神は人類を地上に置かれた。エデンの中に神はあの素晴らしい園を植えられた。その園はその所有者の喜びと楽しみになるはずだった。「エデン」は「楽しい地、素晴らしさ」を意味するからである。パラダイスがこの地上における人に対する神の道の始まりだった。
キリストと新約聖書は、この聖書の冒頭数章の歴史性と文字通りの真実性とを保証している。どこでも主とその使徒たちはそれらを実際の出来事の叙述として扱っている。実に、それから教義的結論を引き出してすらいる。マタ一九・四〜九、ロマ五・一二〜二一、一コリ一五・二一、二二、一テモ二・一三、一四、ヤコ三・九、一ヨハ三・一二、黙二〇・二。「それゆえ、新約聖書が真理である以上、創世記一〜三章は歴史なのである」。この最初の始まりの歴史を拒否したり誤魔化したりする者は誰でも、それによって、主イエスとその使徒たちの絶対的権威に反対するのである。詳細については、付録の「聖書が示す古代史の信頼性」を見よ。
楽園は
一.筆舌に尽くしがたい至福の故郷、 二.素晴らしい任務の出発点、 三.凄まじい戦いの舞台、 四.悲劇的堕落の場であり、それ以降 五.人類が長らく待ち望んできた目標である。
一.筆舌に尽くしがたい至福の故郷
威厳を持って地上の被造物の君主はこの園を治めた。そして、その手の業はすべて栄えた。花は人の目が二度と見ることのない美しさで咲き、木は極めて立派な実を結んだ。植物界や動物界では、天上の素晴らしい生命力が漲っていた。そしてとりわけ、神御自身、宇宙の創造者が、人々と嘆き無き交わりを持ち、その幸いな臨在を人々に享受させて下さった(創三・八)。
この地上のパラダイスがどこに在ったのかは確言できない。アルメニアかシリア・アラビアの砂漠だったと提案する人々もいる。いずれにせよ、フラテ(創二・一四)はユーフラテス、ヒデケルはチグリスである(ダニ一〇・四を参照。アラム語では Diglat)。エデンのこの地区が高所にあったにちがいないことは、それが大河の源流だった環境から分かる(創二・一〇)。この園はエデンそのものではなく、エデンの「中に」あった(創二・八、一〇)。後に、この地区の名称がこの園自身を指すようになったのは(例えばエゼ二八・一三)よくあることであって、理解に難くない。ピソン川とギホン川を確信を持って特定することはできない。洪水によってこれらの地域にかなりの変化が生じたようである。
「パラダイス」という言葉はペルシャ語に由来し、第一に、王の砦を取り囲む公園や森を意味する。こういうわけでネヘミヤ二・八は、王の森(ヘブル語で pardes)の番人である、とあるアサフについて述べている。同様に、ソロモンは「私は自分のために諸々の園と公園を造った」という文の中で、公園を表すのにこの同じ言葉「パラダイス」を用いている(伝二・五。雅四・一二を参照)。七十人訳では、ヘブル語で「園」すなわちエデンが用いられている所では、常に「パラダイス」と訳している。新約聖書では、この言葉は三回しか現れない(ルカ二三・四三、二コリ一二・四、黙二・七)。
しかし、神が人をパラダイスの中に置かれたのは享受のためだけではなかった。人はまた働いて実を産出しなければならなかった。こういうわけで、この園は人にとって素晴らしい任務の出発点になったのである。
二.素晴らしい任務の出発点
(1)人格としての人
救済史の観点から見ると、神、世界、人は、存在する万物の三つの主たる現実である。これらを理解することがわれわれの理性の任務である。それゆえ、三重の意識が人に与えられた。神意識、世界意識、自己意識である。そして、これに相応して、創造者は人にこの三重の意識を与える諸器官をお与えになった。
この世界を人は諸々の感覚(触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚)によって知覚する。これらの感覚は肉体器官(神経、鼻、口、耳、目)によって行使される。体を通してわれわれは世界意識や感覚意識を得る。
自我(Ego)をわれわれは魂を通して知覚する。なぜなら、人は外部の自然界を知覚する一構成員を遙かに超えた者だからである。人は意志と個人的性格を持つ自己である。これは人自身の内なる存在によって人に直接示される。こういうわけで、魂を通して人は自己意識や自我(Ego)意識を得る。
