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「世界の贖いの夜明け」

The Dawn of World Redemption

第二部 原初の啓示

第三章 救いの夜明け

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



人類の始まりは日の降り注ぐ朝になぞらえられてきた。永遠から発して、時はあたかもその手の中に幸福を握っているかのようだった。幸いな楽園の中で、神は天と地を結合された。しかし、次に罪がやって来た。夜の如き漆黒の大嵐として罪は侵入して荒廃をもたらし、時の歴史の中からこの輝かしい朝を全く追い払ってしまった。それ以来、地は死の影の下にある。

神の裁きの結果は厳しかった。不従順により人は神の主権を否定して、万物の主をその心の王座から追いやってしまった。罪は神に対する反抗であり、至高者に対する反逆であり、神の普遍的秩序に対して被造物が個人的意志により反逆することである。この人間の「私」が今や進み出て、退位させられた神の代わりに王となって座に着いた。神の計画では、人は言わば霊的コペルニクスになるべきだった。円周上の一つの点のように、太陽であり中心である神に依り頼むべきだった。しかしそうする代わりに、人は今やプトレマイオス体系の誤謬の中に落ち込み、自分自身の「エゴ(Ego)」を自分の生活の中心に据えて、他のものはみな、神も世界もその周りを巡るべきものにしてしまった。「それゆえ、神は人をそのエゴに引き渡された。人は今や自分のエゴに全く捕らわれている。幸福や贖いは自分のエゴから来る、と人は期待している。人は自分のエゴを正当化し、自分のエゴを称賛し、その思いはすべて自分のエゴの周りを巡っている」。

「そしてこのエゴと共に、この世とのつながりも生じた。人は妄想にとらわれて、神よりもこの世の方を好んだ。エゴと共に、それと同時にこの世も人の中で王座に上った。そして、神は人をまたこの世に引き渡された。エゴもこの世も人の中で神が占めておられた場所の空白を満たすことはできない。そのため、人の魂の中に激しい飢えが生じた。この飢えは苦しいものであり、自己主張、この世、所有、快楽を求める飢えである。この無限の飽くことを知らない飢えこそ、次のことの証拠である。すなわち、かつてはが人の心を満足させて下さっていたのであり、人の心は神に向かうべきものなのである」。

1.細部にまで及ぶ神の罪人に対する裁き。

女は母親・妻としての最高の召命に関して裁かれた(創三・一六)。女の小さな社会である家族と家は、それ以来、あらゆる種類の気遣いという重圧の下にある。

男は、その男子としての召命に関して、その仕事と生計という広い範囲について、罰せられた(創三・一七〜一九)。しかし、この男の中に人類の召命自体も同時に含まれていた。なぜなら、女の頭でもあるアダムは、同時に全人類の代表でもあったからである。つらい仕事、病気、苦難、死が、その時から、すべての人の悲しい運命となった。罪を犯した瞬間に霊的死が入り込み(創二・一七)、それと共に、神の裁きの下で、肉体的死からの自由が失われた。霊はその中心である神から分離され、体と魂の生命力は、神の裁きの結果、その中心である霊から引き離された。そして、体・魂・霊の分離の終極が体の死である(ロマ六・二三)。その時から「生」は緩慢な死に過ぎなくなり、誕生は死の始まりとなった。

堕落以前、人の体は厳密には不死ではなかったにせよ、われわれには少なくとも死の可能性があっただけで、死すべき存在ではなかった。死ぬことも可能ではあったが、必要なかった。アウグスチヌスが述べているように、人には罪を犯さない可能性や死なない可能性があったし(posse non peccare et mori)、罪を犯して死ぬ可能性もあった(posse peccare et mori)。誘惑に勝利することにより、人は罪を犯すことや死ぬことが可能な立場に上るべきだった(posse non peccare et mori から non posse peccare et mori の中へと)。しかし人の敗北後、罪を犯さないことや死なないことが可能な状態の中に自分がいることを人は見出した。つまり、罪を犯さざるをえないことを見出したのである(人は non posse non peccare et non mori の状態にある)。

しかし、人類の始祖であるアダムは、同時に人類の有機的代表でもあるので、その子孫全員の上にも死が同じように確立された。堕落は普遍的なものだったのである(ロマ五・一二〜二一、一コリ一五・二一)。

