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「世界の贖いの夜明け」

The Dawn of World Redemption

第一部 聖書の歴史的啓示の基盤

第二章 宇宙の創造

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



「初めに神は天と地を創造された」。力ある御言葉によって神は諸々の太陽系や星々を生じさせられた。「主が語るとそれは成り、主が命じられるとそれは立つ」(詩三三・九。六節と比較せよ)。

一.創造の起源

神は一体なぜ世界を創造されたのかというこの一般的な問いに、答えられる人は誰もいない。絶対者、「ほむべき神」(一テモ一・一一)として、神は自存し、永遠に自己充足しておられる。そして、己のために他者に存在してもらう必要はない。神は実に愛であり、愛はその性質上、愛の対象、それに向かって優しく流れることのできる別の自我を必要とする。しかし、この別の自我はすでに永遠の昔から神の中に存在していたのである。御子を神の愛は喜んでいたのであり、この神の愛には始まりも終わりもなく、完全に展開して絶えざる満足の域にあった。「あなたは世の基の前から私を愛して下さいました」(ヨハ一七・四)。それゆえ、ここで言える唯一のことは、神が世界を創造されたのは世界を創造することを神が望まれたからである、ということである。確かに、神の御旨と自由は制御不能な気儘なものではない。したがって、創造の決定が下されたのは、神格内の永遠の理由に基づいていたにちがいない。しかし、それが何だったのかを神はわれわれに啓示しておられない。そして、われわれはそれで満足しなければならない(ロマ一一・三三、三四)

ヘブル一・二は、神は御子を万物の相続者として定められたことを告げる。次の句は、「また御子を通して、神は諸々の世界を創造された」となっている。この「また」は、相続者としての指名が創造の前になされたことを示している。これは、被造物が存在するのは御父の御旨によってであり、御子の栄光のためであることを示唆する。なおヨハネ三・三五を見よ。(訳者)

二.創造の目的

神は何のために世界を創造されたのかという問いに聖書はいっそうはっきりと答えている。

1.神の栄光を啓示するため。神がなさることはすべて、永遠に神御自身を目標としている。それが成就するのは「彼の御名のため」(詩二三・三)であり、最初から最後まで御自身のためであり(エペ五・二七)、「彼の栄光が讃美されるため」(エペ一・六、一二、一四)である。それは「神がすべてのすべてとなるため」(一コリ一五・二八)である。神はその完全性のゆえに絶えず最高のものを願わずにはいられず、また神御自身こそその神格のゆえに最高のものである。こういうわけで、神は御自身の性質の中にあるものを絶えず御旨の目標とせずにはいられないのである。したがって神の御業は、それが御自身へと至るように、そしてその目的が御自身となるように、案配されなければならない。こういうわけで、世界創造の目的は神の栄光を明らかにし、公表し、展覧することでなければならない。神御自身がその初めであり、中であり、究極的目的である。その最初であり終わりである。アルファでありオメガである(ロマ一一・三六、コロ一・一六、ヘブ一・二)。

2.神の愛を啓示するため。しかし、御自身を現すという神のこの計画は完全でなければならず、したがって、二重の方法で展開する。神の全能、偏在、全知だけでなく、神の義、愛、真実さも現されなければならないのである。

前者が効力を発揮しうるのは空間と時間の領域においてである。すなわち、鉱物、植物、動物の王国においてである。しかし、後者は道徳的に自由な人格を要求する。したがって、被造物の内側に霊の王国を要求する。しかし、聖潔は神の本質的性質であるため、神の世界計画においては、物質の高次の目的は道徳の領域に存しなければならず、世界創造の主たる理由は、聖なる、祝された、知恵ある御方である神の道徳的特質を、道徳的に自由な人格を持つ被造物によって讃えることでなければならない。ただ彼等によってのみ、つまり、御使いたちと人類によってのみ、神は御自身の栄光を被造物の中に完全に示すことができるのである。