そして、人が遂には創造者のところにまで昇ることができるように、神は人に霊をお与えになった。霊を通して人は神意識を得る。
このように人は統一された三一体(trinity)であり、その目に見えない内なる存在は明確に区別されるべき二つの実体から成る。というのは、神の御言葉は刺し貫いて「魂と霊とを分ける」(ヘブ四・一二)ことができ、使徒はさらに「しかし平和の神はあなたたちを全くきよめて下さいます。そして、あなたたちの霊を魂と体と共に全く守って、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さいます」(一テサ五・二三)と証ししているからである。「霊と魂はその性質については一つであり(正しい二分法)、しかし異なる実体である(正しい三分法)」(デリチェ)。
このように「霊」はわれわれの人格の一部であり、高次の意識として、神聖で超自然的なものに向けられている。それに対して「魂」はわれわれの内なる人の低次の構成要素であり、地的なものや被造物を知覚する。1魂は自己意識にしか至らないが、霊は神意識に至る。
1 これは特に「魂的」と「霊的」という形容詞の用法からわかる。Psychical(魂的)は新約聖書の中に六回現れ、「霊的」なものよりも劣ったものとして常に対比されている。一コリ一五・四四(二回)、四六、二・一四、ユダ一九、ヤコ三・一五。
魂はせいぜい自己意識にしか達しない。これすら、霊の助けによって初めて可能である。しかし、霊は神意識に達する。
魂は霊と体を結ぶ絆である。その仲介を通してのみ、霊は体に作用することができる。なぜなら、霊は魂に対して「内側から及び上から織り込まれた実体」であり、同様に体は魂に対して「外側から及び下から織り込まれた実体」だからである。したがって、魂はこの両者の間の絆である。魂は霊にとっては「体」であり、魂自体はそれ自身の物質的枠組みである体によって包まれている(テルトゥリアヌスを参照)。
聖書によると体は次のものでなければならない。
聖霊の宮(一コリ六・一九)、 神に対する真の奉仕のための供え物(ロマ一二・一)、 義の道具(ロマ六・一三)、 神の栄光を現す手段(一コリ六・二〇)、 栄化された霊の体のための一粒の麦(一コリ一五・四三〜四七)。
贖われなければ体は
敵が攻撃するための門戸(創三・六、マタ五・二八〜三〇)、 罪の体(ロマ六・六)、 卑しい体(ピリ三・二七)、 破れ行く地上の幕屋(二コリ五・一〜四)、 悪魔的に荒廃した復活の体のための一粒の麦(ダニ一二・二、ヨハ五・二九)である。
人間の人格のこの三一性についてはモーセの幕屋がその絵図である。「この同じ絵図によってクリスチャンも描かれている。その霊は sanctum sanctorum、至聖所、光無き信仰の暗闇の中にある神の住まいである。というのは、クリスチャンは目に見えず、感じず、理解していないことを信じるからである。その魂は sanctum、聖所であり、そこに七つの明かりがある。この明かりはあらゆる種類の理解力、識別力、知識であり、物質的な目に見える物事についての知覚である。その体は portico、外庭(前庭)であり、万人に対して明らかである。それは、その人が何をしてどう生きているのかを、人が見ることができるためである」(ルター)。
このように、人の性質には次のような対応関係がある。
世界意識、自己意識、神意識 体、魂、霊 外庭(前庭)、聖所、至聖所
神が魂と体を治めるのは至聖所、霊からである。ここに不変の神の律法は、契約の箱の中に保存されていたように、良心の中に保存されている。幕屋の中で神がケルビムの上に住まわれたように、ここがわれわれの内に至高者が啓示される実際の場所である。当時、栄光の雲、シェキナが恵みの御座の上に漂っていたように、われわれの霊の中に住んでおられる神の御霊は(再生された信者である)われわれに平安と喜びの感覚をもたらす(ロマ八・一六)。なぜなら、われわれの中にある神の御座は裁きの座ではなく恵みの御座であり、神の主権の杖は救いだからである。このようにわれわれは、あの幕屋のように、神の巡礼の仮庵としてこの世の荒野を渡って、遂には目標、永遠、天のカナンに到達することを許されるのである(二コリ五・一〜四参照)。
