キリストの花嫁
近ごろ教会論が盛んになっている。ローマ・カトリック教会では、かの教会のみがほんとうであると主張する。聖公会もそれに似よったことを言う。何の教会でもいけない。聖書にはキリストの教会、または神の教会というものよりほかにないと名目を論じている者もある。また他のいっぽうには無教会を主張するやからもいる。
われらは教会なるものは、「キリストのからだ」(エペソ一・二三)という神妙なるものであると信じている。これは「天のところにあるまつりごとを取れる者と権威をもてる者に、神のさまざまの知恵を知らしめんため」(エペソ三・一〇)に設けられたものである。聖書を信ずる者であるならこれに異論はあるまい。聖書を否定する者と教会論を語るだけむだである。現今のいわゆる教会なるものについている人々は、その教会が聖書的のものであるかいなやを調べたならば、その寸法に達しているとは言いえまい。予はホーリネス教会なる一教派についているが、正直に思わざること遠しと答えるものである。われらは理想の教会を地上に見いだしたいと願っているけれども、長し短しで完全なるものを見いだしえずにおるのである。
完全なる教会なるものはキリストのみこころの中にある。それは「しみなくしわなく、すべてかくのごときたぐいなく、聖にして傷なき栄えなる」(エペソ五・二七)ものである。これはすなわちキリストの花嫁である。無教会の人々でもまさかこの花嫁なる教会を否定するような乱暴なことばを吐くまい。もし吐くならば聖書を信じない未信者である。
われらはこの花嫁の出現を願っているものである。現今地上にある教会なるものは何ほど系統が正しくあっても、みな未成品である。それを知らずに生殺与奪の権をもっているかのように思うから、カトリックのような野蛮きわまりなき行為をするのである。無教会主義者は未成品に過分の望みを属して失望し、または堕落した教会を見てあいそをつかしてしまって、ついにいっさいの組織制度を否定するような霊界の無政府主義者になるのである。われらキリストの再臨を信じている者は、「なんじらの心の中によきわざを始めし者、これを主イエス・キリストの日までに全うすべしとわれ深く信ず」(ピリピ一・六)とあるごとく信じているから、その完全を日々待っているのである。ただ黙して待っているのでなく、主のみこころに従い、滅ぶるたましいを主のみもとにつれて来たって、その数を満たすことのために働いているのである。
かくいたしているうちに、黙示録十九章にある花嫁の婚姻の時が来るのである。「われら喜び楽しみて神をあがめん。そは小羊の婚姻の時すでに至り、その嫁すでに自ら備えをなし終わりたればなり。嫁はきよくして光ある細き布を着ることを許さる。この細き布は聖徒の義なり」(同一九・七、八)。われらがホーリネスを宣伝するのはこれがためである。
この光をもって諸教会を見る時には、この花嫁に属している者がだれだれであるかを知ることができる。これは組織ではない。名まえでない。主の御血によって贖われた個人より組織された群れである。この群れに属する者は幾人あるか。主のみ知りたもう。(九月一八日)
聖霊の言えるごとくせよ
へブル三・七
このみことばはこのたび開かれたリバイバル大会の標語であった。
われら純福音を信ずる者は、聖霊派と言われるほど聖霊をあがめる群れである。しかしこのたびのリバイバルが起こってから、聖霊に対する新たな信仰が与えられたのである。常に聖霊を口にしていた者が、いままた聖霊を信じ直すようになったことは事実である。これは本文の執筆者なる予にとって、実に新たなる御示しである。予は聖霊を信頼することにおいては人後に落ちないと思っていた。しかし聖霊の鋭き御光に探られた時に、聖霊の信じかたが実に足りなかったことを悟らせられて、主の御前に全く悔い改めたものである。
いまは聖霊時代である。聖潔派の人はだれひとりとしてこれを疑う者はあるまい。しからば聖霊は使徒時代におけるがごとく、聖徒の間に王座を占めて、ことごとにあがめられているかというにそうではない。むしろ時代の経過するにしたがい人間があがめられるようになった。そして聖霊は明治維新前のわが皇室のごとく、あれどもなきがごとく武家に扱われたと同じような状態になっておった観がある。されば昔のごとく聖霊の御働きが著しくなくなった。もちろん救わるる者きよめらるる者も起こった。しかし全部の栄光が聖霊に帰せられなかったことは残念である。
主はこのたびこのことをわれらに示したもうた。されば聖霊を新たにあがむるようにせざるをえなくなったのである。聖霊はいままでわれらの不忠実をば寛容をもって御忍びくださったおかげで、いまやっと目ざめたのであった。もし聖霊がわれらに対してあいそを尽かしなさったならば、われらはとても助かることができなかったに相違ない。
いまは聖霊に対して新たに服従をすることを申しいずべき時である。しからずして相変わらず古き皮袋を固執して、聖霊の新型に入るのを拒み、人為的のやりくちにのみ拘泥しているならば依然として不振の状態におり、しまいに取り返しのつかぬ悲運に陥るに相違ない。さればこの際初めの愛に返り、いっさいの人間のささやきに耳を閉じ、ただ聖霊の語りたまえることにのみ耳を傾けるという、初代の単純信仰に帰るべきである。
いまはあまりに人間が出しゃばりすぎる。されば聖霊が手を引いていらせられる。これ実に申しわけなき次第である。されば王政復古のごとく、霊的復古をなし、いっさいを聖霊に奉還し、もともとのとおり聖霊にのみ働いていただくようにすべきである。
この意味において教会の集会のしぐあいも教職であるなどとすましこむことも、人間細工の儀式も制度もいっさい聖霊におまかせ申して、新たに聖霊の御指導を仰いで万事を解決すべきである。これについては何もめんどうがない。現に生きて最も近くいたもうて、働いていてくださる聖霊の仰せたもうごとくしさえすればよいのである。祈り祈って聖霊のみをあがめるならば、もののみごとに万事万端きまることは疑いない。(一〇月三〇日)
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