しかし、このような霊的命の本質、そして一般的にすべての真の道徳性の本質は、律法を外面的かつ客観的に行うことや、罪や咎からの法的自由ではなく、神御自身の道徳的命に人格的かつ有機的にあずかることである。なぜなら、至高の立法者である神は、御自身の性質にしたがってこの世界の道徳的秩序を定められたからである。そして神はである、最も完全な愛である(一ヨハ四・一六)。したがって、自由な被造物の道徳的任務は、する任務でもなければならない。そして、世界創造の至高の最終目的は、創造者と被造物との間に命と愛の交わりを確立することによって、神が御自身を完全なる者、聖なる者、愛する者として現し示すことでなければならない。しかしこれは、神が世界を無から有へと呼び出されたのは、それを愛せるようになるためであり、また世界がそのお返しに神を愛するようになるためだったことを意味する。神の目的は常に、御自身の聖さと愛の享受に永遠にあずかるよう世界を導くことであり、それによって、祝福と栄光へと導くことなのである(ロマ八・一七参照)。

神が決定された世界創造の目的はとても高遠であるため、神性の印が特別な方法で創造に関する聖書の記事の中にあるのも驚くにはあたらない。この六「日」は、明らかに二つの三重項に分かれている。その三重項の中身は厳密に相互に対応している。

一つ目の三重項は分離の働きを含む(暗闇から光、下の水から上の水、海から渇いた地を分離する働きである)。二つ目の三重項は命を与えて輝きを添える働きを含む(太陽、月、星々。魚と鳥。陸の動物と人である)。

一日目に神は光を創造し、四日目に発光体の星々を創造された。二日目は空と海、五日目は空の鳥と海の魚である。三日目は陸と地上の生命の中で最も低級な植物、六日目は動物と地上の生命の中で最も高度な人である。

このように、この六日の御業は間違いなく三の数字の印を帯びている。三という数字は神の啓示において神格の象徴であることがしばしばある。創造の御業は、自己上昇的な三つの創造的衝動により、ある高み、休止点に達した。その後、休止して、それから出発点に戻って再開する。まるで最初からやり直すかのようである。そしてまた三重の上昇によってその頂点に達する。光の創造は第一の始まりであり、発光体の創造は第二の始まりである。こうして、三一のこの二重性は、地上の体系全般の起源、性格、目標に関して預言する深遠な象徴的数字となる。万物は神からであり、神を通してであり、神のためである。万物によって神は御自身の威光を現されるのである。

三.創造の偉大さ

1.星群。聖書の視野は測り知れないほど広大であり、宇宙的である。神の御言葉は地と時間だけでなく、とりわけ天と永遠についても述べている。そして、われわれの上にある世界を複数の天球からなる一つの複合体として描写している。「天も天の天もあなたを入れることはできません」(一列八・二七)。この小さな地を「唯一の世界」、全被造物の数学的中心・主要点と見なすどころか、聖書にとって、諸国民は「バケツの中の滴」、秤の中に残っている「砂粒」のようなものにすぎない(イザ四〇・一)。聖書にとって、島々は「小さな埃」のようであり、全人類は「イナゴ」のようである(イザ四〇・二二)。実に、地球全体も天の御座の足台にすぎない(マタ五・三五、使七・四九)。「天はわが王座、地はわが足の足台である」(イザ六六・一)。しかし、足台が宮殿の中心だとか、王座よりも大きくて重要である、などと愚かにも想像する人は誰もいないだろう。否、「主の御前では、諸国民はみな無に等しい」(イザ四〇・一七)のである。「あなたの指の業である天と、あなたが備えられた月と星々とを思う時、人は何者なのでこれを御心にとめられるのですか。人の子はいかなる者なのでこれを顧みられるのですか?」(詩八・三、四)。

天を表すヘブル語は常に複数形である(ha-schamayim)。この語尾の「im」は、ケルビムやセラフィムと同様、男性形の複数形である。エペ四・一〇「すべての天」、二コリ一二・二「第三の天」も見よ。

