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「中田重治論説選集」

一九二八年(昭和三年)

中田重治



リバイバルのない教会

キリスト教会はその当初よりリバイバル教会である。これは聖霊が働いていたもうという証拠であり、また生きている証拠である。さればリバイバルのない教会は死んでいると申してもよい。

ニュージーランドにキリスト教が宣伝せられてから百年以上になる。私は幾度か当国のキリスト信者に向かい、この国において白人またはマオリ人の間にリバイバルが起こったことがあるかとたずねた。彼らは異口同音にそんなことがあった例がないと答えた。私はこれをもって当国の教会の霊的状態をぼくするとは言わない。しかしその一端を知ることはできると思う。なぜなればリバイバルは使徒伝来の教会の特色であるからである。使徒伝来といえば教職の按手礼や儀式のようなものであると思っている人があるが、決してそんなものではない。それはペンテコステ以来のリバイバルである。これ伝統的のものである。

多くのキリスト信者のうちにはリバイバルのあることだに知らぬ人が多い。小さい意味におけるリバイバルはどこにでもあるだろう。私の言うのは大きな意味のもので聖霊の大風的活動をいうのである。ある人はこれを卸し売り的な伝道であるとまぜっ返す。なんとでも評するがよい。神は今日に至るまで幾度かかかることをなしたもうて行き詰まった教会を覚醒なしたもうた。

大風は国土にとりて必要である。もしそれが起こらぬなれば、空気は腐敗して生物や植物に大いなる害を与える。リバイバルの教会におけるもまた同じである。この天来の大風によりて神は教会の空気を一新なしたもうのである。大風はある一方にはなはだ熱き所が生ずる時にこれに向かって走る寒冷なる空気が行く時に生ずる現象であるが、霊界にも同じことがある。熱烈な祈祷がささげられるところに大いなるリバイバルが起こる。祈りの空気が濃厚であればあるほど大いなるものが起こるのである。祈りなしにリバイバルが起こった例がない。祈る教会が生きている教会であるとすれば、祈る教会にはリバイバルが必ずあるべきである。

さればリバイバルなるものを知らない教会は、よろしく主の前にありてこのことのために祈るべきである。いたずらに不信仰の者の口から出るリバイバルの弊害などには耳を傾けず、聖書式のリバイバルのために祈り求むべきである。

日本の教会は私が今いる国の教会とは違い、幾度かリバイバルを経験した。しかしそれは過去に属している。私の願うところは新たなるリバイバルである。末の日における大リバイバルである。どうかすべての教会をして、すべての民をしてその恩沢にあずからしめたいものである。

願わくは故国の兄弟姉妹よ、これがために祈れよ。もし日本に大リバイバルが起こるなれば、全世界の聖徒らはその恵みにあずからんとして集まって来るに相違いない。かくしていながら全世界の民に証しをなし、主の来るのをいくぶんにても早むることができるなれば、実に偉大なることである。私は主の栄光のためにこれを切望するものである。(ニュージーランドにて)(二月九日)

救うために救わる

奉仕のために救われたり(セイブド・トウー・サーブ)という語があるが、これは救われたる者の心得ておくべきことである。神に奉仕する身となるとは人間にとりて驚くべきことではないか。しかり、これ以上の高潔なる奉仕なるものはない。

この奉仕はいかにして実現するか。神の御旨を行ない、神の喜びたもうところのことをなすことによりて現われる。これは他人のたましいを救うことによりて現わるるものである。そこで私は救うために救われたりという語をこれから使いたい。もし救いを握っているクリスチャンにこれがわかるならば、その人の態度が一変することと信ずる。これがためには主の御選びをいただいたことを知り、また信者各自の使命がなんであるかを知ることができると信ずる。救われたる者の使命はともかく証しすることである。これは伝道者という特種階級の人々のみがすることではなく、救いを握っている人であるならばなんぴとでもなすべきものである。新約時代になってから「この約束はなんじらおよびなんじらの子孫またすべての遠き人、すなわち主たるわれらの神に召さるる人々につくなり」(使徒二・三九)とあるから、主に召され聖霊を受けた人であるならば、その結果として証し人となるのは当然である。したがって「和らがしむることばをわれらにゆだねたまえり」(二コリント五・一九)とあるから、救霊の聖職をも神が信者に与えたもうたのである。これは実に特権である。

しかるに、ああ多くの信者はこの特権を無視している。人が救われようが、救われまいがわれ関せずとすましている。かかる人はそのままでいるならば神の裁きを免るるわけにはゆかない。「その悪人はおのが悪のために死なん。されどその血をばわれなんじの手に求むべし」(エゼキエル三・一八)。これをもって見れば、他人を救わざるために自己の救いまで失うようなことになるのである。ああ伝道しないということは恐ろしいことである。

日本の伝道が遅々としてふるわないのは、信者にこのことの自覚がないからである。伝道を伝道者の手にゆだねて、自分らは指一本も触るることをしないというありさまである。教会の不振もむりならぬことである。その原因は教役者にもある。なぜならばそうするように信者を養成しないからである。いまさら教役者を責めたてて見ても間尺にあわないから、まずこのことについて目ざまされた信者たちは遅まきながら、他人を救うため奮起すべきである。

わが国の教会の現状を見られよ。救いを望んでいる人があまたあるのに、これに救いの道を示す人は実に払底である。教役者はずいぶんたくさんある。しかしその多くは遊び暮らしている。彼らのリバイバルを望むことは切実であるけれども、彼らがリバイブされるまで待っておられない現状である。これはどうしても一般信者の覚醒を先にせねばならぬ。今日に至るまで、リバイバルの多くは職業的伝道者によりて起こらず信徒の熱烈なる祈祷によって起こっている。されば私は信者各自が救霊の重荷を負うて奮起せられんことを祈るものである。かくせば世人もこれを見てキリストに引きつけらるるに相違ない。なぜなればこれは職業のためでなく、金のためでなく、名誉のためでなく、全く人のたましいを愛してやっていることがわかるからである。

ホ教会の諸兄姉よ、ホ教会は救霊本位の教会である。諸兄姉は主の御導きによりてかかる教会に連なるようになった。まさかとんでもない教会に加入したものであると後悔している人はあるまい。必ずや救うために救われたことを光栄と思い、また明けても暮れても伝道や救霊のために金と時間を費やしている教会に加入したことをうれしく思っておられるであろう。もし挙会一致この方針に従い活動するならば日本の教化は遠き将来のことでない。必ずわれらの生きているうちに実現することだろうと信ずる。(七月二六日)