このような使命を持つ人として、なぜ創造の冠である人の創造の記事になって初めて神の御言葉が歓喜の詩歌に高まるのかを、われわれは今や理解することができる。ヘブルの詩形は思想の韻を踏んでおり、音の対句ではなく要素や節の対句である。それゆえここで聖書は、三一である人の創造、三一の神のこの素晴らしい御業を、詩的文体により、三重の韻、三重の「神は創造された」を通して褒め讃える。
そして神は人を御自分のかたちにしたがって創造された。 神のかたちにしたがって神は人を創造された。 神は人を男と女に創造された。
(2)神のかたちである人
しかし人が真に神に似ている点は、霊・魂・体から成る人が統一された三一体であって、こうしてその創造者の三位一体を反映していることではないし、
その体が予め前もって神の御子の栄化された復活体にしたがって形造られたことでもない。この復活体は、神の超時間性のおかげで、永遠の過去からすでに創造者の御心の中に原型として存在していたものである。
人が神に真に似ているのは、霊的・道徳的存在である人が、被造物らしい仕方で神の内面的特徴を表現する点にある。
人が神に似た者であることに関する聖書の教えには注意すべき二つの面がある。失うおそれがある類似性と、失うことがありえない類似性である。というのは、一方において、この神の類似性は堕落によって失われたが、贖いによって再び獲得可能なものとして示されており(コロ三・一〇、エペ四・二四、ロマ八・二九、一コリ一五・四九、二コリ三・一八)、他方、堕落した人の中にすら神のかたちがあることが依然として認められるからである(創九・六、一コリ一一・七、使一七・八、ヤコ三・九)。第一に、人は次のような広義の意味で神のかたちである。すなわち、一般的に言って、人は永遠にわたって道徳的かつ不滅の人格として定められており、自己意識、理解力、理性、道徳的判断力、良心、意志の自由を有する。これに加えて支配する使命を与えられており、これにより人は、地の支配者として、宇宙の支配者である主のかたちとなるべきである(創一・二六〜二八)。これは一つの計画としての、人間の性質の本質的特徴としての、神のかたちである。それがなければ、人はまったく人では無くなってしまう。
しかしこれが実際的かつ内面的に実現するのは、人が神の霊的・道徳的性質を、聖さと愛という実際の状態によって、真に反映するときだけである。これが状態と所有という狭義の意味における神のかたちである。第一の形式的な意味の神のかたちは、人の堕落を通してなくならなかった。しかし、内的かつ物質的な所有としては失われた。「機械の歯車はまだ残っているが、その回転が阻害されている。花とその萼はまだあるが、その淡いエナメル質と香りは失われた」。だから贖いが必要なのである。
(a)賦与。神御自身が原型である。霊性、自由、祝福が、神の聖なる愛の性質の三つの根本的特徴を形成する。神は今や、複製である人にあってあがめられる。それゆえ、神は人にその霊的・魂的な内的存在の三つの力を賦与された。神は人に意志、知性、感情を与えられた。人が聖なる愛の自由に与れるよう、神は人に意志を与えられた。人が真の知識によって神聖な霊性を映すよう、神は人に知性を与えられた。人が神の祝福によって喜ぶよう、神は人に感情を与えられた。
(b)聖化。こういうわけで、聖化全体の目標が、これに対応する仕方で新約聖書の中に描かれている。思考の霊的力に関して新約聖書は、われわれは新しい人を着たのである、と述べている。この新しい人は「それを創造された方の『かたち』にしたがって新しくされつつあり、全き知識に至る」(コロ三・一〇)。意志の道徳的状態に言及して、この新しい人は「真の義と純粋さとを備えた神の『かたち』にしたがって造られた」(エペ四・二四)と述べられている。そして最後に、神の栄光を経験する喜ばしい経験に関して――これには思考と意志という全人格だけでなく、それと同時に喜びの感情も含まれる――「しかし私たちはみな、覆いの無い顔で主の栄光を見つめつつ、その同じ『かたち』にしたがって、栄光から栄光へと変容されて行きます。これは主、御霊を通してです」(二コリ三・一八)と記されている。