われわれ自身の地球の大きさは、まさにまったく思いもよらないものである。人が全世界上に建造した船、都市、町を足し合わせても、三〇〇立方マイルに満たない。ベテックス教授の計算では、実に九八立方マイルにすぎない。しかし、地球の容積は二、六〇〇億立方マイル以上である!しかしそれでも、地球は渦巻く星座の中では一つの天文学的微粒子にすぎず、宇宙の太陽の海の中では小さな一片の埃にすぎない。巨大な太陽の燃え輝く球体の中だけでも、このような地球を一二五万個(もっと正確には一二九万七千個)容れる容積がある。そして、急行列車が停車せずに疾走しても、太陽に着くには一六九年以上かかる。その距離は九、三〇〇万マイルほどである。

しかし、この太陽それ自身も、四〇〇の星の巨大な球形集団の一員にすぎない。なぜなら、裸眼で見える比較的近くの星々の並びは「天の川と関係があるようには認められず、これらの星々はみな、星々からなるほぼ球形の集団を形成しているにちがいないからである。それにわれわれの太陽は属しているのである」(クライン教授)。この集団は、リーム教授によると、約四〇〇の太陽から成る。

そして、この集団では距離はさらに測定不能になる。たった一秒で赤道全体を七週する光でも、これらの太陽の中で最もわれわれに近い隣人である(南天にある)恒星のケンタウルス座アルファ星に着くまでに、丸々四年と三ヶ月かかる。光は一秒間に一八七、〇〇〇マイル進み、地球の赤道の長さは二四、〇〇〇から二五、〇〇〇マイルの間だからである。また、恒星の中でわれわれに三番目に近い白鳥座六一番星に行くには、世界最速の列車で六千万年旅しなければならない。これはつまり九.七光年である(クライン教授)。しかしそれでも、空間自身の星なき深遠に比べれば、複数の太陽からなるこのような系の中にある星々は異常なほど互いに近く位置しているのである。

非天文家の夜間観察者に対してこれを証明するものは、プレアデスと呼ばれる星座の中にある、密集した、ダイヤモンドのような、燦めく光点である。この星座はオリオン座から遠くなく、「われわれの」星系と似た星系を形成している。プレアデスが望遠鏡の中で示すこの輝かしい壮観は、次の事実を知るとき、さらにいや増す。すなわち、天の暗い背景に対してダイヤモンドのように輝くこれらの燦めく星々は、それらだけで一大星系を形成しているのである。これは次の事実によって証明される。すなわち、この星系の星はみな一緒に空間の中を前に向かって進むが、他方、それと同時に、個々のどの星も全体の同じ重心の周りを一緒に進んでいるのである。だから、プレアデスは星団のように思われるだけでなく、実際には局所的に関連し合っている恒星団でもあるのである。なんと無数の星がここで輝いていることか!実に、写真乾板が示すところによると、月の円盤よりも大きくない天の領域上に一、六八一の星があり、その近傍にはさらに約五、〇〇〇の星があるのである(クライン)。そして、われわれの目には全くゼロのように縮んで見えるこれらの個々の星の間の距離は、実際には、数十億の数十億倍マイルなのである。それでも、これは宇宙空間の始まりにすぎないのである!

それでは、このような星の群島を超えて、最終的に渦状天の川の主要環帯に達する時――天の川はその数十億の「小星団」で地球の住人の目を魅了する――その距離はどれほど膨大なものになることか!これに、さらに測り知れない距離が続く。他の銀河系がまだあるのである。例えば、無数の太陽を持つアンドロメダ宇宙や、獅子座の中にある測深不能な渦状星雲H156――その距離は五〇〇、〇〇〇光年以上と見積もられている――である(G.ウルフ)。

これを全部まとめると、星は宇宙の中にまばらに散在しており、あたかも地上で二〇マイルか六〇マイル毎に人がピンの頭に出くわすようなものである(シュバルツシルト教授)。あるいは、クオートの水を地表全体、すなわちざっと一九六、〇〇〇、〇〇〇平方マイルの上に撒いたようなものである(リーム教授)。これらすべてのことと共に忘れてはならないのは、直径が一インチの二十四分の一に満たないこれらの「水滴」や「ピンの頭」が、燃え輝く炎の天体だということである。その表面は数百万×数百万平方マイルであり、その容積は数百×数千×数百万×数百万立方マイルに数万×数百万×数百万をかけたもの以上である。

