわけにはいかぬのである。

この信仰を有している聖徒は、政治問題について時を費やし、金を費やすがごときは実に愚かなことである。主は再び来たりたもう時までは、「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返すべし」。判然区別しておくことが必要である。主の御在世の当時は、ユダヤ国はローマの属国であった。ヨハネにせよ、主イエスにせよ、もし血をわかすような時事問題や政治問題をとらえて立ったならば、草の風になびくかごとく人々は彼らに従ったかもしれない。しかしヨハネをはじめ主の弟子に至るまでかかる問題を超越して、来たるべき神の国についてのみ語ったことは大いに学ぶべき点である。

過日アメリカの教会同盟から、日本の教会同盟に依頼して、日米問題につける回答をうながしてきた。予らは一笑に付して返事しない。福音宣伝の使命をおびている教会は余計なことに口を出さぬがよい。政治のことについては為政者にまかせておくべきである。へたに口を出すならば、かんじんの福音宣伝に悪影響を及ぼす恐れがある。このほか婦人参政権だの、労働問題だのと、教会の使命以外のことにまで世話を焼いている者がいる。主の再臨の信仰なき者が、かかることに関係するが、われら純福音を信ずる者は主の再臨の時万物のあらたまることを信じているから、政治上いかなる変動が起こっても、決して騒ぎ回らないである。

現にアメリカにあるホーリネス人は、政治上の問題については無関心の態度である。われらもかくありたい。無関心とはどうでもよいというのではない。陰では神のみこころのみがなるように熱心に祈っておらねばならぬ。

テサロニケ前四・一七の携挙は間近くなっている。その後の出来事については、黙示録に示されてある世界未曽有の惨事が起こってくる。これは避くべからざることである。われらは携挙までは無事であってほしいと祈るものである。これ同族の救いのためである。もしこの真理が明らかになれば民族自決だの、人種平等だのと騒ぐことがなくなるのである。「おのおのその召されし時にありしところの分にとどまるべし」(一コリント七・二〇)。かくしておれば、人間の進歩がなくなると言うか。われらには主の再臨という大希望がある。それからあとは個人、社会も国家も、世界もいよいよ進歩することと信じている。その時まではわれらは現状に満足しているのである。(九月一〇日)

金銀は我になし

「ただ我にあるものを汝に与う。ナザナのイエス・キリストの名によりて立ちて歩め」(使徒三・六)

昔の聖徒は正直であった。金が無いから無いと言った。しかし今の伝道者は無くてもあるような風をして、世間体をつくろっている。まず伝道者の服装を見よ。とても収入の少ない教役者とは見えないような風をしている。彼らはフロックコートを着なければ人にバカにされる。木綿の衣服では人前に出られぬように思っている。彼らは人品が衣服で定まると思っているらしい。また教会の信者たちも、牧師が粗末な風でもしていると、教会の威信にでもかかわるように思っている。外出する時は、二等か一等で旅するはずのものと心得ている。彼らは世人の前に、金銀は我になしと言うことを死ぬほどつらく思っている。

ああ、災いなるかな、見栄坊の牧師と、世の歓心を買わんとする教会。彼らにはキリストのいのちでなく金がいのちである。彼らは金がなくなれば、陸に打ち上げられたふなのごとくたちまち死んでしまう。されば彼らはあらゆる手段を尽くして権門富豪に媚び、いかにもして金にありつかんとしている。しかして少しにても金が手に入るならば、慈善事業だの、社会奉仕だの、矯風事業だのとふれ回って、霊界の心霊的乞食に一時の助けを与えて得意然としている。彼らは香油を「銀三百に売りて貧しき者に施さ」(ルカ一二・五)んと申し出たユダのやからで、主を喜ばすよりも人を喜ばすことにめざとい連中である。

すべてのキリスト教会は、金銀は我になし、と大胆に臆面もなく言い出しうるようでなければならぬ。しかしかく消極的に言いうるのみではなく、我にあるものを汝に与う、と言いうる積極的勇気と信仰がなければならない。

金さえあれば何ごとでもできると思っている連中は、ペテロのこのことばに耳を傾くべきである。伝道界に必要なるものは金ではなく信仰である。頭で合点したのみの信仰ではなく、立って歩めと言いうるところの、役に立つ信仰である。金もなく、この信仰もなければ無用の長物である。

わがホーリネス教会はある教派のごとく、借金をしても、その面目を保つようなことはしない。これに金銀はなしとは天下周知のことである。しからばどうして生存しているか。ただ信仰あるのみである。人々は実際救われ、きよめられ、いやされているから必要だけは満たされているのである。もしこの信仰がなくなれば、この教会は自滅するのみである。人もしホーリネス教会が繁盛するについて、何か秘密があるかと問われるならば各自が体験しているところのもの、すなわち「我にあるもの」を神の力により、信仰によって提供するからであると答えるのみである。

金はないようであるものである。これは信仰がなくても手に入れうる。しかしこの生ける信仰だけは神のたまものである。これはだれのふところをもあてにせず神に求めなければならぬ。よく祈る者のみがこの信仰を得ることができる。この信仰をもって立つ時には、ペテロの場合のごとく、ひとりの神癒によって五千人も救われるという奇跡が起こるのである。(一〇月二二日)

非ユダヤ人運動に惑わされるな

全世界に散っているユダヤ人はわずかに千五百万人であるが、あらゆる方面において世界を動かしている。されば彼らを目して、世界の平和を乱す者であるという非ユダヤ人運動はますます激しくなっている。わが国にてその種の本が多く出版されている。

ユダヤ人だとて人である。その中には危険人物もあろう。しかしその大多数は旧約聖書をそのまま信じて、メシヤの来るのを待ち望んでいる善良の民である。危険者は聖書を否定するモダーニスト(近世派)にあるのである。さればいろいろの著書や風聞に動かされず神の選民のために祈り、その救いのために最善を尽くすべきである。これは主の喜びたもうことである。(一二月一〇日)