(c)仲保者。しかし、これら三本の光線はみな、神の御子でありわれわれの主であるイエス・キリストのかたちにあって、一本に合体する。「なぜなら神は、予め知っておられた者たちが御子のかたちに似た者となるよう、予め定められたからです。それは御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためでした」(ロマ八・二九)。御父のかたちは愛するひとり子に他ならない(コロ一・一五、ヘブ一・三)。このかたちに神は人を御自身のかたちにしたがって創造された。したがってわれわれにおいて、御父のかたちが御子のかたちによって示される。御子にあって、われわれは子となるよう定められた。われわれが神に似ているのはこの点においてである(一ヨハ三・二)。救いの歴史的中心であるキリストは、同時に、宇宙の究極的完成の原型である。
しかし、贖いの最終目的は、道徳的な意味でキリストに同形化されることだけでなく、将来の霊の体にも関係している。それゆえ、キリストは栄化された人体を伴って栄光の中に入られた(ヨハ二〇・一四〜二九、使一・一一)。それゆえまた、われわれはキリストが天から救い主として、「私たちの卑しい体を御自分の栄光の体に同形化して下さる」(ピリ三・二一)方として戻って来られるのを待ち望んでいる。なぜなら、「第一の人は地に属し、塵からであり、第二の人は天からです。この天の人に、天の者たちは等しいのです。そして、私たちは塵に属するかたちを取っているように、また天に属するかたちを取ります」(一コリ一五・四七〜四九)。
(d)目標。それゆえ、霊の体が到来する時(ロマ八・二三)贖い全体の目標が完全に実現される。真理・義・平和である、神の王国の内的性質が現れる(ロマ一四・一七)。そして、そのとき自分の神のかたちの中で目覚めるすべての者たちの中に栄光が宿る。彼等の聖い意志、彼等の知識の知恵、彼等の幸いな感情により、創造者の自由と霊性と祝福が完全に示される。そして、彼等の魂の三つの力は永遠にわたって、永遠なる神のこの三一の自己決定から出た一被造物のこの三一性を讃美するものとなる。
しかし、これら全てに或る特別なものが加わる。人の創造によって神は次のような考えを明らかにされたのである。すなわち、人は天の御使いたちのように、純粋で幸いな者として、神をあがめるべきであるだけでなく、神が人に地を支配圏として委ねられたからには、神は人にその住まい全域に及ぶ或る特別な任務をもお与えになったのである、という考えである。
(3)地の支配者である人
「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従えて支配せよ」(創一・二八)。これらの御言葉は人類の王的使命を明らかに述べている。そのための能力は人の霊である。人の霊はとりわけ言葉によって現れる。
(a)その始まり。言葉とは何か?口から発する音、響き、音色である!しかし、それ以上である!霊の動きの伝達者、知性を表すための道具、しるし、魂の活動の音符である。霊と言葉の賜物によって初めて、人は真に人となる。こうして初めて、人は内的成長の能力を受けるのである。
言葉によってアダムはパラダイスでその王的権威を行使し始めた。最初に、まだ女が創造される前だというのに、神御自身が空と地の被造物を人のところに連れて来られた。それは人が、それらの性質を判別して、適切な名をつけるためだった(創二・二〇)。こうして彼等の「王」は最初に創造者によって冠を受け、言葉が、霊的に言って、「人類の王杖」となったのである。
このように言葉は、不信仰な哲学者たちが主張しているような、人が人類社会の中で相互の交流のために少しずつ最初に造った発明品などではない。なぜなら、神はエバを助け手として与える前にアダムに「語り」かけられたし、同様にアダムは、女が創造される前に、動物の名前を付けるにあたって言葉を用いたからである。したがってむしろ言葉は「霊の本能的発露」であり、「口から発せられた、知覚可能な知性の啓示」であり(プラトン)、「聞こえる霊」(ベテックス)である。創造における先天的賜物として、言葉の賜物は最初から人の中に現存していた。しかし、それは解放・解除される必要があった。そこで神は動物に名前をつける任務を人に与えることによって、これを達成されたのである。