人類は霊・魂・体として繁殖したので、各個人と全人類との間には神秘的な有機的つながりがある。したがって、その始祖であり全人類の原型であるアダムともつながりがある。各個人はその始祖の一部であり、その子孫の一部であり、両親や祖先の血脈の一通過点である。「あらゆる肉の魂はその血の中にある」(レビ一七・一一、一四)。

だから、聖書の中で系図が強調されており(例えば、創五・一、一歴一〜九章)、家族や民族の遺伝の法則には意義があるのである。それゆえまた、諸国民や諸人種の間に特徴的類似点や相違点が生じるのである。また、民族から民族へ、すなわち魂から魂へ、同様ではあるが区別可能な思考や感情の遺伝が生じるのである。したがってまた、祖先たちの性格の欠点や問題が伝わって行き、世代毎に悪が発展して行くのである。万人の根本的・中枢的・全体的腐敗、人類の魂の病根、各人の失われた状態、この有機体全体の毒に犯された状態、すなわち原罪が、伝わって行くのである。「善を行う人は誰もいない。一人もいない」(詩一四・三。五一・七参照。ヨハ三・六、創八・二一)。

すべての天然の人の総計が、民族的につながった一つの巨大な有機体を形成する。各個人は、生まれた時点から、必然的にその一員になる。各個人はアダムの「中に(in)」ある(一コリ一五・二二)。人類は多くの異なる個々人を算術的に足し合わせただけのものではなく、単一の巨大な「体」である。この体は、その起源及び性質にしたがって、無数の多様な異なる肢体によって、その始祖であるアダムを表している。これには堕落の全体的包括性と罪の普遍性が絡んでおり(ロマ五・一二、三・一〇〜一二、二三)、そのため各個人には新生が必要であり(ヨハ三・三)、救い主であり贖い主であるキリストの受肉が必要である(ロマ五・一二〜二一)。

2.自然。しかし、アダムは不従順により自分の創造者である方の自分に対する主権を否定したため、それと同時に被造物に対する自分自身の主権をも台無しにしてしまった。彼の主権自体は存続したのは事実だが(支配者としての人の使命は、人の失いえない神の似姿の一部を形成しているからである)、この主権を行使して強化することは、このように神から分離された人を、常に新たな困難の中に投げ込む。人に対する祝福となるはずのものが、人を滅ぼすものになった。これは多くの新しい発明の効果について考えてみさえすればわかる。こうして、極めて高い人の召命は、それだけ深い破滅という結果になったのである。

それだけではない。地上の被造物自体も巻き込まれてしまった。「頭が神と共にあるなら、その肢体たちも同じである。被造物の冠が塵に落ちるなら、その臣下たちも投げ落とされて墜落する」。霊と自然の間の有機的つながりがこれを要求する。これに続いて、堕落の侵入と共に、「霊の困窮と体の困窮、内側の傷と外側の傷、この世の咎とこの世の悲しみとの間に、堅いつながり」が生じた。

現代医学と心理療法の分析もこれと一致する。「魂の領域における深刻な傷は、肉体の領域にもそれに匹敵する状態を引き起こす。同じように、魂の安堵は肉体的拘束を解く助けになりうる」。

この誘惑の物質的対象は植物界から取られ、誘惑者の手先は動物界から取られた。したがって人間のせいで、植物界と動物界の両方が呪いの下にとどまっている(創三・一七)。そして、人を通して贖いと完成に向けて進むべき被造物は、今に至るまで虚無に服し続けている。

こうして被造物は今日、不可解な混然たる不調和な状態を呈している。幸福と不幸、知恵と愚かさ、意図的適応と混乱との間の対立した状態のせいで、神を信じることも神を否定することも等しく不可能になっているようである。

「この世界はあまりにも美しいので、一時の間、われわれは神を忘れることができ、御前における自分たちの咎を忘れることができる。また、この世界はあまりにも酷いので、このゆえにわれわれはしばしば神を蔑むことがある」。

「この世界は神の啓示としてわれわれに語りかける。それはまたわれわれの前に神の謎として立ちはだかる」。そのせいでまた、人の通常の自然経験の中に不協和があるのであり、人は自然礼賛と自然蔑視との間で、自然の中にある幸福と自然からの疎外との間で、自然崇拝と自然の侮蔑的取り扱いとの間で揺れ動くのである。福音はまず、この緊張関係を解く。それは、自然の変容という福音のメッセージによってであり、いま自然界中に響いているあらゆる不協和音を解決することによってであり、世界の完成と霊の体の到来をもたらすことによってである。