例えば、太陽の直径は八六八、七五〇マイルであり、その表面積は二、三三四、〇〇〇平方マイル、その容積は三、五一〇億立方マイルである。

このように巨大な大きさを見るとき、「われわれのちっぽけな地球は、物質的・空間的に宇宙の中心ではないにしても、それでもどうして道徳的に救いに関しては宇宙の中心になりうるのか」という疑問が生じる。これに対してわれわれは言う、「セダンは場所としては何の意義もないが、ナポレオン三世対ウィリアム一世の決戦のゆえに、世界的に有名になり、ヨーロッパ史における一大転換点となった。こうしてセダンは歴史的意義を得たのであり、その意義は地理的重要性を超える」と。世界史が示しているように、激戦の決着がついた場所――その意義は数世紀にも及ぶ――は、その立地や大きさに関してはちっぽけな取るに足りないものであることがしばしばである。

しかし、全被造物を包含するこのように広大なものの総計が、救済史の宇宙的枠組みなのである。「主はその御座を天に据え、その王国は全てを治める」(詩一〇三・一九)。神の救いの計画の広がりを我々が意識するようになるのは、ただ星界との関連においてのみである。それゆえ、聖書の中に見られる救いの記録を、その宇宙的超歴史という黄金の背景と対比させようではないか。そうするとき初めて、その中心であり焦点であるゴルゴタの十字架を正しく評価できるようになるのである。そして、全宇宙が十字架上で弧を描くのである。「十字架の脚は地上にとどまっているが、その頂きは遙か遠くの宇宙的歴史を有する星界に達している」。そして、われわれは圧倒されつつ、「恐れてはならない、あなたたち小さな群れよ。なぜなら、あなたたちに御国を与えることが、あなたたちの父の御旨だからです」(ルカ一二・三二)という主の約束を耳にする。「あなたたちの目を上げて高きを見よ。誰がこれらのものを創造したのか?数を数えてその軍勢を導く者、これらすべてのものをその名で呼ぶ者(中略)エホバ、万軍の主がその名である」(イザ四〇・二六、五一・一五)。

2.天使の軍勢。さて、何の目的のためにこれらの世界が天空に存在するのか?神は死せる物質を喜んでおられるのか?神は生ける者の神ではないのか?命無き物質が神を、あらゆる命の主を讃美できるだろうか?(詩三〇・九)。あるいはむしろ、神の星界は至るところ人格を持つ生命に満ちているのではないだろうか?

事実、仮にわれわれの小さな地球、宇宙の渦巻く太陽たちのただ中にあるこのちっぽけな塵だけが有機的生命を有しているのだとすると、「この場合、これとは対照的に意味もなく、数百万の死せる巨星が在ることになる。そうなると、巨大な宇宙は死に絶えた無限の荒野ということになり、その中でただこの小さな地球上にのみ、驚くべき例外として命の花が寂しく咲いていることになる」。だとすると、数百万の太陽の炎の輝きは、しかし何も照らしていないことになり、「この死せる宇宙の中で何の意味も目的もない巨大な花火」にすぎなくなる。そして、星々や天体はみな、燃える噴火口あるいは燃え尽きた噴火口にすぎなくなる。

しかしそれでも、地球上には二〇〇、〇〇〇種以上の植物、三〇〇、〇〇〇種の菌類が存在する。さらに、八〇、〇〇〇種の甲虫(ベテックス)、二〇、〇〇〇種の蝶(デナート教授)が存在する。生き物全種の総数は二百万を超える。

それとはかなり異なることを預言者たちや神聖な啓示の使徒たちは述べている。神の御言葉は王座や主権、主権者たちや権威者たち(コロ一・一六)、神の息子たちや明けの明星たち(ヨブ三八・七)、いと高きところの軍勢(イザ二四・二一)、ケルビムやセラフィム(黙四・六〜八、イザ六・二、三)、大天使たちや天使たち(ユダ九、黙五・一一、一二・七)について述べている。そしてこれらのものをみな、聖書は星々を表すのと同じ言葉、すなわち、「天の軍勢」という言葉で表している。