パラダイスにおける元の原語が何だったのかは今は分からない。
(b)命令の意味。しかし――少なくともパラダイスの外側の――地は、至高者によって創造され統治されていたにもかかわらず、依然として完全にはその目標に達していない領域だった。実に、サタンの堕落と共にこの地の領域に侵入した不協和の状態(ロマ八・二〇、二一)が、人が創造された時点で、パラダイスの外側の地の至る所に依然として存在していたようである。いずれにせよ、聖書が示す最初期の歴史が示すところによると、地自体は、人の創造と共に始まった神聖な新しい開始にもかかわらず、悪鬼的勢力の働きから完全には免れていなかったのである。
これは神が人に与えられた命令からわかる。神は人にパラダイスの園を耕すだけでなく、それを「守る」よう命じられた。また、人の誘惑が神に逆らう敵対勢力から来た事実からもわかる。この敵対勢力は地上に現れて、地の動物を用いた。さらに、もし全地のあらゆる場所が命と至高美の場所だったなら、パラダイスは全く必要なかっただろう!しかし明らかに、この最初に創造された人は、その能力と使命により、地よりも遙かに優位に立ったのであり、したがって人のために或る特別な領域が用意されなければならなかった。それは、自分の地位と自分の召命の厳かさに相応しい住まいを人が得るためだった。だから、パラダイスの園が設けられたことは、聖書的観点から見ると、パラダイスの外側の地が依然として不完全な性格を帯びていたことの証拠である。
これは地質学の証拠と一致する。なぜなら、現在の多くの動植物の生命形態は、それに対応する第三紀の生命形態と驚くほど良く似ており、全く同じ姿をしているものまであることは、科学的に明らかだからである。時には、白亜紀や石灰期の生命形態に似ていることすらあって、明らかにそれらと有機的につながっている。さて、もし人が「この最初の人の時代、パラダイスの外の地は死と不協和から全く免れていた」と教えるなら――聖書はそのようなことを明確には教えていないのだが――必然的に最もありえそうな次のような結論を下さなければならない。すなわち、現在の動物種に似ている(!)白亜紀の諸々の動物種――いま念頭にあるのは特に肉食獣である――は最初に滅ぼされたのである。あるいは、それらの本能すなわち摂食形態、したがって体の構造全体が、解剖学的・生理学的に造り変えられて、次に、人の堕落の後、新たに創造されたか或いは元に戻されるかして、基本的に白亜紀の状態に相当する状態になったのである。しかしこれを受け入れるのは、現在の動植物の生命形態と化石とのつながりの正しさを認めることよりも遙かに困難である。
したがって、次のように信じる方が容易である。すなわち、パラダイスの時代の間、パラダイスの外側の諸々の動物種は以前の幾らか野性的な状態にとどまったのである。そして、人が神の計画にしたがって支配者として自分の機能を果たして発展させていれば、動物界は遂には残虐さと死の束縛から最終的に解放されていただろう。
このように人の支配を地上で拡大することは、人が神に対して従順なままだったと仮定すると、地の万物を道徳的な世界目的の圏内にもたらすことを意味した。また、地をますます神のために回復して、それにより、被造物を贖いと完成に向けて漸進的に導くことを意味した。パラダイスはこのように、そこから自然を霊の領域に引き上げることが始まるべき不動点だったのである。パラダイスはこの目的のために神によって定められた。「それはそこから全地が発展してパラダイスに至るためだった。この園は至聖所であり、エデンは聖所であり、それを取り巻く全地は前庭、中庭だった。その頂点は、すべてがかの至聖者の栄化された似姿に変容されることだった」。