歓喜と悲嘆、優しさと冷酷さ、生の喜びと死の悲しみ――こうしたものがすべて今、この世界的有機体全体を揺り動かしている。現在、自然界は荒廃した状態にある荘厳な宮のようである。その深い意味を持つ刻印は、敵対者の手によって故意に戯画化されている。そして、地の支配者である人は二重に堕落している。「人は、その野獣性によって、被造物に対してサタンとなるか、あるいは、奴隷的恐れにより、被造物の前にかがんで礼拝するか、である。神を知る知識が消え去る所では、自然の神格化が始まる」。そして、「主人」は奴隷と暴君の両方になる。

しかし、被造物中に痛ましい呻きが響き渡っている。これはあたかも小声で語られた祈りのようである。「哀愁を帯びた被造物の魅力は、さながら一人の花嫁のようである。この花嫁は婚姻の時のためにすでに完全に着飾っていたのだが、その当日に花婿が死んでいるのを見た。そこに花嫁は今立っている。花嫁衣装を着て頭には新鮮な花輪をかぶっているが、その目は涙でいっぱいである」(シェリング、黙示録の哲学についての講演から)。

しかし、自然が呻きに服しているのには希望がないわけではない(ロマ八・二〇)。虜ではあるが期待して待っている乙女――頭を上げて海辺に立ち、遠国からの解放者を待っている乙女――のように、被造物は虚無に対する束縛から贖われるのを「切望して」呻いている。「今に至るまで、全被造物が共に呻き、共に産みの苦しみをしているのを、私たちは知っています」(ロマ八・二二)。

ギリシャ語の apokaradokia(欽定訳では切望)をルターは「ハラハラしながら待つこと」と訳した。文字通り、頭(kara = 頭)を上げてひたすら見つめる、という意味である。ギリシャ語の前置詞 apo はその切実さを強調している。パウロは被造物を、切望しつつ見続けている人の姿勢になぞらえている――希望を描く芸術的描写のための独創的技法の一つである。

しかし、それなら、被造物は何を生み出すのか?新しい天と新しい地である!

その時、被造物の切望はすべて宥められ、その沈黙の祈りはかなえられる。「その日、私は天に応え、天は地に応え、地は穀物と新しいブドウ酒に応え、またこれらのものはエズレルに応える、とエホバは言われる」(ホセ二・二一、二二)。

しかし、地の悲しみこそ、人の贖いに役立つのである。これは、人が地に望むものを地は人に与えられないからに他ならない。地は人の誤った希望から人を解放し、失われた楽園に対する人の切望を涵養する。こうして、地的助けに失望することにより、人は解放されて天上を切望するようになる。それは人が最後には「見よ、苦い悲しみが臨んだのは私を健やかにするためであった」(イザ三八・一七)と告白できるようになるためである。

3.蛇に対する裁き。救いの夜明けがとりわけ明確に示されるのは、蛇に対する裁きにおいてである(創三・一五)。この節で、福音の最初の約束が示しているのは、陰惨な怒りを貫いて流れる恵みが、どのように蛇に対する呪いを人に対する約束に転じたのか、ということである。罪人(アダム)が罪定めの判決を待つ被告人として神の御前に立っている時は、もちろん、直接的約束を受けることはできなかった。それにもかかわらず、耳を澄まして震えている罪人にとって、自分を滅ぼした者に対する滅びの判決は、自分に対する一条の希望の光だったに違いない。したがって実は、「原始福音は表向きは裁きだったが、その裏面は人類に対する約束を意味していた」のである。

最初、この預言の意味は依然として曖昧だった。というのは、サタンが蛇によって示されている以上、蛇の「裔」は全ての悪鬼的・人間的存在の総計以外の何者でもありえないからである。この者たちは、神に抵抗する「まむしの裔」(マタ三・七、一二・三四、二三・三三)として、悪魔の側に立つ――したがって、個体ではなく複数の存在である。しかしその場合、並行する対句の調和を保つために、女の裔も一個人ではなく、同じように複数の子孫でなくてはならない。つまり、信じつつ、女に与えられた約束の立場の上に立とうとする者たち全員の総計でなくてはならない。