このように申四・一九、イザ三四・四、エレ八・二では、この言葉は物質の星々を表しており、一列二二・一九、ルカ二・一三、黙一九・四では天使たちを顕している。他の箇所では、この言葉は同時に両方を表している(例えば詩一四八・一〜六、イザ二四・二一〜二三、四〇・二六、ヨブ三八・七)。

このようにこの二者を同一視して同じ名をつけていることから、この言葉はさらに深い性質を示すものであることがわかる。そうでなければ、どうして「明けの明星たち」は共に歌い、しかもそれと同時に「神の息子たち」(ヨブ三八・七)と共に喜び叫ぶことができよう?神の星界がどうして創造主を礼拝できよう?塵が彼を讃美するだろうか?その真理を宣べるだろうか?しかし、「あなたは、ただエホバだけが、います方です!あなたは天と諸天の天と、その万象、地とその上のすべてのものを造られました(中略)あなたはこれらすべてのものを生かし、天の軍勢はあなたを礼拝します」(ネヘ九・六)。さもなければ、詩篇作者はどうして同じように、天使たちに関連して、神を讃美するよう星々に呼びかけることができただろう?

諸々の天からエホバをほめたたえよ、
諸々の高き所で彼をほめたたえよ!
そのすべての天使たちよ、彼をほめたたえよ、
その万軍よ、彼をほめたたえよ!
太陽よ、彼をほめたたえよ、
輝く星々よ、みな彼をほめたたえよ!(詩一四八・一〜三)

否、これはみな詩的誇張以上のものである。これは、天使たちと星々との間には比喩的類似があるだけでなく、実際に現実的つながりがあることを示している。もっとも、その詳細は依然としてわれわれにはよくわからないが。

それにもかかわらず、次の一事はすでにわかっている。すなわち、無数の軍勢をなす天使たちが、時には個人的に(使五・一九)、また時には組織的団体として(黙一二・七、コロ一・一六)、人類の救済史に参与しているのである。この点において、天使たちは

(1)われわれの歩みの観察者である(一コリ四・九、エペ三・一〇)。
(2)われわれの王の使者である(ルカ一・一一、マタ一・二〇、ダニ九・二二、黙一・一、二二・六、一六、ヘブ二・二)。
(3)われわれが苦しんでいるときの助け手である(ヘブ一・一四、使一二・七、ダニ三・二五、二八、六・二二、二列六・一七、ルカ二二・四三)。
(4)われわれの最終的勝利のために戦う戦士である(ダニ一二・一、黙一二・七〜九、一九・一一〜一四、ダニ一〇・一三、二〇)。
(5)神聖な世界秩序の守護者である(ダニ四・一三、一七、二三、一コリ一一・一〇)。
(6)神の裁きの執行者である(イザ三七・三六、使一二・二三、マタ一三・三〇、四一、黙一四・一九、一五・一、六、七)
(7)神の贖いの働きのゆえに礼拝する礼拝者である(ルカ二・一三、一四、一五・一〇、一ペテ一・一二)。
それゆえ、「天使」のギリシャ語である angelos は、「私は派遣する」「私は遣わす」を意味する angello から派生した言葉である。

3.神の御座。そしてさらに!すべて「見えるものは一時的」であり、ただ「見えないものだけが永遠」である(二コリ四・一八)。しかし、星々は目に見えるので、したがって過ぎ去るであろう。「これらはみな衣のように古びるでしょう。そして外套のようにあなたはこれらを一緒に巻かれます」(詩一〇二・二六)。神の永遠の世界は、したがって、なお高く、星々の遙か上の目に見えない領域の中にあり、目に見える万物を超えているにちがいない。

そこに神の御座、天使たちの住まい、われわれ全員の母である天のエルサレム(ガラ四・二六)がある。かしこへ「諸天を超えて」キリストは高く上げられたのであり(エペ四・一〇)、そして今、御父の右に着いて「諸天よりも高くなられた」(ヘブ七・二六)のである。そこに至高者は諸々の全ての世界のための光の泉として住んでおられ、この方からことごとく命が発して被造物中に流れわたるのである(使一七・二五、二八)。