これに関して、アダム自身は個人としてだけでなく、それと同時に、その子孫全体の始祖、有機的代表とも見なされている。したがって、彼の「中に」の原則がすでに見られる(一コリ一五・二二、ロマ五・一二〜二一)。それゆえ、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と最初に述べられており、後になって初めて「地を従えてそれを支配せよ」(創一・二八)と述べられている。だから、パラダイスの園は地上における人の全ての任務の最初と最後、開始点と目標点、基礎、計画、型である。
しかし、これを成就できる唯一の方法は、人を道徳的戦い――この戦いでは悪に負けることもあり得る――の中に置くことだった。ただ戦いの中でのみ人は「征服する」ことができた。そうすることによってのみ、人は「勝利者」の冠を得ることができた。他方、神の敵であるサタンは自分の敵の働きを許そうとせず、この純粋で善なる者に創造された人を攻撃せずにはいられなかった。こうして、初っぱなから、高度な意義を持つ戦いがすぐに始まり、パラダイスは凄まじい戦いの舞台になったのである。
三.凄まじい戦いの舞台
パラダイスのこの神秘的背景と共に、パラダイスは宇宙的超歴史の宇宙的枠組みの中に入る。パラダイスの背後には神の星界と、かつてない最大の反逆、サタンと神の間の戦いがある。
成長の原則にしたがって、誘惑の対象は若い人類の幼い知性になった。それゆえ、その木の実を食べてはならない、という命令が与えられていたのである。
「禁じられた実を食べることは、こっそり御馳走を食べることにすぎず、とても些細な罪である」という反論は実に愚かである。なぜなら最初の夫婦にとって、それはその実の味わいを試すことだけではなかったからである。彼等は創造者に隠れて、禁じられた方法で、神と等しくなることを願ったのである(創三・五)。その木から食べることを禁じる命令は、このように本質的には霊的なものであり、人々に対する神の絶対的権威を確立するものだったのである。これこそ真の善である。
その木の実を食べず、誘惑に勝利していれば、アダムの道徳的意識は、選択の自由を行使することにより、権威の自由に達していたはずであり、それと同時に、支配者としての彼の地に対する奉仕はそれにより有効なものとなったはずである。誘惑に勝利するたびに、彼の内なる命は成熟して深まって行っただろう。ますます人は善を見分けて悪を見抜き、無垢な幼子の状態から脱して成人の円熟した状態、輝かしい聖潔の状態へと成長し、神と同じく善悪を知るに至っていただろう。「善悪を知るこの知識の木はアダムの祭壇及び講壇となった。そこから彼は当然神に服従し、神の御言葉と御旨を悟り、神に感謝すべきであった。もしアダムが堕落していなければ、この木は宮や聖堂のようなものになっていただろう」(ルター)。このように当時、この木は人に対する神の支配の印であり、神に対する人の服従の印であった。この禁令においても、神は差し控えることよりも与えることを遙かに望まれたのである。したがって、この知識の木には二重の意味で或る神聖な目的があった。この木は人を教育するための神の御手の中にある一つの手段であり、これにより地を造り変えるためだったのである。
しかし次に罪がやってきた。エデンで人は自分のエデンを失った。そして、パラダイス、この喜ばしく麗しい住まいは悲劇的堕落の場となったのである。
四.悲劇的堕落の場
蛇は人に善悪を知る知識を約束し、歪められた形でその言葉を守った。しかし、「人は自由なる善の高みから悪を見抜く代わりに、悪の底無き深遠から善を見抜いた」。神の計画では、人は誘惑の中で勝利することにより、何が善であり、何が悪であるかを悟るはずだった。しかし罪を通して、人は後で何が悪であり、何が善であるのかを知った。そして知識の木で人が気まぐれに罪を犯したせいで、人は今や命の木から断ち切られなければならない(創三・二二、二三)。死が人類の中に入り込み、パラダイスの中で人の地獄が始まったのである。
しかし、人は自分の元々の地位を決して忘れられなかった。すべての人が「楽園喪失」の歌を歌い、その回復を待ち望んで期待している。したがって、パラダイスは人類が長らく待ち望んできた目標である。
五.人類が長らく待ち望んできた目標