女の子孫がいつの日か一個人として登場する、という思想を、初期の人類は間接的にしか得られなかった。というのは、この預言の最後の判決が、「女のが蛇のだけでなくその頭そのものである蛇自身をも打ち砕く」と述べていたからである。これにより、おそらく、女の裔もまたいつか一個人であるひとりの頭という結果になる、と理解できたであろう。

今日、過去を振り返って、その後の諸々の預言の解釈や成就した諸々の出来事を通して学ぶことにより(特にイザ七・一四、マタ一・二一〜二三、ミカ五・二、ガラ四・四)、神はここで初めて――明示的にではないが暗示的に――実は御子キリストについて主に述べておられたことが(ロマ一六・二〇、一ヨハ三・八)、初めてわかるようになる。人類の中心であるキリストは、同時に女の裔の中心でもある。これにより初めて、なぜ神が男の裔ではなく女の裔について語られたのかがわかる(マタ一・七八参照)。また同時に、かかとを刺すことと頭を砕くことに関するこの預言の言葉により、一連の素晴らしい神の託宣が始まった。この託宣は「メシヤに定められた苦難(『かかとを刺すこと』を参照)と、それに続くメシヤの栄光(『頭を砕くこと』を参照)」(一ペテ一・一一)を予め告げるものだった。それゆえ、それ以後の全ての預言的展望が持つ二重の性格が、すでにここに現れている。すなわち、キリストの初臨と再臨が一つの絵の中に共に見られるのである(例えばイザ六一・一〜三。ルカ四・一七〜二〇参照)。この意味において、原始福音は全てのメシヤ預言の根源であるだけでなく、原型でもある。

このように、約束のこの最初の言葉は、同時に極めて包括的で深いものだった。その中に救いの歴史と順序が丸ごと隠されている。「遙か昔の遺跡のように、大まかで、曖昧であり、漠然としている。宮の廃墟の前にある厳かなスフィンクスのように、神秘に満ちている。まさにそのように、この素晴らしい聖なる言葉は、失われたパラダイスの境界に立っている。後のイスラエルの預言の中で、初めてその答が示され始める。しかし、ただ処女マリヤの子だけが――この御方はわれわれ全員のために蛇によってかかとを刺されることを耐え忍び、われわれ全員のために蛇の頭を砕いて下さった――聖徒たちや預言者たちにはあまりにも難しすぎたこのスフィンクスの謎を解かれたのである(マタ一三・一七、一ペテ一・一〇〜一二)。これは、それを成就することによってであった」。この約束の頂点である方――インマヌエル御自身――が初めて、この約束の全容を完全に明らかにされたのである。「旧約聖書のこの象形文字を解読する鍵はただ新約聖書だけである。原始福音を解き明かすのはただ福音だけである」。

まず、インマヌエルの預言によって(イザ七・一四。ミカ五・二参照)。したがって、紀元前七五〇年頃。それゆえ、原始福音の最初の告知から三五〇〇年後。

この贖いの最初の告知の後、男と女に動物の衣を着せることが直ちに続いた。

4.男と女に動物の衣を着せること。初めて、堕落した人の益のために、罪のない被造物が血を流して死んだ。いけにえの原則が確立された(創三・二一)。そして、無力ないちじくの葉は、自分で自分を贖おうとする全ての人間的試みの表れであり、その始まりであった。それと同じように、最初の人たち――神の御言葉を信じて、罪なき動物が流した血の代価により、神御自身から衣を着せてもらった人たち――は、神の小羊(ヨハ一・二九)のいけにえを信じる信仰を通して、救いの衣と永遠の清さと聖潔との飾りで装われることを許された人々の原型である(イザ六一・一〇、マタ二二・一一、一二、コロ三・一二、ガラ三・二七)。

こうして、人類史の最初にあたってこのように衣を着せられたことは、救済史の中心点、ゴルゴタの十字架の象徴的預言となった。そしてそれと同時に、幸いな結末を示唆するものともなった。最終的に神は、御自分が選んだ者たちに復活の体と栄光の結婚衣装を着せて下さるのである(ピリ三・二〇、二一、二コリ五・二〜四、黙一九・八)。