宇宙の中にこのような至高の御座が存在するという思想を、思慮深い心はすぐに受け入れられるにちがいない。全宇宙は上昇の法則によって支配されている。確かに神は至る所におられ、その命をもって全被造物を貫いておられる(コロ一・一七、使一七・二八)。しかし、これは次のことを排除するものではない。すなわち、光の領域全体の上に、ある特別な光の頂点があって、そこで神の栄光は最も完全に現れるのである。一つの石の中にさえ、神聖な御旨の反映が閃いている。薔薇の中ではさらに素晴らしく閃いており、ナイチンゲールの歌の中ではまたさらに目を見張るほどである。なおも人の目の中にはさらなる霊性が閃いている。そして人類の間には、最も卑しくて乏しい者と、人の子らの中で最も麗しい御方――この御方の中に神格の豊満が宿っている――との間に、何と様々な段階があることか。

こういうわけで地上にも、住む者のいない荒れ地や砂漠、ほとんど人を寄せ付けない地域、多くの人がいる実り豊かな場所、麗しい地域、地上の生命に大いに満ちているさらに麗しい地域がある。天上もそうである。天上には小さな星や大きな星、冷たい星や熱い星、暗い星や輝く星、導かれる星や導く星、惑星、太陽、空間の深淵や太陽群がある。同じようにまた、これらすべてのものの上に、宇宙の中心点、神の直接的臨在がある場所、栄光の光が最も集中して宿っている所があり、そこには神の御座すらもあるのである

そうでなければキリストの昇天は見えなくなることにすぎず、天への上昇ではないことになる。

しかし、その中に神が住まわれる光は、目に見える万物よりも優っている。それはいかなる太陽や星の輝きとも異なるものである。それは地的まなこでは見れないものである。それに「近づくことはできず」(一テモ六・一六)、此岸の万物とはかけ離れている(二コリ一二・四)。天の天使たちだけがそれを見ることができ(マタ一八・一〇)、永遠の光の中にある完成された諸霊(マタ五・八、一ヨハ三・二、黙二二・四)、神御自身が純粋であるように純粋で聖なる者(一ヨハ三・二、三、ヘブ一二・一四)だけがそれを見ることができる。

それゆえ、この下界では天的なものについて象徴的な言葉しか使うことができない。永遠のものについて用いられている「上に」という言葉すら、純粋に場所的な意味に理解すべきではない(詩一三九)。それは神聖なものの「彼岸性」を知覚的に表現したものである。これは空間を超えたものの崇高性を空間的表現で象徴的に述べたものである。こういうわけで聖書は象徴的にこの「超越性」を「上に」という言葉で、霊的優位性を空間的表現の「高い」という言葉で、時間を「超」えたものや空間を「超」えたものを象徴的に「上」の空間として表しているのである。そして、神、天の主は、同時に最も完全な至高者であるがゆえに、聖書はそれを象徴するものとして地上で最も貴重なものを取り上げて、神の栄光の光の御座を宝石で描写して述べている。

青いサファイヤは天的性質を物語る(出二四・一〇、エゼ一・二六)。
宝石の碧玉は聖さと光を物語る(黙四・三。二一・一一、二二・一を参照)。
エメラルドの緑色の虹は、信実な契約と命の更新を物語る(黙四・三、エゼ一・二八)。
太古の時代、紀元前二、〇〇〇年のカルデヤのウルでそうだったように、緑色は命の象徴だった。

しかし、われわれは頭を垂れて神を礼拝し、世界の調和についてのコペルニクスの結びの言葉(一六一八年)をもって言う、

偉大なるかな我らの神、偉大なるかなその御力。
その知恵は限りなし。
讃美せよ神を、太陽、月、星よ、
その御言葉により、讃美の歌よ、永遠に鳴り響け。
讃美せよ神を、なんじ天の調べよ、
神が啓示された真理の証人たち、また立証者たちよ、汝もまた神を讃美せよ。
なんじ、我が魂よ、主の誉れを生涯歌い続けよ。アーメン。