そして事実、彼等の希望が落胆に終わることはない。歴史の最後は歴史の始まりに戻る。太古の地が始まった時、地のパラダイスがあったように、最後の新しい地には天のパラダイスがある(黙二二・一〜五)。さらに、堕落後も主は人の高貴な召命が続くことを許された。今も、地の栄化と人類の完成とは依然として永遠につながっているのである。
それゆえ、救済史における地と人類との間の深いつながりを、聖書は繰り返し示唆する。「このようにパラダイスは無垢な人に対応し、呪いの下にある土地は堕落した人に対応している。また、神の模範的民であるイスラエルに対応していたのは、将来のパラダイスの型である約束の地である。同じように、この民の宗教的・道徳的堕落に対応していたのは、この地の暗黒化と荒廃である(申二八・一五後半、ヨエ二、ゼパ一・一四後半)。霊的復興の各期間にも、自然の向上が対応していた(申二八・八後半、詩七二・一六、一七)。同様にキリストの死のとき太陽は暗くなり、地が新しくなることがその死のときに地震によって告げられた」。
同様に反キリストの時代に罪が増すことにより、自然界の上に災禍が増す(黙一六・一後半)。しかし千年王国では自然界は全人類と共に祝福される(イザ一一章等)。最終的に、人類史の終幕と共にこの古い宇宙の形は滅びる(二ペテ三・一〇、黙二一章)。それは、贖われた人類が栄化され、栄化された「新しい地」(黙二一・一)が到来するためである。
それゆえ、「被造物は神の息子たちの現れを切望している」(ロマ八・一九)。そしてそれゆえ、「神の子供たちが栄光の状態」になる時初めて、被造物は「その自由にあずかる」ことができるようにされる(ロマ八・一九〜二二)。
キリストにあって遂に人類はその幸いな目標に達する。キリストは地上に現れて御業を成就された。キリストは御自身を低くし、十字架に行ってそこで人類の罪を担われた。それからすぐにキリストは天に昇り、今は御父の右に坐しておられる。それは最終的に、御自身の栄化された民を御自身と御父に献げる日をもたらす日までである(エペ五・二七)。
確かに、人の子として彼はこの地上で、御父から為すよう与えられた御業を成就された。人として彼はこの地上で茨の冠――贖われていない地――をかぶり、自分に与えられた呪いの下に立たれた。それゆえ人としていつの日か、教会のかしらとして、この同じ地――ただしその時、地は贖われて罪から解放されている――を統治される(エペ一・二二)。この神なる贖い主は人となり、そのような者として、地の支配者である人を贖い、それからその人を御自身に結合して永遠に分けられないように一つとし、それと同時に地の贖いを成就された。これが恵みの見出した道である。こうして人の昔の使命は残ったが、まったく新しい内容で満たされた。そのかしらであるキリストにあって、人類はその使命の目的に達する。最後のアダムとして(一コリ一五・四五、二一、二二、ロマ五・一二〜二一)キリストは人類にとってその中心、冠、星である。全人類は「一つの円であり、救いの完遂が進むにつれて、イエス・キリストがますますこの円の中心になって行く」のである。
しかし神は、神の偉大な世界を包含する目標を達成するために、人が罪と堕落によって自分の高貴な使命に相応しくないことを示した時でも、人を排除されなかった。これは神の恵みの計画の中で最も深い秘密の一つである。「恵みによる賜物と神の召しとは変わることがありません」(ロマ一一・二九)。これよりも狭い領域であるイスラエルの場合と同じように、この大きな領域でもこの音色が罪と悲惨さ、滅びと救いの中で同じように響き渡っている。これらすべてのことにもかかわらず、被造物の完成は人と結びついている。その発展は人が罪によって堕落しなかった場合とは別の道に沿って進むかもしれないが、それでもこの最終目的は同じである。そして、神の道と目標も同じであり、人は被造物に対する祝福のための経路となる。それゆえ、悪魔を火の池の中に投げ込むことが可能となり、新しい天と新しい地が到来する。これは、大きな白い御座、すなわち、人類の贖いについての啓示された歴史の結幕の後に、初めて実現するのである(黙二〇・二一。二〇・一一〜一五参照)。