5.パラダイスからの追放。それ以降、パラダイスの外でしか、人は自分のパラダイスを再び見出せなくなった。なぜなら、罪は神からの分離だからである。しかし、神は全ての命の起源である。こういうわけで、罪は命からの分離である。これは霊・魂・体の死を意味する(ロマ六・二三)。

しかし、贖いが可能となるからには、罪の償いがあるに違いない。そして、それが義なるものであるには、この償いは咎に相応しいものでなければならない。そしてそれゆえ、それは同じように創造主からの、命からの分離でなければならない。つまり、死でなければならない(ヘブ九・二二)。そうして初めて、真の命が回復されうるのである。贖いはこうでなければならない。すなわち、人の大敵である死が人の解放の手段とされなければならないのであり、また、罪の罰であるものが同時に罪から逃れる道とならなければならない。によってのみ、「」はに処せられ得たのである(民二一・六、九、ヨハ三・一四)。

こうしてキリストは「御自身のを通して」「死の権を持つ者、すなわち悪魔」の力を取り去られた(ヘブ二・一四)。十字架上のキリストの死は敵意を屠った(エペ二・一六)。

この目的に役立つために、死が一般の人類にも可能なものにならなければならない。したがってまた、パラダイスからの追放と、罪深い人間を命の木から断ち切ることが必要だった(創三・一三、二四)。人が外的生活力を絶えず新たにしつつ、さらにパラダイスにとどまることは、人が自分の罪の中に永遠にとどまり続けることをまさに意味していただろう。また、罪に定められて、贖われることが不可能な状態、決して終わることのない滅びの状態に至ることを意味していただろう。罪人の体が不死だったなら、その魂は永遠の死に遭っていただろう。そして、パラダイスは地獄になっていただろう。したがって、エデンの園からの追放がどれほど消極的なものに見えたとしても、その目的はそれにもかかわらず積極的である。神の取り去る行為は、どれも与えることだった。神は罪人に肉体の死を割り当てられたが、それは罪人を永遠の死から救うためだった。また、裁きの行為も同時に贖いの愛の恵み深い行為だった。

こうして、パラダイスの扉は三重の意味で閉ざされた。男、女、蛇に対する裁きによって閉ざされた。しかしまた、三重の意味で贖いの扉が開かれたのである。

救いの約束として――最初の福音により
救いの予表として――最初の夫婦に再び衣を着せることにより
救いを可能ならしめるものとして――彼らをパラダイスから追放することにより

人が堕落以降自分の地上の歩みで持ち続けた内的所有も三重である。

過去を振り返るとき――悲しい思い出がある。この思い出は数千年たっても依然として、失われたパラダイスに関するあらゆる民話の歴史的背景、いにしえの枠組みとなっている。
現在を見るとき――確固たる信仰がある。この信仰は原始福音によって与えられた岩と星を見つめる。
未来を見るとき――希望に満ちた切望がある。この切望は、言わば、思い出と信仰から産まれた娘である。そして今、この切望は放浪者の前に、天の御使いとして砂漠の道の上に浮かんでいる。これは渇いた砂の中にあるオアシスを彼に示し、その力を生き返らせ、その歩みに翼を与え、喜びのうちにその目を目標に向けさせる。
「故郷を慕う者たちは幸いである、
 その故郷に彼らは帰るからである。」
最初からアダムは、来たるべき女の裔に関する原始福音を信じた(創三・一五)。これはエバ(ヘブル語で Chavva、命の意味)という名によって証明される。この名をアダムが自分の妻(Isha、男を意味する Ish の女性形。創二・二三)に付けたのは、この原始約束の直後であり、パラダイスからの追放の直前だった(創三・二〇及び文脈)。「死の中に沈んだにもかかわらず、彼は自分の妻にこのような誇らしい名を付けたのである」(カルバン)。そしてそれにより、命による死の征服を信じる信仰を表明したのである。だから、「アダムが自分の妻をエバと名付けたのは信仰の行為であった」(フランツ・デリチェ)。そしてその時から、自分の妻の新しい名は男にとって「神の恵みの約束の備忘録」(mnemosymon gratiae Dei promissae、メランヒトン)となった。あるいは、原始福音についてルターが述べているように、「これにアダムは信頼したのであり、それによって堕落から救われたのである」。エバもまた信仰によって約束の御言葉の立場の上に立ったことは、創四・一の彼女の言葉によって示されている。